第14話 シックス センス2
ぼくは人魚になったゆめちゃんの手を引いて地下室を出た。
階段を登りキッチンに出ると、扉は自然に閉まって跡形も無く消えてしまった。
ぼくらが地上に戻ると、ここのところずっと降っていた雨がすっかり止んでいた。そして本当に久しぶりの夕日が部屋に差し込んでいた。狂った様なオレンジ色に染まった部屋で、人魚になったゆめちゃんは楽しそうにぼくの周りをクルクル泳いでいた。その姿はまるっきり空魚みたいだった。
疲れ果てたぼくはソファに倒れこむ。ふと横を見ると、ソファの上、ひなの先生の首があったところには白い塩の山ができていた。
西日が眩しかった。左肩はズキズキと痛み、体中の骨が軋んでいた。空魚1号に斬られた頬は思ったより傷が深く熱を持って腫れていた。安心した途端に身体中から痛みが溢れ出していた。なんだかちんちんもズキズキと痛む。
「痛っっ……」
ぼくの声を聞いたゆめちゃんがスイスイと空中を泳いでそばに来た。それからゆめちゃんはぼくの頬にそっと手を当てた。
ゆめちゃんの掌がぼんやりと金色の光を帯び、触れられた頬の痛みがスッーと引いていく。やがて頬の傷はすっかり消えてしまった。
「治っちゃった……」
ゆめちゃんは少し笑ってから、ぼくの肩にも手をあてた。トンカチで叩かれているような肩の痛みが弱まっていく。
そんな風にしてゆめちゃんはぼくの体の傷んだところをすっかり治療してくれた。
「ゆめちゃん、ありがとう! 」
けれどゆめちゃんは何も答えてくれない。ただ困ったような顔をして、ぼくのお腹をポンポンと軽く叩いた。それから口をパクパクと魚みたいに開けて、ぼくの股間を指差した。
「ゆめちゃん……」
ふいにこみ上げてきた涙をグッと堪えて、ぼくはズボンとパンツを脱いだ。
ゆめちゃんは嬉しそうにぼくのちんちんを咥えた。
……。……。
……。
それからしばらくの間、ぼくはなんとかゆめちゃんとコミュニケーションを取ろうと努力した。けれどゆめちゃんは、自分が人間であった時のことを殆ど覚えていないみたいだった。
あんなに好きだったスターウォーズのグッズや、UMAの怪しげな図鑑を見せても、ゆめちゃんは首を傾げて困ったように笑うだけだった。
それでも、メガネを取ろうとすると鱗を逆立たせて激しく怒った。そこはゆめちゃんのままだった。
そしてゆめちゃんは、空魚1号や2号と同じようにぼくが思い浮かべれば、まったくその通りの行動させる事ができた。
そのうちにゆめちゃんは、ぼくが「ゆめちゃん」と呼んでも反応しなくなった。試しに「夢見」と呼んでみると嬉しそうにぼくにまとわりついてきた。
ゆめちゃんは日に日に空魚に近づいているみたいだった。それってつまり、日に日にぼくの知っているゆめちゃんではなくなっているってことだった……。
地下室の出来事から2週間が過ぎた頃には、ゆめちゃんは完全に夢見になっていた。
夢見は人間だった頃のように口を開いて何かを伝えようとしない。喋れないから気持ちは身振り手振りや表情で伝える。もうゆめちゃんの声を聞くことはできない。最近ではゆめちゃんの声がどんな風だったか思い出せなくなってしまった。僕はその事に気づいて悲しい気持ちになった。思わず泣きそうになる……。
そして夢見の主食は空魚と同じ、人間の体液。だからぼくは自分の精子を毎日あげた。夢見は口や手やおっぱいを使って上手にぼくの精子を採取した。ホントは夢見を抱きたかったけれど、もうそれはできない。だって夢見の下半身はすっかり魚になってしまって、ちんちんを入れる穴も無くなっていたから。
精子を出すことは気持ちいい事のはずなのに、夢見に精子をあげる時、ぼくはいつもやるせない気持ちになる。なんだか泣きそうになる。
それでも……。
喋る事ができなくても。セックスができなくても。ほとんどゆめちゃんだった頃のことを忘れてしまっていても……。それでもぼくは元ゆめちゃんだった夢見を愛している。
夢見の冷たい手を握り、形の良いおっぱいに顔を埋めると、まるであの頃のゆめちゃんと一緒にいるみたいな気分になる。試しに「ゆめちゃん……」と呼んでみる。もちろん夢見は返事をしない。そんな夢見の腕の中で、ぼくはもう泣かないと決めた。
ゆめちゃんが人間である事を捨ててまで守ってくれたのに、いつまでもメソメソしていたら、ぼくを守ってくれたゆめちゃんに失礼だ。
こうしてぼくは、やっと大人になった。
そんな風にして、地下室での戦いから1ヶ月が過ぎた。
ぼくの小学校は授業を再開し、あかねもひなの先生もいない教室にも慣れていった。いつもそばをヒラヒラと泳ぐ喋れない人魚の夢見にも慣れていった。
そして分かった。大人になるって事は強くなる事じゃなかった。いろんな慣れていく事だ。どんな事にだって人は慣れる。
……でもそれって諦める事によく似ていた。
ある時、ゆめちゃんが好きだったスターウォーズの映画を人魚の夢見と一緒に見た。あの時、約束したみたいに2人で並んでベッドに座って、ゆめちゃんのオススメ通りにたくさんあるシリーズを劇場公開された順に見た。
