第22話
「それは誰だ」
「会いたい?」
「当然だ!」
顔を見てやりたい。土蔵に閉じこめられて育った不幸な少女に藤媛信仰を吹きこみ、彼女を藤媛に仕立てた人間がいるというなら、その顔を見てなじってやりたい。礼人の怒りを察したように蒼士は立ちあがると、「じゃあ、来て」と言って斜面を下りはじめた。礼人はそれについていった。
蒼士が向かったのは藤蔭屋敷の裏手で、母屋の東に位置する隠居の棟だ。廊下に面した掃き出し窓に手をかけると、ぎしぎしと軋んで開く。彼はそのまま断りもなく中へ上がりこんだ。躊躇したが礼人もそれに従う。
離れの中は、果物が饐えたような臭いが満ちていて埃っぽい。何もかもが澱んで、朽ちていく滅びの臭いがあるとするならば、おそらこんな臭いだろう。ここは桜子が一人住む場所だ。彼女以外に誰もいないはずだが、蒼士は誰に会いに来たのだろうか。桜子ではないとしたら、誰かがここに潜んでいるとでもいうのだろうか。緊張しながらついていくと、彼は二間続きらしい六畳に繋がる襖の前で「お邪魔します」と小さく声をかけて襖を開く。
カーテンを引かれた薄暗い六畳の中央には布団が延べられ、桜子が天井をぼうっと見つめて横たわっていた。彼女の向こう側には、隣室へと続く襖がぴたりと閉めてある。
蒼士は室内へ踏みこむと布団の傍らに座った。礼人もそれに倣いつつ、視線は周囲へ走らせていた。閉じた奥の襖が気になる。その向こうでは、誰かがこちらの物音に聞き耳を立てているような気がした。
蒼士が礼人を見やる。
「この人だよ」
告げられて、礼人は何度か瞬きした。
「この人が———桜子さんが全ての黒幕だ」
礼人は桜子を見おろした。無表情に天井を見上げている桜子が、何をしたというのか。骨と皮ばかりの老女に何ができるというのか。蒼士は静かにゆっくりと桜子に話しかけた。
「話が出来ますか? 桜子さん」
虚ろだった桜子は蒼士の方へ顔を捻ると微かに笑った。
「お芝居はしなくて結構です。わかってます。あなたの精神が正常なことは」
「・・・・・・初めてね。誰も気がつかなかったのに。そもそも私のことなんて、誰も真正面から見ていないから、気がつきようもないのだけれどね」
乾いて掠れた声だったが、知性が溢れる穏やかな話しぶりだった。驚いた礼人は言葉が見つからなかった。憑き物が落ちたかのよう桜子の表情も目の色も、しっかりしている。いや、憑き物が落ちたというのは正しくない。彼女は頭からすっぽり被っていた何かを、さらりと脱ぎ捨てたようだ。
「どうして見抜かれたの? あなたに。あなたには、ほとんど会っていないのに」
「見抜いたわけではありません。土蔵の中にいた彼女を教育できる———する可能性があるのは、あなたしかいないという単純な消去法です。余姫も小姫子さんもその夫も、姫沙紀さんも、土蔵の中の彼女を忌まわしい物として封じ込めた。そんな彼女に同情する、あるいは利用価値を見出すのはあなただけだ。彼女が世間に順応するほど知性を持ち、なおかつ藤媛信仰を知り得たとすれば、あなたにも彼女と同等、それ以上の知性と知識がないと教育は不可能だ。どうして何十年も、あんな振る舞いをしていたんですか?」
「そうすると母の余姫が、私を怖がったから。いい気味だと思ったのよ」
ふふっと桜子は笑う。
「十代だった頃に、あまりにも腹が立って、情けなくて恐くて、自分でも訳がわからなくなるくらい喚き散らしたことがあるのよ。そうしたら余姫が、藤媛が憑いたと言って私を打ち据えたわ。怯えていた。目を見ればわかった。だから度々そうしてやった。余姫は、私が病弱なのは藤媛の怒りに触れて呪われたせいでそうなったと思い込んでいたから、よけいに効果があった。ただ怯えていても、あの人は自分が思いついたことを止めたりはしなかったけど。それで私が死んでもかまわないと思っていたのだわ。屋敷から一歩も出られない出来損ないは、死ねば良いと思っていたかも。私は呪いの結果生まれたのだと思って、忌まわしかったのでしょう」
桜子の声は嗄れてざらついているのに、その口調や言葉は少女のように思えた。老婆の体の中に少女の魂が押しこめられているような違和感に、礼人はいやな夢でも見ているような気分になる。生まれてからずっと屋敷に閉じこめられていると、体はしなび衰えても、経験値が圧倒的に少ないために、ずっと少女のような心でいられるのだろうか。
「余姫さんは、あなたに何をしたんです」
礼人が問うと、桜子は表情を消した。
