拝啓

 座って首を吊るならここだと常々思っていた場所に紐と鋏が置いてあったので、どうやら昨日の私は死に損ねたらしい。


 予想よりも早く目が覚めた。口の中がやけに苦い。時計を見ると十三時をまわったところだった。米を炊くのも、パンを買いに行くのも時間がかかる。あまりにも腹が減っていたので、昼食にパスタを茹でようと思った。ところが、いざ袋をあけようとしても、切れ込みがない。収納棚に鋏もなかった。二十代後半、独身。趣味は専らオンラインで完結する。たいして広くもない家なので、台所になければ私室だろう。

 

 右手で引き戸を開けると、閉じ込められていた生ぬるい空気が溢れて肌に纏わりついた。眼球だけを大きく動かし、あった。部屋の隅、パスタの袋をぶら下げた私に向けられた先端。随分と低い位置から無骨な黒い台所鋏が威嚇してくる。真上には、買ってすぐにインテリアと化した運動器具のハンドル。白い荷造り紐は酷く不規則で、小さな穴だらけの銀色の抜け殻と一緒に転がっている。

 しゃがみ込んで、シャク。袋の上部を水平に切って、鋏を床に戻す。何故こうしたのかはよく分からないが、おそらく死んでしまった昨日の私への手向である。


 膝の力が抜けて、その場に座り込む。カサリ。重い、痛いと紐が鳴く。大窓に映る顔をじっと見つめるが、いやに焦点が合わない。瞳を追いかけようとすると逃げるのだ。はて、私は人の目を見ながら話すことができないタイプの人間だっただろうか。そんなことはなかった筈だ。むしろ快活で、友人や恋人は絶えず、飲み会の幹事から週末の社外イベントまでそつなくこなし、親類には時節に合わせて挨拶状を手書きするような、周囲からは真面目で育ちが良いとおだてられる人間であった。


 台所からボコボコと湯が沸く音が聞こえてくる。鍋いっぱいに入れたので、吹きこぼれているかもしれないが、IHなので音では分からない。無意識にパスタを握りしめていたようで、些か折れてしまった。何となく、茹で加減を失敗する気がする。そういえばソースはあっただろうか。パスタの袋を離して目を瞑る。余計な心配をせず、腹が減ったら眠れば良いのだ。手に触れた銀色の抜け殻に残っていた錠剤を押し出し、奥歯に置いて噛み砕く。苦い、食欲の失せる味が唾液に押されて胃袋に流れ込む。色は真珠みたいなのに。指に絡んだ唾液がぬめる。嗚咽、胃痛、朦朧と揺らぐ感情が、頭蓋に響いて泡のように消えてゆく。

 

 何にせよ、別に、構わないと思う。

 

 きっと明日の私が綺麗に後始末してくれるだろう。

 

 昨日の私はそう思った筈だ。今日の私と同じように。


 では、さようなら。あとはよろしく。


敬具

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