読めない空気のソーダ割り

犀川ゆう子

読めない空気のソーダ割り

読めない空気のソーダ割り








「俺さみしい男だもん」

 これは俺のバイト先の店長の口癖だ。この人は自分の店のバイトを飯に連れて行くのが趣味みたいな人物で、閉店後に誰彼構わず誘っては近所のファミレスやラーメン屋なんかで飯をおごってやっている。話し相手欲しさでたかがバイト相手に自腹を切って飯をおごる人間の気が知れないが、いちフリーターで日々カツカツの暮らしを余儀なくされている俺としては世間話に付き合えばタダ飯にあり付けるので断る理由もなく、今日も深夜に店の近くのファミレスで二人テーブルに向かい合っていた。


 普段は仕事の話やYouTubeの動画の話題なんかに相槌を打つだけでいいので楽なのだが、今日の店長は面倒くさい日らしく例の口癖と共におおよそ深刻さの感じられない軽薄な笑みを浮かべている。俺は鉄板の上のハンバーグを箸で切りながら適当に頷いて見せた。


「店長がさみしい男だって言うんなら、アラサー独身独居彼女なしの俺はどうなるんですか。似たようなものでしょう」

「アラサーって言ったって鈴木くんまだ二十五でしょ。俺もう三十一だよ。三十路を超えた男の哀しさを甘く見たらダメだよ。どんどん若い子と話が合わなくなるんだから」

「そうは言いますけど店長、学生ともしょっちゅう飯行ってるしけっこう仲いいじゃありませんか」


 そう、俺にとっては単に飯をおごってくれる上司に過ぎない店長だが、バイトの学生たちにとっては人間関係とか就活とか恋愛なんかのよき相談相手なのである。俺から見るといつもへらへらして掴みどころのない人なのだが、確かに仕事は出来るし物腰も柔らかいので上司としては理想的なのかも知れない。


「それはそうなんだけど、頼れる大人と友達の中間くらいの立ち位置ってけっこう難しいんだよ。適度に理解を示しつつ無理して若ぶらない余裕のバランスがさ」

「だったらそういうキャラ付けやめて潔くおじさんになったらいいじゃないですか。無理しないで」

「うちの店バイトはほとんど学生だから、若者とうまくやってかないと仕事に差し支えるじゃない。それに学生の子たちが相手してくれなくなったら俺だってさみしいし」


 うちの店は学生以外だと主婦のベテランパートさんが数人いるだけなので、学生に嫌われたらやっていけないのは確かだ。ちなみにフリーターなのは俺だけで年齢も中途半端なので店ではやや浮いている。そうでなくても性格が根暗なので馴染めるわけもないのだが。


「そもそもそんなさみしい人間だって自覚あるのに、自腹切って飯おごったりしてまで人に相手してもらうのって余計に悲しくないですか? 結局それありきの付き合いって感じで」

「それ言っちゃうかあ。ほんときみって口悪いよねえ。俺の前でだけ」

「店長限定なんじゃなくて普段がこうなんですよ。性格がひねくれてるから口も悪いんです。だから友達も少ないし彼女もいないし、だからこんな時間に店長と男二人で飯に付き合ってるんですよ。仕事中はちゃんとしてるんだから放っといてください。というか前々から思ってたんですけど、なんで飯の相手って店のバイトばっかりなんですか? 人恋しいなら彼女とか作ったらいいのに」


 生まれてこの方彼女なんかいたことがない自分のことを完全に棚上げした発言である。しかし店長は世間じゃブラックと名高い飲食とはいえ定職に就いているし、まあ顔だって悪くなく、疎い俺でも分かる程度には身なりにも気を遣っていた。俺が店で働き始めて三年弱になるが、これまで働いていた中にこの人に好意を持っていた女子大生もいたと思うし、その気になれば機会なんていくらでもあったと思うのだが。


 そんな疑問から生じた問いに対し、店長は笑い、肩をすくめながら首を振った。

「うーん、彼女はね、もう作んないから。俺」


 今思えばここでこらえるべきだったのだが、この日は特に虫の居所が悪かったわけでもないのに、なぜだか店長の「その気がないだけ」感が妙に癇に障った。モテない男の僻みと言ったらそれまでなのだろうが、普段ならこのくらいのことはなんとも思わないのにこの時はなんでだか無性に気に入らず、なにかひと言くらい嫌味を言ってやりたくなったのである。


 「はあ、じゃあ、彼女がダメなら彼氏ですね」

 その結果出たのがせめてこの言葉でなければ、俺はあんなことにならずに済んだのに――そう後悔するのはもう少し先になってからなのだが、この時の俺は知る由もなかった。


「へえ、彼氏かあ。なるほどね。きみは恋人にするならどんな人がいい?」

 店長が案外話に乗って来たので、俺は内心面白くないと思いながらも適当に理想の相手像をあげつらねる。

「話してて気を遣わない相手がいいんじゃないですか。あとは性格が良くてかわいかったら言うことないですね」


 そんな都合のいい相手がいるものか。いたとしてそんなユニコーンばりの空想上の存在が俺の彼女になどなるわけがない。適当な発言とはいえ恥ずかしくなって来たが、店長はふんふんと顎に手を当て納得したように頷いている。


「かわいい系がタイプなんだ」

「いや、別にそういうわけじゃありませんけど。……というか、もうやめませんか。アラサー男の深夜の恋バナとかこの上なくグロテスクだし」


 したこともない恋愛の更に仮定の話をバイト先の店長相手に繰り広げるなんて拷問以外の何物でもない。俺がこの気色悪い談義に早々に音を上げると、店長はあははと声を上げて笑った。


「俺は楽しかったけどなあ。鈴木くんそういう話全然しないしさ」

 しないのではなくする話がないのである。しかしそんなことをわざわざ言って墓穴を掘ることもないので黙っておくことにして、肉のかけらを口に運んで誤魔化した。


 その後は店長のくだらない話――最近YouTubeで見た犬の動画だの来週から始まる夏季限定メニューの工程が多くて面倒だとか――を聞きながら飯を食い、店の前で解散した。店長は車だが俺は自転車通勤なので、飯に行く時は雨の日を除いていつも現地集合現地解散だ。雨の時は店長が車で送ってくれる。


 俺は今日の己の発言がのちのち招く事態など知る由もなく、ハンバーグセットで満腹になった体でペダルを漕ぐのだった。



―――――――――――



 次の日。

 今日のシフトも閉店まで店長と同じだった。朝から昼に掛けては時間帯責任者の出来るベテランのパートさんが入るので、必然的に店長や俺は午後からの出勤が多い。と言っても店長は店長なので事務作業などもあり、繁忙期やピーク時以外はバイトに持ち場を任せて事務所にいることがほとんどだ。


 今日も何事もなく一日を乗り切り、閉店作業のためにバックヤードでやたらと重いゴミ袋を裏に運んでいると、事務所の開けっ放しのドアからひょろ長い腕が伸びて中から店長が顔を出した。

「店長」

「ああ、やっぱり鈴木くんだ。ねえ、今日この後どう?」

 それはこの人がいつも飯に誘う時の文句だ。持ち上げていたゴミ袋を置いて立ち止まる。

「昨日も行ったじゃないですか」

「そうなんだけどさ、今日はちょっと行きたい店あって。付き合ってよ」


 店長と二日続けて飯に行くのは初めてだったが、帰ってもシャワーを浴びて寝るだけなので断る理由もなく、俺は頷いた。

「いいですよ」

「やった。じゃあまた後で。締めよろしくね」


 その後閉店作業を終えた俺は着替えを済ませ、休憩室でスマホをいじりながら店長を待った。店長は少し仕事が残っているらしく、先ほど事務所にタイムカードを切りに行った時にはまだパソコンの前に座っていたので少し掛かるだろう。それから十分ほどすると着替えを済ませた店長が事務所から姿を現した。チンピラか韓流アイドルくらいしか着ないような幾何学模様の半袖シャツを着ている。


「ごめんごめん、お待たせ」

 セコムを掛けて二人で店を出ると、むわりと湿気を含んだ空気が俺たちを出迎えた。風がないせいで立っているだけで汗が滲むほどで、ウインドブレーカーを着たことを後悔するこの蒸し暑さは例年通りの六月ではあり得ない気温だとネットニュースでやっていた。

「うわ、暑いな。もう十時回ってんのに――あ、ちょっと待って」


 一日店の中にいると分かんなくなるなあ、と言いながらシャツの襟元をバタバタさせている店長を横目に自転車を取りに向かうと、後ろから呼び止められる。

今日ふか津行こうと思ってるんだけど、酒飲むなら自転車置いて歩いて行こうよ。帰りは代行で送ってくからさ」


 《ふか津》というのはこの店の三軒隣の雑居ビル一階に入っている個人経営の創作居酒屋だ。店のすぐそばなので存在は知っているが行ったことはないし、何より酒に誘われるのは初めてだった。


「酒飲むの珍しいですね」

「まあね。なんとなく飲みたい気分でさ」

 俺の家から店までは歩いて二十分程度の距離なのでそれほど苦ではないし、明日は休みだ。明後日は歩いて出勤すればいいかとその提案を受けることにする。

「それなら、まあ」


 話がまとまったので俺たちは《ふか津》へと足を向ける。三軒隣なのですぐだ。いつも混んでいる店だが、平日のこんな時間にもかかわらず開け放した引き戸の向こうから紺の暖簾越しにガヤガヤとした声が漏れていた。


「ちょっと待っててね」

 店長が暖簾をくぐって中で二、三言葉を交わし、カウンターが空いていると言うのでそのまま中に入る。厨房を囲むL字のカウンターとテーブルが数席の小さな店で、縦長い店内の奥、L字の長辺の端に通された俺たちで満席だ。席に向かう途中で店長がカウンターの中で作業しているいかつい男に向かってひらりと手を上げ、挨拶を交わす。


「知り合いですか」

「うん。店長の安本さん。商店会の清掃活動とかでよく一緒になるんだよね」

 その安本さんという人物にちらりと目を向ける。パーマを当てたツーブロックと顎髭のせいで年齢不詳感があるが恐らく三十代半ばくらいだろう。握っている包丁が小さく見えるような日に焼けた筋肉質な腕といい、色白でひょろ長い店長とは対照的な容姿だ。

 

 そんな俺の人間観察はカウンターの中から差し出されたお通しの皿によって中断された。お通しを出してくれた店員に店長が慣れた様子でビールを注文したので俺も慌ててドリンクメニューに目を走らせ、梅酒のソーダ割りを選ぶ。


 お通しに手を付ける間もなくジョッキが二つカウンターに置かれた。

「はい、じゃあ、今日も一日お疲れさま」

「お疲れさまです」

 いつもはドリンクバーかお冷やで交わされる恒例の音頭と共に、結露のたっぷり浮いたジョッキふたつがガチンとぶつかった。泡がシュワシュワと俺と店長の喉に流し込まれてゆく。一口二口ジョッキに口をつけてから箸を取り、お通しを口に運ぶ。


「あ、うまい」

 刻んだ葉わさびが添えられた炙りしめ鯖、胡椒の利いたジャーマンポテト風のポテサラ、長芋の梅和え。細長い皿に少しずつ盛られている三品はどれもうまくて、仕事終わりの空腹も手伝って夢中で箸を動かした。


「よかった。気に入ってもらえて。ここなんでもうまいからさ、好きな物頼みなよ」

 そう言って店長はメニューを差し出した。白い厚手の和紙のメニュー表は筆で一品一品説明書きがしてある。上の一行は赤字で店長おすすめと書き添えられており、見たところ旬のものが並んでいるようだった。鯵の南蛮漬け――新鮮な真鯵を出汁の効いた特製タレで。真蛸のカルパッチョ――瀬戸内レモンとオリーブオイルでさっぱりと。福島の桃と道産モッツァレラ――甘さとまろやかさのハーモニーに黒胡椒と岩塩をピリっと効かせて……等々、食欲を刺激する文が並んでおり、その無骨な筆跡は安本さんのものだろうかと想像し、あのいかつい人が一枚一枚これを書いている場面を思い浮かべてなんとなく微笑ましい気持ちになった。


