第21話
目を開いた礼人は、ぼうっとしていたが徐々に意識がはっきりしてくる。
畳の上に、朝の明るく澄んだ光が射し込んでいた。藤やの布団の上に横になっているようだった。蒼士は縁側に座ってこちらに背を向け、首だけを捻ってこちらを見ていた。
縁側の外、荒れ放題の庭の雑草には水滴が光っている。
「やっと起きた。おかしなを薬を飲まされたみたいだね。死んだかと思ったけど頑丈だね」
「なんでここに居るんだ。藤祭の日に帰ってくるって、お前。藤祭は今日なのに」
「祭の日が今日だって言うんだから、祭の始まりは昨日の日が落ちてからだよ。となると昨日の夜が媛神が動くべき時だ。僕は最初から、昨日の夕方に間に合うように帰るつもりだった。でも調べものに手間取って帰りが遅くなった」
おかしな知識が豊富な蒼士が、祭の始まりを夕暮れと認識しているのは、当然だったのかも知れない。知らなかったのは祭の本質的な意味に興味がない、礼人だけだ。
布団の上に上体を起こすと、自分が服のまま布団に入っているのに気づいた。そして恥ずかしいほどに着衣が乱れている。その事で、昨夜の夢か現か分からない、悪夢のような光景を思い出す。
「昨夜おかしな事が。俺は夢を」
「あれは夢じゃないよ。全部現実だよ。間に合って良かった」
現実感は薄かったが、映像は鮮明に脳裏に焼き付いていた。紫の水干と、白い腿。唇。見開かれた目。なだれ落ちる髪。
「じゃあ、あの姫沙紀さんは現実に」
「あれは藤蔭姫沙紀じゃない」
一枚の写真を蒼士が差し出したので受け取った。そこに写っている人物を見て「あっ」と声を上げた。
「それが本物の藤蔭姫沙紀だよ」
写真に写っているのはテーマパークのぬいぐるみに抱きついて、笑顔でポーズを決める女。その女の顔は、礼人が二度も写真に撮った幽霊の顔。
「幽霊だ」
「それが藤蔭姫沙紀だよ。間違いない。彼女が卒業した中高一貫校の同級生から辿って、大学の友人を探し出して確認したんだ。しかも写真の日付を見て。一昨年の十二月。一昨年の暮れまで、彼女は岡山市内のデパートに契約社員として勤めてた。でも元交際相手のストーカーに悩まされてて一昨年の暮れに会社を辞めてる。そこから先の足取りは友人達も知らない。ストーカーから逃れるために、本人が意図的に今までの人間関係を切ったんじゃないかって、友人の一人は言ってた」
「待て。よく分からない。写真に写った幽霊が藤蔭姫沙紀? 一昨年まで普通に働いてた? 藤蔭屋敷の成長する幽霊の仮説は間違いだったのか。いや、そもそも。じゃあ俺達がずっと姫沙紀さんと言ってた、姫奈ちゃんの母親のあの人は誰だ」
「彼女こそ幽霊だったんだ」
呆然としてしまったが、蒼士は礼人の手から写真を取りあげ立ち上がった。
「藤蔭屋敷に行こう。きっと麻美さんが困ってる。姫奈ちゃんと二人だけで心細いだろうし。しかも小姫子さんと本物の姫沙紀さんを解放しなきゃいけないし。下手したら、彼女達は何日も食事してない可能性がある」
わけが分からず礼人はただ蒼士に言われるままに、彼とともに藤蔭屋敷へ向かった。玄関で声をかけると麻美が飛んで出てきた。
礼人はぐっすり寝込んでいて気がつかなかったが、昨夜、夜頃の最中に突然の雷雨に見舞われ、祭は急遽中止になったらしい。
姫沙紀は一旦屋敷に帰ってきたが、すぐに姿が見えなくなった。麻美は慌てて探そうとしたが、ひどい嵐で外へ出られるものではかった。携帯電話も電波が乱れて使えず、固定電話も数日前の雨で不通になったままだった。麻美は姫奈を寝かしつけ、自分は心配の余り一睡も出来ずに朝を待っていたらしい。ただ朝になっても何処を探してよいか分からず、まごついていると二人がやって来たらしい。
「姫沙紀さんが、いなくなったんです!」
必死に訴える麻美に蒼士は淡々と、
「それは知ってます。大丈夫。姫沙紀さんはいますよ」
と答えた。そして麻美に、姫沙紀の部屋を探せば土蔵の鍵があると思うから探してくれと要求した。怪訝な表情をしながら麻美は奥へ引っ込み、程なく鍵を手に戻ってきた。探すまでもなく、その鍵は色々な鍵と一緒に姫沙紀の部屋に保管してあるのだという。
蒼士は礼人と麻美について来いと言って裏手の土蔵へ向かった。鍵を使って錠前を開け、扉を開く。薄暗い蔵の中は、かび臭さ以外の異様な臭いも混じっている。食べ物の腐った臭いと汚物が混じり合ったような、胸が悪くなるような臭いだ。臭気に鼻を押さえた麻美と礼人と違い、蒼士は土蔵の中へ踏みこんで静かに声をかけた。
「藤蔭姫沙紀さん。いますよね? 出てきて下さい」
出入り口から射しこむ光に、埃がきらきら舞っている。
