紫匂ふ
塩野ぱん
報告
「なにそれ、そこってラベンダーでも咲いてるん?」
隣で立っていた
ぼくのワンルームにあるキッチンに並んで、一緒に料理をしていた時のことだ。
「“紫匂ふ武蔵野の 遥かに見ゆる富士の嶺を”」
鼻歌交じりに、じゃがいもの皮をむいていた。高校の校歌だった。
「富良野じゃあるまいし、なんで街中でラベンダーの匂いがするんだよ。ここでいう紫ってのはなあ」
言いかけて言葉に詰まる。はて、紫の匂いとは。考えたこともなかった。
「なんかこう……高貴な匂いじゃないのか」
「その高貴な匂いってなに。ざっくりしすぎやわ」
言葉を被せるように容赦なく、梢は突っ込んでくる。
「ラベンダーやないのなら、赤じそとか、あとはナスビとかとちゃうん?」
「いやいや、茄子の匂いってなんだよ」
後で調べようと思ったものの、それっきりである。
「なあ。もう東京、出てしもうたんとちゃうん?」
「ええ? まだ思いきり都内だけど」
相変わらずの梢の発言に、ぼくは眉を八の字にする。いつものパターンだ。
「だって東京駅からめっちゃ乗っとるやん。駅もめっさ飛ばしとるし」
ぼくのそんな表情を気にも留めずに、梢は話を続ける。これもいつも通りだ。
東京駅から乗った中央線の特快は、中野を過ぎてぐんぐんスピードを上げ、今は荻窪近くだった。これで東京を出たとはなんだ。まだ23区内ではないか。
あっちでは地元のことを、東京なのに区じゃないんだとか、電話番号は03じゃないのかとか、周りから散々いじられている。しかし梢の疑問は、それらの斜め上をいっていた。
すっとぼけていて騒がしい、いや元気な梢だが、これでもいつもの三分の一程度の賑やかさだ。今日は見慣れぬ紺のショートコートに紺のワンピースを着ており、髪は後ろでひとつに結ぶという実に地味な装いである。これもまた新鮮でいいけれど。
「あっ! すっご! 富士山や!」
物珍しそうにつり革に捕まって車窓をじっと眺めていた梢が、小さな歓声をあげた。中央特快は国立を過ぎ、降りる予定の立川駅に向かっていた。
真っ白な雪を被った富士山が、マンションの間から突如顔を出したのだった。
冬の富士山。空気が冷たく澄みわたり、頂きに被る雪の白さが真っ青な空によく映える。一年で一番寒いこの時期が、ここから富士山が一番綺麗に見えるとぼくは思う。
中央線は立川駅に滑り込む。多くの乗客と一緒に、ぼくらも電車を降りた。自分の荷物が入ったリュックを背負い、手には梢の小さな赤いボストンバッグを持つ。梢曰く、コロコロは大層やからボストンバッグの方が評判いいらしいでとのことである。情報源は分からない。
梢の手にはお菓子の『月化粧』と、冷凍たこ焼きの『たこ昌』の紙袋だ。『月化粧』は、ぼくの母の好物だった。『たこ昌』は、CMで大阪出るとき連れてって~ゆうから連れていかなあかんという、梢のこだわりである。
立川駅の北改札を出ると、これから乗り換えるモノレールが眼前に迫る勢いで現れた。ビル群と、その間を縫うように走るモノレールを見上げ、梢はぽかんと口を開けて「すっご!」と叫んだ。
「え、めっちゃ都会やん! あっくん、田舎みたいなこと言ってなかった?」
「駅前はね。でも家の近くの玉川上水だと、今でもヘビも出るしカブトムシも採れるよ」
「えっ東京で?! てゆうか、玉川上水って何? 多摩川っていうのとちゃうのん?」
ここに来る前に一生懸命地図を眺めていた梢が、ぽかんとした表情のまま尋ねてきた。
多摩川は、山梨から多摩丘陵と武蔵野台地の間を縫うように東京の中を流れて、最後は大田区と川崎市の境となり東京湾に注ぐ一級河川だ。
江戸時代に人口増に伴う水不足を解消するべく、多摩川から玉川兄弟が
東京の北西にある羽村の取水口から武蔵野台地を貫き、四ツ谷までの四十三キロもの距離を流れるその玉川上水の近くで、ぼくは生まれ育った。
大勢の人が行き交うデッキを通り抜け、エスカレーターに乗る。確かに立川の駅前はモノレール開業と前後して、大きく発展しすっかり様変わりしてしまった。だけど玉川上水とその緑道は、国の史跡にも指定され自然が守られている。だから今も木が生い茂り、虫だってタヌキだって暮らしているのだ。
立川北駅で、ちょうどホームに入ってきたモノレールに乗り込む。空いている席にぼくは座ろうとしたが、梢は乗車口脇のポールをつかんで動かなかった。扉が閉まると、ガラス部分に張りつくように外の景色をじっと見つめる。さすがにぼくだけが座るわけにもいかず、梢の隣に立った。
瞳を輝かせて外を見つめる梢を、子どもみたいだなと思う。モノレールが珍しいのだろう。発車すると、高っ! とか、遅っ! とか、いちいち小さな叫び声をあげている。
