ボクサー 王者テオゲネスと黒髪の挑戦者

森新児

ボクサー 王者テオゲネスと黒髪の挑戦者

 古代ギリシャにパンクラチオンと呼ばれる競技があった。


 現代の総合格闘技のさきがけのような競技で、ルールは殴ってよし蹴ってよし組んでよし投げるのもよしという過激なものだった。

 反則は目つぶしと噛みつきのみ。


 このルールは圧倒的にレスラーが有利といわれている。

 実際パンクラチオンのチャンピオンはほとんどレスラーだった。

 現代の総合格闘技でもストライカー(打撃系)よりグラップラー(組み技系)のほうが勝率が高い。


 しかしパンクラチオン最強と呼ばれた戦士はレスラーではなくボクサーだった。

 それが今回の話の主人公、テオゲネスである。


 テオゲネスはタソス島に生まれた。ヘラクレスにつかえる神官だった。

 格闘家としてのキャリアは驚異的で二十二年間にわたって一三〇〇試合を行い無敗。

 オリンピア大祭、ピュティア大祭、イストミア大祭、ネメア大祭のギリシャ四大祭すべてに優勝しぺリオドニコス(周期の勝者)といわれた。


 テオゲネスの戦い方はシンプルだった。

 まず対戦相手のレスラーがテオゲネスの足もとめがけてタックルする。

 これは上半身のみで戦うボクサーがもっとも苦手なレスラーの戦法だが、テオゲネスはタックルをかわさず、飛び込んできたレスラーの顎にアッパーを見舞うのが常だった。

 この一撃で勝負は決まった。

 アッパーを食らったレスラーは顎の骨を砕かれ失神するか、あるいは不運な者は命を落とした。

 このシンプルな戦い方でテオゲネスは並みいる強豪をなぎ倒した。


 『拳闘士の休息』というローマの有名な彫刻のモデルはテオゲネスである。

 彫刻のテオゲネスは多くの古代ギリシャ人がそうであるようにたくましい顎ひげをたくわえている。

 その風貌はボクサーというより哲学者のようだ。

 王者の貫禄と知性、そしてかすかな哀愁が横顔に宿っている。


 この彫刻を見るとテオゲネスが均整の取れたすばらしい肉体の持ち主であるのがわかるが、体自体はそれほど大きくない。

 現代のボクシングの階級でいうとクルーザー級(九〇キロ以下)といった感じで、このシャープな体で百キロを超える巨漢レスラーをバタバタノックアウトしたのだから、そのパンチ力のすさまじさはいかばかりか。