 ともかく期待値が高まるメニューを眺めつつ店長に何を頼むかと聞けば「俺は何でもいいよ、鈴木くんの頼んだのもらうから」と言う。

「嫌いな物とかないんですか」

「別にないかな。というか俺、酒飲む時あんまり食わないんだよね」

 そう言う店長のお通しは確かにあまり減っておらず、しめ鯖が一、二枚なくなっている他はほとんど手付かずだった。


「何でもいいって言われると逆に迷うんですよ、俺みたいなのは。俺も何でも食えるし」

「俺のおごりなんだから好きなもの好きなだけ頼んじゃえばいいのに。真面目だね」

「おごりだから余計に遠慮するんじゃないですか」

 とはいえ店長はこういう時意外と折れないので、これ以上は押し問答になるだろうとは分かっていた。なにより腹が減っているのでさっさとメニューを吟味する。


「ちなみに店長のおすすめってあります?」

「俺? いいよいいよ、別に」

「違いますって。どれもうまそうだし優柔不断だから迷ってるんですよ」

「あはは、なるほどね。じゃあ俺は枝豆のガーリック炒めと肉豆腐」


 結局店長のおすすめに加えて二、三品を選び、ビールのおかわりを頼むついでにと店長が注文をやってくれた。俺があれこれ悩んでいる間もずっと飲んでいたので早くも一杯目の底が見え始めている。酒の席は初めてだがけっこういける口らしい。


 早々にお通しを全部食べてしまい、料理がないと酒がすすまないので退屈しのぎにカウンターの中をぼんやり眺める。調理は安本さん一人で担っているようで、魚を揚げたり盛り付けたり忙しそうにしつつも手際がよいので見ていて面白い。


「ねえ鈴木くん、これ俺の分も食べていいよ。ポテサラと長芋は手付けてないから」

 一番左のしめ鯖だけが綺麗になくなっている皿を差し出される。飲んでいる時あまり食べないと言っていたのは本当らしかった。こんなにうまいものを残すのは勿体ないので有り難くもらうことにする。


「じゃあ遠慮なく。ありがとうございます」

 味濃いめのポテサラと梅でさっぱりした長芋をソーダでちびちび流すと無限に箸が進む。このポテサラなんて絶対ビールに合うのに勿体ないなあと思いながら何口か食べたところで続々と料理が運ばれて来て、店長に勧められるがままソーダ割りのおかわりを注文した。


「ほんとうまそうに食べるねえ」

 うまい飯は酒が進むなあと思いながら鯵だの蛸だのに次々舌鼓を打っていると、隣からくっくと忍び笑いが聞こえてはっとする。さっきから全然喋らないなとは思っていたが、カウンターに頬杖を突いてニヤニヤしている店長と目が合った。もう片方の手にロックグラスを持っている。二杯目のビールの後になにか頼んでいたのでそれだろう。


「なんですか。人のことジロジロ見て」

「いやあ。いつになくニコニコうまそうに食べてるなあと思ってさ。もっと早く連れて来てあげるんだったなあと」

「すみませんね、食い意地張ってて」

「そういうつもりで言ったんじゃないって。かわいいなあと思ってさあ」

「……はあ?」

 なにを気色悪いことをと言い返そうとして、ふとそれを止めた。


「あの、もしかして酔ってます?」

「うん、どうだろう?」

 小首を傾げてにっこりと微笑む。顔色はほとんど変わりないもののよく見れば目元が微かに赤いような気がしないでもない。

「店長、そのグラス中身なんです?」

「これ? 泡盛」

 泡盛ってなんだっけ。詳しくないのでそれが沖縄の酒ということくらいしか知らず、とりあえずメニューから銘柄を探す。安本さんは酒にも丁寧に説明書きをしてくれていた。泡盛、銘柄は店主にお尋ねください、度数目安:二十五度。ギョッとして店長へ目を向ける。


「ちょっと、二十五度って書いてますよこれ」

 けっこうなペースで飲んでいたからてっきり強いのかと思っていたが、まさかそれほどでもないくせに空きっ腹に立て続けにビールと泡盛を入れたというのか。しかもロックで。

「なにやってるんですか、いい歳して酒に飲まれて」

「いい酒は水みたいっていうじゃん。それにほら、俺ってずるい大人だからさあ。酒の力を借りないとダメな時とかあるわけよ」


 グラスを持ち上げて「ね〜〜?」と同意を求められても困る。と思っている間にまた一口飲んだので、慌てて止めに入った。

「少し水とか飲んだ方がいいですよ。頼みましょうか」

「うーん。いや、大丈夫。今いい感じだから」

「いい感じって何がですか。酔いがですか」


 確かにやたら陽気な気もするのだが、そもそもいつもへらへらしているので変化が分かりにくい。まあ顔色は普段通りだし、いい大人なのだから自分の限界くらい承知しているだろう。まあいざとなればタクシーに突っ込んでしまえばいいかという俺の考えを知ってか知らずか、店長はグラスを揺らして氷をカラカラ鳴らしながら枝豆を口に運び始めた。

「というか酒の力を借りないといけないって、今そんな状況でした? 普通に飯食ってるだけですけど」


 ふと気になって訊ねたが店内の喧騒で聞こえなかったらしく、店長は明後日の方向へぼんやりと目を向けながら延々を枝豆を食べ続けている。酔っ払いってなんでだか一度口に入ったものをずっと食い続けるよなあと観察していると、ふと豆の房を取る手がぴたりと止まった。


「昨日のさあ」

 こちらを見ないまま店長が呟く。

「昨日のことなんだけど」

 胡乱な視線が俺を捉え、焦点を合わせるためかほんの僅かに眇められた。やっぱり一旦水を飲ませた方がいいんじゃないかと思ったが、声を掛ける前に店長が口を開いた。

「一緒にいて気を遣わなくて、性格が良くてかわいい。……思ったんだけど、それって俺じゃない?」


 一瞬なんの話だと思ったが、先ほどの「昨日の」という言葉で俺の好みのタイプの話だと分かる。

「はあ? なに言ってるんですか。俺じゃないって」

 分かったが意味は分からない。なにが俺なのか。問いただすと店長はグラスを持つ手をくいっと曲げて自分を指した。

「俺ってまさにきみのタイプなんじゃないかと思ってさ。だってほら、きみって俺の前だととても上司相手とは思えない遠慮のなさだし」

 なにを言っているんだこの人は。思いながら俺はすかさず否定の言葉を口にする。

「だからそれは、店長の前だけじゃないんですって」

「でも他のスタッフ相手だと必要最低限しかコミュニケーション取らないじゃん。休憩室でもずっとスマホいじってるし」

「それは」


 図星なので言葉に詰まる。しかしそれは俺の社交性が皆無なせいであって、そんな人間でも何年もしょっちゅう飯に行ってしょうもない雑談ばかりしていれば少しは素だって出る。

「そして俺はそんな鈴木くんを怒ったりしない優しい上司だし、まあかわいいと言うよりはかっこいいかも知れないけど、まあそのくらいは妥協してもらって……」

「ちょっと、あの」


 呆気に取られる俺をよそに意気揚々と続く意味不明な言葉をなんとか遮ると、店長がなんだと言いたげな顔でこちらを見返して来る。なんだじゃない。

「酔っ払って変なこと言うのも大概にしてくださいよ。というかそもそも店長が俺のタイプだったとして――まあ違いますけど、だったとしてどうなるって言うんです」

「昨日きみが言ったんじゃない、彼女がダメなら彼氏だって」

「はあ?」

「鈴木くん、俺の彼氏になってよ」


 ――ぼと。

 今まさに口に入れようとしていた鯵の南蛮漬けが小皿の上に落ちた。


「はあ!?」

 鯵を入れるために開いた口が塞がらず、そのまま叫びが飛び出す。幸い店内の喧騒のお陰で他の客からの注目を集めずに済んだが、カウンターの中から店員が一瞬こちらを振り返った。慌てて動揺を取り繕い、信じがたい思いで目の前の男へ視線を向ける。

「……水、飲んだ方がいいんじゃないですか。やっぱり」


 なんとか絞り出したのがそれかと思うと我ながら情けないが、その言葉を一蹴するかのように店長は首を横に振った。


「あのさ、言っとくけど酒のせいで出た冗談とかじゃないからね。これを言うために酒の力を借りたのであって、順序が違うから」

「いや、素面で言える冗談じゃないでしょう」

「だから冗談じゃないんだって」

 そんなに言うならと店長は烏龍茶を注文し、テーブルに置かれたそれをすぐさまひと息に呷った。


「これ飲み終わったら喋るから、きみは食べてていいよ」

「…………」

 小皿に横たわる鯵の揚げたのを取り上げて口に入れる。うまい。次々料理を口に入れていると次第に落ち着いて来たので俺の食い意地も捨てたものじゃないなと思う。あらかた平らげたところで店長が烏龍茶を飲み終え、ふうと息を吐いた。


「まず、俺が彼女作らないって話なんだけど」

「はい」

「ピンと来てないってことは、俺が前にいた店の話知らないんだね」

「なんですか、前の店の話って」

 いつだったか店長から前は関東の店舗にいたという話は聞いたことがあるが、彼女云々に繋がるような話は聞いたことがない。

「もう五、六年経つから学生の子たちは流石に知らないけど、パートさんとか長い人は皆なんとなくは知ってるんじゃないかな。俺さ、前の店で女の子に刺されて今の店に飛ばされてきたんだよ」

「え」

「その時付き合ってた相手がちょっと精神的に不安定な人でさ。色々あって別れたんだけど、しばらくして店に包丁持って乗り込んで来て、弾みで腕にそれが刺さっちゃったんだよね。救急車とかパトカーとか呼んで当時ちょっとだけどニュースにもなってさ。刺された腕は別に大したことなかったし、結局示談にして被害届は出さなかったんだけど。それはそれとして会社からは処分として辞めるか北海道に行くかの二択って言われて、じゃあ北海道でって。


 その店は大学出てから本社に配属される前の研修先だったんだ。でもそんなことがあったから当然本社行きもなくなって、辞めてもいいかなとも思ったんだけどね。当時ストーカーみたいになってたその子から物理的に距離おいた方がいいかなと思って、今に至るというわけ」


 初耳だし情報量が多い。戸惑う俺をよそに、店長は更に話を続けた。

「まあ決定打はそれなんだけど、そもそも俺って彼女出来てもあんまり長続きしなくてさ。俺は相手がして欲しいこととか言って欲しいこととか察するのが得意な方でいつも色々尽くすんだけど、最終的にはなんでかうまくいかなくなっちゃうんだよね。幸せにしたくてやってることで相手を辛い気持ちにさせちゃうのしんどいからさ、そういう意味でも女の子はもうやめとこうと思ってて。でもやっぱりひとりってさみしいからバイトの子たちと飯行ったりするので我慢してるんだ。こっちに友達もいないし」


 こんな込み入った話を俺が聞いて良かったのかと思わないでもないが、ひとまず店長が彼女を作らないことにしている理由は分かった。が、それとこれとは話が別である。


「それで、それがどうして俺と店長が付き合うって話になるんですか」

「昨日きみに言われて、確かに彼氏っていうのもアリだなと思って」

「いや、そんな理由なら俺じゃなくてもいいでしょ」

「でも俺きみのことけっこう好きだなと思ってさ。今まで同性ってだけで恋愛対象だと思ってなかったけど」

「いやいやいやいや。馬鹿じゃないですか、いきなりそんな」

「ちゃんと本気なんだけどなあ。きみって自分では性格悪いって言うけど真面目で仕事はきっちりやるし、口は悪いけど俺の話いつもちゃんと聞いてくれるでしょ。だから俺きみと話すの好きだよ。あといつも飯うまそうに食うところも」


 にっこり笑みを浮かべてそんなことを言われて俺はどうしていいか分からず、じっと見つめてくる目から逃れようとして視線があちこちに泳いだ。こちらを向いた店長と壁の板挟みで心理的にも逃げ場がなく、最終的に斜め下を向いて俯く。


「……困ります。急にそんなこと言われても」

 本心から出た言葉だった。店長はなんでもないような顔でつらつら俺のどこが好きだとか言って来るが、自慢じゃないが恋愛経験なんて皆無な俺にこの状況は荷が重すぎる。それが伝わったのか、店長はふっと体から力を抜いた。


「男はどうしても無理とか、そういう理由で困ってるわけじゃない?」

「……それは、分かんないです。考えたこともないし」

 少し迷ってそう答えた俺を見て、店長はわずかに目を細めた。

「そこで無理って言っちゃえばいいのに、嘘吐けないんだもんなあ。……まあいきなりそんなこと言われても困るってのは分かるし、まずお友達からって言うのはどうかな」

「……お友達からって、具体的になにをどうするんですか」

「うーん、きみは特になにも。そのままのきみでいてくれたらそれでいいよ。まあ俺のこと好きになってもらおうって主旨なわけだから、今まで通り飯行ったり、あとは休みの日にどこか行ったりとかはしたいけど」

「……まあ、それくらいだったら」

「ほんと? ありがとう」


 早い話が根負けしたようなものだが、それでも店長は嬉しそうだった。よせばいいのに大分氷の溶けた泡盛の残りを飲み干して追加でハイボールまで注文する姿を見ながら、俺は昨日の自分の発言を悔いる。



 ――――こうして、俺と店長は一夜にして上司と部下からお友達という、なんとも言いがたい関係へと変化したのだった。




―――――――――――――――――




 それから数日後の仕事終わり、店長がハンバーグの気分だと言うのでびっくりドンキーに来ていた。平日深夜にも関わらず案外客が多くあちこちで会話に花が咲いているのは、近くのイオンモールが閉まっても遊び足りない時はここかカラオケにでも流れるのがこの街の若者お決まりのコースだからだろう。

 

 ふか津での一件を経て、俺と店長の間に何か変化があったかと言えばそんなことはなかった。と言ってもまだ数日しか経っていないのだが。仕事中は元々あまり話さないしシフトが重ならなければ飯に行くこともないので、実質今日が初めてのイベントと言って良い。


「そういえば進んでます? ゲーム」

 ポテサラパケットディッシュが半分ほどなくなった頃に訊ねる。ふか津に行った次の日LINEでいきなり趣味を聞かれ、ゲームだと答えたら突然自分もやろうかなと言い出したのだ。しかしそもそも本体すら持っていないと言うので次の日サブ機のSwitch Liteを貸したところ、その日のうちに俺が少し前にやって面白かったと話したポケモンのリメイク版を買ったと報告が来たのである。


「ええとね、三人目のジムリーダー倒したとこかな」

「え、思ったより進んでますね」

 買ってからの日数や今週まだ休みがない店長のシフトを考えると進みが早い。

「うん、まあね。明日から連休だからけっこう進められそう」

「店長がポケモンやりたがるの意外でした。そもそもゲーム自体やるイメージないし」

「きっかけはお察しの通り、きみの趣味を知りたいっていう不純な動機だけどね。でもやってみると案外面白いよ。ほんとに」

「……まあ、それなら良かったですけど」


 こうして話しているとほとんど前と変わらないので例の件をつい忘れそうになる。とはいえ全く意識しないというのも無理な話で、そんな俺の動揺を察してか店長が笑った。


「はは。きょどきょどしてる」

「笑わないでくださいよ。こっちは大真面目に困ってるんですから」

「俺は楽しいけどね。照れる鈴木くんなんて入社三年目にして初めて見るし」

「照れてないです」

「あはは。むくれててかわいい」


 なんの衒いもなくそんな言葉を口にされるとかえってこちらがいたたまれない。ガラスに映った自分をちらりと見てみたが見知った陰鬱な男が映っているだけだった。

「……どういう趣味ですかそれ。さすがに俺にかわいいは無理があるでしょう」


 俺が思うに一部の特例を除いてそれはアラサー男に対して適用されない表現だし、少なくとも俺は五歳より後に言われた記憶はない。

「俺がそう思うんだからいいんだよ。恋ってそういうもんでしょ多分」

「多分って。経験豊富なのにそこは曖昧なんですか」

「うーん。まあ実際のところ、俺が相手のこと好きで付き合ったことってないからさ」

「はあ? なんですかそれ」


 意味が分からなくて言うと、店長はやや決まり悪そうに後頭部を掻く。

「お恥ずかしい話、今まで告白されてなんとなく付き合うっていうパターンばっかりでさ。彼女だから大事にはするけど、ちゃんと好きだったかと言われると、まあね……」


 俺の表情を見て徐々に言い淀む店長だが、そんなことをしても手遅れである。

「そんなんだから刺されるんですよ」

「……嫌いになった?」

「はあ? なって欲しいんですか」

「そんなわけはないけど」

「正直今までの話を聞いた時点で店長にまともな経験談とか貞操観念は期待してないんで。そもそも元から軽薄な人だなって思ってたし」

 そう言うと店長が不服そうな表情を浮かべた。


「今ならまあ、昔のこととか色々知られちゃったから言われても仕方ないかなと思うけど、元から俺ってそんなイメージだったの? けっこういい上司やってると思ってたからショック」

「いや自分で言いますかそれ。俺も仕事の時の店長は頼りになる人だと思ってますけど、それを補って余りある遊んでるっぽさなんですよね。俺だけじゃなくて他の学生も言ってるし」

「遊んでるぽさっていうのは例えばどんな? 夜遊びとか?」

「……なんかこう、バーで知り合った相手とワンナイトとかしてそうな感じですかね」


 店長は一瞬虚を突かれたような表情をしたかと思うと、すっと視線を右に逸らした。

「え、本当にやってるんですか」

「…………」

 沈黙が肯定を雄弁に物語っている。呆れて掛ける言葉が見つからないでいると、店長が言い訳がましく言葉を並べた。

「……向こうから誘われた時だけだよ。それに相手は選ぶようにしてるし。一回痛い目見たからね」


 なんの弁明にもなっていないその発言に、引くとか呆れるを通り越して心配になって来るから不思議だった。

「……あの、俺が言うのもアレですけど、いくら人肌恋しくてももうちょっと気をつけた方がいいと思いますよ。自分は後腐れないのつもりでも相手もそうとは限らないんだし、こんな田舎じゃどこで誰が繋がってるか分かんないんですから。前科もあるわけだし」

「あれ、心配してくれるんだ。意外」

「別にそういうんじゃありませんけど。でもいざその時が来たらちゃんと逃げるなり避けるなり抵抗するなりしてくださいよ。上司が職場で殺人とか嫌だし」

「まあ、もうしないよ。少なくともきみとこうしてる間はね」


 意図せずして知りたくもなかった店長の爛れた私生活を暴いてしまい、ゲームの話からどうしてこうなったんだと俺は内心首を傾げていると、気を取り直した店長が薄く笑みを浮かべながらそんなことを言うのだった。




――――――――――――――――




 七月も半ばになると店が少しずつ慌ただしくなる。世間は夏休み直前、うちで働いている学生や主婦も帰省や旅行の予定を組み始め、店長は夏休み期間のシフト調整に苦心する。

俺のような夏に何の予定も期待も持たない人間がその穴埋めに奔走する季節だがつまり稼ぎ時でもあるわけで、その成果次第ではあれこれ買い控えていた家電やゲームなんかに手を出す算段を立てていた。


 店長とは相変わらず飯に行くだけの間柄が続いている。あの人はポケモン以来ゲームにはまり近所のホビーオフで自分の本体を買ってドラクエとかをやっているらしく、最近の口癖は「仕事行かないでゲームしたいなあ」だ。身近に趣味の話し相手ができたのは素直に嬉しいものの、店長の開かない方がいい扉を開いてしまったような気がする。


 そんな店長の最近のお気に入りはスプラトゥーンである。フレンドがオンラインになると画面の右端で通知が来るのだが、そこから察するに大分熱中している様子だ。翌日出勤にも関わらず深夜二時にオンライン通知が来たりするとこの人いつ寝てるんだと多少心配にはなる。俺も同じ時間にゲームしているので人のことは言えないのだが。


 ある日のファミレスでの話題もゲームだった。

「もう全然着いてけなくってさあ。七歳の子に負ける三十一歳ってさすがにどうなんだろう」

「七歳の子って、オンラインで見知らぬキッズにボコボコにされたんですか」

 意地悪い揶揄いのつもりで言うと、店長は首を横に振った。


「違うよ、姪っ子。この間千葉の姉さんの子の誕生日にゲーム送ったらビデオ通話来てさ、最近おじさんもゲームやってるんだよって言ったら対戦しようって。かわいい姪っ子の頼みだから張り切ってソフト買ったんだけど、まあまるで歯が立たなくて」

「ああ、ここ何日かスプラばっかりやってるなあと思ったらそういう……」


 深夜のオンライン通知は仕事の合間を縫って姪っ子のために練習していたのが理由らしい。微笑ましい話だが、店長はやけに落ち込んでいる。

「ビデオ通話とはいえ、面と向かっておじさん弱いねって言われると堪えるんだよこれが。でも動画とか見てもいまいち真似できないんだよねえ。やっぱ若い子には勝てないのかな、おじさんは」

「そりゃまあ、ああいう系は若さも大事ですけど、それでも七歳の子ならある程度練習すれば大丈夫ですって多分。単に操作とか慣れてないだけなんじゃないですか」


 七歳の子にゲームで勝てないことより、その子よりひと回りふた回り上のおじさん予備軍が深夜に二人集まって話すことがゲームである方が問題であるような気がした。しかしそんなことを考えてもむなしくなるだけなので、店長のピラフの皿の隅に追いやられているグリンピースをぼんやり眺める。苦手なんだろうか。前に嫌いな物はないと言っていたような気がするが。


 すると不意に、店長がなにかしらを思い付いたという顔をする。

「そうだ。今度うち来てゲームしようよ」

「なんですかいきなり」

「前に休みの日に遊んだりしたいって言ったじゃん。それ抜きにしても普通に特訓付き合ってくれたら嬉しいんだけど」

 それはあくまでいつも飯に誘うのと同じような調子を装ってはいたが、その中に含まれたわずかな期待を見逃すことは出来なかった。多分この人は俺が誘いに乗るかどうかで今の距離感を測ろうとしているのだろう。


 断るのは簡単だ。恐らく店長は俺がその思惑を察していると承知でこちらの出方を窺っている。だからスプラは得意じゃないとか家に行くのは怖いとか適当な理由を付ければ、今回は店長もしつこく言わないだろう。


 とはいえ、この一ヶ月ほどで俺たちの関係が進歩しているのもまた事実だ。店長がゲームを始めたので飯の時の話題が増えたし、俺もあの人が好きな柴犬とかポメラニアンとかのYouTubeチャンネルをたまに見るようになった。俺たちが単なる友人同士だったとしても家を訪れるくらいの間柄になったと言って良く、俺はまあ普通に友達としてならばアンケート用紙の『どちらかと言うと好き』欄にチェックを入れられる程度には、店長のことは嫌いじゃない。


