星ふる夜
香久山 ゆみ
星ふる夜
「あの煙突の中に、星が入っていくのを見たの!」
そう言って、弟は指さした。
ここいらで一番高くそびえる煙突。ぼくらが生まれる前に、とうに廃業した「銭湯」のもの。じいちゃんやばあちゃんは銭湯に行ったことがあるというが、ぼくらは知らない。
「うそつけよ」
「ほんとだよ!」
弟の言うことを信じたわけではないけどさ。星を手に入れるために、ぼくたち兄弟はこっそり忍び込むことにした。銭湯を囲む、雑草で覆われた金網フェンスに穴が空いている場所があることを知っていたから。
草むらをかき分けて、建物の入口に立つ。
手を掛けると、鍵はかかっておらず、ゆっくりと重いガラスの扉は開いた。
ガラス扉の内側は、タイルが敷かれた広い玄関で、左右の壁には下足箱が一面に並んでいる。不思議な空間。その先にはさらにドアがあり、しかし、その入口は二つ。左右に一つずつ、同じ大きさの磨硝子の引き戸がある。どちらに進むべきか?
ぼくらは右の扉を行くことにした。
ガラリ。
「こりゃ! 坊主どもは男湯だよ!」
わっ。頭上から浴びせられた老婆の声に押し戻される。慌てて後退って出てきたドアを閉める。見上げると、今しがた追い出された右のドアには、いつの間にやら赤い暖簾が掛かっている――「女湯」。もう一つの左のドアには「男湯」の青い暖簾が。
ぼくらは改めて左の青のドアを進む。今度は老婆に見咎められることもなく、入ることができた。ドアの向こうにはひろーい空間。籐筵敷きの脱衣所が広がり、壁面には更衣用ロッカーがずらりと積まれている。隅には載るとひやっとしそうな金属性の大きな体重計と、茶色い皮のマッサージ機。その奥手が浴場になっている。
カポーン。
浴場の方から洗面器を置く音が聞こえる。脱衣所と浴場を隔てる大きなガラスはもくもく湯気に曇っている。むんむんと湿度を感じる。
ぼくらはどちらともなく手を繋ぎ、おそるおそる先を進む。
浴場へ続く扉を開くと、むわわわーんと熱気に包まれる。わ、わ、わ。一瞬にしてぼくの眼鏡が真っ白に曇る。慌ててシャツの裾でレンズを拭う間に、弟は先々進む。
「わあ、お兄ちゃん。きれいなお花ー」
弟の声が聞こえる。おはな? そんなものが浴場にあるはずが……、眼鏡を掛け直したぼくは驚いた。弟が指さす先には、怖そうなお兄さん。その背中には、確かに大輪の花が。ぎゃっ、ばか、なに指さしてんだ!
バランスを崩した拍子に、大浴槽へドボン!
ぶくぶくぶく。お湯の中を沈んでいく。どこまでも、真っ暗な空間を、ぶくぶくぶく。沈んでいく……。ようやく闇の先に光が見えた、と思った途端。
スポン!
と、ぼくらは煙突から飛び出た。おっ、と、と。ぐーんと高い煙突の先っぽにぼくらは立っている。地上ははるか遠く、ここからはまるで影に沈んで見えない。ふと、視界の隅に気配を感じて、見上げる。と、星が。ふわりと中空に浮かんでる。手を伸ばせば届きそうだ。
ぐ、と手を伸ばす。星を、求めて。手を、伸ばす。伸ばす。届かない。星を。求めて。伸ばした手はいつの間にか煙突からずいぶん遠くに離れてしまって、ぼくは空をとんでいる。星を、星を、求めて。とぶ。両の手を伸ばしても届かない。――はたと気づくと、ぼくはただ独り、漆黒の宇宙を漂っている。ひとり、ぽつんと。あ、れ……? とたんに不安に押しつぶされる。どこ? どこ? みんな、どこ? ここは、どこ? ぼくは、どこ? こわい、こわい。孤独にふるえてこぼした涙とともに、すとーーーんと、地上におちる。
そして、気づくとベッドから転げ落ちていた。
夢? しんと静まったぼくの部屋。星がない。そして。そうだ、弟なんて――ぼくにはいない。何もない部屋に茫然と立ち竦む。
ぼんやりした頭のまま、ふらふらと窓辺へ歩む。まだ星を探している。冷たい窓から夜空を仰ぐ。が、窓ガラスには自分の姿が映るだけ。でも、よく見て。ほら。少年の瞳の中には、星が。ああ、ここにあったのか。
――そして少年はまだ知らない。お母さんのお腹に、この夜ひとつの星が宿ったことを。
星ふる夜 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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