「子を産まされたわ。いつものようにここで寝ていたら、突然私の夫だという男が入ってきて、乱暴した。恐くて苦しくて恥ずかしくて、痛くて。どうしようもく嫌だった。でも後で、余姫が勝手に私を結婚させて、あの男を夫にしたのだと聞かされた。出来損ないの私に見切りをつけて、子どもを産ませて藤蔭家の反映を続けさせるのだと言ってた。それが何年も続いて三人子どもが生まれた。三度とも生死の境を彷徨ったけど、命は繋がった」
正座した蒼士は両手を膝の上に揃え、その手を硬く握った。何かを堪えるように。
「余姫は私を人間あつかいしてなかった。もしくは出来損ないだと蔑んでた。だから私が産んだ子どもたち三人も、育てた余姫に倣って、私を馬鹿にして無視して笑ってた。それは小姫子の生んだ姫沙紀もそうだった。皆、嫌い。だからよく脅かしてやった」
「異常だ」
思わず礼人は口にした。子どもたちが母親を笑い蔑む様子など、異常としか言えない。そんな環境で育った人間はどれほど歪んだ感性を育むだろうか。
「私の子どもたちは三人は、生みの母を蔑み藤蔭屋敷の恥とすることで、異様に絆を強くしたみたい。外の世界と藤蔭屋敷をきっぱりと別けて、藤蔭屋敷の中で自分で自分を相手に慰めるみたいに、三人で気味の悪い関係を作り上げているように見えた」
宗一郎を取りあって小姫子と慶子が憎み合い。そして宗一郎と慶子が契り子をなす。そんな異常さが育まれたのは、生みの母を家族全員が蔑むという異様な構造から生まれたのだ。異様な構造を維持している屋敷で生まれた者たちは、どうしても外部の世界との隔たりを意識せざるをえない。すると自分たちと外は違うと認識し、意識は屋敷の中へばかり集約していく。友人も恋人も、隔たりのある外の世界では、自分たちが違和感を覚えてしまう。そうなったとき年頃の青年や娘達の恋情は内側へ向かったのだ。
「憎かったわ。なにもかも」
常に胸にあった憎しみに慣れきってしまったかのように、桜子は淡々と言う。
「だから土蔵の中に押しこめられた彼女を使って、復讐を考えたんですか?」
蒼士の問いに、桜子は意外なことを聞かされたように目を見開く。しかしすぐに目を伏せ、何度か深く呼吸した。胸が苦しげに鳴っている。
「復讐ではなかったわ」
「じゃあ、なんなんですか」
鋭い蒼士の声を聞きたくないとでも言いたげに、桜子は顔を天井に向けて目を閉じた。
「可哀相だったの。あの子は土蔵に閉じこめられて無視されて、私にそっくりよ。だから時々出してあげた。藤祭の様子を見て、あれは何なのって訊くから藤媛のことを教えた。あの子は私に優しかった。無視されて笑われて出来損ないだと言われ続けていた私に、あの子は桜子お婆ちゃんと言って懐いてくれた。小姫子があの子を姫沙紀に仕立てて土蔵から出したとき、私は・・・・・・本当にあの子が姫沙紀だったらよかったのにと思ったわ」
あの人を、あの人たらしめた黒幕。それが目の前で目を閉じるね痩せて真っ白な老婆だったと知っても、礼人は既に彼女を責める気が失せていた。
哀しくて切ない思いばかりが胸を満たして、泣きたくなる。なぜこんなことになってしまったのだ、と。これこそが藤媛の呪いなのかと。
「彼女のしていたこと、全部知ってたんですか?」
静かに礼人が問うと、桜子は微かに頷く。
「あの子は正気とそうでないときが、くるくる入れ替わるの。小さな頃からそうで、正気でないときは何をするかわからない。正気の時は優しくて賢くて、素敵な女の子なのに、何かのはずみで正気と狂気が入れ替わると、予想できないことをする。でも、どうしようもない。生まれた時からああなっても仕方ない環境にいたんだもの。ただあの子の正体がばれて、あの子を失うのは嫌だったわ。だからあの大阪の探偵という女の子を村から追い出そうとしたんだけれど。ひどく疲れてしまって、二、三日は意識がもうろうとした」
「木戸樹里さんの車にメモを置いたのも、あの夜にの彼女の車を襲ったのも、あなただったんですね? 桜子さん。大きめの長靴を履いて、体型がわからないように振り袖を身につけ、手の大きさを誤魔化すために軍手をした。ですよね? 藤蔭屋敷には男がいないから、男を偽装したんですよね。姫沙紀さんを名乗っていたあの人は、あなたが書いたメモを見て困惑しているようでした。あの人は知らなかったんですね」
「後であの子は、勝手なことをしないでねって優しく私を叱ったわ。あの子のためにしたことなのに、私はへまをしてしまったから。あの子に迷惑をかけたの」
胸の音が苦しそうで、桜子は懸命に息を吸うようにしてから言葉を続ける。
「私があの女探偵を襲った現場を松影良治が見ていたの。彼の家の前を探偵さんの車が通ったのを見て変だと思ってつけて行って、私を見つけたようね。物陰に隠れて私が何をするつもりか見ていたのよ。私は車を襲って廃屋の影に飛びこんだけど。目眩がして。そしたら良治が突然出てきて私を捕まえた。びっくりして悲鳴をあげてしまった。良治は静かにしろと言って、私を背負って藤蔭屋敷へ送り届けた」
木戸樹里を襲った影はゆらゆらと揺れていて、動作はどこか緩慢だった。あれは余裕を見せつける動きではなく、この痩せ細った体のためだ。そして暗闇の中に一声響いた掠れた鳥の鳴き声は、桜子の悲鳴だったのだろう。礼人はあのときあの声から鵺を連想した。しかし正体を知ればそれは、この痩せ細った老婆の驚きの声に過ぎなかったらしい。
しかしもしかすると、あの声が怪鳥の声であるほうが、よほどましなのかもしれない。
蒼士が確認するように問う。
「あなたの履いていた長靴の他に、もうひとつスニーカーの足跡があったのが松影良治ですね。しかもあの夜、彼女に良治から電話が入っていました。それは彼が、あなたを助けたと密かに知らせるためで、そして同時に彼女を脅迫するための電話だったんですね」
「あの子は、なんとかすると言った。私は藤媛だから藤蔭屋敷を守ると。ずっと前から、松影良治を始末する機会を待っていたからって。屋敷を覗いたり、勝手に屋敷に入ったりするから、秘密をばらされる前に始末する計画を立てていたらしいわ」
礼人が土蔵の鍵を壊そうとしたとき、姫沙紀が抵抗した声を思い出す。彼女は藤蔭屋敷のことを「私のお屋敷なんです」と言った。そして「私が守っているんです」とも。
皮肉なことに、彼女を閉じこめた人々の住む屋敷だけが、彼女が自我を保つための場所だったのだ。だから藤媛として必死に守った。自分が自分の輪郭を見失わないためだけに。
ただ哀しい。なぜこうなったのか、どうしてこうなったのかと、絶望的な哀しさが胸を満たす。礼人は我知らず呟く。
「これが藤媛の呪いか」
「違うよ一さん。藤蔭家の不幸は呪いじゃない。誤謬だ」
即座に、蒼士が否定した。礼人は意味がわからず彼の顔を見つめる。
「誤謬?」
「藤媛信仰は成葉里村独特の信仰で、盗賊団の首魁であった藤媛を祀ったことから始まる祖霊信仰だ。強烈な支配力を持っていたことを除けば、何処の地方にでもある信仰だ。けれどこの村が明治まで隠里であったことが災いした。村の門戸が開かれたとき、かつて盗賊団であったという村の成り立ちは外部から差別を受けかねない不都合な事実だった。だから余姫は近代化に合わせて、藤媛信仰を排除しようとした。そうすることで村の成立を歴史の闇の彼方に葬ろうとした。それはある意味賢い選択だ。けれど近代化を志した余姫その人が、根本的な部分で精神的な近代化をしていなかったことが悲劇の原因だ」
目を閉じて静かに呼吸する桜子は、耳を澄ますして蒼士の声を聞いているようだった。
「藤媛を封じて大媛様も終わらせると宣言した余姫の一人娘の桜子さんは、屋敷から出られないほどの虚弱児として生まれた。余姫の夫も夭折する。余姫はそれらのことを、封じようとした藤媛が怒り、余姫を罰するために家族を呪ったと解釈してしまったんだ。そして慌てて藤蔭家を立て直そうとして、藤媛の怒りを解くべく、躍起になって娘の桜子さんに子を作らせて家を存続させようとしたり、生まれた孫娘に姫の文字を使ったりした。けれど状況は変わらない。それどころか孫たちの間には罪の子が生まれ、どんどん状況は悪化する。宗一郎が死に小姫子の夫が亡くなり、村人達は呪いだと囁く。でもね・・・・・・」
一旦言葉を切り、続ける。
「藤媛を封じようとしたことと、それら一連の出来事に因果関係なんかない」
「どうしてだ? 余姫さんが藤媛を封じようと試みたら、桜子さんが虚弱体質で生まれ、夫が亡くなって、悪いことが重なっていったんだぞ」
「藤媛を封じる封じないは、二択だ。五十パーセントの確率だ。藤媛を敬い続けていたとしても、余姫の夫は亡くなる可能性はあり、桜子さんが虚弱児で生まれる可能性はあるんだ。逆に藤媛を封じても、夫は長命で、桜子さんが健やかに生まれてくる可能性もあった。どれもこれも同率で組み合わせの問題だ。双方の可能性は同じ確率で出る。サイコロを振るのと一緒だ。それなのに藤媛を封じたから、桜子さんが虚弱体質に生まれたと結びつけて考えたことが誤謬なんだ。それを前後即因果の誤謬と呼ぶ。前後して起こった無関係のものに因果関係を見出してしまう、迷信や呪術的な思考だ。無関係なものに因果があると思い込み、恐れるんだ」
