幻実

牛屋鈴子

妄想中年男性VS妄想女子高生

「第一回! 中身のないこと言うゲーム!」

 放課後の教室に、尾瀬優花の元気な声が響き渡る。

「またなんか始まったよ」

 幼馴染である畑中美智子は、呆れた顔で優花の横顔を眺めていた。

「中身のないことを言うゲーム……ってなんですか?」

 お嬢様の張本清羅は、真面目な顔で聞き返していた。

「いやぁ、私達ってさ。三人でいっつも中身のないこと言ってるじゃん? 花の女子高生が放課後をこんなことに使ってちゃいけないと思うわけよ!」

「なのに中身のないこと言うゲーム?」

「ほら、いっぺん頭の中にある中身のないこと全部出しちゃえば、そこからはもう出てこなくなるじゃん。というわけで、ハイ! 美智子の番!」

 優花が手のひらをパンと叩いて、美智子に向ける。

「あたしからなのぉ? うーん……最近のお菓子、なんかちっちゃい!」

「たしかに。なんでも一口で食べれるようになってますよね」

「いいねぇいいねぇ、中身ないねーぇ! こりゃ帰りに上履き脱ぐ頃には忘れてるだろね。トップバッターなのによく分かってるじゃん美智子! ナイス中身のなさ!」

「それ褒めてる?」

 美智子の呟きをよそに、優花は勢い良く手を挙げた。

「じゃあ次私の番ね! 消しゴム、絶対使いきれない!」

「あぁー、なんか使い切る前になくなりがちだよね」

 頷きあう美智子と優花の横で、清羅がおずおずと口を開く。

「あのー……私、消しゴム使い切ったことあるんですけど……」

「おー、すごい」

「マジで? やっぱりお嬢様だから?」

「関係ないと思いますけど……」

「でも物持ちいいのは……なんか清羅っぽいね」

「うん。ぽいぽい」

「ぽ、ぽいですか?」

 清羅は照れくさそうに、白い頬を赤らめた。

「よーし、次は清羅ちゃんの番!」

「えっ、えーとぉ……うーん……」

「なんでもいいから、ふと思いついたこと、ちょうだい!」

「ふと思いついたこと……あっ」

 閃いて、清羅は両の手のひらを胸の前でそっと合わせた。

「その……中身のないことでも、三人で話すのは楽しい! ……です!」

「……おぉー……」

「あぁ……」

 清羅の言葉を聞いて、美智子と優花は照れくさそうに何度かお互いをチラチラ見合った。

「こりゃ清羅ちゃんの負けだね!」

「えっ」

「中身のあること……言っちゃったからね」

「というわけで、清羅ちゃん優勝ーっ!」

 優花はおもむろに清羅に抱きついた。

「えぇぇっ、私の負けだったんじゃないんですか!?」

 清羅は優花の突飛な行動に戸惑いつつも、満更でもない様子だった。

 今日話したことは、上履きを脱いでも覚えていられたらいいな。そんなことを考えながら、美智子は控えめに微笑んだ。


・・・・・・


 鏑木正也は、電車の中で揺られていた。

 金曜の夜、労働の帰り、行き先は自宅。車内の暗い窓には彼の顔が映っていた。ツヤが落ちた肌、瘦せこけた頬、覇気のない垂れた瞳、それを縁取る薄い……いかにもくたびれた中年男性といったような相貌だった。もっとも、この時間帯においては特別珍しい様子でもなく、車内では似た様な顔つきが並んで揺れている。

 とはいえ、頭の中は千差万別である。日々の苦労を顔に湛えながら、皆、様々なことを考えている。

 例えば、家に帰って何をしようかと考えている人間は健全である。同様に、休日に何をしようかと考えている人間も健全である。しかし、もう日曜の夜のことを考えだしている人間は少々危険だ。既に月曜日の仕事のことを考えている人間は最早、追いつめられていると言ってもいいだろう。

 そんな、健全とは言えない人間も少なからず居る中で、鏑木正也は自作の架空の女子高生について妄想していた。

 正確に言うならば、畑中美智子と尾瀬優花と張本清羅の日常について考えていた。

 ——彼女達は、自分が負っているようなしがらみを知らない。自分のような枯れた存在がいない空間の中に居て、ただ無邪気にじゃれあっている。

 彼女達のそんな姿を想像すると、鏑木は体の底から元気になる。今日も明日も頑張ろうと、きわめて健全な気持ちになるのだ。鏑木は異常者であった。


 その日、鏑木は駅を一つ乗り過ごした。その日していた妄想の出来がかなり良かったため、目的の駅へ到着したことに気付かなかったのである。

 ——今日の妄想は、頭の中で何度も繰り返す事になるだろう。

 降車アナウンスを尻目にそんなことを思いつつ、鏑木は電車を降りた。

 次の電車を待ちながら、鏑木は新鮮な気持ちで辺りを見回した。最寄り駅の隣だというのに、彼は今日、初めてこの駅で降りたのだった。そんな事情とさっきまで妄想していた脳の昂りが相まって、鏑木はひとつ、美智子達が通う高校の最寄り駅について思案してみることにした。