「怖がらないで大丈夫です。彼女は、もうこの屋敷にいません」
ことりと、奥のほうで小さな音がした。礼人と麻美は数歩後退った。
土蔵の奥に積まれた茶箱の裏から怯えた女の顔が覗いたのだ。肩までの髪は脂でべたつき、肌も垢で薄汚れていた。白目が黄色く不健康な色をしている。間違いなく土蔵の窓にいた女だった。彼女が茶箱にすがるようにして立ちあがると、じゃらりと重い鎖の音がした。彼女の足首に、犬の鎖が南京錠で固定してある。鎖の先は柱に南京錠で固定してある。彼女は薄汚れ、怯えていた。かちかち歯が鳴っている。
「藤蔭姫沙紀さんですね」
蒼士が問うと、彼女は消えそうな震える声で「はい」と答え、かろうじて頷く。
「違う。姫沙紀さんじゃない」
麻美が呻く。蒼士は彼女に振り返り、首を横に振る。
「いいえ。この人が、本物の藤蔭姫沙紀さんです。今まで藤蔭姫沙紀を名乗っていた人こそ、本来この蔵の中にいなければならない人だったんです」
その後、蒼士の手により宗一郎の部屋も開けられ、小姫子も部屋の外へ出された。
小姫子は、閉じこめられた日から食事を与えられていなかったらしく衰弱していた。麻美はショックを受けたようだった。宗一郎の部屋に閉じこめた小姫子の世話は姫沙紀がやっていると、姫沙紀は麻美には請け合っていたらしい。歩行すら覚束ない小姫子の様子に、さすがに麻美も同情したようだ。
土蔵の中にいた、蒼士が言うところの本物の藤蔭姫沙紀も弱っていたが、小姫子ほどではない。彼女は身なりを整えると、蒼士の求めに応じて藤蔭屋敷の客間に出てきた。
畳の上に置かれた座布団に座り、
「ありがとうございます、終夜さん、一さん。あのままだったら、きっと私もお母さんも、死んでいました。この五日ほどはご飯も運ばれなくなってたので・・・・・・」
藤蔭姫沙紀は深々と頭を下げた。目がぱっちりした美人だが、きつい感じの女性だった。
(これは姫沙紀さんじゃない)
目の前に座る女性の存在を否定したいような苛立ちを、ふいに覚えた。
昨夜、石を打ち下ろそうとした姫沙紀を目の当たりにしながらなお、ここ数日触れあった清楚で柔らかな物腰の女性を好きだという感情が礼人の中から消えない。だから、姫沙紀の存在そのものを奪って現れたかのような目の前の女性に苛立つ。それは礼人から離れた場所に座って警戒心剥き出しの麻美も同様らしく、顔が険しい。
座布団にあぐらをかいている蒼士は、憂鬱そうで気怠げだ。
「お礼は必要ないです。行き掛かり上、助けただけですから」
麻美が、きっと蒼士を睨む。
「終夜さん。姫奈ちゃんのお母さんの姫沙紀さんは何処なんですか。私はそれが心配なんです。しかもこの人が本物の姫沙紀さんだと言われても、意味がよく分かりません」
「じゃあ、説明します。僕から説明しても良いんですか、藤蔭姫沙紀さん。僕の推測が間違っているところは、あなたが訂正して下さい」
彼女は力なく頷く。蒼士は少し間を置いてから口を開く。
「さっき言ったように、この人が本物の藤蔭姫沙紀さんです。今まで麻美さんが姫沙紀さんだと思っていた人間は、この藤蔭屋敷で二十七年前に密かに生まれ、戸籍すら与えられないままに土蔵の中で秘密裏に育てられた女性です」
昨夜からの衝撃を引きずっていた礼人は、蒼士の言葉の意味を理解するだけで精一杯で、それに対してあれこれ考える余裕はなかった。だから何も言えなかった。
麻美は、礼人よりもわずかに果敢だ。蒼士に向かって、
「そんなの信じられません。この人が姫沙紀さんで、姫沙紀さんが土蔵で育った人だなんて。しかも、どうして土蔵で人を育てるなんてするんです。なんの得があって」
と言った。蒼士は、憔悴した表情で座る女性に振り返る。
「麻美さんは、あなたの従姉妹です。会ったことはなかったでしょうが、彼女はこう言ってます。あなたから言うことはないですか?」
促された彼女はおずおずと顔をあげ、震える声で言った。
「怖い」
麻美が、びっくりしたように目を見開く。
「怖いです。私の存在が、あの人に乗っ取られかけてる。この人だって、私を姫沙紀だって認めない。だったらお母さん以外、誰も私を姫沙紀だって証明してくれないかも。そしたら、あの子が私になって、私があの子になってしまう」
怯えた瞳に麻美は衝撃を受けたようだ。表情に動揺が走る。目の前の女性の怯えが、彼女の言葉が嘘ではないと証明しているのだ。
「大丈夫です。あの人は去りました」
怯える女性を労るように言うと、蒼士は麻美に視線を戻す。
「そもそも麻美さん。なんでお母さんの慶子さんは、仲が悪かった小姫子さんの娘の姫沙紀さんに同情なんかしたと思いますか」