誤謬——要するに、誤り。
「余姫や桜子さん、小姫子さんの夫、宗一郎らが夭折したのも、藤媛との因果関係なんかない。余姫の夫の死因は知らないけれど、大正時代は今ほど環境も医療も発展していないんだから、ひょんなことで亡くなることはあっただろう。ただそれ以降の男たちの死は、原因を問われればはっきりしてる。桜子さんの夫は遠い場所から婿に来て、嫌がる妻を強姦し続ける異常なことを続けさせられたら酒浸りになってもしかたない。それで体を壊すのは当然の結果だ。宗一郎の死は、言わずもがな。松影から婿養子に入った武雄という人も、酔って池に落ちて亡くなってる。自分の妻となった女は亡くなった実兄を慕い続け、土蔵には人に言えない秘密の子どもが住んでいる。そんな異様な状況に耐えるために深酒をしていたら、したたか酔って釣りに出かけ、池に転落する可能性はかなり高まる」
そうやっていちいち解きほぐすように説明されると、礼人にものみ込めてきた。
「じゃあ、男たちが死ぬというのは」
「桜子さんの夫以降、男たちの死は当然の結果なんだ。彼らが死んだ原因を求めるなら、呪いではなく環境だ。異常な環境が原因で命を落とした人達のことを、短絡的に呪いのせいだと思い込むからまずいんだ。村の人や余姫が恐れた呪いは存在しない。ここにあったのは、因果関係のないものに因果を見出して、恐れ、そのために見境なく行動に走った人間が生んだ悲劇だ。誤りは正されることなく、徐々に大きく膨らんで破綻した。もし藤媛がいたら、『濡れ衣だ』って嫌な顔をするはずだ。『呪った覚えなんかない』って」
もし余姫が、藤媛と桜子の病弱を切り離して考えていたら、どうなったろうか。
余姫が虚弱体質に生まれた娘を慈しみ育てたとしたら、桜子は虚弱体質ながら穏やかに成長し、いずれ誰かと恋できたかもしれない。生まれた子どもたちは、祖母と母の愛情の中で健やかに育ち、恋をして、明るい道を歩んだかもしれない。そうなれば藤蔭屋敷の男たちの命を奪った環境が改善され、悲劇は起こらなかったかもしれない。
因果のない場所に因果を見出し恐れ、それに振り回され、不自然きわまりない環境を作り出し悲劇を生み続けた。余姫はまるで、真っ黒く粘ついた糸を自分自身で吐き出し周囲を覆い、屋敷を覆い、悲劇の場所を作り上げる奇怪な蜘蛛のようだ。自分を覆うのが自分が吐き出した糸だとも知らずに、もがき続けたのだ。
蒼士は、桜子に哀れみの目を向ける。
「皮肉ですね。余姫が誤謬の結果忌み嫌ったあなただけが、その誤謬に気がついていた。あなたは余姫のことを語るとき終始『呪われたせいでそうなったと思い込んでいた』『私は呪いの結果生まれたと思って』と、それは余姫の思い込みだと暗に非難していた。余姫が望んだ真に近代的なものは、余姫が呪いと思い込んだ者の中にあったなんて」
布団をかけた胸の辺りを小さく上下させながら、桜子は細い声で答えた。
「自分が呪われた存在だなんて思わない。ましてや、あの子が呪われているなんて思わない。呪いなんてここにはない」
「そうですね。僕は呪いを探してるんです。だからここにあるかもしれないと思って探してみましたが、ここには本物の呪いなんてなかった」
桜子は微笑む。その通りだと蒼士の言葉を肯定し、それを己に誇るようだった。自分は呪われた存在ではないという、それが彼女が密かに持ち続けた矜恃なのだろう。
それほど芯が強く聡い女性が、なぜこれほど惨めに一人横たわっているのだろうか。
彼女の顔を見ていられなくなり、礼人は視線を下へ向けた。
「僕達は今日、村を出ます」
「もう二度と会うことはないわね」
目を閉じた桜子は苦しそうに答える。呼吸音があまりにひどいので、礼人は言った。
「苦しそうです桜子さん。薬か、お医者さんを呼んだ方がいい」
「このまま放って置いて・・・・・・じきよ、きっと・・・・・・楽なる。あなたは優しい人のようだから、放っておくのは苦しいでしょ。けれど放っておいて。それが私のためなのよ。あなたが、あの子を守ってくれたらいいのにと。あのときは本当にそう思ったわ」
桜子は目を開き、礼人を見た。礼人も守りたかったのだ。けれど全部が遅すぎた。