 ――結果として、俺はその誘いを受けることにした。


「いいですよ」

「えっ、ほんと?」

 誘ったくせに心底意外そうな顔をするので、それが少しおかしかった。

「はは。なんでそんなびっくりするんですか」

「だって下心あるって分かってて家に来てくれるとは思わないし」

「え、あるんですか。下心」

「逆にないと思ってたの?」

 そう訊ねて来る店長の顔が明らかに揶揄っている時のそれで、すぐに冗談だと分かった。俺は笑いながら言い返す。

「じゃあやっぱ行くのやめます。特訓はひとりでどうぞ」

「嘘です。別に取って食おうとは思ってません。普通にゲームします。これでいい?」

「ふふ、まあいいでしょう」


 そういうわけで、俺は店長の家でゲームをするという小学生男子のような約束をすることとなったのだった。

 再来週から夏休みシーズンに突入で、特に店長は休みを確保出来ないくらい忙しくなるので、日時は次に二人の休日が重なる来週の水曜に決まった。




――――――――――――――



 それから瞬く間に数日が過ぎ、八月を目前にした水曜の十三時を回る頃、俺は四階建てアパートの敷地の隅に自転車を停めた。ここは確か高校の頃には廃墟じみた木造の一軒家があったはずだが、いつの間にかグレーのタイルが張られたアパートに姿を変えたらしい。


 建物を見上げると駐車場に面した中央の入り口から左右に一部屋ずつベランダが並んでおり、三〇二号室と思しき部屋を見上げると窓が開け放されているのが見える。そこが店長の部屋のはずだった。


 手土産のスナック菓子と飲み物のペットボトルを片手に階段を三階分昇り、インターホンを押す。程なくして中から店長が顔を出したが、なんとなくいつもと雰囲気が違うと感じた。気のせいだろうか。

「場所分かりにくくなかった?」

「いえ、元々大体の場所は分かってたんで。わりと近いし」


 ここは高校時代の通学路に近く、今の住処からも自転車で数分の距離なのであらかじめ経路を調べておけば難なく辿り着けた。

 答えながら、小さな違和感の正体が髪型だと気が付く。

「今日は前髪真ん中で分けてないんですね」

「ああ、休みだと面倒くさくてさ。変?」

 そう言いつつ、こちらを振り返った拍子に髪が額にばさりと掛かる。それを手で払い除ける仕草はやや鬱陶しそうに見えた。


「変ってわけじゃないですよ。見慣れないだけで」

 通されたリビングは8畳ほどの広さだ。入ってすぐ右手に対面キッチン、向かいにベランダ、奥にもうひと部屋という配置で、奥の寝室と思しき部屋に続いている扉は閉じている。日当たりも良く、俺の家賃二万五千円の八畳ワンルームと比べるまでもなくいい部屋だった。一望すると壁際に置かれたケージが目を引き、中で茶色いうさぎがもぞもぞと身動ぎしているのが見える。


「うさぎだ」

 呟くと、キッチンにいた店長がこちらを向いた。

「あれ、飼ってるって言ったことなかったっけ」 

「初耳ですね」

 うさぎはケージの隙間からこちらをじっと見つめていた。見知らぬ人間を警戒しているんじゃないかと思って距離を置こうとすると、その様子を見ていた店長が笑った。

「そんなにビクビクしなくても。もしかして苦手だった?」

「いや、でも動物飼ったことなくて」


 かわいいとは思うが、ペットを飼っている家に来るのも初めてなら生のうさぎを見るのも初めてである。初対面の動物は目を合わせない方がいいとか言うがうさぎはどうなんだろうなどと考えていると、キッチンから出て来た店長が横からケージを覗き込んだ。

「この子はわりと人懐こくて大人しい方だし、急に音出したりして驚かせたりしなかったら大丈夫だよ」

 そう言いつつ飲み物や菓子を手にケージの前に屈む。寄って来たうさぎに向かって店長はたこやき、と呼び掛けた。


「たこやき?」

「そう、丸まってるとこ後ろから見るとたこ焼きみたいだから」

「なるほど」

 言われて見れば丸々したお尻のフォルムはそう捉えられなくもない。名前を呼ばれたたこやきは反応するように顔を上げると、ケージに括り付けられた木の棒へガジガジと齧り付いた。


「ああ、やっぱりダメかあ。外出たがってるんだけど出しても大丈夫? さっきしまったんだけど、いつも俺がいる時は放してるから出たいみたいで」

 頷く。店長がケージを開けるとたこやきが木の棒を噛むのを止めたが、いざ扉が開いても動く気配を見せず中で鼻先を震わせている。


「あれ、出て来ないですね」

 その様子を見ていた店長だったが、しばらくすると諦めてたこやきのふっくらした首の辺りをワサワサと揉んだ。

「お客さん来て緊張してるのかも。まあ出たかったらそのうち出て来ると思うからさ。あ、そこの座椅子座ってよ」

 ケージから離れた店長とテーブルの方へ移動し、座椅子に腰を下ろす。

「色々持って来てもらっちゃってありがとね。何かしらあるだろうと思ってたら酒のつまみくらいしかなくて」


 店長がテーブルに置いた飲み物と菓子を見ると、俺の持って来たポテチやらと一緒にお得用チータラとひとくちカルパスが並んでいた。

「まあこれもギリ菓子って言えなくもないし。俺も近所の薬局とかで箱で売ってるやつたまに買いますよ」

「懐かしー、あのパンダの絵描いてあるやつね」

 それからしばらく菓子をつまんだ後でゲームを始める。リュックから持参した本体を出し、店長の家のWi-Fiを借りてオンラインに接続して初心者向けのブキや立ち回りなんかを説明しながら色々なモードでマッチを繰り返す。店長の姪っ子はまずこれ、次はこっちという感じであちこちのモードを渡り歩く気まぐれなタイプらしく、今日は一通りやってみようということになった。


「言っても俺あんまりうまくないですよ。一応動画とか見て来たんですけど……あ、下。下向いたらダメです。敵来ても見えないから」

「あ、ごめんつい。動画ってどんなの?」

「『初心者がやりがちな○○!』とか『初心者おすすめブキ!』みたいなやつです」

「俺も見た見た。プロっぽい人の動画とかも見たけどうますぎて何やってるのかも分かんなかったなあ」

「それは確かに。なんで喋りながらあんな動き出来るんでしょうね」

「俺から見ればきみも十分うまいけどね」

 

 店長は初めこそぎこちない操作だったものの、あれこれ指示を出しながらマッチを重ねて行くうちに次第に全体の動きが掴めて来たようで、「次こっち行けばいい?」と指示する前に確認したりキルが取れるようになったりと徐々に成長が見えた。とはいえ対人だとやたらうまい相手に当たったりするもので、こちらのフォローが追い着かずに不意打ちに遭ったりすることもある。すると普段あまり狼狽えることのない店長が「あっ」とか「うわっ」とか呟きながら四苦八苦するので、そんな様子が新鮮だった。


 そうして一時間ほど経った頃だろうか、マッチを終えて画面から顔を上げた店長が俺の背後で視線を止め、突然「あっ」と声を上げた。

「こら、たこちゃん!」

 振り返るといつの間にかケージから出ていたたこやきが俺のリュックの紐に齧り付いている。たこやきは声に反応してパッと顔を上げ、サササッと想像以上に機敏な動きで部屋の隅へ駆け抜けて行った。怒られているのがわかるのか、身を伏せてじっと店長を見上げている。


「ごめん、リュック大丈夫?」

 確認するとリュックの長さ調節用のナイロンのベルトの端っこが湿って小さな円形に毛羽立っていた。そんなに目立つ感じではないし、もう何年も使っている物なので気にはならない。

「大丈夫ですよ、ちょっと湿ってますけど」

 店長は部屋の隅のたこやきへ歩み寄ると首の後ろを掴んでダメ!と叱り付ける。しつけのためとはいえかわいい小動物が怒られている姿は気の毒に感じた。

「あの、本当に大丈夫なんで。俺の不注意だし」

「一応ちゃんと怒っとかないとまたやっちゃうからさ。でもほんとにごめん、集中してて気付かなくて。普段あんまり噛まないから油断してた」


 たこやきは解放されたもののあえなくケージに戻され、ウエットティッシュをもらってベルトを拭いている間に先ほどの木の棒を齧り始めた。一心不乱なそれはやはり飼い主への不満の訴えなのだろう。

「元々すぐそこにいるのに気付かなかった俺の不注意だし、リュックもたいした物じゃないんで気にしないでください。たこやきも自分の縄張りに入って来た不審者が気になったんだろうし」

 気恥ずかしさを感じつつもケージに向かって「ごめん、たこやき」と言葉を掛けてみたのだが、反応どころか見向きもされない。

「…………」

「……いつも知らない人が来ると警戒するか興味持つかどっちかなんだけど、今日はケージから出たがってたし興味津々の方だったと思うよ。自分から近くに行くくらいだし好かれてるかも」

 無視されて居たたまれない思いに駆られる俺を見兼ねてか店長が言うが、それがかえって傷を広げたような気がする。

「フォローされるとむしろ恥ずかしいんですけど……」

「いやほんとにね、たこちゃん好き嫌いはっきりしてるとこあるから苦手な人には全然近寄らないんだよ。――そうだ。ちょっと待ってて」


 キッチンへ行った店長から数本の草の束を手渡された。本当にその辺に生えているようなただの草である。

「なんですかこれ」

「ベランダで育ててる牧草。今朝食べたのの残りだけど好物だからさ、あげてみて」

 見た目は花火セットの線香花火そっくりだ。束から一本引き抜いてケージの隙間から差し出してみると、たこやきは一心不乱に齧っていた木から顔を逸らした。そしてひくひくと鼻面を震わせて匂いを嗅ぐ仕草をしばらく続けた後に草を咥え、もぐもぐと食べ始めた。

「もしかしたら指まで齧るかもしれないから、念のため気を付けてね」


 横から忠告され注意深く口元を見つめる。最後の数センチのところで手を離してまたもう一本草を差し入れると、今度はすぐに食い付いてみるみるうちに草が短くなっていく。

「おお、すごい食べてる」

 ふかふかの毛並みを震わせて手ずから餌を食べる姿を見ていると自然と心が和む。犬や猫の動画を見るのは好きな方だったが、うさぎも負けず劣らずかわいらしい。

「うさぎ飼ってるのは知らなかったですけど、言われてみれば店長動物好きですよね。よくYouTubeの動画の話とかしてるし」

「うん。多分実家で犬飼ってた影響かな。でも実家出てからは一人暮らしだし動物飼うつもりなかったんだよね。たこやきも元々は伊藤さんのとこから貰ったうさぎだし」

「伊藤さん?」

「ほら、月一で来る清掃の業者さん」


 そう言われてやっと伊藤さんが伊藤クリーンテックという業者のことだと理解する。月に一回閉店後に清掃に入ったり、年一くらいでフロアのワックス掛けなんかもしている人たちだ。作業の時は閉店間際にやって来て終わるまで店長が一人で残るので、俺を初めバイトは挨拶程度しか面識がない。


「去年社長さんの家でうさぎが生まれて貰い手を探しててさ、中々見つからないって困ってたから一匹引き取ったんだよ。それがこのたこちゃん」

「へえ」

 ということはまだ一歳かそこらということだ。うさぎが何歳まで生きるのかもよく知らないが、そう思うとより幼気でか弱く見える。

「でもわざわざ餌育ててるし、かわいがってるんですね」


 ケージの中はきれいに片付いているし、部屋も良く見ると壁や柱が百均で売っているような金属の網で囲ってある。齧ったりしないための柵なのだろう。

「まあね、飼うからには幸せに生きて欲しいからさ。好物の牧草はベランダで無農薬栽培、たまのおやつは季節のフルーツ、俺の休日には河川敷でおさんぽ付き」

「俺よりいい暮らししてるかも知れませんね。というかうさぎって散歩するんですか」

「するする。やっぱりたまには広い場所で走らせてあげたいし。ちゃんと専用のリードも売ってるし、YouTubeで探すと動画けっこうあるよ。良かったら今度一緒に行く?」

「え、いいんですか」


 ころんと丸いたこやきが草の上を駆け回る姿は想像しただけでかわいらしい。草を食べ終えたたこやきがもう終わりかというように鼻先をスンスン言わせて俺の指の辺りを嗅ぎ回っていて、おっかなびっくり人差し指を伸ばしてみると頭にちょんと触らせてくれた。その後も避けたり逃げ出す素振りを見せないので、ちょんちょんと毛並みを撫でて楽しむ。ふかふかで触り心地がいい。


「鈴木くんさ、もしかしなくても俺よりたこやきの方が気に入ってるよね」

「さあ、どうでしょう」

「これは懐柔の方法を間違えたかなあ。まず初手は告白じゃなくてたこやきの動画を見せるところからだったかも」

「ペットを出汁に使わないでくださいよ。でもそれはそれとして動画は見たいですね」

「ほら、うちに来たばっかりの頃の動画とかめちゃくちゃかわいいよ。赤ちゃんの頃なんて片手に乗るくらいでさ」


 店長がスマホでたこやきの動画を見せてくれる。本当に手のひらサイズのぬいぐるみみたいな子うさぎが、ケージの隅で丸くなって眠ったり手ずから餌を食べたり部屋の中を駆け回ったりしていた。

「うわあ、めちゃくちゃかわいい」

 これくらいかわいいものを見ればそんな言葉も思わず口を突くというものである。すると横で店長が何やら唸り声を上げた。


「うーん、そんなにめろめろされるとさ、いくらたこちゃん相手とはいえ妬けるね」

「いや、なにうさぎと張り合ってるんですか。人間とうさぎなんて比べるもんじゃないでしょう」

「きみに好かれているという点では同じ土俵に立ってると思うよ、俺とこいつ」


 店長もケージに手を入れてたこやきを撫でた。俺のようなちょこちょこした手付きではなく、ふっくらと愛嬌たっぷりの口元に下に指先を入れて顎をもみくちゃにする。飼い主なだけあって大胆な触り方で、慣れているのかたこやきも全く動じていない。


「……まあ、人間の方もそれなりに好きですよ」

 呟いたそれが、いくらなんでもこの距離で聞こえていないわけがなかった。にもかかわらず隣からは何の反応もなく、ケージを見たまま数十秒、沈黙に耐えたがとうとう痺れを切らす。


「……ちょっと、なにか言ったらどうなんですか」

「今は無理」

 無理ってなんだと横を向くと、店長が立てた膝に顔を埋めているのでぎょっとした。

「なにしてるんですか」

「見ての通り。照れてるよ」

「見ての通りって言われても見えませんよ。いや見せなくていいですけど」


 店長がそんなリアクションをするからこちらも反応に困る。今さら冗談だと誤魔化すことも出来ず、たこやきのひくひくと震える鼻先に意識を集中してひたすらやり過ごした。


 数分後、ようやく店長が膝から顔を上げる。

「……ごめん、落ち着いた」

 その言葉通り額にうっすらと膝の跡が残っている以外はおおむね普通に見えたが、耳だけがまだかすかに赤い。しかしこの雰囲気でそれを指摘する度胸はないので見ぬふりをすることに決める。そしてやや気まずいこの状況を打破したのは、店長の方だった。


「そうだ、せっかくだし写真とか動画とか撮る?」

 もちろんたこやきのことだろう。先ほど見せて貰った動画の癒し効果を考えると十分にその価値はある。

「いいんですか」

「もちろん」

 そう言って店長はケージからたこやきを連れ出すと、胡座をかいた脚の間にすっぽりと置いてその毛並みを撫でた。少しそのままにして様子を見ていると、脚の間から軽快に飛び出して部屋を歩き回り始める。今度はリュックも手の届かない場所に置いているので安心だ。しばらくその自由気ままな姿を目で楽しみ、写真に収め、動画を撮るなどして過ごす。


「ありがとうございます。もう十分撮れました」

 部屋に放している間に俺の存在にも大分慣れてくれたのか、たこやきは今もラグの上のかなり近い位置でじっと座り込んでおり、いい角度の写真をたくさん撮らせてくれた。

「満足出来たみたいで何より。見た感じけっこう慣れてるみたいだし、ちょっと抱っこしてみる?」

 そう言って、店長はそっと抱き上げたたこやきを俺の方へ移す。嫌がったりしないだろうかと恐る恐る様子を窺っていたが、おとなしく腕の中に収まってくれた。

「保育園の遠足以来です。うさぎ抱っこするの」


 その時のことはどんなうさぎだったかすらも覚えていないが、市内の動物園のふれあいコーナー的な場所でうさぎを抱っこしたという記憶は確かに残っていて、なんとなく懐かしいような気分になった。

「抱き方もバッチリ。あ、写真撮ろうか」


 店長が両腕の塞がった俺に代わって写真を撮ってくれる。少しして部屋の中を歩き回って満足したのか、たこやきは自分からケージに戻って隅の方で目を閉じた。その頃には先ほどの気まずさもすっかりなくなっており、夕方に解散するまでの間、再びスプラの特訓をしたのだった。


 自分のアパートに戻ってからスマホの中の画像や動画をひと通り眺めていると、店長が撮ってくれた写真が一番良く撮れていた。俺はそれをホーム画面に設定することにした。




―――――――――――――




 それから数日もすると予定通りの繁忙期が到来し、仕事に追われているうちにあっという間に盆を過ぎて店長の部屋を訪れてから半月以上が経過していた。


ここ一、二週間ほどは店長はほとんど毎日のように店にいる上に残業続きのため遊びに行くどころではなかったが、そう忙しいと今度は家で食事を用意する気力すらなくなるので、相変わらず仕事終わりに飯に行く生活は続いている。しかし盆も過ぎると繁忙期も落ち着きを見せ始め、そろそろ通常に戻りつつあった。


 その日俺は閉店より少し早い二十時上がりで、カードを切りに事務所に顔を出しに行こうとして狭い通路で足を止めた。通路を隔ててすぐの事務所のドアの向こうから数人の話し声が聞こえたからだ。中に店長がいる時は大抵ドアを開け放してあるので顔を出すタイミングを測っていた俺の耳にも内容は筒抜けで、先ほど休憩に入ったバイトと先ほど一足先に上がったもうひとりとで店長と事務所で駄弁っているのだと分かる。


「金欠でさ、ごめんね」

「最近めっちゃ断るじゃないですか。みんなさみしがってますよ」

「彼女できたんじゃないかって噂になってるし」

 どうやら学生バイトたちの飯かなにかの誘いを断っているのだと分かり内心驚く。店長は自分から誘うのと同じくらい他からも誘われているが、それを断っているところはほとんど見たことがな買ったからだ。都合が悪いとかでなく懐事情を理由に断るのは初めてで、学生たちも他に理由があるのではと勘繰っているようだった。


「違うよ……ほら、最近あれ買ったんだよね、Switch。だからしばらく節約中なんだ」

「え、マジですか! 何やってます?」

 それから話題がゲームに移ろい会話がまた盛り上がる。店長がゲーム機を買ったのは本当だが先月の話だし、つい三日前に店長のおごりでふか津に行ったばかりなので節約中というのは多分嘘だろう。とはいえ、会話の内容からして入って行っても良さそうだ。盛り上がっているところに割り込むのはやや憚られるが、いつまでも突っ立っていたって仕方がない。


「お先に失礼します」

 部屋の入り口から声を掛けると、中にいた数人のバイトがお疲れ様ですと会釈を返して来る。店長も壁際のデスクからひらりと手を振った。

「お疲れ様。明日休みだよね。ゆっくり休んで」

「はい、お疲れ様です」


 今日は店長がラストまでで飯には行かないので、入ってすぐのところに置かれた機械にカードを突っ込んで店を後にする。裏のドアを開けると厨房からくる熱気のこもった空間から解放され、Tシャツと皮膚の間から熱が逃げていった。八月も下旬になるとあれだけ蒸し暑かった夏も知らぬ間に勢いをなくし、日が落ちると涼しいくらいの日が増えつつある。


 結局今年の夏も何もせず終わりそうだ――帰り道、ペダルを漕ぎながらそんなことを思う。予定も金もないくせに毎年似たような名残惜しさを感じている気がするのは、北海道の夏がとりわけ短いからかも知れない。それにしても今年の夏は店長と飯に行ってばかりだった。今までも世話になってはいたが近頃はさらに頻度が増えている。お陰で先月と今月の食費は随分浮いたが、いい歳して人の財布に生計を助けられるのも如何なものだろうか。浮いた金で新作ソフトを買おうかなどと考えていたがそれでは店長に買ってもらったようなもので、さすがの俺でもそろそろ厚かましさを自覚せざるを得ない。次は自分の分くらい出さなければとさっさと結論を出し、その問題を頭の片隅に追いやってしまえば、頭の中は休日への期待感でいっぱいになった。


 ここ二週間くらい出ずっぱりでようやくやってきた休日、しかも連休となるとその喜びもひとしおだ。三日前にふか津で店長が「やっとゆっくりドラクエできる」と喜んでいた気持ちが良く分かる。しかし先日店長から、ひとりの時にたこやきをケージから出してやるとずっと足元にまとわりついて来るという羨ましい話を聞いたので、俺と飯を食ってる暇があったら早く家に帰ってたこやきと遊んでやったらいいのにとも思った。


俺が少し調べたところによればうさぎというのは夜に活発になる生き物らしいので、深夜でもきっと元気だろう。俺もうさぎを飼ってみたくなったのだが、俺みたいにスーパーで自分用の野菜を買うのにも今月の食費を計算するような懐事情の人間が動物を飼うのは無理があるし、そもそもけっこうずぼらな性質なので掃除とか何やら手が回る気がしないと早々に諦めてしまった。


そう考えると店長は俺より忙しいのに家も綺麗にして牧草を育てて散歩に連れて行っているのだからすごい。店長は知れば知るほど俺より大分ちゃんとしている。


 道中で閉店間際のスーパーに滑り込んでからアパートに着くともう二十一時近くになっていた。シャワーを浴び、髪を乾かすのもおざなりに半額の助六寿司とフライドチキンと缶チューハイで晩酌をしながら見逃したゲーム配信を見ているとスマホが鳴った。画面を確認すれば店長から電話である。


「はい、鈴木です」

《もしもし。遅くにごめんね》

 PCの画面を確認すると二十二時三〇分を過ぎた頃で、店はちょうど締めも終わって帰ろうかという時間だ。そんな時間での店長からの電話連絡は嫌な予感しかせず、内心身構える。誰かが休むから代わりに出てくれとか、そんな予想をあらかじめ立てておき衝撃に備えた。


《明日なんだけど、きみ休みでしょ》

 ――やっぱり。高揚していた気分がすっと醒め、鮮やかに彩られた二日間の予定が瞬時に色を失った。さよなら俺の連休。といっても精々部屋でだらだらとゲームをやるくらいのものなのだが。


「……はい、休みです。予定もないですよ。何時からですか」

 久々の休日がおじゃんになりそうな予感にすっかり気落ちして若干投げやりで言うと、電話の向こうで何故か「えっ」と声が上がった。

「何で分かったの?」

「そりゃこんな時間に電話来たら分かりますよ。明日シフト出ればいいんですよね」

 俺の言葉に、なぜか店長は戸惑ったような反応を返して来る。


《えっ……ああ、なるほど。そうなるか》

「え、休日出勤の話じゃないんですか?」

 状況が把握できずに問い掛けると、店長があははと軽い調子で笑った。

《ごめんごめん。そりゃ俺から電話来たらそう思うかあ》

 どうやら休日出勤を要請したいわけではないらしい。確かにそうと分かって聞けばどことなく声が妙に上機嫌な気がするが、そんな調子で俺に何の用だというのか。

《あのさ、明日空いてたら俺と出掛けない?》

「え?」

《あ、なんか予定あった?》

「予定っていう予定はないですけど……」

 答えてからなにも正直に言うことなかったと思う。まだろくに話も聞かないうちから断る理由をなくしてしまった。

「出掛けるってどこ行くんですか」

《せっかくの休みだし、いつも飯ばっかだから他のこと……あ、映画とかどう》

「あって、今思い付いたんですか?」

《急に休みになったからなにも考えてなくて》


 言われて思い出す。そういえば明日店長は出勤じゃなかっただろうか。少し離れた場所にある冷蔵庫に貼ってあるシフトに目を凝らすと、時間までは見えないものの一番上の店長の欄は休日を表す空白ではなかった。

「あれ、店長明日出勤でしたよね?」

《うん。元々マネージャーが来るって言うから出勤にしてたんだけど、さっき関東は台風で明日の飛行機飛ばなくなったって電話来てさ。休みになったしせっかくだから鈴木くんと遊ぼうと思って》


 そういえばマネージャーが来るという話を聞いていた気がするが、自分が休みなのですっかり忘れていた。それに台風もTwitterのトレンドに入っていたような気がするが、まだ沖縄の辺りにある台風のことなんて北海道の俺にはほぼ他人事である。


「いや、それにしたってせっかく休みなんだからわざわざ俺のことなんか誘わなくても。この間も飯行ったばっかだし、それに店長確か……うわ。十連勤じゃないですか。休んだ方がいいですよ」

 話しながら膝立ちで冷蔵庫ににじり寄って見れば店長のシフトは明日までの十一連勤になっていた。普段は余程のことがない限りきっちり週二で休みを確保する店長だが、そうも言っていられないのが繁忙期ということなのだろう。そうは言っても十連勤はキツいが。


《俺の心配してくれるんだ。嬉しいけど大丈夫――あ、でも鈴木くんも六勤だったか。俺が行きたいだけだし、しんどかったら無理しないでいいよ》

「…………」

 確かに店長の言う通り、疲れてはいるしやりたいこともある。そもそも向こうの方が疲れているんだし休んだらいいのにと思ってしまうのだが、自覚しているのかしていないのか、通話越しの声からかすかな期待を感じてノーと言うのに気が引ける。どんな理由であれ断ったらやっぱりがっかりするんだろうかとか、疲れを押してでも俺と出掛けたいのだろうかとか色々考えてしまう。自惚れみたいで嫌だが、それが全く的外れじゃないとわざわざ尋ねるまでもなく声で分かってしまうのだから俺も俺だ。


 映画ということは多分昼からだろうし、今日これからゆっくり寝れば明日一日分くらいの体力はどうにかなるだろう。年齢を重ねるというのは自分の限界が把握出来るようになるということなのだと、最近俺も分かり始めていた。

「いいですよ。行きましょう、映画」

《やった。正直なところ「家から出たくないんで嫌です」とか言って断られるかなあと思ってた》

「……それはまあ、ちょっと迷いましたけど」

《あはは、迷ったんだ。でも俺のこと選んでくれてありがとね》


 よくもまあそう気恥ずかしいことをさらっと言えるものである。通話しながら市内に一軒しかないイオンシネマのスケジュールを調べた結果、夏の間話題になっていた洋画ホラー映画を観ることに決めた。


 映画の時間に合わせて迎えに来るという予定の通り、十三時を回った頃にアパートの前に見慣れた店長の車が現れた。エンジン音で到着に気付いた俺はLINEが来る前にアパートを出て、外階段の途中でスマホを片手に持った店長とガラス越しに目が合う。こちらに気付いた店長が顔に笑みが浮かび、スマホをしまう。


 お邪魔します、と言いながら助手席に乗り込むと鼻先を香水の嗅ぎ慣れない匂いが掠めた。香水という物に馴染みなどないので匂いの由来は分からないが、微かにピリッとした感じのする柑橘系の匂いは店長によく似合っているような気がする。今日は仕事によく着て来る柄シャツではなくちょっと小綺麗な格好をしていたが、それはそれで遊んでいそうに見えるから不思議だ。


「出て来るの早かったね」

「窓から見えたんで」

 待ちきれないほど楽しみにしていたと思われると癪なので訂正したが特にその辺りは突っ込まれず、シートベルトを締めると車はハザードを切って出発した。イオンまでは車で十分程度だが、平日の昼間とあって道が空いている。


「平日だし空いてますかね、映画」

「多分ね。ネットで席取る時選び放題だったし」

「あれ、もう席取ってるんですか」

「スケジュール調べたついでにね。真ん中のちょっと後ろの方にしたけど良かった?」

「はい。ありがとうございます。チケット代いくらでした?」

「要らないよ、俺が誘ったんだし」

 チケットを取ったと聞いた時からそう来るだろうと予想はしていた。すかさず首を横に振る。


「今日はちゃんと払うんで。いくらですか」

「ほんとにいいのに。どうしたの」

「俺の家計が店長のおごりありきになって来ていることに危機感を覚えてるんですよ。だから遊びの分くらいちゃんと払わせてください」

 その言葉に店長は一瞬面食らっていたが、ふっと目元を柔らげた。

「デートのつもりなんだから、格好付けさせてくれてもいいのに」

「今時は割り勘が主流でしょ、多分」

「デートなのは否定しないんだ」

「……して欲しいならしますけど」


 そう言うと店長は口をつぐんだ。そうこうしているうちにイオンに到着し、映画館一階の駐車スペースに車を停めた。田舎のイオンの例に漏れず駐車場はこれでもかというほどにだだっ広くて空いているが、映画館に直接は入れるこのスペースは屋根があるからかいつもそこそこ混んでいる気がする。駐車場からエスカレーターを昇って映画館のロビーに出ると、予想通り客の姿はまばらだった。


「やっぱ空いてますね」

「うん。ゆっくり観られていいね」

 上映までまだ時間はあったが、することもないので飲み物だけ買ってさっさとスクリーンに入ってしまう。俺たちの観る作品は海外で賞を取ったとかで話題になっているせいか、公開からややしばらく経つがわりと大きいスクリーンに配置されていた。


「ホラー得意な方?」

 隣に座った店長が声を潜めようとして右肩をこちらに寄せると、また微かに香水の匂いが鼻を掠めた。

「映画館で観るならまあ。深夜に部屋で一人で観ろって言われたらちょっと嫌ですけど」

「確かに。人が大勢場所だと何も起こらない気がするし」

「へえ、意外とそういうの怖いんですね」

「だって目に見えないものってどうしようもないからさ。俺ハウスダストダメなんだけど、あれも目に見えないから困るんだ。ベッドとかぱっと見は綺麗でも寝たらくしゃみ止まんなくなったりするし」

「くっ」

 思わず笑いそうになるが場所が場所なので堪えようとしてかえって失敗する。咳き込むような声が出て、暗がりで店長が驚くのが分かった。


「え、どうしたの。大丈夫」

「いや、店長にとっての心霊現象ってアレルギーと同列なんだなと思って」

 俺が笑っているだけだと気付いた店長も隣で小さく肩を揺らしたのがシートの揺れで分かった。

「言われてみれば変なこと言ってるなあ、俺。でも霊もホコリとみたいに掃除機で吸えたらいいのにね」

「そんな映画ありませんでしたっけ、古いので」

「えー、知らないなあ」

 絶対あったはずだと思ってスマホを出して調べてみると確かに存在した。店長に画面を見せる。

「うそ、マジである。しかも俺生まれてないじゃん。そんなのよく知ってたね。実は映画詳しい?」

「自慢じゃないですけど、映画館なんて十年ぶりくらいに来ましたよ。……あ、そろそろ始まるんじゃないですか」

 予告や海賊版禁止の広告が終わったので、案内通りに俺はスマホの電源を切る。この映画は一部表現がどうこうと言う文言が表示され、そういえばこの映画R18だったなと思い出した。




 何がアレルギーと同列だ。

 出口で空になったドリンクの容器を引き取ってもらいながら俺は思う。

「いやあ、けっこう怖かったね」

「めちゃくちゃの間違いでしょう」

 すかさず言い返すと店長は決まり悪そうに肩を竦め、観念したように笑みを浮かべる。

「……だってさあ、まさかあんな血だらけとは思わないでしょ。というか鈴木くんもあんなずっと笑うことないじゃん」

「あれは店長が悪いですって。あはは」

 ホラー映画にも関わらず俺がこの調子なのはひとえに店長のせいだ。中盤、ホラーというよりスプラッタの様相を呈してきた辺りから、右隣の様子がおかしくなり始めたのである。時折感じる身動ぎの気配に様子を窺ってみれば、顔を引き攣らせた店長が血が噴き出したり肉や骨がゴリゴリ言うたびにいちいち顔を逸らしたり肩を強張らせたりしていた。


おまけに耳を澄ませば映画の大音量に混じってものすごい小声で「うわっ」とか「いっ」とか言っていたのだからとても怖がってなんかいられず、笑いを堪える方に苦労した。


「だって血が噴き出したりするたび一々顔背けたりするから面白くて。あんなホラー苦手だったんなら他のにした方が良かったんじゃ」

「ホラーはわりと好きなんだよ、ほんとに。でもまさかあんなグロい感じだとは思わなくて」

 確かにネタバレ防止でろくに調べもせずに決めたので前情報もなかったし、ポスターではどちらかというと正統派ホラーといった感じの陰鬱な雰囲気を醸し出していた。血や臓物の要素はほぼ皆無だったので、あの展開を事前に予測するのは不可能だったと俺も思う。


「俺はめちゃくちゃ楽しかったですけど、違うのにしたら良かったですかね」

「まあ、俺の犠牲できみが楽しめたんなら何よりだよ。それに鈴木くんのリアクション期待して選んだからバチが当たったのかも」

「俺のリアクションって。どんなの期待してたんですか」

「今の俺みたいなの」

「はは、絶対ないですね」

「ないかあ、残念。ホラー大丈夫そうだったもんね」

「いつもはもうちょっとビビりますけど、あんな感じで横にいられたら怖いものも怖くなくなりますって。あと驚いた時ってどっちかというと固まる方なんですよね、俺」


 例えば窓から虫が入って来たり道路からキツネが飛び出して来た時なんか、叫んだりせずその場で硬直してしまう。俺からするとホラー映画の登場人物はよくも咄嗟にあんな声が出たり体が動いたりするものだと思う。

「あ、確かに。こないだ店にでかい蛾が入って来た時もそうだったよね。看板下げに行ったと思ったら急に入り口で固まってさ。見に行ったら足元に死にかけた蛾がいたの」


 それはいつだったかの閉店作業の時のことだ。店の入り口は外の自動ドアと中の手押し扉の二重構造になっており、閉店作業の時は外の看板を自動ドアの中にしまうのだが、その日は手押し扉を開けると足元に手の平大の蛾が横たわっていたのである。小さい虫くらいなら箒でさっさと掃き出してしまうのだが、大きさのせいか妙に肉感のある体に箒で触れるのも躊躇われていたところ、店長がやって来て俺の手から箒を取って通りに出してくれたことがあった。