「お母さんは優しい人でした。姫沙紀さんが酷い仕打ちを受けているのを知ったら、同情して当たり前です」
「結婚後一度も藤蔭屋敷に帰っていないほど、疎遠だったんですよね。そんな疎遠な屋敷の、仲の悪かった姉の子どもの様子なんて、わざわざ知ろうとしない限り耳に入るものじゃないと思いませんか。もしわざわざ調べたとしたら、それほど気になっていたという事です。なんでそれほど、仲の悪かった姉の子どもが気になったんですか」
「それは・・・・・・」
「慶子さんと宗一郎さんとの間に、二十七年前に子どもが生まれたんです」
麻美の顔が嫌悪に歪む。
「何を言ってるんですか、終夜さん。宗一郎は母の兄ですよ。なにか勘違いしてませんか」
「ええ、知ってます。勘違いじゃありません。宗一郎さんと慶子さんは実の兄妹で、その二人の間に子どもが生まれたと」
「馬鹿なこと言わないで! 母を侮辱するんですか」
鋭い麻美の声が蒼士の言葉の最後を切り取る。
「侮辱するつもりはありません。僕は事実を言ってるだけです。二人の間に生まれたその子は土蔵で人知れず、名前もなく育てられたんだ。麻美さん。その人はあなたの父親違いの姉です。そしてあなたが昨日まで姫沙紀さんと呼んでいたあの人です。慶子さんは死を目前にして、その子が気がかりで、どうしようもなくて、娘のあなたを送り込んだ」
怒りか衝撃かで、麻美は顔を真っ赤にした。彼女から視線をはずし、蒼士は黙ってただ座っている女性に問う。
「それで間違いないですか。姫沙紀さん」
彼女は俯いたまま、「そうです」と小さく答えた。麻美が、目眩を感じたように前屈みになり畳に両手をつく。「うそ」と小さく呟いた声が、畳の上に落ちる。
(あの姫沙紀さんが・・・・・・俺が姫沙紀と思い込まされていたあの人が。あの人が宗一郎と慶子さん間に生まれた子で、人知れず亡霊のように育てられたという、その人)
震えが来る。震えの原因は、その子に対する残酷な仕打ちへの拒否反応か、もしくは、兄妹が犯した罪の忌まわしさへの拒否反応か。もしくは———。ようやく礼人の頭が真実を受け入れ始めた故にやってくる、絶望感か。
女性は俯いたまま小さく言葉を続ける。
「物心つく前から、土蔵に、私よりも少し年上の女の子がいました。名前もなくて、ほとんど外へ出してもらえなくて。お父さんもお母さんも、余姫お婆ちゃんもその子を毛嫌いしてて。髪もぼさぼさで。たまにしかお風呂に入れないから不潔で。土蔵の中は臭くて」
「その子が何者か、ご両親や余姫さんから聞いた事はありますか」
「訊いても教えてくれませんでした。でも両親や余姫お婆ちゃんの会話の断片から、小学校を出る頃にはどういう事情なのかぼんやり分かってました。だから一層気味悪かったんです。その子いつも土蔵の薄暗いところから、外の私達の様子を見てて。土蔵の窓から下を見て、私と目が合うと、にやっと笑うんです。あれは子どもの笑い顔じゃなかった。お化けみたいで。しかも私達に隙があると、どうにかして土蔵から出て、いろんなものを盗んで。土蔵の二階の窓から、下を通りかかったわたしに向かってノートの切れ端なんかを落とすんです。『あそぼう』とか『入ってきて』とか、書いて」
姫沙紀の目が、どこからかその子が見ているのを恐れるかのように、うろうろと泳ぐ。
「文字なんか知らないはずなのに、いろんなものを盗んで、吸収して、賢くなってるようで。いろんなことを知ってるんです。どうやって出ているのか、時々抜け出すこともあって。私の飼い犬を野犬に食い殺させたりしたんです。だから、怖くなって。怖くて。嫌で、嫌で、たまらなくて。お母さんとお父さんは喧嘩ばかりだし。こんな家が大嫌いで」
「だから中学校からは、寮のある学校を選んだんですよね。あなたの中高校時代の友達と話しました。彼女は良く覚えてました。あなたはお盆休みもお正月も休みも、家に帰らず寮にいたと。家が嫌いだと言ってたと」
「あの気味の悪い子と、離れたかったんです。絶対一生、家に帰らないとお母さんにも言ったんです。財産もいらないから、とにかく縁を切りたいって。でも、あの男につきまとわれて。怖くて。逃げる所がなくて。仕方なく一昨年暮れに家に帰ってきたら、あの子が子どもを産んで、しかも藤蔭姫沙紀として、ここにいて。お母さんが、そうしたんだって。私が絶対に家に帰らないって言うから、あの子を私の代わりにしてるんだって。そうしなければ財産が、慶子叔母さんや良治叔父さんや正治叔父さんへ行ってしまうから、それを防ぐためにって。私は暫く土蔵の中で暮らして、安全になったらまた街へ戻れば良いって」