再び桜子は目を閉じて、すうっと細い息を吐く。それ以上話すことはないとばかりに、細い呼吸が続く。いつこの呼吸が止まるのかと、自分の体に自分の心を預けて静かに待つようなその様子を見ていると、誰も、手出しも口出しもしてはならないのだと思えた。
「さようなら」
囁いて、蒼士が立ちあがり部屋を出た。礼人は暫く桜子の顔を見つめ、静かに頭を下げ、立ちあがった。
建物から出ると、今までの事が嘘だったかのような青く澄んだ空が広がっていた。
先に外に出ていた蒼士はスマートフォンをいじっていたが、ぼんやりした顔をしている礼人を急かすように言う。
「連絡が来たよ。迎えの車が坂の下まで来てる。行こう」
心の内側が激しい雨に叩かれ、何かが洗い流され、虚しいようなさっぱりしたような心持ちで礼人は歩み出した。裏庭を出て母屋の正面に回り込んだとき「一さん、終夜さん」と呼び止められた。姫奈の手を引いた麻美が、玄関から出てきた所だった。
「お帰りですか」
「お世話になりました」
礼人はきちんと礼を言ったが、蒼士はぺこんと頭を下げただけだ。
「こちらこそ・・・・・・」と言いかけた麻美は、躊躇った後に蒼士に向き直る。
「終夜さん。色々と無礼も言いましたが許して下さい。少しずつ、こうなった方が良かったのかも知れないと思うようになりました。姫奈ちゃんは私がちゃんとします」
「別に、無礼なんて一つもないです。さよなら」
蒼士がそう言った途端、姫奈がくじゃと顔を歪め、そして、
「ぬ え」
と言った。蒼士が目を見開くと、姫奈は続けざまに「ぬ え」「ぬ え」と言って麻美の膝にしがみついてわんわん泣き出す。
(鵺。まただ。どうして姫奈ちゃんは彼のことを)
強張った表情で蒼士は姫奈を見つめていたが、麻美はしゃがんで姫奈を抱く。
「あらら、姫奈ちゃん。終夜さんが帰るの哀しいのね。でもね、この塗り絵のお兄さんは帰らなきゃいけないのよ」
その時、礼人は気がついた。蒼士も珍しく目を丸くした。
姫奈は確か、三文字の言葉を言うとき、真ん中の音を極端に小さく発音する癖がある。「おばけ」を「お け」と言っていた。となると、彼女の言う「ぬ え」は。
「ぬりえ、か」
そう口にして、蒼士は声を出して笑い出す。
「馬鹿だな、僕も!」
姫奈は、蒼士にパンのヒーローを描かせては、ぐちゃぐちゃに塗りつぶしていた。あれは彼女にとって「塗り絵」なのだ。蒼士を「塗り絵の人」と認識していただけなのだ。
何故、蒼士が笑っているのか分からないらしく、麻美はきょとんとしていた。蒼士はひとしきり笑うと、姫奈の傍らに膝をつく。
「姫奈ちゃん、安心して。麻美さんがこれから、たくさん可愛い塗り絵を買ってくれるよ。僕なんかが描くより、ずっと素敵な塗り絵だから」
蒼士が姫奈の頭を撫で立ち上がる。「今度こそ、さよなら」と言って麻美に背を見せる。姫奈が「ばいばい」と小さく言うと振り返って手を振った。
「お世話になりました。お元気で」
麻美と姫奈のこれからの幸福を祈りながら、礼人は頭を下げた。彼女も「はい」と気丈な笑顔で答えたのを確認し、「じゃあ」と手を振って蒼士を追う。
振り返ると、小さな姫奈の手をしっかり握り、こちらを見つめている麻美がいた。二人の姿は頼りなく、これから二人には様々な出来事や葛藤にぶつかるだろうと想像できた。けれど麻美の手をしっかり握る姫奈の手の力強さが、なぜか不思議と、麻美よりも頼もしく思えた。くるくるした目の幼子は、どこか意志が強そうだ。彼女は自分の母親がいなくなったことを、認識しているのだろうか。もし認識していなければ、それを認識したとき何を思うのだろうか。そして成長した後、何を感じるだろうか。
(でも幸せになれる。そう願って信じていれば、誤謬は生まれない。絶対に)
幼い姫奈の手を引いて麻美が歩き続け、彼女が傷つき疲れたとき、今度は生長した姫奈が麻美の手を引くかも知れない。
坂の途中で蒼士に追いつき並ぶと、一つ訊き残していた事を思い出す。
「お前、姫沙紀さんの情報を集めるために村を出るとき、なぞなぞ言ってたよな。雁とかなんとか。あれの答え、何だったんだ」
「独り言だよ。意味なんてあんまり無い。中世のなぞなぞだ」
「答えが気になる。教えろ」
面倒そうな顔をしながらも、蒼士は口を開く。
「『雁はひがごと花かえるゆえ』って言ったんだ。最初の『雁はひがごと』をまず解く。『ひがごと』は理に外れている意味で『
ただの人間。そう言った声に、哀切な響きを感じ取ったのは気のせいか。蒼士は、藤媛に自分を重ねていた人を、生きながら鬼になった哀れな人と思ったのだろうか。
