神と堕天使
海沈生物
第1話
ある日、突然お前は「神様」となった。そして白くきめ細かな絹で編まれた衣服で身を包んだ美しい君は、いつもと変わらないフリをして、私の頬へと「キス」をした。その「キス」は綿のように軽いものだった。それは、明らかに君が神様となる以前のどこか粗雑さを感じる「キス」ではなかった。
もしかすると、今までのキスと本質的に同じものであったのかもしれない。しかし私にとっては、人間だった頃のお前のキスと神様になった君のキスは別物だったのだ。それは神が人を憐れむような、そんな柔らかなキスだった。
だから、私はそんな君のキスに対して失望した。
お前がもう私の手に届かない場所へと行ってしまった。それなのに、まだ私のことを以前と変わらずに見てくる。この醜さしかない
私は神となった君から逃げた。多くの人間を救済する、
だから、私はその時から「堕天使」へと成り果てた。
「堕天使」となった俺の日常は変わった。まず、綺麗な存在であることをやめた。今までお前に見られたくないと思って、取り繕っていたベールを脱いだ。「下卑た」インターネットミームを乱用して、日常には「暴力」と「性癖」を詰め込み、取り繕わない「醜い」生き物として過ごしていくことに決めた。醜い自分を受け入れた。
すると、どうだろうか。お前のことを考えていた頃より、俺の心はとても楽になった。綿のように軽くなって、もう「辛さ」すら「幸せ」へと変わった。俺は世界で一番「自由」な生き物になった。お前という鎖から解放された私は、今なら何者にでもなれるように感じた。
このまま堕ちれるだけ堕ちて、もう戻れない場所に行こうと思った。天から万物を見下ろす君の眼が届かない場所へと逃げ込み、そこでもっと「自由」に生きてやろうと思った。
けれどそんなことを続けている内に、いつしか俺はもう動けなくなっていた。道半ばで俺は死にかけていた。空を見上げると、まだまだ笑顔で自分を信仰する者たちを見つめる君の姿があった。その笑顔が気持ち悪くて、ずるくて、眩しくて、それで。……自分の不甲斐なさに辛くなった。
バタ、バタ、とまな板の上の魚のように、おもちゃを買ってほしい子どもが駄々をこねるように、その場で死んだ顔をして暴れた。
ずるい、ずるい、ずるい。神である「君」は……いやただの人間だったはずの「お前」はずるい。「お前」は神となって、どこまでも高みへと上っていく。それなのに、人間である「私」は……いや堕天使となった「俺」は、君の眼が届かない場所に行くことすら叶わない。道半ばで倒れるばかりの、ただの塵芥にしかなれない。本物の堕天使になり切れてない、ただの神に見放されたゴミ屑でしかない。
もう君はすっかり俺を見捨ててしまっただろう。俺のことなど、忘れてしまったのだろう。あるいは、地の果てに逃げるなど愚かで理解しがたい行為をする俺に対して「変わってしまった」と「恐怖」するのだろうか。気持ち悪いと思っているだろうか。
でも、俺にとってはお前も同じだったのだ。「お前」も「君」に変わってしまった。変わってしまったから、「私」も「俺」に変わろうと思った。変わらなければ、ただの信者の一人として埋もれてしまう。そうすれば、君は俺のような些末な存在のことなど、忘れてしまうかと思ったから。
けれどそれは、君をただ無意味に苦しめるだけだった。真実、お前は君になったとしても、俺のことをちゃんと見ていてくれた。こんな愚かな俺ですら、神である君は見放さないで見ていてくれたのだ。
ごめん。
そんな風に謝っても、もう変化したものが逆行して、全てがあの眩しい日々へと戻ることはないだろう。ただ狂い、死に逝くだけの俺の運命は変わることはないだろう。「堕天使」と成り果てたものが、元の
だから、俺は笑顔で生きる君に祝福があらんことだけを祈ろう。
どうか、朽ち果てる俺のことなど、もう忘れてくれ。君に幸あらんことを。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