「平気な方が珍しいですよ、あんな大きいの」

 今思い出してもゾッとして思わず強張る顔を見て店長が笑う。

「なに笑ってるんですか」

「いや、ホラーもスプラッタも平気なのに虫はダメなんだなと思って」

「無理なものは無理なんですよ。店長のスプラッタと同じです」

「……それは確かに」

 先ほどの血肉舞い散るシーンの鮮明な記憶を思い出したのか今度は店長の方が顔をしかめ、俺は笑った。




「もうジャケット置いてる」

 映画の後は特にやることも決めていなかったのでモール内をぶらついた。まだ八月の暮れだというのに秋物が並ぶ服屋に夏の終わりを感じていると、店先を眺めて店長がそう呟く。


「俺もこういうの見ると気が早いなあと思う方ですけど、お洒落な人はもう秋物チェックしてるんでしょうね」

「確かに。雑誌とかもう秋の特集だもんね」

「店長、俺がファッション誌読んでると思います?」

「うーん。まあ確かに服興味ないよね、きみ」

 悪意がないのは分かっているし、事実なのでぐうの音も出ない。

「身なりに気遣ってる人に言われると余計に刺さりますね、それ」

「もしかして俺褒められてる?」

「まあ。お洒落だなとは思いますよ。俺よりははるかに」

「別に普通だと思うけど、きみに褒められると照れるな」

「……でも服に興味ない俺の審美眼ですからね、信用出来るかは分かりませんよ」


 というか、服をユニクロかGUでしか買わない人間からの評価なんて間に受けるだけ無駄だ。だからその嬉しそうな顔をやめろと思っていると、何を勘違いしたのか店長はこちらを見て微笑んだ。


「あはは、そんな顔しないで。興味なさそうとは言ったけどダサいとは思ってないから。ちなみに、きみの思うお洒落な人ってどんな感じ?」

「見た目のことは正直よく分かりませんけど、強いて言うならスタバで呪文唱えてそうな感じですかね」

「スタバで呪文?」

「なんか色々カスタマイズ出来るんですよね? 何とかシロップとかチョコチップ何とかとか。俺行ったことないんで知りませんけど」

「え、行ったことないの」


 まさかという顔で驚かれ、俺は渋々頷いた。


「……なんかお洒落な店って一人で入りにくいじゃないですか。場違いな感じっていうか。自意識過剰だとは分かってるんですけど」

「そんな身構えるものじゃないよ、注文もそんなカスタマイズとかする人ばっかりじゃないし。普通に高校生とか勉強してるしさ。あ、そういえばここのイオンにもスタバあるよね」


 店長の言う通り数年前にこの街にもとうとうスタバが到来しており、昨年このモール内にも二号店が出来ていた。前を通りがかるといつも人がそこそこ並んでいるが、その列に並ぼうと思ったことはない。

「せっかくだし行ってみない? 小腹も空いたし」


 この機会を逃すと行くことはなさそうだなと思い、俺はその誘いに乗ることにした。スタバに行くと二〜三組がカウンターの前に列を作っていたが、店内はそれほど混んでいなさそうだ。列に並ぶ前に店の入り口に置かれたメニューの前に立ち止まり、しばらく考えてせっかくなので期間限定の桃のフラペチーノにした。いくら俺でもフラペチーノが砕いた氷が入った甘い飲み物だということくらい知っている。


 その後は注文から受け取りまで全て店長におまかせだ。俺はというと横でケースに入ったケーキやサンドイッチ、ブラックボードに描かれたフラペチーノのイラストを眺めているだけである。他の客が店員にフードはいかがですかとか豆乳への変更もおすすめですとかにこやかに話し掛けられているのを横目に見ながら、俺のスタバへの苦手意識が克服される日は当面訪れそうにないなと確信する。


 受け取りのカウンターで飲み物を受け取り、奥の方に二人掛けのテーブル席を見つけてそこに腰を落ち着けた。クリームが山の頂のように盛られたカップを見ていると俺にも《映え》の概念が理解出来そうな気がして、記念に写真を撮っておくことにする。後で誰か友人に送りつけて遊ぶネタになるかも知れない。


 写真を撮り終えて一口飲んでみると、桃がちゃんと桃で思っていたよりうまかった。時々口に入って来るパリパリした物は先ほどのイラストによればホワイトチョコレートだろう。


「どう、おいしい?」

「はい。うまいですね。飲み物っていうよりなんかスイーツっぽいというか。高級なクーリッシュみたいな感じで」

「高級なクーリッシュって」

「我ながら語彙に乏しい感想だとは思いますけど、うまいのは本当ですよ」


 ネットでカツ丼と同じカロリーとか揶揄されている通り確かにボリュームたっぷりだが、モールの中が少し暑かったせいか冷さが心地よくてぐんぐん中身が減る。それが半分ほどになった頃、中々減らない頂上のホイップクリームだけを吸えないかストローで試行錯誤していると、ふと店長と目が合った。

「…………」


 視線を合わせても店長は何も言わずに微笑むばかりである。おまけにどうやらずっとこちらを見ていたようで、俺が目を伏せてもまじまじと視線を注がれ続けるので居心地が悪い。


「……なんですか、飲み辛いんですけど」

 時間にするとたった数十秒くらいの間でも、無言で見つめられるというのは落ち着かない気分になる。声を掛けられた店長はハッとして数度目を瞬かせた。


「あ、ごめんごめん」

「大丈夫ですかぼーっとして。やっぱ疲れてるんじゃないですか」

「いや、それはほんとに大丈夫。むしろなんというか、幸せ感じてただけだから」

「はあ? なんですかいきなり」

「休日に映画、ウインドウショッピング、からのスタバってめちゃくちゃ王道のデートコースでしょ。そしてその王道コースできみが目の前で桃のフラペチーノ飲んでるっていう光景に感動してた」

「そんなことで勝手に感動されても困りますけど」

「そんなことって言うけど、俺にとってはすごいことだからね。恋愛が楽しいってこういうことなんだなあと年甲斐もなく日々噛み締めてるよ、最近」

「そりゃまあ、店長の今までのあれこれを考えたら中学生みたいな過程を踏んでるのかも知れませんけど。……というか人の多いとこであんまそういうこと言わないでください。恥ずかしいんで」

「大丈夫、誰も聞いちゃいないから」


 なんの根拠があってそんな能天気なんだと周囲を見回してみると隣は空席で、店長の後ろの席はイヤホンを着けて何やらタブレットを操作しているサラリーマンらしき男がひとり、俺の背後は壁で反対隣は窓だった。ほっと胸を撫で下ろす俺をよそに店長は呑気にアイスコーヒーのストローをぐるぐるとかき混ぜており、プラスチックのカップの中で回転する氷がガラガラとこもった音を立てている。


「ほらね」

 店長は悪戯っぽい微笑みを浮かべてそう言ったが、その間も手元は延々と左回りを続けている。どこか上の空なのは目にも明らかだ。


 試しにしばらくなにも言わないでみると、それでも店長はなにも言わずストローで渦を生み出し続けた。ぐるぐるぐるぐる。なにを考えているのだろう。その手の動きをじっと見つめてみても、その真意は読み取れない。


「……きみといると俺が今までやって来た恋愛ってなんだったんだろうなって思うんだ」

 不意に、緑色のストローを手で弄びながら店長がぽつりと言った。

「最近、今まで楽しいと思ってた他の子との飯とかがおごるの勿体なく感じてさ。ここで金使うんなら鈴木くんになにかうまいもの食わせてやりたいなーとか、一緒に出来そうなゲーム買おうかなとか、中々当たらないって言ってたゲーム機の抽選参加してもし買えたらびっくりさせたいなとか、そういうことばっか考えるんだ。今までだって俺なりに相手のことを考えて色々やって来たけど、それとなにが違うんだろう」


 それは答えを求めているというよりは独り言のようなものだった。店長はカップの中の渦に視線を落とし、そこに頭の中身を溶かして眺めているように見える。


「今の俺は確かに間違いなくこれまでで一番幸せだけど、同時に不安にもなるよ。時々だけどね。今のところきみは俺にとってただの友達なんだってことを思い出した時とか、今俺が感じてる幸せが全部なんの決まった名前もないあやふやなもので、もし仮にそれを恋人って名前で固めたとしてもわりと簡単に壊れるんだって思い出した時とかさ。


 ――きみが昔の俺みたいだったらいいのにって思うよ。きみがあと先考えないで誰かのものになってしまえる考えなしだったら、俺は今すぐここでもう一回好きだって言えるのにね」


「……今は、言えないんですか」

「だって怖いから。今の俺たちは友達で、もしもう一回あの時と同じように告白して失敗しても次の『じゃあ次はここから』がないでしょ。その線を越えた先がダメだった時にせめて前と同じようにいられる方法が分からないから、俺はそれが言えない」


 黒い氷水の中に落とし込んだ最後の言葉が渦に消えてゆくのをじっと見送ると、店長はストローを持つ手を止めた。緑色の細長い筒の周りでコーヒーと氷が入り混じってぐるぐると竜巻のように回っている。


「俺には店長みたいに『これまでの恋愛』っていうものはありませんけど」

 俺が口を開くと、店長の視線がこちらへと向いた。微笑みを浮かべていたが、眉が少し下がっているせいで少し泣きそうに見える。

「それでも俺なりに、分かってるつもりですから。店長が俺のことを本当に大事に思ってくれてるってこととか、だからこそ色々不安になるんだってことも。だから俺も俺なりにちゃんと考えたいんです――人を好きになるっていうのはどういうことか、俺にとっての店長はどういう人なのか」




 そんな話をしたせいでのんびりお茶でもという雰囲気でもなくなってしまい、それぞれカップの中身を飲み終えるとどちらともなく帰ろうということになった。イオンを出る頃は十六時を少し過ぎたくらいで、俺のアパートに着いてもまだ外はほとんど昼間と変わらず明るかった。

「……それじゃあね」

「はい。映画、次はスプラッタ以外にしましょう」

「はは。ほんとにそうだね」

 本当に次があるという確信など持てずに俺たちは笑い合う。気まずい沈黙が降りる前に、次のセリフを口にした。

「それじゃあ、また。明後日」


 別れの言葉と同時にシートベルトを外し、アパートの前に停めた車から降りようとドアに手を掛けたその時、運転席から伸びた手に引き寄せられた。

 首筋に触れるサラサラとした髪の感触と、少し褪せた香水の匂い。俺の方の辺りに額を埋めた店長が、少しくぐもった声で囁いた。

「待ってるよ。きみが出した答えがどんなものでも、ちゃんと受け入れるから」


 離れてゆく店長がこちらの胸を少し押し返して来て、その勢いのまま助手席のドアを開けて外に出た。運転席から少し髪の乱れた店長が手を振り、こちらが振りかえす間もなく車を発進させて立ち去ってしまったのだった。



――――――――――――――



 次の日、とても何かする気になどなれるわけもなく一日家から出ずに過ごした。休日家からほとんど出ないのはいつものことなのだが、溜まった掃除はおろかゲームしたり動画を見ることもせずに少しスマホを触っては布団に潜り、買い置きの菓子パンを食べては布団に潜ってを何度も繰り返す。今日こそはいい加減に洗うつもりだった肌掛けにくるまってぼんやりと天井を眺めつつ、頭に浮かぶのはもちろん昨日のことだった。


 明日は店長が休みなので、少なくとも明後日まで猶予があることは分かっている。店長は待つと言ってくれたが、だからと言っていつまでも先延ばしに出来ないとは理解していた。そもそも答えを出すべき問いは二ヶ月も前に分かっていて、それを今まで保留にしていたのは俺なのだから。


 結局のところ、結論は二つにひとつしかない。そのどちらかを選ぶのなら、俺の答えはもうとっくに決まっている。多分けっこう前から。


 俺は店長のことが好きだ。けれどそれだけでは足りないのだ。ただ好きという言葉だけではきっと。


 あの人は例え今の関係に恋人という名前が付いたとしても簡単に壊れてしまうから怖いのだと言っていた。そして俺はというと、店長の望む通り友達から恋人へと肩書きが変わったとして、それで一体なにが変わるのかが分からない。そもそももっと言うと、友情と恋愛の好きの違いすら分かっていない体たらくなのである。ラブとライクの違いについて考えるなんて、こんなのは恐らく五年は前に済ませておくべき通過儀礼だったに違いない。少なくともアラサーになって真剣に考えるような内容ではない気がした。