蒼士は、怪異には人が作り出すものと妖が作り出すもの、二種類あるようなことを言っていた。ここで礼人達が遭遇した彼女の存在は、間違いなく人の手による怪異だった。妖のような、胡乱なものの手によるものではない。誤謬が作り出す怪異。
かつてこの地を支配し、村を拓き富ませた藤媛は人だったのか、妖だったのか。数百年前の藤媛にまつわる怪異がどちらなのか、数百年の時に隔てられ今は知るよしもない。
物寂しさを覚え、背後の千年藤と藤蔭屋敷を振り返る。
「もうすぐ藤蔭屋敷も無人になって、藤祭も終わりかも知れないな。藤媛の伝承も、消えて行くんだな。なぁ、この事を警察に言わなくていいのか?」
礼人はそのことが気になっていた。このままで良いのかと。
「秘密を暴く必要があるの? 全てが明るみに出たら姫奈ちゃんの将来にも関わる。しかも僕達が藤やに誘い込まれたのは犯罪じゃない。寝泊まりしたし宿賃もほとんどかからなかったんだから、逆に親切なくらいだよ。一さんは仕事がふいになったけど、前金の五万円で交通費は出るからさほど痛手じゃない。木戸さんが襲われた件は、傷害か殺人未遂だけど、その犯人はもうすぐこの世から消える覚悟をしてる。さらに鈴木俊之と松影良治、石田陸斗は事故死と見なされてるし、松影正治は行方不明で、殺されている可能性は僕たちの妄想かもしれない。事故と行方不明と思われている四件は、殺人の可能性がありますと警察に情報提供する? 犯人は名前もないし戸籍もないし、誰も存在を知らなかった女だ。しかもその女は行方知れずです、って? こんな雲を掴むような話、警察がまともに動いてくれるはずない。そもそもそんな女は存在しないんだから、裁きようがない」
「あの人は、いただろう。現実に」
むきになったのは、彼女に心を動かされた後遺症だったのだろう。
「昔なら存在できたかも。その場所にその人が現実に生きていて、周囲の誰かが認識してれば、その人は生きていると言えた。けど今は、誰もが信頼して頼りにする行政のシステムがある。こんな人が生きているんだと誰かが言っても、調べてみたら戸籍も住民票もない。出生記録もない。だったら皆どう思う? 記録のない女がいるとは真っ先に考えない。それは何か勘違いしているんだ、あるいは、そんな人物はいないって思う。公の記録が一つもない人間が存在しているとは常識的に考えにくい。公のシステムが、基本的に信頼できるからだよ。公の記録が間違いだとか嘘だとか、不備があるとか、普通では考えない」
信頼できるからこそ誰も疑わない。疑わないところに闇が生じる。
「そこにある事実が真実になって、記録と現実が違えば、現実の方が間違ってるって言われる。誰もが疑わない信頼できるシステムがあるからこそ、システムに存在しない女は、現実に生きていても、存在しない幽霊になるしかない」
現実が記録に塗り替えられるというのか。実際そうなのかも知れない。歴史的な記録もそうだ。起こった事実よりも、残された記録が事実として伝わるのだ。現代では記録の速度が異様に早い分だけ、記録と現実が同時進行している。しかしその時、記録の方が現実よりも優位に立っているという事だ。蒼士は、薄ら笑う。
「藤蔭屋敷も藤祭も消えて藤媛信仰は遠からず消える。けれど古の怪異や、それにまつわる伝承は消えても、新しいシステムの中で新しい怪異や伝承が生まれる。今度はあの人のような存在が、新しい怪異として語り継がれるかも知れない。存在しないはずの女として」
古に生まれた怪異は、近代的に平均化した世界の中で消えて行く。電波が飛び交い人工衛星の目が、自分の位置を世界へ知らせる。誰もがそれを信じ、信頼し、依存する。だからこそ、新しく生まれる怪異もあると言うのだろう。新しい怪異は都市伝説や怪談という伝承になり、力を持つ。人の手による怪異も、妖の手による怪異も、明るく平均化された世界に相応しい形で、また生まれるのだ。
礼人はこの場所で、古と今との狭間にある怪異に触れていたのかも知れない。
「お前が探してるものの手がかりは、あったのか?」
「ないよ。言ったじゃない、ここには呪いなんてなかったんだ」
この終夜蒼士という青年は何者だろうかと、改めて不思議に思う。自らに呪いがかけられていると言い、本気で魔物を探しているらしい。そのくせいやに冷静で、オカルティックな思考を拒否しているようにさえ思える。
坂の下に辿り着くと、レンタカーらしきシルバーの車が停車していた。礼人達の姿を認めた運転手が窓を開けて顔を覗かせた。