倒錯者か、あるいは鬱病患者か。具体性を欠いたその遺書に対して、私はそんな印象を抱いた。日本に住む無神論者である私は、神様のことなど信じていない。それは正月になると神社へお参りに行くが、あれは神様というものを信仰しているのではなく、ただ友達と盛り上がりたいから行くだけなのだ。だから、神様とは私にとって非実在の、いてもいなくても変わらない存在でしかない。
だから、私はこの彼の両親から受け取った遺書に対して酷く気持ち悪く思った。特に後半の「こんな愚かな私ですら、神は見放さないでいてくれたのだ」という部分だ。まるで仏教説話のようだと思った。「愚かな人間が神(あるいは仏)に逆らって、最後は自分が愚かだったと告白する」なんて筋書の物語、なんて陳腐なのだろうとせせら笑った。堕ちるのならとことんまで堕ちないと、くだらない説話程度にしかなれないのに。
私は「解釈違い」故にその遺書を、公園の「リサイクル」のゴミ箱に投げ捨てた。そして、近くにあったベンチに腰かける。
本当に、くだらない。
人間が神や仏になることなんてありえない。仮にそんなことがあるとすれば、それは錯覚だ。それが数の増加程度なら尚更だ。私たちは形而上においてしか、そのような上位存在になることができないのだから。
私はポケットからスマホを取り出すと、SNSを開いた。自分のアカウントのフォロワー数の「1,000,000」という表示を見て溜息をついた。そうして、そんな俺がフォローしている中で一番最初の、たった「10」人からしかフォローしかなされていないアカウントをタップした。その「✚堕天使✚」と中二病くさい命名がなされたアカウントは、三ヶ月前に停止していて、鍵垢となっている。
そのアカウントのリプ欄を覗くと、そこには私と彼が多くの言葉を語り合った形跡があった。それはくだらないことであったり、あるいは日常のことであったり、オタク的なことであったり。様々な眩しい会話たちが、文字としてそこに実在した。
けれどそんな彼との会話も、二年前からすっかりなくなってしまった。それは私があるバズを起こしてから、突然フォロワー数が増加してしまったからだ。その増加は私にとって予想外のことで、今までのようなくだらないツイートが簡単にできなくなってしまった。しかし、私にとって大切なのはそんなフォロワー数などではなく、彼との会話だった。だから、言葉は選びながらも、彼との交流を続けようとした。
だが、一度だけ会話したっきり、彼は突然アカウント名を「✚堕天使✚」なんて中二病くさいものに変えて、鍵垢になり、すっかり「変化」してしまった。多分、この遺書通りであるのなら、私に対して「失望」したのが原因なのだろう。それからというもの、彼はどんどんおかしくなっていった。私の知っている彼はどんどん見る影もなく消えていった。
そして三カ月、そんな「変化」してしまった彼はある日、突然「ごめん」という三文字だけが打ちこまれていた。それが最後のツイートとなって、彼のアカウントは動かなくなってしまった。
そして今日、彼のご遺族から私宛に遺書が届いた。どうやら、彼は死んだらしいこと。そして、この遺書を私のために遺してくれたこと。捨てようかと迷ったが、彼の最期の願いだからと送ってくれたらしい。……まぁそんな想いの詰まった紙切れを、私は数分前に捨てたわけだが。
私はふぅ……と息をつくと、空で眩しく輝く太陽を見る。彼にとって、バズってしまった後の私はこんな風に見えていたのだろうか。いつでも皆を照らしていて、だからこそ、以前のように彼自身を見てくれているのかが分からない。そんな……「恐怖」を、感じていたのだろうか。
「……なんて。なんて……くだらないことなんだろうな。そんな数なんてくだらないことのために、そんなありもしない恐怖のために、そんな以前と変化していない私なんかのために、どうして……死んでしまったのかねぇ。君は」
私は彼のアカウントが映った汚いスマホの画面に笑顔で「キス」をすると、しばらく両手の中で抱きしめていた。まるで、彼が望んだ「神様」のように。
神と堕天使 海沈生物 @sweetmaron1
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます