第20話

 日が落ち、山の鉢の底に真っ暗な闇が溜まる。すると鉢の北側面に、光の道がぼうっと出現した。提灯に明かりが灯ったのだ。

 真っ暗闇に灯る提灯の明かりが、これ程神秘的なものだと知らなかった。提灯の中にある蝋燭の明かりは、紙を透過し柔らかく滲むように広がる。それが百以上連なり坂の上へ上へと、人を導くように道を成す。その先、ずっと高い場所には篝火が燃え、ゆらゆらと濃い陰影が揺れ、藤の花の紫が広がっている。見つめていると頭の芯が痺れ、現実感が薄れていくような光景に、ざりざりと坂を上る人々の足音が重なる。足音の主達は坂を上りながら、「こなせ」「こなせ」と、単調なリズムで繰り返し唱えながら上っていく。

 千年藤への参拝は、今夜中に村人全員が終わらせるらしい。めいめいが好き勝手に上ってきて、足音と「こなせ」の声が不規則に響き続ける。

 礼人は興奮した。この光景をどうやったら写真に撮れるだろうかと、焦りに似たものを感じた。喜びには、祭が終われば姫沙紀がここを離れる決意を固めてくれた喜びも重なっていた。しかし石田が襲ってくる可能性はあるので、油断もしないつもりだった。

 写真を撮るにしても、まずは祭に参加して藤媛に敬意を表さねばならない。

 祭の前に姫沙紀に作法を教えてもらい、礼人は千年藤へと向かった。姫沙紀が祭に参加するので、麻美は今夜、姫奈の子守として藤蔭屋敷に残っていた。

 村人は童人形を準備して供えるが、よそ者の礼人はただ千年藤に参り、姫沙紀扮する巫女から盃一杯の酒をもらい受け、その場で飲んで帰ればいいだけらしい。

 千年藤の周りに五つも篝火が焚かれていた。方向が逆の注連縄を巻いた幹の根元には、沢山の泥人形が置かれ、傍らに姫沙紀がいた。手伝いの松丸が横から白い盃に満たした酒を姫沙紀に渡すと、それを姫沙紀が泥人形を備えた参拝者に手渡す。参拝者はそれを呑み、盃を松丸の傍らに控える組長へと返す。

 遠目でその様子を認め、意表を突かれて立ち止まった。

 姫沙紀が妙な格好をしていたのだ。頭には立烏帽子、緋の袴に白の水干。水干の紐も鮮やかな赤。これは巫女の衣装ではなく白拍子の衣装だ。


(蒼士が言うように、この地域が他の地域とは違う信仰を持ち続けていた証拠なのか。立烏帽子は鈴鹿御前だ。やはり藤媛は群盗の首魁だったんだろうか)


 巫女の衣装よりも、白拍子の衣装は艶やかだった。彼女の挙措一つ一つが優雅に映る。緊張しながらも礼人は姫沙紀へ近づく。彼女は笑顔で盃を手渡した。それを飲み干す。

 姫沙紀は美しかった。伝説の美女藤媛がいたとしたらまさにこんな姿だろう。唇と目元に紅をひき、髪を下ろしている。白い肌に篝火の陰影が揺れ、礼人を見つめる瞳はわずかに潤み、恍惚感に似たものが見える。彼女が、これほど妖艶に装えることに陶然とした。

 姫沙紀が藤の下に佇む姿。篝火と藤。参道の揺らめき。沢山の写真を礼人は撮り続けた。例の蔵は気になりはしたが、錠前が固く閉じられているので無視した。何があろうとも、明日までの事だ。ただし襲撃は警戒しなければならない。

 とはいえ祭の最中は姫沙紀の周りに、沢山の人がいる。その点の心配が無かったので、ここぞとばかりにあらゆる場所へと走りシャッターを切った。ざりざりと砂利を踏む足音と、人々が唱える「こなせ」のリズムを写真に写し取れないのがもどかしい。それでもこの空気を写真に取り込もうと必死だった。

