蛾は初恋を繰り返す


 暗がりで灯りに焦がれ死んでゆく蛾が酷く扇情的に見えた。


 お互いの吐息が頬を掠める距離で、左手を強く掴まれる。右手同士を重ねる間も、無表情で突き刺さる視線から逃れられない。上から強く握られた右手が強制的にスライドされる。「ふ」堪らず小さく声が漏れて、床に点々と小さな染みが落ちてゆく。待って、汚れてしまう、そんなに深く--懇願を込めて見つめた先の表情は微動だにしない。しかし、身がすくむほど冷たい双眸の奥で確かに笑っていた。


 真っ暗な部屋。頭蓋の奥から自分の呻き声が伝って目を覚ました。除湿機が満水で止まっているようで、嫌な汗が肌着に吸われずじっとりと両脇にまとわりついていた。浅く口呼吸を繰り返す。仰向けの身体を左に倒し、放り出された左の手首を胸元まで引き寄せて右手の人差し指で撫でる。感じたのは肌のわずかな凹凸と、えも言われぬ不気味さだけである。眠っていたとは思えない疲労感が邪魔な記憶を次から次へと引っ張り出し、『其れ』は自らミキサーに飛び込んでぐちゃぐちゃに駆け廻ってゆく。


 奇妙な初恋の名残りは後を引いた。月日が流れて目立ちはしなくなったが、隠しもしない。可哀想を枕詞に『其れ』を撫でられればゾワリと悪寒が走った。誰も彼もがお決まりのように、やれ今は綺麗に消せるだの、やれそんなに金はかからないだのと口を揃えて言う気持ちが理解できない訳ではなかった。人間は極めて社会性が強く、おまけに独占欲のある生物だ。それでも、世間体と感情--『自分の前』を想起させるものは排除したい--を受け入れるのは、全力疾走した直後に酸素ボンベを背負うに等しく感じて、どうにも気が乗らず曖昧に笑って話題を逸らしてしまう。言われる前に「いつか消そうと思っている」と口走るようになったのは、自己防衛の為の先制だ。


 朝陽に愛される人間に、暗闇で光を追う蛾の気持ちは分からない。


 黒一色の空間で、羽ばたく気力を無くして当てもなく土を這った。遂には立ち止まってしまおうかと、もう飛ぶこともなかろう空を仰いだ。しかし遥か上に、ぼんやりとした灯りが見えたのだ。見えない糸に手繰り寄せられるように、擦り汚れた羽をゆっくり動かして近づくにつれて、灯りの鋭さは増してゆく。

 「消す必要はない、上書きしてしまえ」と声がする。一瞬で囚われて視線が逸らせない。嗚呼、そうか、すべて無かったことにする必要はないのだ。削除と上書きは似ているようで恐ろしく違う。『其れ』を上書きしてしまおう。痕も、記憶も、感情も--


 泣いても笑っても、やはり此処でしか飛べないのだ。


 自らを殺す為に在る灯りの下で灯油の海に身を投げることを望んだ蛾は


 誘蛾灯に2度目の初恋をした。


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簡勁譚 湯の介 @yunosukexpen

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