「成葉里村に戻ってからは、ずっと土蔵にいたんですか?」
「時々は、母のいる離れへも行きました。外から見られる心配があったから二階の宗一郎伯父さんの部屋へ。でも五日ほど前から土蔵に閉じこめられて。犬の・・・・・・昔、あの子が食い殺させた私の犬が繋がれてた鎖で繋がれて。母も来てくれなくて」
礼人が撮った二枚の女幽霊の写真は、目の前にいる彼女の姿。幽霊として育てられた女性は、成葉里村の中でだけ、「もう一人の藤蔭姫沙紀」として生きていたのに、本物の姫沙紀が郷里に帰ったことによって、一昨年の年末を境に本物と偽物が入れ替わったのだ。
「でも、そんな事が可能なのか。入れ替わったのに誰も気がつかない事があるのか」
ほとんど独り言だったそれに、蒼士が答えた。
「一さんは、毎日顔を合わせていた小学校のクラスメイトとか近所の子とかに、十年後ばったり出会って、この人はかつてのクラスメイトだ、近所の誰ちゃんだと確信を持てる?」
それは不可能だ。似ていると思っても確信にまでは至らない。するとその逆もしかりか。
村人は姫沙紀の顔が変わったと感じても、「成長したからだ」と思う。なおかつ母親が「この子は私の子です」と紹介すれば、疑う余地はない。同じ年頃の親しい友達も村にはいなかったのだから、偽の姫沙紀が昔の姫沙紀と別人だと、見分けられる人はいなかった。
小姫子は、名前もなく育てられた子を、慶子や松影へ財産を渡さないために利用しようとした。実の娘が財産放棄すれば、自分の死後財産は親族へ分配される。それを嫌って。
兄を奪った憎い慶子や、家格が下の松影に財産を渡すよりは、慶子の腹から生まれた子でも宗一郎の血を継ぐ子に、財産を渡した方がましだと思ったのだろうか。
小姫子が、憎む慶子が産んだ子どもを手元に置き続けたのは、その子の半分には兄の宗一郎の血が流れているから———。
妄執だ。宗一郎に対する妄執が、名前のない子を姫沙紀に仕立て上げた。
小姫子は、姫沙紀という戸籍で二人の女を生かそうとした。
そしてその子は、生まれて初めて名を与えられ何を考えたのだろう。
そもそも名前もなく育てられた彼女は、二十年以上何を考えて生きていただろう。名前もなく他人に必要とされず、外の世界との接触を断たれていたら、自分の存在があやふやで、輪郭がとろけ自我が崩壊しそうだ。
「名前もなく、愛情もなく、外の世界との触れあいもなく育ったら、自分が何者かすらも確立できない。けれど人間は環境に順応し、その中でなんとか形を作ろうとするんだ。虐待を受けた子か幾つも人格を作って過酷な環境に順応しようとするように、彼女は、最も身近にあるものに自分を仮託して、アイデンティティを確立しようとした可能性がある」
青ざめた礼人の心を読んだかのように蒼士は言った。顔をあげた礼人に彼は頷く。
「千年藤だ。土蔵のすぐ裏にある。土蔵の窓からも見える。彼女は自分と藤媛を重ねて千年藤を見つめ、四年に一度の祭の灯りを見おろし足音と声を聞いてた。その彼女が突然、藤蔭屋敷を継げと言われたらどうなると思う? 狂喜して自分は藤媛だと確信し、藤媛として振る舞う。歪んだ自我を現実世界で開花させたんだ。僕達はそれに巻きこまれた」
「藤媛として振る舞う?」
「一さんに仕事を依頼したのも、藤やを開き外からの客を招き入れたのも、松影良治の死も、松影正治と四年前の登山者鈴木俊之の行方不明も、藤媛と自分を重ねたあの人の仕業だった。全部、藤媛としてやるべき事だったから」
不意に強い風が吹き、山の木々がざわめく音が妙にはっきり聞こえた。
(ああ、そうか)
妙に納得していた。礼人は最初から、彼女の立ち居振る舞いや喋り方が、現代の女性らしくないたおやかさだと驚き、まるで古い映画のヒロインのような印象を抱いた。それは彼女が特殊すぎる閉鎖空間で育ったからだ。現代女性に当たり前の会話のテンポや、すこし乱暴な言葉遣いや、流行や、そんな世の中の一切に触れていなかったからだ。ネットやテレビで見聞きした知識は咀嚼できても、立ち居振る舞い言葉遣いなど、ある程度の実践が必要なものは上手く使いこなせなかったのだ。だからあれ程古風な女性と思えたのだ。
彼女のたおやかささえも、彼女の不幸の証だった。
「・・・・・・姫沙紀さんは。いや・・・・・・あの人は今、何処にいるんだ」
麻美は畳に手をついたまま動かない。畳の上にぱたぱた滴が落ちる。無表情で泣いていた。藤蔭姫沙紀は、放心したように礼人と蒼士を見つめていた。蒼士は首を横に振った。