 その後一日掛けてLINEの履歴やこれまでに交わした会話を延々辿っては布団の中で唸りを上げるという奇行を繰り返しているうち、あっという間に日が変わって出勤時間がやって来てしまった。


 それでも人間、丸一日考えればどんな問いでもそれなりの結論というものが導き出されるらしい。


 俺はやっとの思いで絞り出した結論を頭の中でなんとかまとめ上げながら、上の空で自転車を漕ぎ、制服に着替え、一日の仕事をこなした。店長は出勤した俺の表情を見て察したようで、帰り事務所に寄ってよとそれだけ言うと、月末の事務作業のため事務所にこもってしまった。幸か不幸かその日は比較的落ち着いていたので、店長が出て来ることがないままに一日が終わる。


 そしてやって来た閉店時間、業務を終えて他のバイトたちが次々上がっていく中俺はもたもたとスマホをいじるふりをしてロッカールームで時間をやり過ごす。そしてようやく最後の一人になると電気を消して部屋を後にし、深呼吸をしてから事務所の敷居を跨いだ。いつも通りドアは開け放してあり、事務所以外全て照明を落としているので真っ暗な通路に蛍光灯の灯りが四角く伸びている。


「……お疲れさまです」

「うん、お疲れさま」

 店長のデスクはすっかり片付いてパソコンも落としてあった。俺を待っていたのだろう。タイムカードを切り、応接用とは名ばかりの、主に店長が仮眠を取ったりバイトが駄弁ったりするために使われる青い布張りのソファへと腰掛ける。


「あ、ちょっと待ってね」

 話を切り出そうとした俺を店長はやんわりと制し、なぜか事務所を出て厨房の方へ歩いて行った。数分して戻ると手にプラスチックのスリーブに入った紙コップを二つ持っており、ひとつをこちらに差し出す。

「はい。よかったらどうぞ、熱いやつだけど」

 カップの中には来客用の紅茶のティーバッグが沈んでいる。スリーブもカップも来客用の備品だ。


「昨日マネージャーが来て使った時にこのお茶けっこう古いなって気付いてさ。早めに使っちゃおうと思って」

 砂糖の有無を問われて断る。店長は自分の机からスティックシュガーと割り箸をひとつずつ出し、砂糖をカップに空けて割り箸で中をぐるぐると掻き混ぜた。デスクチェアのキャスターをガラガラ引きずり、ソファの前に腰掛ける。


「出たんだね、結論」

「……はい」

 頷く。手の中でカップを数回回して中を覗き込むと、かすかに前髪が湯気を浴びた。

「俺なりに色々考えたんですけど――まず、店長は俺たちが恋人になったとして、今までみたいに壊れちゃうのが怖いんですよね」

「……うん。そうだね」

「それは多分、今まで店長が恋人って名前を付けてた関係性がそもそもダメだっただけで、それがどんな名前だったとしてもきっと最終的にはダメになってましたよ、きっと。だって好きでもない相手にあれこれ先回りして尽くしまくるなんて、めちゃくちゃ不健全じゃないですか。しかも相手はちゃんと店長のこと好きなのになにしたって同じ気持ちは返って来なくて、ただ欲しい物ばっかり渡され続けて、そんなの辛いだけだし。いつも向こうから振られるって言ってたのはきっとそのせいだったんじゃないかって、俺は思ったんです。


 その点俺は店長との関係の名前が変わったからって、今持ってる気持ち自体が急に別な物にすり替わったりしませんよ。約束します。だから、関係に付く名前で中身が変わるわけじゃないなら、だったら名前が付いてもいつか壊れたら終わりだとか怖がってないで、壊れないような入れ物にする方で努力した方がずっとマシですよ」


 俺は一方的にそうまくし立て、言い切ってから店長の顔色を窺う。これが俺なりに一日掛けて考えた、この人の不安をどうにかしてあげられそうな言葉だった。


 店長はしばらくカップの水面を見つめ、そしてゆっくりと頷いた。

「……俺、一昨日言ったもんね。それがどんな答えでも受け入れるってさ」

 ほっと胸を撫で下ろすと勝手に深くため息がもれて、手の中のカップの表面が大きく波打った。

「……そうですよ。だから俺の話もっと聞いてくださいね。まだまだ色々考えたんで」

 紅茶をひと口啜る様子を、店長が向かいからじっと見つめている。


「俺、店長のこと好きですよ。例えば俺の話を聞いて面白そうに笑ってる顔とか、俺と仲良くなりたいからってゲームまで買ってやってくれたりするところとか。でも俺は正直今まで人を好きになったことがないから、それが本当に店長が俺に対して思ってる好きと同じものなのかが分からないんですよね。元々友達すらあんまりいないし彼女なんていたこともないから、比べる対象もないし。


 それで俺なりに、友達と恋人の違いっていうのがなんなのか、考えてみたんですよね。

 一人って確かにさみしいかも知れませんけど、その分楽な生き方だと思うんですよ。他人といるとうまく話せなかったとか気遣いが下手だとか言葉の選び方を間違ったとか、そんなことでいちいち誰かを傷付けたかも知れないとか不出来な奴だと思われないかって心配して、そして失敗したら自分を嫌いにならなきゃいけないじゃないですか。でも一人でいればそんなことで落ち込まなくて済むし。

 それでもわざわざ誰かと二人でいるって道を選択するんだとしたら、俺はそこに意味が欲しいなと思ったんです。他人と関わる上での面倒くささとか大変さとか、そういう嫌な思いをしてでもその相手と一緒にいたいって思える何かが。俺はそれが友達と恋人の違いなんじゃないかって思ったんです。……いい歳して恥ずかしい考えなのかも知れませんけど」


 俺がそう言うと、店長は笑ってゆっくりと首を横に振り、そして口を開いた。


「そんなことないよ、きっとね。でも――俺にはさ、あるかな。きみにとってそう思えるようなところが」

「……どうでしょう。確かに好きではあるけど、自分にとって店長がどうしても必要な人だとは思えなくて。それは相手が店長だからじゃなくて俺はこの先ずっと一人で生きていくんだろうなと思っていたからなんですけど。さっきは色々言いましたけど、そういう人間が店長にふさわしいかと思うと正直自信ないし。


 でももし万が一店長がこの先誰のことも好きになれずにずっとさみしいと思い続けたまま一人で生きていくとしたら、そんなことになるくらいなら俺が一緒にいたいなと思うんですよね。


 でももしかしたらこの先俺といるより幸せになれるいい人が現れるかも知れないじゃないですか。もしそうなったら、俺がいるせいでそのチャンスを奪うことになるのかも知れないとか考えたりして。……もしそういう可能性があったとしても、それでも店長は俺を選びますか」


 それは俺としてはまとまっていないなりに思いの丈を全て詰め込んだ告白のつもりだった。じゃあやっぱりお前はやめたと言われても仕方がないと思うくらいの。だからきっと真剣に答えてくれるのだろうと思っていたのだが、そんな予想は店長が見せた見慣れた笑みに打ち壊される。


「はは。忘れてるかも知れないけど、俺が告白した側なんだけどなあ。だから俺はそのいつか現れるかも知れない架空の誰かよりきみがいいし、きみにとって俺がいなくてもなんとかなるくらいの人間だったとしても、そばにいられる限りはいたいと思うよ。きみがさっき言ってたみたいに、きみがやっぱりひとりでいいやと思っても壊せないくらいの入れ物に出来るように努力するからさ」


 言いながら店長が頭に手を乗せて来るので、俺はその重力に流されるままに俯いた。その方が今の顔を見られなくて済んで都合がいいと思ったからだった。

「……本当にいいんですね。後悔しても知りませんよ」

「もちろん。きみの方こそ、後でこんなろくでなしは嫌だって言ってもダメだからね」




――――――――――――



 それから二、三ヶ月ほどして、俺は店を辞めた。なんとか正社員の仕事を見つけたからだ。


居心地が良くてなんとなく続けていたバイトだったが、十月の誕生日に俺の一ヶ月の給料とさほど変わらない額の腕時計を贈られて辞める決心が付いた。最初は洒落た時計だなくらいにしか思っていなかったのだが、防水だと聞いていたので着けたまま店の厨房で皿を洗っていたら学生のバイトにそんないい時計洗剤まみれにしたら勿体ないですよと言われ、おおよその値段を知ってしまったのである。


分不相応な物を貰ってしまったと思うと同時に、俺はまだまだあの人と対等にはなれていないのだということを思い知った。


あの人は俺が欲しいとも何とも思っていなかった腕時計を「似合うと思って」と値段も言わずに贈れるが、俺にはとてもそんなことは出来ない。プレゼントは値段じゃないとは分かっているが、俺はあの人の誕生日に同じ気持ちで物を選べるかと言えばそんなことはなく、きっと予算を気にするだろうし、それが悔しいなと思ったのだ。


 仕事を探している間、そのことは店長にも言わなかった。バイトや店長と会う時間の合間を縫って仕事を探すこと二ヶ月ほど、ようやく一社から採用を貰いバイトを辞めたいと言うと店長は喜んでくれて、ケーキを二ピース買って店長の部屋でちょっとしたお祝いをした。


今はその会社で勤め始めて三ヶ月ほどが経つ。ボーナスは次の冬からなのでしばらくはお預けだし手取り自体もそれほど増えたわけではない。しかし住宅手当のお陰で五月の店長の誕生日までには目標の金額が貯められそうで、俺は今からあの人に何を贈ろうかあれこれ考えて楽しみにしている。


 店長――今はもう店長ではないので名前で呼んでいるのだが――は相変わらず飯に行けば知らない間に会計を済ませていたり俺が仕事に行っている間にうちに来て勝手に夕飯を作ってから出勤したりしているが、楽しそうだしキリがないので度を越さない限りは何も言わないことにしていた。自分本意にあれこれ尽くしたいというよりかは、多分俺にかまいたくてしょうがないんだろう。


 そういえば少し前にあの人が本社に出張へ行く間たこやきの世話をするのに部屋へ出入りしていた時、帰って来る時間を見計らって夕飯を作って待っていたら大層機嫌が良かった。前に尽くすタイプだからどちらかというと何かしてもらうのはそこまで嬉しくないとか言っていたくせに風呂場で鼻歌まで歌う始末である。


なんだ嬉しいんじゃないかと思ってそう揶揄ってみたが「きみが俺のためにやってくれたと思うとなんかめちゃくちゃ嬉しかった」と言ってその時作った適当な炒め物と白米と卵スープの画像をわざわざ綺麗に加工してロック画面にしていたので、揶揄い甲斐がない人である。俺も店長も自撮りをするタイプじゃないので、お互い思い出の写真と呼べる物は一緒に行った店の料理や作った料理、たこやきの写真くらいしかないので、いい記念になったとは思うけれど。


 せっかく二人でいるのだから、その意味のあることをしたい。――俺たちはその言葉の通りに過ごせているだろうかと、時々ふと考える。あの人は毎日楽しそうだし、俺は――俺も、あの人がいてくれて良かったと思うことが増えた。慣れない仕事で疲れた時とか、新しいゲームを買った時とか、どこか行ってみたい場所が出来た時とか。そういう時あの人がいたらいいなと思うようになったこと、それが好きだということで、もっと言うと愛なのだと言われたら、今ならきっとそうなんだと納得できる――かも知れない。







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読めない空気のソーダ割り 犀川ゆう子 @poltmine

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