「富士山や!」
さっき中央線から見たよりも、大きな富士山がモノレールの車窓に現れた。この平野に広がる街を見渡すかのように、富士は悠然とそこに
「さっき新幹線で見たじゃん。もっと大きいの」
瞳をキラキラと輝かせて、富士山を眺める梢のはしゃぐ様子を、ぼくは目を細めて見つめた。
来るときの新幹線の窓から、二人でもっと近い富士山を見てきたのだ。新富士駅の辺りで、この車窓から見えるよりもずっと大きくて、裾野まで見えた富士山を。
「うーん、ちゃうねん」
梢は目をそらすのが惜しいというように、顔は富士山に向けたまま、ちらりと目線を一瞬だけぼくに合わせた。
「このな、他の色んな山と一緒に並んどるのに、富士山だけは、はっきり分かる感じとかな。街中を見守る感じとかな。こっから見た富士山が、すごいと思うねん」
自分が富士山であるかのように両手を広げ、窓の外を見つめながら、自らうんうんと梢はうなずく。
「他の山はそんなことせんのに、富士山だけやで。ずっと遠くにあるのに、うちをこないにも圧倒させんのは。すごない!?」
広げた両手をすぼめ、今度は体の前で握りしめて梢は一生懸命話す。そんな梢の横顔を、ぼくは黙ったまま目を大きく開いて見つめた。そんな風に考えたことなど、今までなかったからだ。
富士山だけが、こんなにも離れているのに自分を圧倒する、か。言い得て妙である。
「あああ~! それにしても緊張する! 緊張する!」
ぼくが感心しているうちに、梢にはもう次の感情が襲ってきたようだ。握りしめた両手を上下に振り、身体を小さく震わせた。
分かる、梢は真剣なのだ。けれどもその真剣さも、オーバーなほどの動作も可愛らしくてつい口許を緩めて微笑んでしまう。
「大丈夫だって、梢なら」
紺のショートコートの背中にそっと手を当てた。
「あっくんはすぐそうやって、根拠もなく言うけどさあ~!」
梢がぎゅっと目を閉じて再びぼくに訴えたところで、モノレールは停車した。
立川市の端の駅。両側に雑木林を有する玉川上水がすぐそばにある、ぼくの実家近くの駅だ。
「ああ、とうとう!」
乗っていたモノレールが、北の青く澄み渡った空へと吸い寄せられていくのをホームで見送りながら、梢は叫び声をあげた。
「ほら」
ぼくは梢のボストンバッグを右手に持ち変えると、左手をそっと梢に差し出した。
一瞬、梢は驚いたようにぼくを見つめた。だがすぐに表情を崩して、右手を伸ばす。梢は、なんの色もつけていない切り揃えた爪のついた指を、ぼくの指に絡ませた。そして繋いだ手を、自分の体に引き寄せる。
梢は上を向いて天を仰ぐと、息をゆっくり大きく吸って吐いた。
「深呼吸してるの?」
梢の一連の動作を黙って眺めたのちに、ぼくは尋ねた。
「うん、紫ってどんな匂いやろって」
てっきり緊張をほぐすために、呼吸を整えていると思ったのに。やはり梢はぼくの斜め上をいく。
「紫?」
「"紫匂ふ武蔵野の"」
梢は節をつけて歌った。ぼくはすっかり忘れていたのに、梢はあの日の校歌を覚えていたのか。
「どんな匂いか分かった?」
ぼくの言葉に、梢は眉間にしわを寄せた。
「うーん、分からへんなあ。せやけど、この匂いがあっくんの街の匂いなんやなあって」
ぼくは目を細める。繋いだ手を自分の身体に引き寄せた。梢を自分の胸板に当てる。その小さな肩にそっと手を回す。
これからは二人の街の匂いだよ。
「ありがとう」
突然なんの脈絡もなく感謝を口にしたぼくを、梢はぽかんとした表情で見上げた。二人の目が合う。ぼくは目尻にしわを寄せてそっと微笑んだ。
不安と緊張が入り交じっていた梢の顔が、途端に弾けるような笑顔になった。
梢、ありがとう。
転勤を機にこの街に戻ると告げたぼくに、迷うことなく一緒に行くと言ってくれた梢。
大丈夫、梢のことならみんなきっと気に入るよ。その大阪弁に、最初はちょっと戸惑うかもしれないけれど。
だってぼくの恋人だもの。ぼくが結婚したいと思った、きみだもの。
ぼくの家族も、友達も、この街も、きっときみが大好きになるよ。
梢の思う東京とは、ちょっと違うかもしれないけれど。
遥か昔から、そしてきっとこれからもずっと、富士山が遠くで見守り続け玉川上水が季節を告げるこの地を、きみも大好きになってくれたらいいな。
「えっ! もうじーちゃんばーちゃんも、兄ちゃん一家も家に来て、梢と肉焼くの待ってるって!」
改札を出ると、ちょうど母からメッセージが届いた。声に出して読むと、梢は大笑いしながらきゃーっと悲鳴をあげた。
紫匂ふ 塩野ぱん @SHIOPAN_XQ3664G
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