「人を呼びつけておいて待たせるの? 終夜君」
木戸樹里だった。礼人は目を丸くした。
「木戸さん。どうしたんですか」
「交換条件で、その子に足として使われ羽目になったんです。乗って下さい」
当然のように蒼士がバックシートに乗りこむので、礼人は必然的に助手席に座ることになった。車に乗りこんだ蒼士は、「運転手さん。駅までお願いします」と、高飛車に要求した。樹里は苦いものを飲みくだすように顔をしかめつつも、車を発車させた。車を走らせながら樹里はぶつぶつと文句を言う。
「なんで私が運転手あつかいされなきゃならないの」
それが聞こえたらしい蒼士は、無表情に告げる。
「借りを作ったそっちの負けだよ。でもそんなに嫌なら、ここで僕達を下ろして帰っていい。そのかわりあの髑髏は返してもらう。もしくは調査料を、あなたの事務所に請求する」
樹里は悔しげに呻く。礼人は、樹里と蒼士を交互に見やった。
「なにがあったんですか、木戸さん」
「終夜君が私のところに、山で拾ったと言って鈴木俊之さんの頭部とおぼしき髑髏を持って来たんです。歯形を照合して本人である確認が取れて、先に発見されていた白骨化した胴体と、同一人物であることも確認できたんです。完全に白骨化しているし、骨に損傷もないので、死因は特定できないんですが。まあ、お手柄です。鈴木さんの調査を依頼した人は、とにかく鈴木さんの葬儀を出してやれると喜んでくれましたから」
蒼士は彼女に貸を作り、彼女は運転手をする羽目になったらしい。
「鈴木さんの死の真相は警察に再捜査をお願いしようと思ってます。でも警察は遭難事故の見方を変えないようですから、再捜査がおこなわれる可能性は低いです。結局は私は、何の役にも立たなかったんですけど」
悔しげな樹里の言葉を、鈴木俊之の死の真相を伏せている礼人は申し訳ない気持ちで聞いた。素知らぬ顔で、蒼士は窓の外へ視線を向けている。
「でも一つだけ突き止めたことがあります。一さん。ダッシュボードに雑誌が入ってますから、それ出して下さい。正体が分かったんです、彼の」
口調を明るくした樹里が言う。バックミラー越しに樹里は、蒼士に向かってにやりと笑う。蒼士は鏡越しに樹里と目が合うと、人を小馬鹿にしたような顔になる。言われるまま礼人がダッシュボードから取り出した雑誌は、男性向けのファッション誌だ。礼人には縁がない雑誌たが、表紙の写真は写真を生業にしている礼人から見てもいい写真だった。
男性モデルが裏路に座り、空を見上げているのを真横から撮ったものだ。寂れたような温かいような、趣ある街の中に座る若者は、なにげない服装をしているのだが趣味良く決まっている。そう思えるのは手足の長い彼のスタイルの良さと、投げやりなような、愁いているような横顔の綺麗さがあるからで———。そこまで認識して礼人は声をあげた。
「終夜!? これ終夜じゃないか!」
「そうだよ」と、何を今更と言いたげに蒼士は返事を寄こす。
「彼が美大生なんて真っ赤な嘘ですよ、一さん。その写真はLNっていうモデルなんです。本名も年齢も非公開で特定の雑誌にしか登場しないモデルですが、間違いなく彼でしょう。LNはLastNightの略と考えられるでしょう? すなわち終夜ですよ」
鼻の穴を膨らませて悦に入って説明する樹里に、蒼士が冷えた声を投げる。
「確かに僕はそういった名前で仕事してるよ。別に隠してたわけじゃない。写真と実物じゃ雰囲気が違いすぎるってよく言われるから、そのせいで皆が気がつかないだけだ」
謎がとけた。初対面なのに見覚えがあったのは、彼の写真を何処かで、何度か目にしていたからだろう。綺麗なモデルだ、いい写真だと、無意識に確認していた可能性はある。
勿体ない奴だと思う。たまたま礼人は寝起きの彼を見てその顔の綺麗さに気がついたが、普段の彼は容貌の良さが人に伝わりにくい。常に適当な服装をしていることと、いかにも偏屈そうな雰囲気が、いい男感から程遠いからだ。しかし眼鏡を外して前髪をかきあげれば綺麗な顔がはっきりと分かる。目はくっきり二重で形良く、鼻筋も通っている。やや唇が薄く頬の肉は削げ過ぎの感はあるが、全体として完璧に近いバランス。偏屈な雰囲気を上手に消す写真という媒体を通すと、彼はさらに驚くほどスマートな美形になるのだろう。
積極的に容姿の良さを活用すれば良さそうなものだが、彼にはその気がないらしい。
「写真の仕事は本業じゃなくて生活費を稼ぐためのバイトだ。僕の本業はやっぱり学生で美術大学に通ってる。仕事してるから大学生と名乗ったのは嘘だなんて、短絡的だね」