「分からない。ただ正気ではないと思う。彼女は自分が藤媛でなければ、姫沙紀でもない、何者でもないと誰かに突きつけられた事すらなかった。誰もが、彼女を存在しない者として扱っていたから。小姫子さんにしたって彼女を利用して『藤蔭家を継げ、姫沙紀として振る舞え』と命じても、それ以上の会話なんかしなかっただろう。せいぜい化物と呼ぶくらいだ。化物と呼ばれても彼女は平気だった。自分は藤媛だから人間から見たら化物だろうってね。けれどあの人は、ただの人だった。意図的に、何者でもない存在に仕立て上げられていただけ。僕があの人の正体を暴いた事で、——あの人は自分の存在を見失った」
蒼士が突きつけた事実で、あの人は何者でもなくなったというのか。
自分が何者でもないという事実は、あの人の心の中にあったはずだ。しかし誰もそれを抉り出さなかった。しかし自分が何者でもないと他者に認識された瞬間、彼女は自らの心の中にある事実と向き合わなければならなくなった。
そして自分が何者でもない、哀れな存在だと悟った。その時、何が起こっただろう。
「可哀相に」
無意識に呟いていた。あの人が、大人達の罪の末に生まれたのだとしても、あの人自身の命には何の罪もなかったはずなのに。罪のなかったはずの命が、なぜ罪に落ちたのか。あの人に抱いた仄かな愛しさが、礼人の中でどうしようもない哀しさへと変容している。
(守りたかった)
全てを知ってもその思いだけは変わらなかった。彼女が彼女になる前に出会い、もっと昔の幼い頃から守ってあげられれば良かったのだ。
「そうだね」
蒼士の相槌に切なさが滲んでいた。その声に触れ、泣きたいような気持ちになった。
ぺたん、ぺたんと、廊下を歩く足音がする。
「姫沙紀ちゃん」
桜子の掠れた細い声が呼ぶ。開いた襖の向こう側に姿を見せた桜子は、よれてくたびれた灰色の着物姿で、魂の一部が欠けたような茫洋とした表情で虚空を見つめていた。
本物の姫沙紀が、身を縮めるようにして身構えて上目遣いに桜子を睨む。「なによ」と、彼女は呟くと、忌まわしそうに口の中で繰り返す。「大嫌い、あの人。大っ嫌い」。
藤蔭姫沙紀を名乗っていた彼女は消えた。
祭の翌日、千年藤のさらに奥へ続く山道に緋袴の切れ端を見つけた。彼女は山に呼ばれて行ってしまったかも知れない。迷いやすいという深い山へ。
その後の二日間、礼人は夢でも見ているような心地で過ごした。その間に偽の姫沙紀に依頼された仕事の決着だけはつけた。彼女は消えてしまったが、それまでに撮りためた藤祭関連の写真は大組長の松丸にデータを全て渡した。報酬についてはそれを約束した姫沙紀が消えてしまったのだし、仕事として半端な形になってしまったので、支払われる可能性はなさそうだったが、どうでもいいと思えた。
偽の姫沙紀の不在は、「急用で村を出た」という事で、麻美と小姫子が村の人々には誤魔化した。小姫子の様子は宗一郎の部屋から出た後、かなりまともに戻っていたのだ。おそらく姫沙紀を名乗る彼女の存在が小姫子の精神に負担になっていたのだろう。彼女が消えたことで、小姫子を苛んでいたものが無くなったに違いない。
さらに石田陸斗は、峠の沢で死体で発見された。足を滑らせ転落死した事故と警察は断定したが、本当にそうだったのか疑問だ。松影正治だけは、相変わらず発見されなかった。
本物の藤蔭姫沙紀は、これから街での暮らしを再開する準備をして、早々に小姫子とともに街へ出るという。桜子は施設に入れる段取りをしたようだった。
麻美も東京へ戻るが、姫奈を連れて行く決意をしていた。
姫奈は、藤蔭姫沙紀の子として行政に届け出られていた。戸籍上は姫沙紀の子であるが、彼女が引き取るのを拒んだので、麻美が引き取る事にしたのだそうだ。彼女は「お母さんが、ずっと心配してたし。私の姪っ子だから」と、寂しそうに笑って言っていた。
藤祭から三日目の朝、礼人は帰京を決意した。蒼士も礼人に付きあうように居残っていたが、彼の決意を聞くと自分も引きあげるという。そしてタクシーは勿体ないので、別の車を用意したから一緒に乗って行けと誘ってくれた。
迎えの車が来るまでの間、礼人と蒼士は千年藤の下にぼんやり座っていた。この場所からであれば、鉢の底のような成葉里村の全容が一望できた。杉林を抜けて村に入ってくる迎えの車も見えるので、車が村に入って来たのを確認して、ゆっくりと坂の下まで下れば車が到着している頃合いになるだろう。
視線をあげると紫の花房が空を覆って広がっている。視界いっぱいの揺れる紫は、見つめていると目眩を覚える。
藤の花は萎みかけており、色が褪せ、終わりの時を告げようとしている。