 「人類最強の格闘家はだれ?」というのは男の子がもっとも好む話題だが、その結論は紀元前すでに出ていた。

 故郷のタソス島にもテオゲネスの彫刻があり、その台座には一三〇〇試合すべての詳細な内容と、彼をたたえる賛歌が刻まれている。

 しかしこれから語る試合はその台座に刻まれていない。

 歴史から忘れられた、テオゲネスが生涯でもっとも苦しんだ一戦をこれからお話ししよう。





 それはテオゲネスの生まれ故郷タソス島に近い、ポドロ島と呼ばれる小島でのできごとだった。

 テオゲネスはその島の豊漁を祝う祭にまねかれ、そこで試合することになった。

 オリンピアやピュティアの大祭とはくらべものにならないこじんまりとした祭で、そこで行われるテオゲネスの試合は現代でいうエキジビジョンマッチのようなものだった。


「予選が行われ勝ちあがった相手が先生と戦うことになっています」


 エーゲ海を進む船の中でテオゲネスにそういったのは彼の若きマネージャーエウメネスだ。

 正直テオゲネスはこの若者の小賢しさが癪にさわることがよくあった。

 しかしあきれるほど気が利く人間なのはまちがいない。

 それで我慢してこの男を使っている。

 テオゲネスはエウメネスに、予選はいつだ? と聞いた。


「もう終わってます。先生が戦う相手はボクサーです」


「ボクサー?」


 自分もボクサーなのにテオゲネスは意外な気がした。

 テオゲネスがボクサーと戦うのはひさしぶりだ。

 なぜならほとんどのボクサーは彼と戦う前に、予選でレスラーに敗れてしまうから。


「先生がボクサーと試合するのは三年ぶりですね」


「そんなにあいだが空いたのか。どんなやつだ?」


「予選で四試合戦って試合時間はそれぞれ四十分、三十二分、二十分、十五分かかってます」


「四試合とも相手がギブアップしたのか?」


「はい。フィニッシュブローは右ストレート、左フック、左フック、右ストレートです。左右どちらのパンチも強いです」


「ふむ」


「なにか気になりますか?」


「うむ」テオゲネスは腕組みしていった。「試合時間がだんだん短くなってる」


 そう聞いて、エウメネスは虚を突かれた気分でドキッとした。


「一試合ごとに成長しているあかしだ。まだ若い戦士だろう?」


「はい。やっと二十歳になったばかりです。それからこの相手、ちょっと変わってます」


「変わっているとは?」


「髪が黒く、瞳も黒く、肌は黄色いのです」


「肌が黄色い? スキタイ人か?」


「そう思って聞いた者がいますが、ちがうと答えたそうです。『自分の生まれた土地はスキタイの領土よりもっと東にある』といったそうです」


「もっと東……名前は?」


「サルです。そいつの故郷ではモンキーを猿(サル)というそうで」


「氏族の名前は?」


「ありませんただサルと。サルは以前ペルシアの傭兵だったそうです。この前の戦争でペルシアが敗れ、サルはスパルタの奴隷に。

 サルはスパルタでパンクラチオンの戦士になり、試合に出て金を稼ぎ、その金で自らを解放したそうです。氏族の名前がないのは彼にパトロン(雇い主)がいないからです」


「なるほど。徒手空拳で生きてきた男というわけか……」


 とテオゲネスがつぶやいたとき、目指すポドロ島の丘に建てられた闘技場が見えてきた。





 土の地面の試合場を、すり鉢状の観客席が囲んでいる。

 観客席は立錐の余地がない満席だ。

 正面の貴賓席に座った領主が手をあげると銅鑼が鳴った。 

 王者テオゲネスと挑戦者サルの試合は午後零時ちょうど始まった。


 二人とも上半身裸で革の短パンをはき、足もとははだしというスタイルだ。

 試合場で向き合う二人を見て観客はがっかりした。

 テオゲネスはさっきもいったが現代のボクシングでいうとクルーザー級(九〇キロ以下)の体格だ。王者にふさわしい重量感のある体である。

 対するサルは身長こそ一七〇センチを超えてるが、体重は七〇キロなさそうに見える。

 つまりやせた体で現代のボクシングでいうとせいぜいウェルター級(六六キロ以下)といったところ。


(体格差がありすぎる)


 と目の肥えた観客は思った。

 挑戦者の見慣れない黒髪や黒い瞳や黄色い肌にも好感が持てない。

 なんだかつまらない試合になりそうだ。


 そして試合が始まると観客はいよいよ失望した。


「なんだあの戦い方は?」


 とだれかが笑った。

 試合が始まるとサルがぴょんぴょんテオゲネスのまわりを飛び跳ねだしたのだ。


「あいつなにしてんだ?」


「遊んでるんじゃないか?」


「ほんもののモンキーだぞあいつ」


 だれかがそういうと観客はドッと笑った。

 しかしその笑いはすぐ消えた。

 パシッ、という乾いた音が、観客席に響いた。

 それはサルが放った左のパンチが、テオゲネスの顔面をとらえた音だった。


「テオゲネスが」


「殴られた……」


 観客が衝撃を受けているすきに、またサルの左が立て続けに二発、テオゲネスの顔面にヒットした。

 自分が目にしているものを信じられない観客は絶句し、言葉を失った。

 それは最前列に座った聡明なマネージャーエウメネスも同じだった。


(あいつは今なにをやっているんだ?)