 興奮のためか、そのうち頭がぼうっとしてきた。ここ数日おかしな緊張ばかりしていた上に寝不足で、さらに興奮してしまったから、神経がおかしくなったのかも知れない。


(休まないとまずい)


 参拝者は真夜中近くまであると聞いているので、それまで姫沙紀は大勢に囲まれているはず。しかも藤蔭屋敷の客間は、祭を進行する者達の休憩所として提供されているため、そちらにもかなりの人の目がある。祭の間であれば、礼人が少し目を離しても大丈夫だ。

 今の状態では何かがあったとき碌に役に立たない。少し休む必要がある。藤やに帰り布団を延べて横になった。スマートフォンで二時間後にアラームをセットした。二時間経てば真夜中十二時。姫沙紀達が引きあげる時間には充分間に合う。

 暗闇で横になって目を閉じると、一層ぐらぐらと頭が揺すられるような気持ち悪さを覚えた。ざりざりと砂利を踏む足音と、「こなせ」「こなせ」と低く単調な声が響く。


 寝苦しかった。そして色々な夢を見た。


 蒼士と出会った日の夢も見たし、藤蔭屋敷に姫沙紀の元恋人が現れた夜の事も夢に見た。ひどい雨と雷で恐ろしかった。

 どっと自分の周囲が振動した。それで夢から引き戻されて意識を取り戻した。

 屋根を叩く激しい雨音に気がついた。雷鳴が轟く。


(雨・・・・・・。また、雨なのか? 雷だ)


 朦朧としながらも、雨音も雷鳴も夢ではなく今まさに現実に三日前と同じく激しい雨が降っていると認識した。


(いつの間に降り出した・・・・・・。今、何時だ・・・・・・何か大切な事があった気が)


 体がいう事を聞かず瞼も開かない。思考はまとまらず散り散りになる。


(そうだった。姫沙紀さん・・・・・・彼女を、守りに行かなけりゃ)


 枕に密着した項が蒸れて暑い。今は藤が盛りの五月なのに、闇が分厚い不愉快な熱気をはらんでいるかのようだ。何故こんなに暑いのか。これは、礼人の体そのものが熱いのだ。さっきの興奮をきっと引きずっているのだ。そのうえ何故か、ひどく息苦しい。


「雁はひがごと花かえるゆえ」


 二日前、蒼士が言った言葉が頭の中に反響した。彼は何が言いたかったのだろうか。


「なぞなぞは僕が解く。だから一さんは考えなくていいよ。そのかわり一さん、気をつけて」


 続けてそんな事も言っていた。

 何に気をつけろというのか、蒼士はそこをはっきり言わなかった。最初に彼は雁が云々と言っていたのだから、雁に気をつけろという意味か? 雁は何かの暗喩か? この言葉になんの意味があるのか———駄目だった。朦朧としてさっぱり分からない。

 蒼士に問い質したいが、彼は何処へ行ってしまったのだったか。礼人と彼はここ数日、陽に焼けてささくれ立った畳に薄い布団を敷いて夜は眠っていた。だが今、彼の気配が隣室にない。気配を殺しているのかも知れないが、何も見えないので確かめようがない。周囲には暗闇があるだけ。目を開けているか閉じているのか判然としないほど濃い闇。

 屋根を叩く激しい雨音が響く。屋根が抜けそうだ。雨の圧力で建物が押し潰されそうだ。

 そこで、ぼんやり思い出す。確か蒼士は何処かへ行ってくると告げた気がする。彼が留守の間に油断するなとか、気をつけろとか言っていた。しかし彼が何処へ行くと言ったかは、思い出せない。ぼんやりして考えがまとまらない。

 蒼士がいない。ここには誰もいない。


 いや、いる。


 呼吸音がする。


 ふぅー、ふぅーと。荒い呼吸を押し殺している微かな音が、耳元で聞こえる。

 腹と胸の上に、ずっしりと重みを感じている。息苦しいのは、そこに誰かがいるからだ。

 礼人の上に。上に乗っているのは———。

 目を開く。窓の外に紫電が走る。部屋の中が一瞬だけ紫に染まって見えた。そして上に跨がるその人の姿も見えた。


(藤媛)


 咄嗟にそう思った。その人は真っ黒い長い髪を垂らし、紫色の水干を身につけていた。

 しかし水干が紫に見えたのは紫電のせいだ。本来は白なのだ。そうと分かり悟った。

 ほとんど動かない頭と喉で、礼人はようやくその人の名を口にした。


「・・・・・・姫沙紀さん」



 断続的に稲妻が走り、フラッシュのようだ。明滅する光に動きが切り取られ、姫沙紀の動きがコマ送りのよう見える。


「欲しいの」


 引きつったような声で言いながら、姫沙紀は礼人の両頬を掌で挟むと口づけした。すぐに唇を離すと、彼女の手は礼人のシャツの下を探る。


(これは、姫沙紀さんか・・・・・!? そんなはずない。彼女がこんなこと・・・・・・!)


 体が動かない。混乱し、動く目だけで周囲を探る。緋袴をたくし上げ、姫沙紀の白い腿が剥き出しになっている。長い髪が頬に降りかかり、首の辺りに吐息を感じた。首を吸われる。その感触にぞっとした。姫沙紀であって姫沙紀でないその女が、ただ悍ましい。

 彼女は左手で礼人の体を探りながら、右手をそろそろと畳の上へと伸ばしている。そこにあるものを見て驚愕する。石だ。ちょうど片手で掴めるほどの大きさで、しかもその石には真っ黒く乾いた血の染みと、短い頭髪がこびりついている。

 彼女は礼人の体を探り、腰に跨がろうとする。「止めろ」と、ほとんど声にならない声を絞り出すと、彼女はさも不思議そうに、こきりと首を傾げる。

 こきり、こきりと、壊れたネジ巻き人形みたいに首をぎこちなく傾げる。

 全ての動きは稲妻のせいで、明滅するコマ落としだ。


「しないの? ねぇ、しないの? できないの? ニノマエサン?」


 顔も声も姫沙紀だ。しかしこれは姫沙紀ではない。礼人は呻く。必死で、体を動かそうとしていた。この女から逃れたかった。


「しましょう。ねえ、私と、ねぇ。ねぇ」


 手が体を這い回る。恐怖しか感じなかった。毒虫が肌の上を動き回っているようだった。「いやだ」と、声を振り絞った。


「そう、しないの? じゃあ、必要ないわ」


 興奮に上気していた彼女の頬から色が引き、声音が冷たく固くなる。彼女はゆっくりと上体を起こし、礼人の上に乗ったまま、右手で探っていた石に両手を添えて振りあげた。


 その時。


「お前は偽者だ!」


 鋭い声が部屋の中を突き抜けた。


(終夜・・・・・・!?)


 コマ落としの光景の中で姿は確認できなかったが、終夜蒼士の声に違いなかった。

 恍惚としていた姫沙紀の表情が一変し、動揺した様子で手にしていた石を畳に放り出す。石が畳を転がるごろりと重い音と振動がした。姫沙紀は立ちあがり、よろめくように礼人から離れて壁際に後退る。蒼士が、縄張りを守る獣のように慎重に部屋に入って来た。彼は全身ずぶ濡れで眼鏡もかけていない。


「お終いだ。お前の正体が分かった」


 青紫の稲妻が室内を照らし、姫沙紀が笑ったのが見えた。それはいつもの明るい場所で見せる笑顔と同じ。そのことが余計に不気味だった。この状況で見せる種類の笑顔ではない。彼女は今の状況とまるきり似つかわしくない、落ち着いた柔らかい声を作る。


「何を言ってるんですか、終夜さん? お帰りになったんじゃなかったですか? それに、あら、ずぶ濡れ。風邪をひきます」


 年のわりに、姫沙紀は驚くほど落ち着いていると礼人は思っていた。しかしそれは、よく考えると芝居めいた立ち居振る舞いではなかっただろうか。この異様な状況でいつもの喋り方そのままであることで、彼女がそれを常に演じていた感じが際立つ。


