-2-
ナグンたちの出立は、3日後の朝と決まった。
仮にも、部族でいちばんの英雄が発つのだ。村は祭りの準備で大忙しだった。
いくつもの昼夜を跨いで続く祭りの支度ともなれば、老人から子供までがこぞって駆り出されるのがいつものしきたりだ。例外は戦士とその妻たちと、そして今回はポゴだけだった。
「ぼくも手伝うよ」
働き者のポゴはそう言うが、母親は「滅多なことを言うんじゃないよ」と赤土を塗り込んだ髪の束を振りながら顔を顰め、それから優しく彼の肩を叩いた。
「お前には大事な仕事があるんだから、今はゆっくり休んでおいで」
「うん……」
女手は酒や料理を絶やすことが無いよう台所と広場を何度も往復し、男手は焚火と篝火、それに舞台の設えに大わらわだった。何しろ祭りは、今夜から始まるのだ。
細かな砂埃の舞う渇いた平地に、ポゴたちの住むカッソの村がある。ポゴの祖父の、そのまた祖父の代に拓かれた村だとされている。すぐそばに川はあるものの乾季には干上がってしまうので、生活に使う水は専ら甕に貯めた雨水で賄っている。
水は貴重品だった。厳しい乾季も決して珍しいことではなく、そんな時は木の根を齧って渇きを癒さねばならない。女は水を使って身体を洗うことを許されず、赤土を塗り薬草を燻した煙を体にまとうことで代わりとした。入浴が許されるのは子供たちか大人の男だけだったが、男でも牛を何頭も持つようないっぱしの者でなければ、堂々と水を使うのは恥ずべきことと見做す風潮があった。
そんな土地だから、水場の権利を巡っての争いは絶えることが無い。今回の戦もそうで、曲がりなりにも川近くの土地であるカッソは、常に他の部族から狙われている。雨期になれば水の確保は容易だったし、水場にはこぞって狩猟の対象となる大小の獣がやってくるからだ。年に何度も小競り合いが起き、男手が駆り出され、その度に少なくない犠牲が出た。村に医者は居ても、半ば呪術だよりの医療では重症者の延命率は決して高くない。今や30人にも満たない働き盛りの男たちは、村の貴重な財産だった。
女子供が大多数を占めるようになってしまったカッソに必要なのは、まさしくナグンのような英雄だった。
ナグンは勿論カッソの出身だったが、15で成人する前からその能力は抜きんでていた。
身体の成長は早かったし耳目の鋭さも大人顔負けで、同い年の誰よりも先に野生のダチョウを一人きりで狩ることができた。特に投槍の腕は素晴らしく、こちらに尻を向けて逃げ出すインパラをただの一撃で仕留めたことは一度や二度ではない。非凡な若者の才気を誰もが褒めそやし、しかしそれが伝説を目の当たりにした時誰もが覚える畏怖の感情に変わるのに、さして時間は掛からなかった。二十歳を迎える頃には村の誰よりも背は高くなったが痩身といってもいいその体に贅肉は全くなく、野生の四足獣さながらの俊敏な動きを伴う長い手足は、筋肉の深い筋を浮かび上がらせながらもしなやかですらあった。何より、近隣部族との戦があるたびに村一番の武勲を上げるのは、決まってナグンだった。
実を言えば、ナグンというのはこのあたりで信仰される神話に登場する軍神の名である。それは太陽の進行を司る神ワディルと漁師たちの守護女神であるシャエマジャの間に生まれ、鉄と、特に槍を象徴する。
彼の上げる武功の余りの数と、若さに似合わぬいっそ老成した態度からいつしか村の住民だけでなく、相争うはずの部族の戦士たちもそのように呼び、ある種の惧れと敬意を示すようになった。生まれ持った名を捨てた訳ではないが、今では誰もが彼を
当のナグンは勿論この祭りの主役である。祭りの目的は戦に赴く戦士たちの戦意高揚であり、その過程でナグンに「神を降ろす」。通り名としてのナグンから、神人一体の、文字通りの軍神と化す為に。
