ハーメルンの笛吹き男(下)
聖ヨハネとパウロの日がやってきた。
町の目抜き通りに縁日が立ち、通りには肉が焼ける香ばしい匂いや甘い酒の匂いが立ち込め、人々は夜明けとともに浮かれ騒いだ。
日が暮れたら地下からあの異端の子どもたちを引きずり出し、処刑の森で生きたまま燃やすのだ。
ベルナール・ギーが唱える経文をともに唱えながら、悲鳴をあげて燃えさかる子どもたちをじっくり眺める。
その残酷なショーへの期待で、ハーメルンの人々はまだ酒を飲んでいないのに、すでに酔っ払ったような異様な心地になっていた。
日が高く昇ると祭りのにぎわいはいよいよ増した。
「ささ、ギーさま。こちらへどうぞ」
市長に請われてベルナール・ギーは目抜き通りの中央広場に進み出た。
いつものようにコバルト・ブルーの服を着て、コバルト・ブルーの帽子をかぶったマルコがそこにいた。
これから広場で演奏するのだ。
笛の評判を聞きつけたハーメルンの全市民が、ヴェネツィアからやってきたまだ子どもみたいな旅芸人をぐるりと囲んだ。
ギーは苦虫を潰したような顔でマルコを見た。祭特有の浮かれた雰囲気が、この謹厳実直な神学者はなにより苦手だ。
マルコはにこにこ笑って周囲に一礼すると、笛を横向きにして唇に当てた。
演奏が始まった途端、ハーメルンの町から一瞬、完全に、
町にいるすべての人や獣や鳥が手や牙や羽根を休め、いっせいに笛の音に聞き入ったのだ。
マルコは高らかに笛を吹いた。
町の人々は本当に酒に酔ったかのようにとろんとした目つきになり、今にも涎を垂らしそうな顔をしてマルコの笛の音に耳を傾けた。
ベルナール・ギーだけが苦虫を潰したような顔で腕を組み、間近にいるマルコをきっと睨んでいる。
「……」
マルコは笑いながら笛を吹いた。
そうして笑いながら、不意にくるりと人々に背を向けた。
目抜き通りの真ん中を、笛を吹きながら歩くひとりの少年に、町の人々も全員つき従った。
青い服を着たマルコに従う人々の群れの中に、苦虫を潰したような顔をしたベルナール・ギーも混じっていた。
「おまえの笛の音には強い催眠力がある」
自分と同じマルコという名前を持つおじが、かつてマルコにいったことがある。
「その能力を、決して悪用してはならない」
(ごめんよおじさん。でも今回だけだからさ)
「ようし、ここらへんでいいだろう」
マルコはそういうと足を止め、唇から笛を外した。
そこはハーメルンを囲む城壁のはるか外側、コッペンという山の中にある平坦な空き地だった。
「……」
町の人々は全員ここまでマルコに従い、今なお涎を垂らしそうな顔をして物ほしそうに彼を見つめていた。
その涎を垂らしそうな顔をした人間のひとりに、あのベルナール・ギーがいた。
いや垂らしそうどころか、ギーはほんとうに涎を垂らしてへらへらだらしなく笑っていた。
日ごろの彼の謹厳ぶりを知る者がこの姿を見たら、驚愕して胸で十字を切るに違いない。
「さてと」
道に落ちていた棒切れを拾い、マルコはへらへら笑っているギーの前に立った。
「悪魔の使いはおまえのほうだ、このペテン師!」
マルコは手にした棒切れをまっすぐ振りあげ、円形に剃りあげたギーの頭頂部をすかん! とすばらしい音を立ててぶん殴った。
「……」
だらしないへらへら笑いを浮かべたまま、棒が倒れるように、ギーは前のめりにばたんと倒れた。
棒切れを捨ててマルコは山から去り、それからしばらくして町の人々は一斉にはっと目が覚めた。
「ここは?」
「笛吹き男は?」
「……ギーさま!」
市長は地面にうつ伏せに倒れているギーを見つけて駆け寄った。
頭に大きなこぶを作ったギーは目を覚ますと弱々しいうめき声をあげた。
「……子どもたちが」
人々はあわててハーメルンの町に戻り、地下牢を覗いた。
しかし鉄格子の錠前は外され、そこにいるはずの子どもたちの姿は、もはやどこにも見えなかった。
約束していた場所でアンネと子どもたちと合流し、マルコはいった。
「北へ行こう」
「どこへ行くの?」
アンネにそう問われたマルコは自分にすがりつく赤毛の女の子の頭を撫でながらこういった。
「オランダへ行こう。そこから船に乗る」
一行はやがてオランダの港町に辿り着いた。
「ぼくのおじさん、マルコ・ポーロっていうんだけどさ」
潮風に黒髪とコバルト・ブルーの上着をそよがせながらマルコはいった。
「そのマルコおじさんがいま中国の
「じゃあ船で元へ?」
長く伸びた黒髪を潮風にそよがせ、アンネが訊ねた。
「いいや」
マルコは首を振った。
「むかしおじさんがくれた手紙にこう書いてあった。『元の東にジパングという島国がある。ジパングとは黄金の国という意味だ』って。実をいうとぼくはジパングを目指してヴェネツィアから旅立ったんだ。どうだいアンネ、それからみんなも。ぼくといっしょに行かないか? 黄金の国へ」
そういってマルコが振り返ると、そこにいた百三十人の子どもたちは目をきらきら輝かせてうなずいた。
アンネも笑ってうなずいた。
「よかった! ではみんないっしょに行こう。黄金の国へ」
それからマルコはズタ袋から赤い笛を取り出し、それを吹いた。
潮風に乗って笛の音は遠くまで響き、その音を聞いた帆船の水夫たちがこちらに向かって帽子を振るのが見えた。
「あの船に乗るんだ」
マルコが船に向かって手を振ると、アンネも子どもたちも船に向かって一斉に手を振った。もみじのように小さい手を。
こうして百三十人の子どもたちは全員船乗り見習いとしてオランダ船に乗り込み、旅立ったのである。
東の果てにあるという黄金の島国、ジパングを目指して。
当時のヨーロッパにあってヴェネツィアは例外的に自由の気風に満ちた都市だった。
その自由さは異端審問に対しても遺憾なく発揮され、傍若無人に振舞おうとする異端審問という制度に対する
異端審問官の官邸が焼き払われたことさえあった。
こんな激しい抵抗運動があった都市は、当時のヨーロッパではヴェネツィアだけだ。
こういう自由な都市であるからこそ、マルコ・ポーロのように偉大な探検家が生まれたといえる。
笛吹き男マルコもまた、ヴェネツィアの自由な空気をたっぷり吸って育った。
こんな少年がベルナール・ギーのような人間と相性がいいわけがない。
マルコがやった百三十人の子どもの救出劇は、その後さまざまな変奏を経て、十九世紀にグリム兄弟に知られることとなった。
グリム兄弟はハーメルンの笛吹き男の故事を『ドイツ伝説集』という本に収める。
これによりハーメルンの笛吹き男伝説は、一躍全世界に知られることになった。
しかしグリム兄弟が伝えた話の中に、残念ながらマルコやアンネの名前はない。
ただ「ある日とつぜん百三十人の子どもが、町から消えた」という事実だけが、語り伝えられただけである。
果たしてマルコたちはぶじに目指すジパングに辿り着けたのか?
それを調べる手立ては、もはやない。
ただハーメルンから子どもたちが消えてから三五三年後、極東の島国日本で天草島原の乱が起きる。
弾圧された
この乱を指導したのが十六歳の切支丹で神童といわれた天草四郎時貞だ。
その四郎を見たポルトガルの宣教師は、彼の美貌をたたえてこう書いた。
「反乱の指導者である天草四郎は、西洋の少年そっくりの顔立ちをしていた」
ひょっとしたら、天草四郎はハーメルンからはるばるジパングにやってきた百三十人の子どもの誰か、もしかしたらのちに夫婦となったマルコとアンネの遠い子孫であったかもしれない。
しかしほんとうのことは、もうだれにもわからない。
真実を知るのは、ただ海の波と潮風ばかりである。
今日も波は騒ぎ、風は吹いている。
いにしえの子どもたちの、はるかな夢と祈りを乗せて。【完】
参考文献
『ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也(ちくま文庫)
『魔女狩り』森島恒雄(岩波新書)
ハーメルンの笛吹き男 森新児 @morisinji
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