 ——高校の最寄り駅となれば、彼女達が放課後、出かける時などに利用するはずだ。そんなシチュエーションには、どんな情景が相応しいだろうか。例えば今この駅などどうだろう。自分の最寄り駅の隣がそうだと思うと、彼女達の実在感もより増す気がする。

 鏑木は頭の中で、目の前の景色に美智子の姿を配置した。ホームの隅にたたずんで駅の外を見つめる彼女の姿をしっかりと思い描き、似合うかどうか考える。駅は少々寂れている。駅構内から見えるスーパーの入り口で、頼りなさげに揺れるのぼりがまた脱力を誘うようである。——洗練された情景よりも、これぐらいの方が彼女達の牧歌的な雰囲気に合っているだろう。そう感じ、鏑木は目を閉じて一人頷いた。

 次に鏑木が目を開けると、彼女は目線を駅の外から鏑木に移していた。

 目が合った。

 次の瞬間、少女は鏑木に向かってずんずんと歩きだした。

「へ」

 鏑木の口から間の抜けた息が漏れる。そうして彼が呆けている間に、少女が鏑木の目の前に立った。

 そこでようやく、目の前の少女が現実に存在していることを、鏑木は理解した。

 少女は毅然とした態度で鏑木を見つめている。その姿は、ショートボブの赤みのある茶髪は、同年代女子の平均よりも高そうな背丈は、少し釣り上がった目つきは、まるで畑中美智子が彼の妄想の中から現実へ飛び出たようだった。

 ——目の前で……僕の目の前で、畑中美智子が呼吸をしている!

 鏑木はすっかり混乱し、口をはくはくさせて、あ、とかう、とか呻いていた。その呻きをさえぎって、少女が口を開く。

「あなた……架空の女子高生を妄想していませんか? それも毎日のように」

 問われた鏑木は、幼児のように素直に答えるばかりだった。

「うん……君のような子のことを、毎日考えています」

「……私もです」

 少女は声を震わせ、俯いたかと思うと、目を光でいっぱいにして顔を上げた。そしてこう言った。

「私、あなたみたいな女子高生の妄想を支えにしているようなくたびれた人が好みなんです! よければ私と……恋人になってくれませんか!」

 その言葉に鏑木は目を見開き、魂をかっと熱くさせた。湧き上がる熱情が身体中を駆け巡り、鏑木の口から叫び声となって溢れ出す。

「解釈違いなんですけどーーーーッッッッ!!!!」

「へ」

 少女の口から間の抜けた息が漏れる。鏑木は面食らった少女の肩をがっしりと掴み、怒号を重ねた。

「あの畑中美智子が! 僕のような人間を好きになるわけないでしょうがッッッッ!!!!」

 その怒号に、周りの人々が騒めきだす。奇異の視線を一身に浴びた鏑木は我に返り、焦って少女から手を離した。

「……あっ! あの、ごめん……君があまりに僕の妄想に似ているから、取り乱してしまった……本当にごめんよ」

「それでは、私を恋人にしてくれますか?」

 慌てふためく鏑木と対照的に、少女はけろりとした顔でもう一度告白した。

「えっ……いや、それはできない」

「それは……私のような女子高生の日常を覗くだけであなたは満足で、関わりを持ちたいと思っているわけではなく、むしろ自分のような存在がそばに在ってはならないと考えているからですか?」

「おそろしく物分かりがいいね君は……その、そういうことだよ」

 鏑木の答えを聞き、少女は少し考え込んんだあとにこう呟いた。

「なるほど……私も、解釈違いです。私の妄想通りなら、あなたはひと目で私を受け容れ、天使のように愛するはずなので」

 少女は異常者であった。

「つまり……私があなたを好きじゃなくなればあなたの勝ち。あなたが私を好きになれば私の勝ちのゲームというわけですね?」

「え?」

 少女の目には、確かな炎が宿っていた。

「つまりお互いそれぞれの解釈一致を目指して、明日二人でデートするということですね!」


・・・・・・


 次の日の午前一〇時、鏑木は水族館の前で人を待っていた。無論、あの少女である。

 少女とのデートに応じた。というよりも、約束を告げられた直後に少女が走り去ってしまったので断る隙がなかったと表現する方が適切だろう。無視してしまおうかとも考えたが、結果的に鏑木は告げられた待ち合わせ場所に、決められた時間通りに立っている。鏑木は生真面目な男であった。