祭りの儀式に必要なものはいくつかある。酒と料理は言わずもがな、それに加えてチャットと呼ばれる植物の枝葉と、男と、女だ。チャットは若葉と枝に覚醒作用があり、長時間口内に忍ばせることで神との交信および同化を容易にすると言われる。男と女は、これらと交合う為に。ナグンは2日の夜を跨ぎ、寝て覚めては酒と覚醒植物に酔い、代わる代わる4人の妻を抱き、そしてまた別の男を抱く。そうすることでより上位にある完全な存在、つまり神との一体化を果たすことが出来ると信じられていた。
女を抱くのは、子を成す為でもある。彼の5人の妻のうち今現在身籠っているシャバアルを除く4人と交わり英雄の血を残すことは、部族にとって責務でもある。しかし男を抱くとなると、それとは一線を画する。要するに誰を指名しようが自由なのだ。そんな中、ナグンがこれと選んだのがポゴだった。
ポゴにすれば戸惑うほかはない。まだ12歳、元服を迎えぬ歳である彼にして、すでに男女の交わりは知っている。寝食を共にする掘っ立て小屋の中で他の兄弟たちが寝静まる夜、父親と母親が息を殺して営む様を半目で覗いたこともある。しかし、男同士となると、これは完全に彼の理解の外にあった。なぜナグンが自身を指名したかについても。ただ、従来が内気な彼にとって、英雄の決定に異を唱えるほどの度胸も、またなかった。ただ祭りの準備という労働を免除され、役目を果たせと無邪気に励まされる境遇を居心地悪く過ごす他は無い。何かにつけ気安く小突いてくるような近所のがき大将ですら、家の前で手持ち無沙汰に座り込むポゴに気付かぬふりで通り過ぎるばかりだった。
家から広場までの道を行っては戻り、いつもなら煙たがるか挙動の不審さをいぶかしんだりする大人たちが丁重で、どこか余所余所しい挨拶をしかしてこない事に辟易して、ポゴは枯れ川の方に足を向けた。道中、長老に次ぐ高齢のパゴバ老に声を掛けられたが、上の空で通り過ぎた。
乾季の真っただ中、水が川底を抉った痕を皺の様に残す溝のへりに腰かけ中天を過ぎ行く太陽に照らされながら、ポゴは孤独に時間を持て余す。
どうして、ぼくなんだろう。
考えても何も答えは出てこない。ナグンと特別の親交がある訳ではない。狭い村だから
会えば挨拶や世間話はするが、そんな折も英雄たる彼の成し遂げる栄光に自分は何ら関わりがないのだと端から決めつけ、どこか後ろめたい感情をすら覚えるだけだった。
何度か狩りに同行したことはある。まだポゴは槍を持つことを許される歳では無く後ろで見ている他なかったが、茂みの向こうでインパラが逃げ出すやさっと立ち上がり大きく振りかぶって槍を投げるナグンの肩と腕、その向こうにちらりと見える胸の筋肉の伸びやかさに、諦めにも似た憧れを覚えるだけだった。
どうしてぼくを……
やがて影が長くなり、いつの間にか村のどこにもいなくなったポゴを探す母親が見つけて声を掛けるまで、彼はずっと川べりに座っていた。
疎らに低木が生えるばかりの地平線に陽が沈み夜の帳が降りる頃、祭りが始まる。
広場の真ん中に大きな火が焚かれ、その周りに男たちが車座になって楽器を演奏している。山羊の皮を張った太鼓が、瓢箪の実と種で出来た鳴り物が、小気味よい律動で奏でられる。女手は料理と酒を皆に行き渡るよう振舞っていく。月は地平線からわずかに覗き、中天には粉を吹いたような星々が散りばめられている。
昼間は医者でもある呪術師が篝火の前で大仰に何かを招く仕草をして、舞台の上に胡坐をかいているナグンの方に向かってゆるりと手を振る。ナグンはただ、目を瞑って静かに座っている。
ほどなくしてそれは終わるが、これはしかし祭りの、ほんの始まりに過ぎない。村民たちはまだ広場の焚火を取り囲むように座り、思い思い杯を傾けている。ある者は親しげに隣人と酒を酌み交わし、また別の者は神妙な顔で舞台や炎を見つめていた。薪の脂気が爆ぜ、火の粉が舞い上がる。炎を囲む誰もが半裸の肌を照り返しに浮かび上がらせ、いくつもの影がその背後に踊った。それは居心地なさげに舞台に座すポゴからは不思議と、一個の輪の形をした生命に見えるのだった。
炎に神は、宿るとされる。それは呪術師により炎の中から一個の人間の中に招き入れられ、そして神と人間は一体となる。打楽器の律動が、焔の揺らめきと同期する。
ポゴにも、酒杯が回された。盃は水牛の角から削り出した逸品だった。
「ぼく、飲めないよ」
受け取りはしたが、注がれた濁り酒の揺れる表面を眺めながら、戸惑ったように零す。
「いいや、飲むんだ」
ポゴの肩に手を回し囁くのは、隣に座るナグンだった。篝火に照らされた肌は、よく熟れたタマリンドの実のような色合いで映えている。微かに滲む汗は彼の肌と、身体のそこここに彫られた入れ墨の表面で、てらりと炎を照り返した。
「一口で良い。神の降りる道しるべになる」
「ぼくに降りるの? ナグンじゃなくて」
「降りるとも。おれにも、おまえにも」
そう優しく諭されれば、ポゴに断れようはずもない。こういったハレの席で酒を飲んだことが無いわけではない。しかし、その後は決まってひどい頭痛に襲われるのが落ちだった。
山羊乳を発酵させて作った酒を恐る恐る口に含む。酸味が舌を刺し、獣臭が喉の奥から鼻にかけてを強く刺激した。思わずむせそうになるが、英雄の前で格好悪いところを見せたくないという見栄にも似た思いで飲み込んだ。酒精はさほど強くない。
「これもだ」
ナグンが、木の椀にたんまりと盛ったチャットを差し出してくる。上の方に若芽、その下には枝葉が層になって盛られている。
「飲み込むなよ、噛むだけだ」
そうナグンに念を押され、口直しにも似た気持ちで若葉を口に放り込んでみたが、これがまたとんでもなく苦い。艶のある肉厚の葉は内に苦味と渋味のある樹液をたっぷりと蓄え、噛めばたちまちに口内いっぱいにそれが広がった。
「吐くな。噛んで細かくしたら頬の内側に溜めろ」
早くも酔いが回ってきたのか、どこかナグンの声が輪郭を朧にする。声だけではない、チャットの苦汁を濾しとるようにして嚥下するたび、頭のどこかが天地を曖昧にした。身体がふわりと浮かんでいるような気さえする。
「何も心配することはない」
ナグンがそう言う。しかしそれは本当にナグンの声だろうか?
瞳が目の前の人物の像を捉えようとしては力を失って、焦点が方々に散ってゆく。浮遊感と共に、仄かではあるが多幸感が胸中を満たした。それは、ポゴの心中にある箍をひとつづつ確実に外してゆく。
だから、ポゴはいつもなら固く仕舞っておくはずの自身の思いを、素直に口にした。
「どうしてぼくなの?」
「お前だからだ」
ナグンの声が、何の逡巡も無く答える。
「儀式のために?」
「そうじゃない。ずっと、お前を見ていた」
「ぼくを?」
「お前を」
「奥さんは?」
「妻も、生まれる子も、大事なおれの宝だ。お前も、同じように」
「分からないよ」
「分からなくてもいい。怖いか?」
初めて、ナグンに問われた。
ううん、と素直に首を横に振る。
「胸が弾けそう」
本当だった。嫌悪感は無い。憧れの英雄の胸に抱かれるという行為は、畏れ多いという感情と同時にまた別種のそれを共鳴させ胸を高鳴らせたが、それが何なのかはポゴ本人にも明らかではなかった。
汗の照り映える胸の辺りに凝っていた視線を上げて、ナグンの顔を見る。
既婚男性であることを示す二又の弁髪が揺れたが、それは真実彼が揺らしたのか、あるいは深い酩酊によるものだったか。
「ポゴ」
「うん」
ナグンが、ポゴの身体に腕を廻して抱き寄せる。ポゴの心はふわりと宙に浮きながら、一方で彼の身体はナグンの腕のしなやかな筋肉の束の重みと、湿り気を帯びた肌の質感を確かに感じていた。汗の臭いが、すんと鼻先を撫でる。
広場に焚かれる大きな炎、そして舞台脇のやや小さな篝火だけが確かにそこにある。
しかしその他は?
炎を囲む人々は今もまだいるのだろうか?
それはもはや滲み踊るばかりの輪にしか見えない。
神の降臨を促し言祝ぐため奏でられる打楽器の規則正しいはずの競演は、既にして輪郭を失い、寄せては返す唸りでしかない。
気づけば、揺れる炎ですら朧に。
闇夜を舐める焔。撓み溢れる唸り。狭間に踊る神々。
押し付けられる肉の弾力。饐えた汗の臭い。英雄と自身の吐息。
見よ。
揺れる炎を、その中に踊る精霊たちを。
聴け。
爆ぜる薪の音と共にある、彼らの荒々しい息吹を。
少年は知る。精霊たちの存在を知覚する。
それは英雄の中にあり、外にあり、今はもうそのものであり、村と、部族と共にある。
ポゴが目を覚ましたのは翌朝で、どこをどうやって帰ったのか、そこは自分の家の囲炉裏の傍だった。
扉の無い入り口から陽の光が差し込んでいる。その明るさからもうすっかり陽が昇りきっていることは分かったが、家族の姿はどこにもない。昨夜の跡片付けか、もしくはもうそれすら終えて山羊を追ったり水汲みに勤しんでいるのかもしれない。微かな頭痛と共にポゴは身体をもたげ昨夜の出来事を思い出そうとするが、あの舞台の上で酒杯を受け取ってからの記憶は千々に乱れ飛び、何も頭の中で像を結ぼうとはしなかった。
あれは夢だったのだろうか?
それとも、酒と薬物による酩酊がもたらした幻なのだろうか?
その思いは何がしかの焦燥感をポゴの心中に投げかけたが、腰の辺りに残る倦怠感にも似た熱が、それに否と言った。
途端に思い出す。昨夜のことを。
熱に浮かれ乱れた自身の姿態を。
舌先に覚えた腋下の苦味を。
汗に濡れた体毛がぬめりと共に擦れた感触を。
ああ、ぼくはナグンと確かに交わったのだ。
ナグンは言った。精霊はおれにも、お前にも降りると。
ぼくにも降りたのだろうか? 今もまだ、この身体に?
ひょろりと細い腕を上げて肘の裏側やわき腹の辺りを隈なく見てみたが、何もそれらしい兆しは無かった。
その日一日、ポゴは誰に咎められることも無くぼんやりと過ごした。身体の節々に熾った熱は日中の内になりを潜めたものの、心はまだ一部をどこか身体の外に置いてきたようだった。夜になればまた祭りが始まり広場の方が騒がしくなったが、それもどこか他人事だった。
翌朝、戦士たちの出立の時になってようやくポゴは家の外に出た。戦に赴く男たちを、ナグンを見送らなければならないという思いだった。
広場で村人たちの歓声を受け、刺青を入れた半裸の戦士たちが槍を掲げる。その中心にはナグンの姿がある。皆と同じように長槍の穂を天に掲げるその肩と胸の辺りに、見慣れぬ文様があるのをポゴは見た。
昨日の内、呪術師が大急ぎで彫ったに違いない、新しい刺青だ。黒々とした、踊る焔のような輪郭をもつ刺青の周りの肌はまだ痛々しい赤味を帯びて、まだ腫れが引いていない。それはあの夜の出来事――広場の炎とその中に宿る神々、そして自分とナグンの交わりを模したものだとポゴは直感し、息を吞んだ。
ナグンが、確かにポゴの方を向き、笑顔を向けた。
肩を怒らせ歩き、村人に背を見送られる戦士たち。軍神をその身に宿し今やそのものであるナグン。誰もが勝利を疑うことなく、そしてその通り、いっそ当たり前のように彼らは戦果を持ち帰ることとなる。
ナグンはその後も最強の戦士の座をほしいままにし、村の守り神のような存在であり続け、祭りのたびに様々な男女と交わった。しかし、あの日あの夜のような熱の籠った視線を、出立の朝見せたような笑顔をポゴに向けることは、ついぞなかった。
ポゴもまたその後40年余りを生き、子や孫に見守られながら平らかに息を引き取ったが、ナグンに抱かれた一夜を、朝日に照らされる彼の真新しい刺青とその周りの腫れ上がった肌を見た時の胸の高鳴りを、生涯忘れることはなかった。
祭りの夜、影たちの舞踏 南沼 @Numa_ebi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます