うたかた
高岩 沙由
つかのま
冬の名残がある寒い春の日。
吉原にある冬華楼も静かに夜の客を迎え始めていた。
食事を運ぶ人たちが慌ただしく行き来している中で、1人の遊女が禿もつけずに亭主のいる部屋に入っていく。
部屋の中央まで静々と進むと遊女はゆっくりと腰を下ろすと頭を下げる。
「紗雪太夫、今日のお客が太夫として最後のお客さんだ。しっかりとつとめるんだよ」
紗雪と呼ばれた遊女は深く頭を下げたあと、顔を上げる。
「はい。精一杯、お務めさせていただくざんす」
「うん。いってらっしゃい」
「はい」
紗雪は短く返事をするとゆっくりと立ち上がり部屋を出て行く。
そこに待っていたのは紗雪についている禿たち。その禿たちに先導されて紗雪は最後の客が待っている部屋にゆっくりと歩いてゆく。
見世の2階の奥に目的の部屋がある。
この障子の向こうに紗雪が一番に思う間夫がいる。
そう思うだけで紗雪は胸が高鳴り、息が苦しくなる。板の間に座り深呼吸を繰り返してから禿に目配せして障子を開けさせる。
「こんばんは、弥之助さま」
紗雪は少しでも多く見ていたくて真っ直ぐに愛しい人の顔を見る。
「こちらに」
「はい」
紗雪は障子を閉めると足音を立てないよう、でも急いで恋しく思う間夫の元へと向かう。
「今日が最後なんだな」
「はい、そうでありんす」
胸が締め付けられるような苦しい思いを隠し、紗雪は酌をする。
「これを。紗雪が最後にほしいと言っていたものだ」
そう言うと弥之助は近くに置いていた黄土色の袱紗から1本の銀のかんざしを取り出す。
銀のかんざしにはべっこうで作られた蝶が2羽並んでいた。
「ありがとうござりんす。弥之助さん、挿しておくんなんし」
そう言うと紗雪は頭を下げる。弥之助が手間取りながらべっこうの
「挿したよ」
弥之助の言葉に紗雪は頭をあげて笑顔を作る。
「似合うなんすか?」
紗雪の言葉に静かに頷く弥之助。
「本当にありがとうござりんす」
紗雪は挿してもらったかんざしを左手で触る。
「これで思い残すことなどござりんせん。時折、このかんざしを見て、弥之助さまを思い出しなんす」
「紗雪……」
弥之助の言葉に顔をあげ、口に触れる。
一度、二度、三度。何度も口づけを交わす。
そのうちに2人の荒い息遣いの音だけになると紗雪の気持ちが高鳴ってくる。
「弥之助さま……お願いでありんす。どうか、弥之助さんのものだと体にしるしをつけておくんなんし……」
弥之助の首に腕をまわし紗雪は懇願する。
「紗雪……」
耳元で囁く優しい声に紗雪は腕を緩め、再び弥之助と口づけを交わす。
「好きでありんす……わっちのたった一人の恋しい人……」
「好きだ……俺も好きだ。他の男のところになんて気が狂いそうだ。何度も亭主にはお願いしていたのに……」
弥之助は呻くようにそう呟くと紗雪の目から涙が溢れてくる。
「弥之助さま……嬉しゅうこざんす。同じ気持ちでいてくれたでありんすな……」
紗雪は弥之助に抱かれたままむせび泣く。
「このまま夜が明けなければいいのに……」
その言葉からお互いを激しく求めあいながらいつの間にか眠りに落ちていった。
紗雪は禿が入ってきた気配で目を覚ます。
別れの朝を迎えてしまった。
今日別れてしまえば永遠に会うことの叶わない人。
紗雪は少しでもこの幸せな時間が続けばいいのに、と思いながら、弥之助の身支度を手伝う。
「体調に気をつけて……時折俺のことを思い出してほしい」
「もちろんでありんす。弥之助さんはわっちの人生でたった一人の大切な間夫でありんす」
紗雪は涙を堪えることもせず俯いたまま頷きながら思いを伝える。
指で涙を拭うと顔を上げ笑顔を作る。
「弥之助さんもわっちのことを、忘れないでほしいなんし」
離れ難く、でも時間は過ぎていく。
身支度の終わった弥之助を見世の入口まで一緒に歩く。
「おさらばえ」
紗雪は精一杯の笑顔を浮かべ見送るが弥之助は一度も振り返ることなく歩いていく。
それでも紗雪はその姿を忘れないよう、涙で滲んで見えなくてもずっと見ていた。
うたかた 高岩 沙由 @umitonya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます