あるいは名探偵と……
それは小さな池だった。
周りを森に囲まれ、人気はない。
そんな人気のない池のほとりに白人の美女と日本人の美男子が並んで座っているのは、なんとも奇妙な光景だった。
二人が揃って釣り竿から糸を垂らしているにいたっては、奇妙を遥かに通り越していた。
「あの……十次郎さん」
「静かに。魚が逃げます」
「はぁ」
「僕の国でも疑似餌を使った釣りはしますが、いずれも専用のものを作っています。その点食事に使うスプーンをそのまま使うというのは、なかなかおもしろいですよね? ミミズと違って手も汚れませんし。このリールという糸巻きの仕組みも興味深いものがあります。これなら遠くまで針を落とせますしね」
「十次郎さん? それよりも……」
「あ、糸、引いてますよ」
「え? あ、はい。こうでいいのかしら?」
アンナが慌てて釣り竿を引き上げる。
「アンナさん、リールです。リールも回して!」
「えぇ!? は、はい」
引き上げた竿を倒すと同時にリールを回し、また竿を上げる。それを何度も繰り返して、暴れる魚を近づける。
「えっと……この魚は……?」
アンナの質問に、岸に腹ばいになって魚を引き上げた十次郎が答える。
「さっぱり分かりません」
「は?」
「まあ、あとでターナーさんに調理してもらいましょう。フィッシュ&何とかでしたっけ?」
そう言いながら十次郎は竿を受け取り、魚をびくにしまった。
「魚は一匹でいいのかしら?」
アンナはそう言ってやや意地悪なウインクした。
「あなたの方は釣れてないみたいだけど」
「大丈夫ですよ」
そう言って十次郎もウインクした。
「もっとすごい大物を捕まえましたから。スコットランドヤードが大喜びするような大物をね」
アンナは笑わなかった。
十次郎はまっすぐ正面から、そんなアンナを見つめていた。
二人の間を冷たい風が吹き抜けた。
「……どういう意味かしら?」
「その前に説明しておきたいことがあります。お父上が正気を失われた事件の真相についてです。」
「ぜひ聞きたいわ」
「あなたのお父上とマーク氏、アントニー氏はある共通の目的がありました。それは南北線以降にアメリカで広まった黒人の権利拡大の動きを邪魔するというものです」
「そんな。決めつけないでもらえるから」
眉根にしわを寄せて抗議したアンナだったが、十二郎は気にする様子もない。
十次郎は、まあまあというように手を上下させた。
「サム・リードモフはそのような権利拡大の動きに参加しているメンバーの一人だったと思われます。三人は小屋で、サムを尋問してそのグループの動きを把握しようとしたのでしょう」
「ただの憶測ね」
「しかし、お父上の手紙を扱っていたサムに、事前にそれを気づかれたんです。そして彼はお父上の植物のコレクションからあるものを盗み出した。効能から考えて、おそらく『悪魔の足』と呼ばれる植物の根ではないかと思われます。この根は燃やすと、脳に作用する、非常に有毒な煙を出すと言われているんです。一度に複数の男性を行動不能にするには、これしかないと思ったのでしょう。まあ欧州では殆ど知られていませんが」
「だから、それはあなたの憶測でしょう」
そう言ってアンナは微笑んだ。それは少しばかり妖艶さを感じさせる笑みだった。
十次郎は気にせず続けた。
「彼は尋問がはじまる前に、ランプに『悪魔の足』の根を入れたんです。もちろん自分は息を止めたまま。そして煙で三人が動けなくなるとお父上から宝石を、あぁ、お父上が宝石を持ってきていたのはサムの仕業でしょう。おそらく偽の手紙をお父上に渡していたんだと思います。マーク氏からと偽って。その宝石を盗み出しそのまま馬で逃げたんです」
「小屋の中には人間は三人しかいなかったと父は言ったのよ」
「アメリカの憲法で州の人口はどのように計算していると思いますか?」
「……」
「アメリカの憲法には州の人口の計算方法について、こう書いてあるんですよ。『全ての人間とそれ以外の五分の三を加える』とね。ここでいう全ての人間とはあなた方のような白人のことです。ではそれ以外とは何か? それはつまり、僕やサムのような人間のことです。この憲法を書いた人間やお父上にとって、黒人のサムは人間に含まれていなかったんですよ。多分僕もね」
「肝心なことをお忘れじゃないかしら? 彼は字が読めなかったのよ」
「ところがどっこい、彼は字が読めたんですよ」
十次郎はそう言うと、空中に文字を書いた。
「彼が自分でつけた名字、リードモフ(REEDMOF)を並び替えるとフリーダム(FREEDOM)、『自由』となります」
「まあ、すごい偶然ね。でも彼が字を読めたはずはないわ。だって教える人がいないもの。教わる場所も、そのチャンスだってなかったはずよ」
「やれやれ。アンナさん、彼がわざとあなたの教科書を床にぶちまけたり、わざと学校の教室で転んでいたのはなんのためだと思ってるんですか? 教科書の中身や黒板に書かれた文章を、少しでも多く盗み見るために決まっているじゃないですか」
「……なるほど、そういうことだったのね。驚いたわ。まさかそこまで考えていたなんて。でも、それじゃあしょうがないわね」
アンナは肩をすくめた。
「きっと彼は宝石を持って北部へ引っ越してしまったのでしょうね。あちらは有色人種の方々にも優しいと聞いていますから」
アンナはそう言うと、唇の端を歪めてから身をひるがえし立ち去ろうとした。
その背中に十次郎が呼びかけた。
「お父上が亡くなったあとでなのか、もとからなのか分かりませんが、あなたはお父上やマーク氏、アントニー氏と同じ派閥に属していますね。実はその組織は英国では非合法の扱いなんですよ。そのメンバーを捕まえたとなったら、スコットランドヤードは鼻が高いでしょうね」
アンナはくるりと向きを変えた。その目は薄く細められており、蛇のような印象を与えた。
その視線に十次郎は少しだけ身じろいだ。まるで服の中まで見透かそうとしているかのようだったのだ。
「その組織は裏切り者を粛清するのに、オレンジの種を5粒送りつける慣例があるそうですよ」
そう言って、十次郎はアンナの胸元にあるブローチを指さした。そこには5粒のオレンジの種がかたどられていた。
だがそれと同時に、アンナは信じられないような動きをみせた。音もなく距離をつめると、十次郎の足に自分の足を絡ませ押し倒した。さらに一気に十次郎に馬乗りになると、その身体を両足で締め付けた。スカートとズロースが捲れ、白い肌があらわになったが少しも気にする様子はなかった。
「生意気言うんじゃないよ! 黄色い肌のガキが! えぇ!? 少しくらい顔がいいからって、調子に乗りすぎだね。生きたままお前の皮を剥いで、うちの絨毯にしてやる。ああ、心配しなくていいよ。お前のその美しい顔に傷をつける気はないから」
そう言って、アンナは髪留め代わりにしていた手術用メスを取り出した。
だがメスが十次郎の首に触れる前に、アンナの身体はふわりと宙を舞った。そしてそのまま派手な水しぶきとともに、池に墜落していった。
十次郎はすぐに身を起こした。そして池に落ちたアンナが溺れないようにするのに必死で、追撃の手はないことを確信するとフ―っと大きくため息をついた。
「ちょっと! 十次郎さん、あなた大丈夫?」
突然名前を呼ばれ、十次郎が振り向くとちょうどターナー夫人が駆けつけたところだった。背後にはスコットランドヤードの警察官が二人いる。池から顔だけ必死に出して淑女らしからぬ形相を見せている白人の美女と、乱れた服と襟を直す日本人の美男子という構図に、完璧に混乱している様子だった。
「やあ、ターナーさん。その様子だと、僕が紅茶のカップに残していったメッセージに、気づいてくれたみたいですね。僕が彼女と釣りに行けば、きっとすぐに紅茶のカップを片付けにきて、メモに気づいてくれると思ってましたよ」
「褒めてくださいよ。あなたが紅茶の受け皿に残したメモに書いてあったザ・ヤード(The Yard)の言葉と、あなたが釣りに行くと言った池の名前だけでここまで警察官を二人連れてきたんですから。それにしても……」
ターナー夫人は十次郎の背後、池から警察官に連れ出されるアンナに目をやった。
「よく馬乗りになられた状態から、ああも見事に相手を投げ飛ばせたものね」
感心したように目を見開くターナー夫人に、十次郎は朗らかに言った。
「あれは日本の古流武術ですよ」
「コリュ…バリ……ツ???」
「違いますよ。古流武術」
「まあ、いいわ。バリツでも何でも。あんなスゴイ技、誰かに教えるべきよ」
十次郎は少し考え込んだ。もうすぐ英国を離れ、日本に帰ることになるだろう。その前に何か足跡を残していくのもいいかもしれない。ひょっとしたら、それが誰かを救うことになるかもしれないのだから。
「まあ、教えるのは構いませんがね。日本人の僕から習いたいなんていう変わり者がいますかね?」
「いるのよ、それが」
ターナー夫人はそう言ってウインクした。
頭の中に一人の英国人が思い浮かぶ。
あの男ならきっと学びたがるに違いない。ターナー夫人は確信していた。
何せフェンシングとボクシングの達人にしてバイオリンの名人、見た目は完璧な英国紳士でありながら、そのくせコカインを嗜み、病院の死体置き場の死体を叩いてまわるという、とんでもない変わり者なのだから。
FIN
美男子名探偵、英国を征く 白兎追 @underscary
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