2

階段を上がると、迷宮の様子はかなり様変わりしていた。

 その階層は湿った、冷たい空気が充満していた。迷路のように複雑なつくりは変わらないが、石造りだった床や壁は金属質なものに変わっていて、上から漏れ落ちてくる光を青く反射している。

 糸玉を転がしても、先ほどのように道を示してくれることがなく、私は薄暗い空間を自分の足音が辺りに反響するのを聞きながら進んでいくしかなかった。


 そうやって何度か行き止まりに会いながら迷宮を探索していたが、急に手詰まりになってしまった。私の目の前であったはずの床は破れて、深い闇を湛えた穴ができていた。

 穴の向こうには道が続いているのが見えているだけに、このまま引き下がるわけにもいかない。左右の迂回路を探してみたが、行き止まりの壁に気づかず鼻をぶつけただけだった。

 一か八か、私はこの穴を飛び越えることにした。奈落に落ちて死ぬのもの金属張りの迷宮に閉じ込められて死ぬのも同じことだ。覚悟を決め、少し身体をほぐして、私は向こう岸に飛びついた。


 すんでのところで、岸に届かず落下とはならずにすんだ。しかし次の瞬間にもそうなりそうな状況でもあった。

 向こう岸のへりになんとか指だけを掛けた状態で、私はぶら下がっていた。

 私の腕には力がみなぎって、このまま這い上がることさえできそうな気がしたが、向こう岸の方が耐えられそうになかった。私の指が乗った金属板は重苦しい悲鳴を上げて、今にも弾けようとしていた。

 私は何とか這い上がろうともがいたが駄目だった。懐から糸玉が転がって深い闇の中に落ちていく。金属板の上げる悲鳴はどんどん切実なものに変わっていく。

 もはやこれまで。私は目を瞑り、私の身体は奈落に沈んでいく……はずだった。


 いつまでたっても落下の感覚は訪れず、私は恐る恐る目を開いた。

 私は情けない恰好で床の上に寝そべっていた。先ほどまで目の前に口を開けていた穴は見当たらず、見慣れた冷たい道が続いている。

 私が寝そべっていた床にはいくつも亀裂が入っていた。本来なら床板の形を維持できそうにないそれを、何かが繋ぎとめて、元の形に戻しているようだった。

いつの間にか、私の懐に糸玉が戻っていた。相変わらず白く輝いている。

またこの糸玉の不思議な力が作用したのだろうか。


私は立ち上がって先へ進む。後ろで金属がぶつかる音が響いた。振り向くとまた深い闇が口を開けていた。

こういった深い穴や、瓦礫でふさがれた道が私の目の前に何度か現れた。そんな場所に糸玉をかざすと、ふさがれた道は元の姿に戻っていく。糸玉の力を失って道が再び崩壊していく音を聞きながら私は前に進んでいった。


またすこし開けた空間に出た。誰が火を灯しているのか、壁には燭台がかけられて、小さな炎が金属製の壁を橙色に染めている。

懐から糸玉が飛び出して強い光を放ちながら輝きだす。糸玉が解けて、また人の形を作り出していく。


「ふふっ。父上は今頃カンカンでしょうね」


糸玉は二人の男女を作り出していた。こちらに背を向けて走っている。黄金でできた糸のような美しい髪をなびかせて走る少女はアリアドネに違いない。しかし、隣の少年が誰かわからなかった。


 「そりゃそうだ。キミはクレタのミノス王の娘、アリアドネだよ?それがアテナイからやってきた奴隷の一員にさらわれたとあっちゃ……」

 「さらわれたんじゃありません。私の意志です」

 「同じだよ。すぐに追手がくる。まだ間に合うよ」

 「言ったでしょう。あなたがあの怪物ミノタウロスを倒して無事迷宮から帰ってきたら、私を妻にしてくださいと。あなたは成し遂げた。私はもうあなたの妻です。夫を置いて父の元に逃げ帰る妻がどこにいますか」


アリアドネは気丈な声で男をやり込めた。男はしばらく照れたようなしぐさをして、


 「分かったよ。キミは私の妻だ。……さ、もう少し走ろう。追手に夫婦の時間を邪魔される前にね」


 男は立ち止まって、アリアドネに手を差し出す。


 「ええ、───様」


 アリアドネは差し出された無骨な手を握り返す。男の方を見る横顔は夜空に光る星よりも輝いていた。


 二人の背中がだんだん小さくなって、暗がりの中へ消えていく。糸が解けて、また糸玉の形に戻る。橙色を反射して鈍く輝く床だけが残って、上の階に続くであろう階段までの道を照らしていた。

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アリアドネの迷宮 冷凍鮭 @reitojake

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