後から分かったのだけれど……、ぼくが捨ててしまった緑色のシワシワ宇宙人はすごく重要なキャラだった。反対に無傷だった魚みたいな宇宙人は残念なキャラだった。大事なことはいつも後になってから分かる。ぼくは横にいる夢見に重要なフィギュアを捨ててしまったことを謝った。夢見は不思議な顔をしてぼくのお腹をポンポンと叩いた。映画のラストシーン、物語の最後、大団円を迎えてお祭り騒ぎをしている仲間の中に主人公は居なかった。主人公は黒い喪服みたいな服を着て、ひとりぼっちで最大の敵だった父親を火葬していた。主人公は初登場した時のキラキラした輝きをすっかり失っていて、これでよかったんだという憂いを含んだ表情で、無言で父親を焼いていた。主人公の周りには死んでしまった仲間の幽霊が佇んでいた。
そのシーンは今のぼくの気分にピッタリだった。
やるべき事はやったけど……、ちっとも幸せじゃない。でも、これでよかったんだ……。そう思わなければやってられない。
隣にいた夢見は、よくわからない表情で映画を見ていた……。
あの日以来、世間的にはゆめちゃんは行方不明ということになっていた。ゆめちゃんの行方を捜して、警察や学校関係者が入れ替わり立ち替わりぼくの元を訪ねてきたけれど、ぼくは何も知らないと嘘をついた。
そして夜になるとぼくは夢見をつれてメデューサ狩りをする。ひなの先生が産み落とした第2世代のメデューサを駆除する事。それがぼくがやらなければならない第2の人生目標だ。
ぼくを取り巻く環境は激変したけれど、ぼくはすぐに新しい環境に慣れていった。メデューサを狩る事にさえ慣れていった。両親が離婚した事なんて、遥か昔の出来事みたいに虚だった。
ゆめちゃんと過ごした嵐のような数日間がぼくを変えた。嵐が去った後には、あかねも、西野ひらめも、ひなの先生も。そしてゆめちゃんも居なくなった代わりに、ぼくは童貞を捨てて、諦める事を覚え大人になった。そして喋れない人魚の夢見を手に入れた。
あんなに望んでいた大人になれたはずなのに……、それはちっともいい事ではなかった。こんな事なら子供のままでよかった。ぼくは毎日、自分の選んだ選択肢を振り返り、ああすればよかった。こっちを選んでいたら結果は変わっていたんじゃないかと妄想する。そんな事をしても意味がないのに、どうしてもその事を考えてしまう……。そして結局は夢見の頭を撫でていろんな事を諦める。そんな日々が続いた。
ただ一つ不思議なのは、ぼくらの両親が一向に旅行から帰ってこないことだった。連絡も全く取れなかった。よくよく考えてみればぼくは両親が家を出発する姿さえ見ていない。
まさかと思ってぼくはお父さんの部屋へ入ってみた。部屋には鍵が掛かっていたので、夢見に部屋の壁をすり抜けさせて、中から鍵を開けてもらう。
案の定、お父さんの部屋には旅行の荷物が丸々残っていた。中にはパスポートも入っていた。念のため新しいお母さんの部屋も確認したけれど、やはり荷造りを終えた大きなスーツケースが手付かずで置いてあった。つまり、ぼくらの両親は旅行に出かけていない。
だったらお父さんと新しいお母さんは一体どこへ消えてしまったのだろう?
気になることがあった。
あの地下室で、一瞬だけリヴァイアサンの体から突き出した人間の手を見た時……。その指には太い金の指輪がはまっていた……。あれはお父さんが再婚した時に買ったセンスの悪い指輪にとてもよく似ていた。
嫌な予感がした。
ぼくはお父さんとお母さんの部屋をひっくり返して手がかりを探した。
そしてぼくは、お父さんの机の中から一冊のノートをみつけた。そこには何やら難しい記号とアルファベットが散りばめられた図形がぎっしりと記入されていた。さっぱり意味がわからなかったので、パラパラとページを飛ばしてめくる。
その時、栞のような紙がノートから落ちた。拾い上げた紙切れは長方形の上質な和紙で、表面にはミミズが這ったような書体で見慣れない漢字と記号が書かれていた。ぼくはそれに見覚えがあった。
それは、あの地下室で見つけた小瓶に貼り付けられていたお札にそっくりだった。
さらに、そのノートにはところどころに空魚とメデューサのスケッチが書かれていた。そこにはぼくの見たことのない形をした空魚やメデューサも描かれていた。
お父さんも地下室で空魚やメデューサに出会っていたんだ。
いや……、違う。
初めからこの家に白い井戸がある事も、井戸の底には空魚やリヴァイアサンがいる事もお父さんは分かっていたはずだ。むしろ地下室を手に入れるためにわざわざこの家を選んだのかもしれない。そう考えた方が自然だった。
だとしたら新しいお母さんも全部承知で……?
でも……、一体、何のために??
「バタン! 」
その時、キッチンの方から大きな音がした。
見なくてもわかる。あの地下室への階段が再び現れたのだ。
そばにいた夢見は音を聞いてビクッと肩を震わせた。それからぼくの手を取ると顔をしかめて首を振った。
「……」
ぼくは深いため息をつく。そしていつものように頭に選択肢が浮かんだ。
井戸の底に童貞を捨てれば いまりょう @ryoryoryo2219
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