「やめろ。お前が藤蔭姫沙紀じゃないことは分かってる。藤蔭姫沙紀の元恋人が藤蔭屋敷に侵入した夜が、お前にとって致命傷だった。あれで僕は、お前が偽者だと気がついた」

「なんのことですか? なんでそんなこと言うんですか、終夜さん」


 戸惑ったような柔らかな声は、穏やかすぎてこの場にそぐわない。彼女が何かを演じきろうとしているような違和感が、そのちぐはぐさでさらに浮き彫りになる。

 体が動かない。礼人は蒼士の背中と姫沙紀の場違いな笑顔を見上げているしか出来ない。

 思考が半分とろけたような頭では、彼の言葉の意味が分からない。


「誤魔化しきれやしないよ」

「誤魔化してなんかいません。私には、終夜さんの仰る意味が分からないんですもの」

「じゃあ答えろ。藤蔭姫沙紀の恋人だった石田陸斗は、藤蔭屋敷に侵入した夜、姫奈ちゃんを盾にして姫沙紀さんは何処だと訊いてた。彼が姫奈ちゃんを発見したとき、同じ部屋に寝ていたはずお前の存在に、なぜ気がつかなかった」

(確かに・・・・・・ああ、そうだ。あれは不自然だ)


 蒼士の言葉で、初めてそのことに気がつく。

 意表を突かれたらしく姫沙紀は笑顔のまま沈黙する。しかしすぐに口を開く。


「それはあの人が入ってきたから、私は慌てて逃げ出して」

「足音や気配で事前に予知していたなら、姫奈ちゃんを抱えて逃げられたはずだ。けれど姫奈ちゃんを抱える暇も無く逃げたとなると、石田の姿を認めて慌て、姫奈ちゃんを助ける暇も無く、自分だけ逃げたと見る方が自然だ。となると石田も、お前の姿を見てるはずだ。けれどお前を目にしても彼は追わなかった。何故なら」


 姫沙紀が身震いした。


「それはお前が、石田が探している藤蔭姫沙紀じゃなかったからだ。だから姫沙紀以外の家人に見つかったと思い、かっとして大胆になった。扱いやすい子どもを抱えて、家人を脅して姫沙紀の居所を吐かせようとした」

「違います。勘違いでした。私はその時、お手洗いに立ってたんです。だからあの人が部屋に来たときに、私はそこにいなくて」


 姫沙紀の唇の端が、不自然に吊り上がり痙攣していた。笑顔を作ろうとしているが、うまく自分を制御できずにいるようだ。


「真夜中にたまたま? 偶然? 都合が良すぎるけど、まあ、いいよ。百歩譲ってそうだとしたら、石田は何で姫奈ちゃんを人質にして騒ぎを起こした? 忍び込んだなら、家人に気づかれないように全部の部屋を覗いて、姫沙紀さんを探す方が効率的だ。子どもが寝ていたら、その部屋の襖はそっと閉めて別の部屋を探せばいい。真夜中、一人きりで姫奈ちゃんが目を覚ましていたとは思えない。真夜中の暗い部屋で目覚めて、周囲に母親がいなければ、姫奈ちゃんは泣いて騒ぐ。子どもが目覚めて騒いでる部屋を、こっそり侵入してきた人間が覗く必要はない。石田は、その部屋を素通りしたはず。だからお前が部屋から出ていたと仮定するなら、姫奈ちゃんは確実に、ぐっすり眠っていたはずなんだ」


 お化けが出ると姫奈は怯えていた。しかし夜は母親と寝ているから、お化けは来ないとも言っていた。ということは姫奈は暗闇の中、一人残されるのは恐怖のはず。

 雷鳴がうるさい。蒼士の声が聞き取りづらい。


「石田が最初から騒ぎを起こすつもりなら、堂々と踏み込んで来て姫沙紀を出せと暴れればいい。わざわざ夜中に忍び込んだ時点で、彼は家人に気づかれたくなかったって事だ。松影さんが死んだ夜、藤やに侵入しようとした人間がいた。それは彼じゃないかと思う。藤蔭屋敷の様子を探っていて、一番近い空き家に見えた藤やに入り込んで、機会をうかがおうとした。基本的に彼は臆病だったんだ。侵入まで何日もかけてる」


 紫の光が明滅する中で蒼士は笑い、獲物を追い詰めるような鋭い目で姫沙紀を睨む。


「どうした? 反論は?」


 姫沙紀の目元と口元がぴくぴく震える。美しいはずの顔が、歪んだ仮面のように変貌している。


「石田は忍び込み、まず一つ部屋を覗いた。そこにはお前と姫奈ちゃんが寝ていた。しかし男の気配にお前が気づき、逃げられた。姿を見られた彼は観念して、姫奈ちゃんを盾にとって騒ぎを起こした。姫奈ちゃんを脅した彼が持っていたのは、大型のカッターナイフ。騒ぎを起こそうと決意して準備してくるにしては、貧相な凶器だ。彼は、出来るなら騒ぎを起こさず、姫沙紀さんだけをこっそり見つけ出し、脅すのが目的だった。彼の出現は、お前にとって致命的な出来事になりかねなかった。僕達が姫奈ちゃんを助けるため、とりあえずお前を連れてこようとしたら、彼の前に出なけりゃならない。そしたら彼が、この女は姫沙紀じゃないと証言する。だからお前は、あの男を無事に逃がす必要があった」


 蒼士の言葉が、壁際にいる姫沙紀をさらに追い詰める。彼女の全身が震えていた。


「あの時、玄関で騒いでた石田が急に黙った瞬間があった。それから一瞬電気か消えて、彼は突然逃げた。目的も果たさずに逃げた。あの時お前は軒下を回り込んで、玄関の外へ行ったんだ。玄関戸越しに彼に囁いたんだろう。今から電気を消すから逃げろと。そうすれば警察沙汰にせず、姫沙紀に会わせてやると約束するって。屋敷の中に戻ったお前はブレーカを落として一瞬の停電を作って、石田を逃がした。翌日、何処かで落ち合う手はずにでもした? あれ以来彼が姿を見せないところを見ると、もう何処かで彼を殺したか?」


 蒼士は、この姫沙紀が本当は姫沙紀ではないと言っているのだ。


(ならばこの人は誰なんだ)


 目眩が激しくなって目を開いていることすら苦痛だった。しかし、稲妻で明滅するように照らされる彼らから目を離せず、礼人は必死で目を開いていた。


「違います。全部。違う。私は、姫沙紀」


 震えながら途切れ途切れに、姫沙紀の口から言葉が零れる。


「やめろ! 騙るな!」


 蒼士が一喝した。


「お前は藤蔭姫沙紀じゃない! お前に名はない!」


 その声は悪鬼を調伏する者の鋭さ。


「誰かを騙る事でしか、ここにいられない。憐れな存在だ。そのことを、松影の兄弟にも気づかれた? そうだろう? だから殺したんだろう?」

「だって、私は藤媛」


 笑おうとするように姫沙紀の表情が歪むが、蒼士はそれを許さなかった。


「お前は姫沙紀でもない。ましてや藤媛でもない!」

「な、なんで。なんで。そんな」


 姫沙紀の声が上ずる。


「なんで? それが事実だからだ。お前はそれを知ってる。ほら、よく考えろ。お前は既に、自分が何者でもないと知ってる。それを松影兄弟に見抜かれ脅されたのは、藤蔭姫沙紀を騙る憐れな女だ。だから松影正治を殺した。涸れ井戸の底で一さんが見たのは、正真正銘死体だ。その後で、目障りな木戸樹里を襲ったのを良治に見られた? 彼女が襲われた夜に良治から電話がかかってたよね。その翌日、彼は上機嫌で一さんに会ってる。交換条件に体を許した?」