うっと樹里は言葉に詰まり「可愛くない」と呻く。
「一さん、この子は本当に性格悪いですよ」
目をつり上げる樹里に、礼人は頭を搔いて答える。
「いや、そこまで悪くはないよ。彼は、俺を終始心配してくれてた」
「僕は一さんを心配なんかしてない。そのおめでたいカモ思考をどうにかしないと、またおかしな事に巻きこまれるよ」
蒼士は石田陸斗が藤蔭屋敷に乱入した後、警察に通報しようとしていた。しかし思いとどまり、礼人に村を出ろと助言した。それは蒼士が、彼女が本物の姫沙紀でない可能性に気がついたからであり、同時に礼人の身を案じたからだろう。しかも真相をぼやかして、礼人に自分の推測を伝えなかった。
それは彼なりの思いやりだ。礼人が彼女に恋していると知っていたから警察に通報もせず、礼人が知らぬ間に事の始末をつけて、なるべく彼を傷つけまいとしたのだろう。
「でも助けてくれたじゃないか」
「馬鹿なカモが、かもられるのを放置したら、寝覚めが悪いと思っただけだよ」
「馬鹿なカモなのは認める。馬鹿だと自分でも思うからな。うっかり・・・・惚れたんだから」
最後の言葉が掠れてほとんど消えかけてしまったのは、まだ心に残る思いが胸を締めつけたからだ。彼女は、礼人のことをどんな風に思っていたのだろうか。正気と狂気のはざまで、正気であった瞬間だけでも、礼人と同じような気持ちを抱いていたのか。それが分からないから切ない。彼女の身の上も切ないし、今彼女が生きているのか死んでしまったのか、それすらもわからないのも切ない。全てが切ないばかり。
「思い初めずは紫の濃くも薄くも物は思はじ——。馬鹿だけど仕方ない」
ぽつりと蒼士が言った。いっそ思いそめさえしなければ、紫の色のように、濃くも薄くも深くも浅くも、物思いなどしないでしょうに。小歌らしいその言葉に優しく気持ちを撫でられたような気がした。恋したことは仕方ないし、それによって心が浮き沈み傷ついてしまうのは仕方ないと、礼人の思いを全て肯定したうえで仕方ないと言われたのだ。それは下手な慰めよりもよほど優しい。
「その馬鹿なカモを助けてくれたんだな。悪いな。ありがとう」
礼人は微笑む。蒼士は怒ったように、あるいは照れたように、窓の外へ顔を背けた。
(これは俺が勝ったな)
守るべき者を見つけたはずだったのに、それは、つかの間。礼人の両腕はこの地へやって来た時と同様に空っぽだ。この地を離れればさらに虚しさは膨らむのかもしれない。
ただ、ふと思う。この親切なのかそうでないのか良くわからない、妙な青年に時々飯を食わせてやれば、当面の虚しさはしのげるかもしれない。その時だけでも自分の価値を見出せるかもしれない。東京に帰れば米を買ってやる約束をしたのだから、しばらくの間は彼と連絡を取りあうことになるだろう。
もしかしたら、長い付き合いになるのかもしれない。なぜかそんなふうに思った。
礼人はシートに沈み込む。すこし調子に乗って助言してみる。
「自分で本業が大学生だと威張るなら、前期の課題ちゃんとやれよ。題材に迷ってるなら、あれだけ描いたんだから題材をパンのヒーローにしろ」
「だから、パンなんかにしないって・・・・・・」
そこで蒼士の表情が急に強張る。
「そうだ・・・・・・姫奈ちゃんが僕を『ぬ え』て言ったのは、初めて会ったときだったんだ」
「それは塗り絵のことだろう。塗り絵のお兄ちゃんって意味じゃないか? お前が上手に描くもんだから。拷問のように描かされてたじゃないか」
「それは何日か後だ。初対面のとき姫奈ちゃんは、僕が絵を描けるなんて知らない」
礼人と蒼士は顔を見合わせた。姫奈は初対面で蒼士を指して塗り絵と言った。それは幼子らしい無邪気な欲求で、絵が上手なこの人に塗り絵を作ってもらいたいという、ただ、それだけだったのだろう。
だが姫奈はなぜ、蒼士をひと目見て絵が上手いと分かったのか。
背後を振り返り、二人は遠のく千年藤を見つめた。その下に黒引きの女の背中が見えたのは気のせいか。もし藤媛の怪異がまだこの世に欠片でも残っているなら、それは小さな女の子の中にひっそり息づいてるのかも知れない。
千年藤が遠くなり、その姿は杉木立の向こうへ見えなくなる。
怪異は消え、そして———始まる。
終
媛ノ誤謬 丁川夏乙 @ATAGAWA_NATUO
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