エピローグ

 1か月ほど経った頃だった。


 遥人は菜月とともに、霞ヶ浦の北側にある小さな集落の中を歩いていた。11月に入って急に気温も下がり、顔に当たる北風が肌を刺すように感じる。少し離れた公園の駐車場に車を停め、集落の外れの方にある二階建ての一軒家まで歩いてくると、その家の門扉の脇にあるインターホンを押した。


『どちら様ですか』


「あの……ご連絡していた猪野と言いますが」


 遥人が答えると、「ちょっと待ってください」と返答があり、しばらくして玄関のドアが開けられた。


「初めまして。鳥井の妻です。どうもすみません。こんな所まで」


「いえ。こちらこそすみません」


 先生の奥さんは、綺麗な白い髪を後ろで縛った小柄な女性だった。「どうぞ」という招きに従って家の中に上がる。廊下を少し進んだ先が応接間になっていて、床の間の前にある木棚の上に、白い布で覆われた箱が置かれていた。


「こちらへどうぞ」


 奥さんはそう言うと、いったん部屋を出ていく。遥人と菜月は、その前に置かれた座布団に座った。白い布に包まれた箱の前には、鳥井先生の笑顔の写真が飾られている。まだ記憶に残る先生の姿に近く、最近撮った写真なのかもしれない。遥人と菜月は順番に線香に火をつけて手を合わせた。


 低いテーブルの前に置かれた座布団に座って待っていると、奥さんが急須を乗せたお盆を持って戻ってきた。そして、座って頭を下げる。


「わざわざありがとうございます」


「いえ。この度は本当に……」


 菜月が答えながら頭を下げる。顔を上げると、奥さんはお茶を入れた湯呑みを遥人と菜月の前に置いてから、遥人の方を見て微笑した。


「猪野先生とよく似ていますね」


「は、はい。……あの、父さんを知っているんですか?」


「ええ。先生がまだ議員になる前の若い頃から。この家にも度々いらしてくださいましてね。少し前にも奥様と久々にいらして、お線香を頂きました」


 この前、菜月の記憶を取り戻してから、遥人は猪野光人の息子の立場に戻ったのだが、どういう訳か、多くの人間にはその事がバレていないようだった。それも月姫の力なのかもしれないが、遥人としては、父が人気の高い政治家ということもあり、その子供だと知られたく無かったのでちょうど良かった。ただ、今日は珍しく、猪野光人の息子だと言われてしまい、ややドキッとする。


「そういえば、竹内さんも真月村のご出身なんですよね?」


「はい。私たち、同級生なんです。真月村をご存知なんですか」


「ええ。私は行ったことはないのですが、主人はちょくちょく行っていましたから。とても良い所らしいですね。何でも、とても広大な向日葵畑があるとか。この写真も実は、つい最近、村に行った時に、知り合いの方に撮ってもらった写真なんです」


 奥さんはそう言って写真の方に顔を向けた。遥人もその写真の方に顔を向ける。


「真月村の向日葵のおかげで、僕も菜月も、高校時代から鳥井先生のことは伺っていました。それで大学に入って、先生の講義も受けましたし、先生とも直接お話ししたりしていました。来年には先生のゼミに入ろうともしていましたし、短い間でしたが本当にお世話になったんです」


「そうですか……。そう言っていただけると主人も喜んでいると思います」


 奥さんは遥人の方を向いて頭を下げた。


「そう言えば、猪野さんは、あの火事の時、近くにいたらしいですね。怪我は無かったですか?」


「あっ……はい」


「そうですか。あの時の火事では、主人以外には大きな被害は無かったとか。本当に良かったです」


 奥さんはそう言って遥人の方に笑顔を向けた。あの時の火事は、消防では電気系統のショートと見ていて、それが紙に引火して広がったと見ているようだ。遥人が放火犯とされていたあの日の記憶は、皆の記憶から怖いほどきれいに消し去られていた。


「あの……大丈夫ですか?」


 ふと、奥さんが菜月に声を掛けた。遥人も隣を見ると、菜月は俯いていて、その大きな瞳から涙が流れているのが見えた。


「……すみません」


 菜月はそう言って、カバンからハンカチを取り出して目頭を拭く。


「本当に……人の命は取り返しがつかないんだと思います」


 菜月はそう言って目頭を覆った。遥人はその背中に手を置く。嘉月に操られていた彼女には直接の責任はないとしても、月姫として他人の記憶を操り、あの火事を起こしたことは事実だ。すると、奥さんは優しい眼差しで言った。


