ハーメルンの笛吹き男

森新児

ハーメルンの笛吹き男(上)

「キリスト生誕後の一二八四年に

 ハーメルンの町から連れ去られた

 それは当市生まれ一三〇人の子どもたち

 笛吹き男に導かれ、コッペンで消え失せた」


(ハーメルンの市参議堂にある言葉、『ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也著より)





 ハーメルンはドイツのちいさい町である。


 聖職者の堕落、そして教会の腐敗に反抗するように十二世紀南フランスでアルビ派と呼ばれる異端運動が盛んになる。

 これは形骸化したローマ教会の儀礼や、教会そのものに反抗した人々の、のちの世で起きるマルティン・ルターの宗教改革運動のさきがけというべき思想活動であった。


 しかしローマ教会は人々の敬虔かつ自由な祈りや改革への熱意を、断じて許さなかった。


 第四回十字軍遠征でコンスタンチノポリスを征服したシモン・ド・モンフォールを総司令官とする軍隊は南フランスに向かって進軍した。


 これがアルビ十字軍である。


 通常十字軍で征伐されるのは異教徒だが、アルビ十字軍で虐殺されるのは同じキリスト教徒、ただし異端とされた人々であった。

 アルビ十字軍はおよそ二十年間続き、軍は一二二九年にようやく解散する。

 ハーメルンの町から子どもたちが消滅する事件が起きる、およそ六十年前のできごとである。





 このアルビ十字軍から生まれた恐ろしいシステムが異端審問であった。

 そしてこの異端審問から発展し、ルネサンス期において西ヨーロッパで最悪の鞭をふるい、大勢の人々の命をうばったのが世に名高い魔女狩り裁判である。

 この魔女狩りという名の悪の華は、十三世紀すでに西洋社会に芽吹いていた。


 異端審問の主役は厳しく異端を追及する異端審問官である。

 『異端審問の実務』(一三二三年)を書いたベルナール・ギーは、さしずめ異端審問界のスーパースターといえるだろう。

 のちの魔女裁判もそうであったが、異端審問官に睨まれて生きることは、当時の西洋社会では不可能であった。





「あれは?」


 コバルト・ブルーの上着にコバルト・ブルーの帽子、そして粗末なズタ袋を背負った少年はかぶっていた青い帽子を持ちあげてかなたをあおぎ見た。

 森の一部だとばかり思って眺めていた木々が、近づいて見ると森ではなく、人工の巨大な杭の群れとわかり、少年は仰天した。


「こりゃあ百本……いや、それどころじゃない、三百本はあるな。なんだいこれは?」


「知らないのかい?」


 いやな匂いに顔をしかめる少年に、旅の道連れとなった老人はロバの手綱を引きながらちょっと得意そうにいった。


「あれがわがハーメルン自慢の処刑の森さ。あの杭に異端者を縛りつけ、下からあぶって生きたまま焼くんだ」


「生きたまま……」


 少年はとっさに顔をしかめた。


「ああ、もうすぐ聖パウロとヨハネの日だ。今年も盛大な火祭りが見られるぞ」


 老人はいかにもそれが待ち遠しい感じだった。

 少年はロバの太くて固い首を撫でながら、間近にそびえる杭の群れを見あげた。

 太い杭はどれも足もとが焼けて黒ずんでいた。

 血や脂がこびりついた杭もたくさんある。

 杭の足もとで白々と光っているのは、犠牲となった人間の骨や歯だ。

 すると一本の杭の足もとが、不意にきらりとすずしげに光った。


「……」


 老人の目を盗み、少年は光るなにかをすばやく拾いあげた。

 それは銀でできた、十字架のペンダントだった。

 少年は銀の十字架を、コバルト・ブルーの服のポケットに納めた。





「笛吹き男?」


 ハーメルンの市長は、とつぜん市長室に入ってきた少年のあだ名を聞いて目をむいた。


「はい。笛吹き男、それがぼくのあだ名です。本名はマルコですが。もうすぐ聖パウロとヨハネの祭りの日です。その日こちらの大道で、ぼくが笛を吹く許可をいただけないかと思いまして」


 青い帽子を脱ぎ、それを手の中でもみくちゃにしながら、少年は市長にぺこぺこ頭をさげた。


「祭りがにぎやかになるのならかまわないが、おまえさん生まれは?」


「ヴェネツィアです」


「ふん、イタリア男か。ヴェネツィアは旅芸人の伝統があると聞くが、本当かどうかためしてみようじゃないか。吹いてみろ」


 市長は横柄に椅子にふんぞり返り、マルコは大喜びでズタ袋から赤い笛を取り出すと、それを横向きに唇に当てて吹いた。

 その音を耳にした瞬間、それまでぶすっとしていた市長の頬に、薔薇色の血潮がさっと鮮やかに差した。





「……すばらしい! まるで森の小鳥のさえずり、いや天使の歌声だ!」


 興奮した市長は満面に笑みを浮かべて熱烈に拍手すると、その大きな手でマルコをきつく抱きしめた。


「そ、それでは市長さん」


 やせっぽちなマルコは市長の太鼓腹に押さえつけられ、窒息しそうになりながら懸命にいった。


「祭りの日に大道で笛を吹いても?」


「もちろ……」


「わたしは反対だな」


 と、そのときとつぜん中年男の渋い声が、背後で聞こえた。

 マルコは驚いて振り向いた。

 真っ黒なマントを羽織り、頭頂部を円形に丸く剃ったひとりの聖職者がそこに立っていた。

 痩せて背が高く、胃腸が悪いのか濡れた石膏のように青白い顔色をしている。

 その胸もとで黄金の、大きな十字架のペンダントが輝いている。

 聖職者は黒い瞳でじっとマルコを見据えた。男に見つめられ、マルコは一瞬身動きができなくなった。

 すると市長がいずまいを正しながらいった。


「こ、これはギーさま」


(ギー?)


 あの有名な異端審問官のベルナール・ギーなのか、この男は? とマルコはもう一度目のまえの聖職者を見た。

 ギーは徹底苛烈な尋問で西洋諸国にその名を知られていた。

 十五年間で千人の人間を異端と断じ、彼らを生きながら焼き殺したともいわれている。


(ギーはフランス人と聞いていたが、ドイツの小都市にいったいなんの用が?)


 とマルコが首をかしげていると


「聖パウロとヨハネの日は文字通り聖なる祈りの日であり、聖なる『死の祭典』を行う日でもある。音楽に浮かれ騒ぐような軽薄なまねは、わたしは反対だ」


 ギーはそういうとマントの裾を翻し、市長室から足早に立ち去った。


「ぎ、ギーさま、お待ちください」


 市長はあわてて異端審問官の後を追った。

 ただひとり部屋に残されたマルコは、ギーが立ち去った方向を見つめて、小声でこういった。


「……聖職者、ね」





「ギーさまはハーメルンに異端審問にいらっしゃったんだよ」


 この町にマルコを案内してくれた市長の下僕の老人は、今度は地下につづく長い螺旋階段を松明で照らしながらマルコにいった。


「アルビ派ってすべて殺されたんじゃないの?」


「ギーさまがおっしゃるにはまだ残党がいるそうじゃ。ふつうの市民の中に連中が紛れ込んでいると。で、ギーさまが徹底的にお調べになり、見つかった五十人ばかりの異端者を、あの処刑の森で焼いたってわけさ」


「ふーん。さっきギーのやつ……ギーさま『死の祭典』とかいってたけど?」


「聖ヨハネとパウロの日の夜、異端者たちが残した最後の火種を燃やすのさ、処刑の森で」


「異端者が残した火種?」


「ああ。見なよ」


 そのときようやく長い螺旋階段が終わった。老人は手にした松明を高くかかげた。


「……」


 松明の炎に照らされたのは、地下に設けられた鉄格子の檻の中に閉じ込められた、大勢の子どもたちの姿だった。


「殺された異端者の子どもだよ」


 老人はいった。


「全部で百三十人いる。自分たちの親が焼き殺されるところを、みんな自分の目でしっかり見ている。こいつらがハーメルンに残った最後の火種さ」


「……この子たちを、みんなあそこで?」


「ああ。生きたまま焼き殺すのさ。それが死の祭典」


 老人はヒヒッとうれしそうに笑うと、子どもたちをおびえさせようと松明の炎を鉄格子に近づけた。


「ほれ、ほ~れほれ」


「……」


 しかし絶望におしひしがれ、感情が完全に死んでいるのか、子どもたちは間近に炎を見てもなんの反応も示さなかった。


「ちぇ、どのガキも気が触れてやがる。おもしろくねえ」


 舌打ちして老人が去るとマルコは上着のポケットに手を突っ込み、そこから取り出したなにかを暗がりにかざした。


「あ」


 それあたしのママの、といって赤毛の女の子は鉄格子の隙間から、汚れた手を伸ばした。

 マルコはその小さな手に、十字架のペンダントをそっと置いた。

 女の子はすばやく手を引くと、兄らしい男の子の背中に隠れた。

 マルコはこんどは背負ったズタ袋から赤い笛を取り出し、それを吹いてみせた。


 石の屋根や畳に反響し、笛はいつもよりもっと冴えた音を立てた。

 笛の音を聞いて、さっきまで土気色の死んだような顔をしていた百三十人の子どもたちの頬に、さっと鮮やかに薔薇色の血潮が差した。


 子どもたちはみんな笑っていた。

 あの赤毛の女の子も、並びの悪い歯を覗かせて笑っている。

 笛を吹き終えたマルコも笑みを浮かべ、子どもたちに向かってウインクした。

 それから鉄格子越しに手を伸ばし、マルコは笑っている赤毛の女の子の頭を撫でた。





「ねえ」


 地上に出ると、自分と同い年くらいの少女がマルコに駆け寄ってきた。


「あの子たちは無事?」


 黒髪の少女は息を弾ませてそういった。


「今のところはね。きみは?」


「アンネ」


 自分の名前を告げると、もうすぐ殺される子どもの中に自分の友だちが大勢いる、といって少女は青い瞳に涙を浮かべた。


「わたし両親がいないから友だちがいなくなったら頼れる人がだれもいなくなるの。ねえ、笛吹き男さん。あなた市長さんに直談判する度胸があるんでしょ? なんとかならないの?」


「なんとかって……」


 とまどい顔で南国人特有の黒髪をかきあげ、それからマルコは自分と同じ南国風に髪が黒い少女にいった。


「しようがない。おじさんには止められてたけど、【あれ】をやるか」



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