アリアドネの迷宮

冷凍鮭

1

 暗闇。

私の目に移りこんだ最初の光景。分厚い黒の麻布を幾重も下ろしたような重たい闇。その闇の奥に、かすかに、だがまばゆく光る点が見えた。私は冷たい石畳の上を這っていく。私の爪や、蹄が音を立てて闇の中を反響する。


 光る点は幻ではなかった。それは、片手に乗るぐらいの糸玉であった。ただ普通の糸玉と違うのは、糸の一本一本が自ら光を放っていることだ。

 私はその糸玉を掴もうとさらに這って、腕を伸ばそうとする。だが、届かない。糸玉と私との間を太い鉄格子が隔てていた。


 私にこの冷たい鉄格子をどうにかする術はなかった。人の腕ほどはある鉄棒は短い間隔で立ち並び、私の腕はすり抜けられそうもない。腕をもうひと伸ばしすればあの美しい糸玉に手が届きそうだというのに。

 私は入らない鉄格子の隙間に腕を入れようとし、また鉄格子を引きちぎろうとした。無駄だった。疲れ果てて冷たい石畳に伏し、鉄格子の向こうで輝く糸玉を見つめた。


何故私はあの糸玉に執着するのか?──分からない。

なぜ私はこのような場所にいるのか?──分からない。

そもそも私は誰だ?──分からない。


だが、この想いだけは、闇の中で輝く光の点と同じように、心の中に宿っているのだ。


 「このままでは、悔やんでも悔やみきれない」


糸玉から一本、細い細い糸がこちらに向かって伸びているのを見つけた。鉄格子の隙間から指を入れる。もう少し、もう少しで触れられる。私はめいいっぱい手を押し込む。私の指先が、白く輝く糸に触れて、その瞬間、私の目の前が光で包まれた。


気が付くと、また目の前に暗闇があった。いつの間にか私は立ち上がっている。そして、足元で糸玉が白く輝いていた。なぜ?私は鉄格子をすり抜けていた。理由は分からない。どうでもいいことだ。

 私は白く輝く真珠のような糸玉を掴んだ。女の髪のような手触りだった。

 

──ミノタウロス。


 私が糸玉を掴んだ瞬間、思い出した言葉だ。これが、私の名前なのだろうか。


 糸玉の光は闇を消し去るほど強い光ではなかった。完全な暗闇ではないにしても、半歩ほど先までしか見えない中を進んでいく。突然目の前に壁が現れて、鼻をぶつけた。これを何度かやったあと、この空間がかなり入り組んだ複雑な構造だということが分かった。

 鼻を壁にぶつけた拍子に、糸玉を床に落とした。糸玉はひとりでに転がっていく。私はそれを追いかける。もう壁に鼻をぶつけることはなかった。


 そうして糸玉を転がしていくと、また鉄格子が立ちふさがった。これ以外に道はない。

 私は先ほどの不思議な現象を思い出して、格子の隙間から糸玉を向こう側に転がす。向こうへ行きたい……そう念じると私は鉄格子をすり抜けて糸玉の前に立っている。

 なぜこうなるのかは分からない。だがこの糸玉に対する不思議な信頼感があった。


 糸玉を使って迷路のような暗闇の中を進んでいくと、開けた空間に出た。

 ぱっと糸玉が弾けて、何か人のような形に変化し始める。強い光で闇が切り払われていく。


 目の前に、光の糸で紡がれた少女が現れる。金色の長髪をなびかせる清らかな印象の美女に、私は思わず息を飲む。

 絹のように白い手のひらの上に、糸玉が乗っている。糸が擦れる音が、美しい声になって聞こえてくる。


「──様、この糸をお持ちになってください。この糸を使えば、必ずあなたは私のもとまで帰ってこられます」


 少女が私に向かって糸玉を差し出す。その細い指先から糸が解けて、形が崩れていく。


「アリアドネ!」


 私が叫んだ時、目の前の少女は掻き消えて、また元の糸玉に戻っていた。

 アリアドネ。私が思い出した二つ目の名前。これはあの少女の名だ。私の心の中にある悔いも、彼女に関係することに違いない。何も根拠はないが、私は確信していた。

 

 糸玉が先を照らしている。

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