「そうですね……。でも、大丈夫ですよ。この家にも、そして私の中にも、主人との思い出がたくさんあります。あなたもそうではないですか」


「そう……ですね」


 菜月が目頭を拭きながら答えると、奥さんも頷いて、鳥井先生の写真の方に顔を向けた。何かを言うのではないかと思っていたが、そのまま彼女はじっと写真を見つめている。しばらく沈黙が続いてから、遥人はふと思い出して、リュックのチャックを開けた。


「そうだ。今日は、お渡ししたいものがあったんです」


「私に……ですか?」


 奥さんは遥人の方に顔を向ける。遥人は机の上に黄色のクリアファイルをそっと置いた。


「実は、火事の少し前に、先生から預かったんです。僕が真月村の研究に興味を持っていることを知って、貸してくださいまして。だから、今日はそれをお返ししようと思ったんです」


「それは……わざわざ、ありがとうございます」


 奥さんは遥人が置いたファイルを自分の前に引き寄せる。すると、彼女はふと顔を上げて遥人を見た。


「あの……せっかくなので、ちょっと見させてもらってもよいですか?」


「あっ、どうぞ。僕も全部見ましたが、結構、色々な資料があってとても面白かったです」


 奥さんはそのクリアファイルを開き、黙ってそのファイルの中身を興味深そうに眺めながら、ページをめくっていく。静かな部屋の中で、奥さんがページをめくるその音だけが響いた。すると、あるページを開いたところで、奥さんは何かをじっと見つめた。


「これは——」


 そのページには一枚の写真があった。真っ暗な夜に、何もない広々とした大地が、僅かにその輪郭を照らし出されているような写真だ。そういえば、鳥井先生の研究室で、先生がこのファイルを開いた時にも、同じように何を写したのかよく分からない暗っぽい写真があった気がする。その時と同じ写真なのかどうか分からないが、奥さんはその写真を食い入るように見つめ、そしてその上にそっと手を置いた。


「その写真……どうかしたんですか」


 菜月が尋ねると、奥さんは目を閉じて、黙ったまま大きく深呼吸する。そしてそのまま俯いて、呟くように言った。


「私が閉じた満月の牢獄の扉を、開けてくれたのですね」


「えっ——」


 遥人は奥さんの顔を不思議そうに見つめる。すると、彼女は顔を上げた。その顔を見て遥人はハッとする。彼女の両方の瞳から、涙が溢れていたのだ。すると、奥さんは慌てたように服の袖でその目頭を拭った。


「ごめんなさい。私ったら……。気にしないでくださいね」


「いえ……」


「でも、本当にありがとうございます」


 彼女はそう言って深く頭を下げた。


「私は今ようやく、大切な命を取り戻すことができました」


「命——?」


「ええ。私の命とも言うべき、一番大切な記憶を」


 奥さんはそう言って、遥人と菜月を順番に見た。すると、菜月は不思議そうに奥さんの方をじっと見つめる。


「あなたは……」


 そう言いかけると、奥さんは急に壁の方に顔を向けた。


「いけない! 町内会の集まりに行く時間だったわ。申し訳ないんですけど、私、少し出かけたいんですが」


「あっ、すみません。じゃあ、失礼します」


 遥人は慌てて立ち上がると、隣の菜月もそれに続いた。玄関まで見送ってくれた奥さんにもう一度頭を下げる。すると、菜月が言った。


「あの……また、ここに来てもいいですか?」


 すると、奥さんは一瞬驚いたようだったが、すぐに大きく頷いた。


「もちろん。いつでもどうぞ」


 奥さんが笑顔で答えると、菜月は「ありがとうございます」と言ってドアを開けて外に出た。遥人も慌てて頭を下げてその後に続く。すると、家から少し離れたところで菜月は急に立ち止まり振り返った。


「どうしたの?」


 遥人が尋ねると、菜月は鳥井先生の家の方を見つめたまま呟いた。


「あり得ない。……こんなこと、絶対にあり得ないはずだけど……」


「何が?」


「本当は、ずっと隣にいたのかもしれない——」


 えっ、と遥人が尋ねると、菜月はハッとしたように遥人の方を向いて、首を振った。


「何でもない。行きましょう」


 彼女はそう言って、遥人の右手を握る。一瞬、その手の温かさにドキッとしたが、遥人は菜月の左手にある小さな指輪の上から、その手を握り返した。

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満月を見上げる君との約束 市川甲斐 @1kawa-kai

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