藤祭の本祭は行われなかった。嵐のせいで提灯が軒並み倒れ、その片付けで祭どころではなかったのだ。しかも各家から持ち寄った提灯が全て駄目になったせいで、四年後再び藤祭を行えるかは分からないらしい。各家が提灯を用意しなければならないが、提灯をそれ用にしつらえるには数万円が必要なのだ。その費用を各家庭に出せと言っても、このご時世では渋る家庭が多いだろうと大組長の松丸は切なげだった。
「お腹が空いた」
空を見上げながら、蒼士が力なく呻く。今朝は麻美が藤やに朝食を運んでそれを食べたが、その後彼女を手伝って藤やを閉じる作業をしていたので昼近くになった。
藤やの戸には鍵をかけ、さらに誰も入り込めないように、礼人と蒼士が玄関と窓にベニヤ板を打ちつけた。麻美がそうして欲しいと願い、小姫子も姫沙紀も同意した。麻美がそれを望んだのは、過去の忌まわしさを一切封印して新たに生活をやり直そうとする決意の表れに思えた。
「結構働いたからな。町に出たら飯をおごってやるよ」
「どうせおごってくれるなら、そのお金で東京に帰ってから米を買って。ファミレスでおごるお金を使えば、安い米なら三キロ買えるよ」
「わかった。東京に帰ったら米を買ってやる。お前には今回、助けてもらったしな」
蒼士の瞳が明るくなる。こういうとき彼は素直だ。彼を不機嫌にさせる地雷原には無数の地雷が埋まっているようで、礼人は時折それを踏みつけて馬鹿にされたり呆れられたりするが、逆に彼をご機嫌にさせる方法はどうも一つだけのようで、単純明快なので助かる。
「本当?」
「約束する」
苦笑しながら請け合った後、ふとまた、彼女のことを思う。自分でも嫌になるほど、何度も何度もあの人の顔を思い浮かべてしまう。不思議なことに、雷鳴が轟く薄暗がりで見たはずの恐ろしい顔はほとんど思い出せない。思い出すのは明るい日射しの下で、清楚な白いブラウスを身につけた姿。細い項と、はにかんだ透明な笑顔ばかりだ。
事実を知ってなお、礼人の心は彼女の本当の姿を拒絶し認めていないのだろう。
ただ彼女が消えたことばかりが身に染みているようで、村に到着したときと同様に誰かを守るべき自分の腕の中が空っぽで、胸の中までもが空洞になっていると感じる。
空っぽの胸に五月の風が吹きこむと、痺れるように痛い。
「なんであの人は、あんな事をしたんだろうな」
初夏の清々しい青空を花房の隙間に見ながら、隣にいる蒼士に訊く。
藤の根元に積まれた泥人形を蒼士は見やる。崩れかかった泥人形の山を憐れむようだ。
「彼女は藤媛として、藤媛らしく振る舞う事で自我を保っていたんだ。だから藤媛がしたように、外の男と交わって子を産みたがったんだ。それが彼女が考えた存在意義だったんだ。だから男を誘い込もうと計画し、出張仕事をする写真屋に目をつけ、偽の仕事を依頼した。僕はたまたま藤媛信仰に興味を持って連絡したけど、彼女にとって僕は、一さんを上手く手玉にとれなかったときのための保険だったんだろうね」
礼人の仕事を依頼したのも、藤やを開いたのも姫沙紀なのだから、それにまんまんと騙された彼を、姫沙紀はどんなふうに思っていただろうか。普通であれば間が抜けていると心の底で笑うのだろうが、自分の存在を確かめるために罠を仕掛ける彼女は、違ったず。
自分の罠にかかった獲物の存在を、ただ純粋に嬉しがったように思える。
成葉里村に礼人が到着した当日の夜、何者かが真夜中に部屋を覗いていた。あれは彼女に違いない。やってきた獲物を確認し、村人に渡したファイルケースを回収するために、彼女は間違いなくあの夜、藤やに来たはずだ。彼女は床を這いずって礼人を覗き見していた。そうやって身を低くし、見とがめられないように動き回る方法を、幼い頃から習慣的にやっていたとしても不思議はない。ただ、あまりにも異様な習慣ではある。
「俺の店のホームページに依頼してメールをやりとりしていたのは、正真正銘あの人だったってわけだ。でも戸籍がないとしたら、彼女はスマートフォンも契約できないだろ」
「小姫子さん名義の契約だったみたい。ついでに言うと姫奈ちゃんの出産は、自宅でしたらしい。その後に近隣の助産院で、姫沙紀さん名義の健康保険証で診察を受け出生届を出してた。本物の姫沙紀さんに確認したら、三年前に財産放棄手続きに必要だと言われて、健康保険証を小姫子さんに渡した事があると言ってた。姫奈ちゃんが生まれた頃だ」
健康保険証には顔写真がない。年格好が似ていれば不審がられず利用できるし、しかも本物の姫沙紀は契約社員だった。正社員でないために保険証は国民保険だ。社員情報を細かく把握している会社の健康保険組合が不審を覚え、詮索を入れてくることもない。
ひっそりと、あの人は姫沙紀に成り代わっていた。
しかしこれが徐々に進んでいけば、いつか本物の姫沙紀と亡霊だった女が入れ替わるのも不可能ではない。最初は小姫子に言われるがまま姫沙紀の役割を担っていただけのあの人が、社会の構造や常識を学び、その可能性に気がついたとしたら。
いや、おそらく気がついたのだ。
「誰にも知られずに、藤蔭屋敷の中であの人は姫沙紀に成り代わり、それが世間に認知され、完璧な姫沙紀になれたら良かったのかもしれない。けれどそこに邪魔者が現れたんだ」
「松影の双子か」
「そう。食い詰めた兄弟が覗き趣味の結果、秘密を知ってしまう。土蔵に本物の姫沙紀がいることに気づかれたんだ。兄弟はどうすると思う?」
「そのことを口外しない代わりに、あの人を脅し、山林を売らせようとする」
「おそらくね。ただ正治が、良治の抜け駆けをして自分だけ楽しもうと画策し、良治が三村町へ出ている留守を狙って、あの人に呼び出しのメモを渡した。あの人は誘いに乗った振りをして正治を殺した。ただここであの人は、正治が知っていることは、きっと良治も知っていると察した。ということは、遠からず良治も脅しにくるのは確実。良治も、早急に始末しなければならない。だから、その罪を正治に被せられないかと考えた。そこで涸れ井戸の細工を思いついたんだろうね。前日、正治から渡されていた呼び出しの手紙を利用し、自分が第一発見者になって、正治の死体の消失劇をやってみせた」
「でも、どうやってあの人はたった二十五分で、井戸から死体を引きあげたんだ」
「バラバラにしたんだよ」
「なんだって?」
「証拠はないけど、これしか考えられない。あの人は藤媛として許せない正治の頭を切り落として、村の外へ捨てたかったはずなんだ。だから死体をあの廃屋の周囲の何処かの山中へ引きずっていって、首を落としたのは間違いない。それで思いついたんだろう。首のついでに、両方の手首と足首も切り落とした」
蒼士は自分の手首に指をあて、すっと引く真似をする。
「そして藤蔭屋敷から梯子を運んできて井戸に下ろし、頭と両手首と足首、それに正治の着ていた服を抱えて、井戸の底へ下りる。服にはボロ布かなんかを詰めて、胴体があるらしく細工して、頭と両手首と足首だけを服から出しておく。で、頭と両手首足首、衣類に、それぞれテグスをつける。亡くなった武雄さんは釣りが好きだったんでしょう? テグスは残っていただろうし、テグスなら六号のもので九キロの加重は支えられる。テグスは井戸の上までのばしておき、何処かにくくりつけて、見えないように細工する」
はっとした。最初に涸れ井戸を覗きこんだときに、壁に生えている羊歯の間に細い光の筋が見えた気がしたことを思い出した。あれがテグスだったとしたら。
「井戸の深さは四メートル以上ある。覗きこめば本物の人間だってわかるけど、触れられないから、それがバラバラ死体だと気づかれない。一さんが死体を見て通報するためにその場を離れたら、テグスを繰って首と手足と衣類を回収する。まとめれば小型の段ボールに突っ込める。廃屋に隠しておいて後日始末すれば良い。僕は最初、正治は死を偽装したのかと思っていた。けど違った。あの人は、正治が生きていることを偽装したかったんだ。生きていない限り、あんな短時間で井戸からの脱出は無理だろうと思わせたかった」
血なまぐさい執念、あるいは怨念すら感じる偽装に、礼人は恐ろしさを覚える。
「正治の死体は、探せば山中の何処かにあるはずだ。ただ、山は深すぎる。闇雲に捜索するのはかなり大変だろうね。獣に食われている可能性もあるし」
蒼士は背後の山並みを振り返る。その顎の細い線を見つめていると、彼が礼人の知らないことを全て知っていて、なんでも答えてくれるような気がした。ねだるように問う。
「不思議なのは、あの人が麻美さんを藤蔭屋敷に居候させたことだよ。麻美さんに正体がばれるのを恐れなかったのか? 真実を知られるのを恐れたから、小姫子さんは麻美さんが居候することを渋ったんだろ。なのに張本人のあの人が積極的に受け入れたのは何故だ」
「自分が姫沙紀であると、少しでも多くの人に思わせたかったんだろうね。あの人を姫沙紀と認識する人が増えれば増えるほど、自分の存在が強固になるんだから」
本物の姫沙紀を前にした時麻美は、姫沙紀じゃないと口にした。何十年も経ち、麻美と同じ認識の者が、本物の姫沙紀を知る者の数を上回った場合は偽物と本物が逆転する。
「小姫子さんも本物の姫沙紀さんも、忌まわしい過去の真相を必死に隠したがるだろうから、かえってあの人は大胆に麻美さんを招き入れられた。小姫子さんと本物の姫沙紀さんは、蔵から解き放ったあの人を上手く利用できなかった。逆に利用された」
本物の姫沙紀は最終的に蔵に閉じこめられていた。あのままだったら、あの人は完璧に本物の姫沙紀に成り代われていた。本物の姫沙紀は蔵の中で骨になる。
体が冷えたのか礼人は胴震いがした。
「小姫子さんは、四年前の鈴木俊之さんの事も、あの人の所業だと知っていたはずだ。けれど自分が始めてしまったのだから告発も出来ない。藤蔭家の忌まわしい秘密が明るみに出る。何よりもそんな事をしたら藤蔭屋敷の財産は小姫子さんが憎んで余りある慶子さんや、下に見ている松影家へ渡ってしまう。小姫子さんは自分が姫沙紀として連れ出したあの人を、扱いあぐね、畏れ、追い詰められていたはずだ。元々精神的に不安定だったのに、それが一層酷くなったのはそのせいだろう」
小姫子は、礼人が藤やの客と知らされた途端にあの人を打ち据えた。「化物」と。あれは、あの人がまた犠牲者を誘い込んだことに、恐怖と怒りを抱いての事だったのだ。
「あの人が全て仕組んでたのか。藤やに予約の電話を入れたとき、電話に出たのも彼女か」
「固定電話の子機の電波が届く範囲は、藤蔭屋敷も含まれる。彼女は自分の部屋に子機だけ持ち帰り、一さんが電話をかけてくるのを待ち構えてた。ついでに祭見物に来る、僕のような物好きな客も待ってた。女であれば宿泊を断る。男が予約をしてきたら快く受ける。そして当番表を作って、鍵と一緒に村人の家の前に置いておく。自分は何食わぬ顔で僕達に会って驚いて見せる」
言葉もなかった。礼人は最初から彼女の思惑の中にいたのだ。
「あの人はこの四年間最高に幸福だったろうね。藤蔭姫沙紀となり藤媛として子も授かり、本物の姫沙紀を監禁して、このまま計画通りいけば藤蔭姫沙紀に成り代われるはずだった。このまま大人しくしていれば良いと本人も分かっていたはずだ。けど自らを藤媛として自我を保っていたせいで、藤祭が近づくと何かがうずいた」
篝火に照らされた藤の花の下で、白拍子姿の姫沙紀の笑顔はどんな風だったろうか。男を誘う、妖艶なそれだったのか。
しかし姫奈を授かってからの四年間だけは、彼女はただの人としての幸福を味わったのかも知れない。それが礼人を惹きつけた透明な朗らかさの根源だったのか。
「もし二十年以上前から始まる今回のことが全部、藤媛の呪いだとしたら。藤媛はなぜ、なんの目的で呪うんだ? 藤蔭家は自分の子孫だろう。理不尽だろう」
呪いなど本気で信じてはいない。なのにそんな感傷的なことを口にしてしまったのは、全てにやるせなさを感じるからだ。理不尽な出来事に理由を求めたくなるからだ。
(ああ、なるほど。こんな気持ちからか。理不尽さに答えを求めたくて人は怪異を生むんだ。これは呪いに違いない、これは幽霊の仕業に違いない、これは妖怪に違いないって思って作り上げていくんだ。成葉里村の人たちは彼らの首魁である藤媛を敬い恐れたからこそ、媛が死してなお、そこに全ての責任をおっかぶせるようにして、望外の幸運の原因や、理不尽な不幸の原因を求めた。現実の存在が強烈だった記憶が引き継がれて)
自分で質問したことに、心の中で半ば答えを出していた。
「呪い?」
疑問を呈するかのように、蒼士が呟いた。
「全ては彼女がやったことだ。けど彼女がそうなるように全てを導き操った人間がいるよ」
言葉の意味を計りかね、礼人は蒼士の横顔を見つめた。そしてじわじわとその言葉の意味を理解して目を見開く。
「あの人の他に・・・・・・。いや、あの人を操っていた主犯がいるっていうのか?」
蒼士は真っ直ぐ礼人の目を見つめ返す。
「藤蔭姫沙紀を名乗っていた彼女は、確かに自分を藤媛に仮託してアイデンティティを保っていた。その結果藤媛として振る舞い一連の事件を起こした。けれど蔵に閉じこめられていた彼女は、どうやって藤媛伝説や藤媛信仰を知ったの? 寺社仏閣のように記録された縁起があるわけじゃない。民間信仰は口伝で伝わる。民俗学者が躍起になってフィールドワークをするのは、それら伝承や信仰が口伝でしか伝わってないから、記録として残しおくためだ。藤媛に関しても同じだ。誰かが教えなければ知りようがないんだ」
胸がざわつく。終わったと思っていた悲劇の背後に、得体のしれないものが蠢いている。
「彼女に藤媛のことを教えた人間こそ、彼女を彼女たらしめた黒幕だ」
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