 礼人は胸の中で「ああ」と呻く。

 あの日の松影良治は礼人に対して優越感をたっぷり見せつけていた。それは姫沙紀を庇った彼が彼女に恋情を抱いてることを見抜き、その上で自分は彼女をものにしたのだと暗に自慢するためだったとしたら、これ見よがしの態度の理由がわかる。


「必要とはいえ、我慢がならなかっただろうね。一秒でも早くあいつを始末したかったはずだ。松影正治を始末して、すぐにでも良治も始末したかった。本当なら木戸さんを襲ってから数日空ける方が良かっただうに、直後に良治を殺した。彼の屋敷を訪ねて納屋に誘ったんだろう。丸鋸台へ誘った? 油断しているあいつがのしかかってきたら首のタオルの端を掴んで、スイッチを入れて丸鋸の芯にタオルを巻きこませて首を落としたんだ。そうやって自分を穢しながら、正体が暴かれるのを恐れて殺人を犯した。それはお前が自分が姫沙紀でもなく、藤媛でもないと分かってるからだ」

「ちが、う」

「違わない。お前は、知ってる。知ってるんだ。お前は憐れな名もない存在だ」

 姫沙紀の顔から引きつった笑みは剥がれ落ち、目を見開くその表情には恐怖しかない。目の前に怪物を見ているかのように怯えている。蒼士は怯えをさらに増幅させ、彼女に暗示をかけるかのように言葉を繰り返す。

「知ってるだろう。知ってるはずだ」


 蒼士は言葉で、彼女の心をえぐり操ろうとしている。


「わたし、は」

「そうだよ、お前は知ってる。知ってる。知ってる。ほら、そうだろう」


 言葉の刃が急所へ食い込む強さ。


「よく、なりすましたよ。並大抵の努力じゃないよね。その執念は見あげたもんだ。でも」


 彼は礼人に背を向け、壁に張りつく姫沙紀を正面に睨み低く告げる。


「これを見ろ。お前の正体は暴かれた。正体を見抜かれたら、おしまいだ」


 手に写真のようなものを持ち、蒼士はそれを姫沙紀へ掲げて見せている。姫沙紀がカチカチと歯を鳴らして震える。雑音だらけのラジオから聞こえてくるようなざらついた声を出す。


「わ、わた、しは。ふじひ、」

「騙るな!」


 女の声を、蒼士は鋭く遮る。


「お前に名はない!」

「わた、し、は。ひさ、」

「名はない!」

「わ、たし、は」

「名はない! 無様な姿をさらすな! 去れ!」


 獣が引き裂かれたような悲鳴が、姫沙紀の口から迸った。彼女は頭を抱え髪を掻きむしると、悲鳴を上げながら縁側から雷雨の中へ飛び出した。

 激しい風と雨が吹きこみ、ひときわ明るい紫の稲妻が走り、地面を揺るがす音が轟いた。


「一さん!」


 蒼士が跪き、礼人の肩を揺すった。


「生きてる!?」


 どうして彼がここに居るのだろうか。確か蒼士は———そうだ。藤祭の日に戻ってくると言っていた。藤祭は明日だ。なのになぜ帰ってきたのだろうか。


「だから『姫沙紀さんの事、気をつけていて』って言ったんだ!」

(ああ、あれは・・・・・・。そういう意味か)


 蒼士は「姫沙紀の身の安全に気をつけろ」と、いう意味で言ったのではないのだ。

「姫沙紀に何かされないように気をつけろ」と、という意味で言ったのだ。礼人は全く逆の意味に取っていた。俺は馬鹿だなぁと、自分にうんざりしながらも、同時に諦めに似た気持ちで苦笑する。


「仕方ないだろ。好きになってたんだから・・・・・・」


 意識が遠のく。雷鳴と重なって、蒼士の必死の声が聞こえた。


「一さん!」

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