 エウメネスは必死に頭をめぐらせたが、どうしても今サルがやっていることが理解できなかった。それも無理はない。

 今サルがやっているのは近代ボクシングでフットワークとか左ジャブと呼ばれるものだった。

 現代のリングではもっともポピュラーな技術だが、この時代これを駆使するボクサーはまだいなかった。


(ともかく流れを変えないと)


「先生手を出して!」


 エウメネスが叫んだとき、今までとは性質の異なる固い音が聞こえた。

 サルのジャブをテオゲネスが両手のガードで弾いたのだ。

 それは無敵の王者が初めて見せた防御の姿勢だった。


「お」


 これで流れが変わる、とエウメネスは喜んだ。

 またサルがジャブを放ちテオゲネスがガードで防ぐ。

 防がれたサルが左手を引く。

 そのタイミングをねらいすましてテオゲネスは右を放った。


「決まった……」


 とエウメネスが歓声をあげそうになった瞬間、骨が折れるような固い音がとどろいた。

 あわてたエウメネスがよく見ると、おお、王者テオゲネスが地面に両手を突き、ひざまずいているではないか!


「サルの右が」


「先に当たった……」


 観客の誰かが、かすれた声でそうささやいた。

 エウメネスはぞっとした。


(さっきのサルの左は右で仕留めるために撒いたやつのエサだ。そのエサに、一三〇〇戦無敗の王者がひっかかった)


「先生!」


 とエウメネスが叫んだとき、テオゲネスはゆっくり立ちあがった。

 パンクラチオンでテンカウントは数えられず、どちらかがギブアップするまで試合は続く。


 テオゲネスは今までの悠然とした態度をかなぐり捨て、猛然と挑戦者に襲いかかった。

 嵐のように左右のフックを振り、サルを後退させる。

 パンチが止まらずさすがのサルも手が出ない。


「いけ!」


「やっちま……」


 え、と観客が叫ぶより先に、また固い音がとどろいた。

 今度テオゲネスをひざまずかせたのは、サルの右アッパーだった。


「テオゲネスがいちばん得意にしているパンチで」


「逆にダウンさせられた……」


 観客は静まり返った。


「先生立って!」


 ひごろクールなエウメネスは、そのとき子どものようにべそをかいていた。

 まさかまさかこんなつまらない野試合でテオゲネスが負けるなんて。そんなことがあってはならない!

 ここでテオゲネスが負けたらおれの未来も終わりだ、とエウメネスは思った。


(おれはこれからテオゲネスの生涯を書いてホメロスのような不滅の名声を手に入れるんだ。おれの書く王者の一代記に敗北の章はいらない。そんなもの読者が喜ばない。だからここで負けられたらこまるんだ)


「先生立ってください!」


 マネージャーの祈りが通じたのか、そこでテオゲネスはようやく立った。

 しかし、鼻血が出て、汗に濡れた体は泥まみれだ。

 こんなにみじめな王者の姿をエウメネスも観客も初めて見た。

 テオゲネスが戦意を見せ、ふたたび試合が始まった。

 試合が再開するとすぐ観客が叫んだ。


「サル、ぴょんぴょん飛び回るな!」


「男らしく打ちあえ!」


「逃げるな!」


 テオゲネス贔屓の観客の理不尽なヤジだが、そのヤジがきいたのかサルは今までのようなフットワークは見せなかった。

 現代のリングとちがって裸の地面は固くて長い時間飛び跳ねていると膝を痛める。

 だから動きたくても動けなくなっていたのだ。すると、


「おっ」


 観客がどよめいた。なんとテオゲネスが左ジャブを放った。

 間一髪サルはブロックしたがたちまち後方に吹っ飛んだ。

 今まで見せたサルのジャブとは比べ物にならない大砲並みのパンチ力だ。

 テオゲネスは立て続けにジャブを放った。

 サルはすべてのジャブをブロックしたが、ブロックしているにも関わらずガンガン脳が揺れる。

 やがて鼻血がたらたら流れ出した。

 血を流す黒髪の挑戦者を見て観客は喜び、サルはあせった。


(やべえ、ブロックしててもあと二三発もらったら立ってられねえ)


 とサルが思ったときまた左のジャブがきた。

 それをサルは両手で懸命にブロックした。王者が手を引く。


(今だ)


 サルは王者が引いた左手を追いかけるように右を放った。

 追撃のクロスカウンターだ。


(決まった)


 とサルがとっさに歓喜にふるえた瞬間、彼の右目の視界を黒い何かが覆った。


(え?)


 それはテオゲネスが放った左フックだった。


(いけねえ)


 さっきの左はおれに飛びつかせるために撒いたエサだ、とサルが気づいたとき、彼のこめかみにおそろしい衝撃が走った。





 うつぶせに倒れたまま失神したサルを係員がかつぎだし、試合は終わった。


「いやー先生ひやひやしました!」


 観客の歓呼の声に負けないよう、エウメネスは大声で叫んだ。


「今日はどうしたんですか? いつもより時間がかかりましたね」


「うむ」


 テオゲネスは試合場のすみを見た。

 担架の上で目をさましたサルが係員に何かいっている。

 しかし観客の声援にまぎれて、その声はテオゲネスの耳に届かなかった。





「サル」


 翌朝、ポドロ島の港から出港する客船に乗り込もうとするサルにテオゲネスは声をかけた。


「スパルタに帰るのか?」


「ええ」腫れた右目のまぶたを撫で、若者は照れ臭そうにいった。「わざわざ王者に見送りにきてもらうなんて恐縮です」


「気にするな。スパルタに帰ったらまた試合を?」


「いや、パンクラチオンはもうやめです。またギリシャとペルシアの戦争が始まるんで、今度はスパルタの傭兵として出征します」


「え? しかし、きみはもう奴隷ではないんだろう? 出征の義務はないはずだが」


「義務はありません。でも出征します」


「なぜ?」


「戦うことが好きなんです」


 サルがきっぱりそういったとき、潮風が彼の黒髪をそっと揺らした。


「……戦うことが好き、か。若いころのわたしと一緒だな。そうか」


 とテオゲネスがぶつぶつつぶやいているとき、出港を知らせる銅鑼が鳴った。


「じゃあ行きます。さよならテオゲネス」


「ああ……サル」


「なんです?」


 遠くから振り返るサルに向かって手を振りながら、テオゲネスはいった。


「元気でな」


「あなたもお元気で、ぺリオドニコス」


 そういってにっこり笑うと、サルは船に乗り込んだ。





 やがてギリシャとペルシアの三度めの戦争が始まり、ギリシャが勝利した。

 サルはスパルタの歩兵として数々の武勲をあげたが、最後の戦闘で戦死した。


「味方をかばって敵の投石を被弾したそうです」


 エウメネスの報告を聞いたテオゲネスは「そうか」といったきり黙り込んだ。

 そのときエウメネスの目に、王者が一気に老け込んだように見えた。

 それからほどなくしてテオゲネスは引退し、さらにほどなくしてこの世を去った。





 テオゲネスの名は今も不滅だ。

 故郷タソス島の彫刻の台座に彼の一三〇〇試合すべての内容が刻まれ、そこには彼への賛歌もある。テオゲネスの名声が忘れられることはない。


 しかし残念ながら、秀才エウメネスが書いたであろう彼の伝記は、のちの世の人々にすっかり忘れられてしまった。

 テオゲネスがもっとも苦しんだ試合のことも忘れられた。


 彫刻『拳闘士の休息』でテオゲネスは頭上を見あげている。テオゲネスの視線の先にあったものはなにか?

 もしかしたらポドロ島の闘技場で拳をかわしたあの黒髪の挑戦者のことを、彼のすばしっこさや彼の死を、王者は思い出していたのかもしれない。

 彫刻の横顔に浮かぶ哀愁は、若者の死を悼んでのものかもしれない。


 本当のことは、もうだれにもわからない。

 ただエーゲの神々だけがあの試合を覚えている。

 神々は今も潮風に乗せて賛歌を歌い、無敵の王者と黒髪の挑戦者の名勝負を讃えている。

 風は今日も吹いている。【完】


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