 とはいえ、充分に断るチャンスがあったとしても、彼はきっと少女との約束に応じただろう。鏑木も自分の妄想と酷似している少女に対し、少なからぬ執着を抱きはじめていた。少女のそれとは違う方向性ではあるが。

「だーれだ?」

 突如、鏑木の視界が真っ黒に染まる。しかし鏑木は一度だけびくりと体を震わせたものの、同時に聞こえた声からその正体を確信した。

「……失礼だけど、僕は君の名前をまだ知らないや」

「えっ、あぁー、そういえばまだお互い自己紹介してませんでしたね」

 そこで視界がぱっと明るくなり、鏑木は昨日出会った少女と対面した。昨日見た制服が目に写る。

 少女がうやうやしく名乗った。

「神宮寺らぴすって言います。今日はよろしくお願いしますね」

 鏑木はその名前を聞いて、可愛らしい良い名前だなと思った。それとは別にがっくりとうなだれた。

「解釈違いだ……」

「ええええ」

「美智子は自分の名前を古臭いと感じて、ちょっと気にしてる所があるのに……らぴす……?」

「え~……と」

 うなだれる鏑木を見つめて、らぴすは彼女なりに理解を示そうとした。が、特に適切なリアクションは思い浮かばず、様子を窺うばかりだった。

「いや、また取り乱してごめん……僕は、鏑木正也です。今日はよろしく」

「はい、よろしくお願いします……正也さん! 誠実そうで良い名前ですね! 私は解釈一致です!」

 らぴすは柏手を打ってはしゃいだ。

「それじゃあ、早速デートと行きましょうか! 私、正也さんをオとすための作戦、いっぱい考えてきたんです!」


 休日ということもあって、水族館には様々な人々が居た。家族連れの人や、友人と喋りながら歩く人、何かメモやスケッチを取りながら鑑賞する人も居た。鏑木は一応デートという体だからか、中でもカップルで来ている人間がとりわけ目に付いた。

 魚のストレスを軽減させるために、水族館の照明は薄暗くなっているのだという。しかしそんな理由とは関係なく、仲睦まじいカップル達は薄暗さに後押しされているようである。

「まだ私達は正式な恋人じゃないですけど……他の人達から見ると、やっぱりカップルに見えてるんでしょうか」

 らぴすは頬を赤く染めて、はにかみながら鏑木に語りかけた。

「……」

 そしてその表情のまま固まった。口元を動かさずに、さらに語りかける。

「どうですか?」

「何が、かな」

「今の台詞、ときめきましたか?」

「……残念だけど、特には」

 らぴすは表情の硬直を解いた。紅潮した頬もすぅっと健康的なものに戻る。

「まぁ、今のはほんの小手調べですから」

 どうやら今の一連の言動は、第一の作戦だったらしい。

「高校生の頃の僕なら、きっとやられていたと思うよ」

 ——しかし、制服の女子高生とくたびれた中年の組み合わせでは……父と娘がいいところ、あるいはもっとアブノーマルな関係だとしか見られないだろう。

 というのが、鏑木の本心であった。

 二人の関係は、薄暗さが味方するものではない。

「……そういえば、なんで制服なの?」

「制服の方が、ウケがいいかなと」

 その発言に鏑木は、彼女の慣れと一抹の不安を感じた。

「もしかして、こういう……昨日出会った人とすぐにデート、みたいなこといつもやってるの?」

「まさか! あんな風にビビッと来たのは正也さんが初めてですよ」

 ——それはつまり、他の人だろうとビビッとさえくれば昨日のように誘うということだろうか。

「その……デートに応じた僕が言うのもなんなんだけど……本当になんなんだけど、大人相手にここまで積極的なアプローチをするのはやめた方がいいよ。神宮寺さんの好みは否定はしないけど、年上の恋人を探すなら君も大人になってからの方がいい」

「世の中、悪い大人も居るからですか」

「その……そういうこと」

「だったら、正也さんが先約してくれたら安心ですね!」

「いや、うー……ん」

 制服姿のらぴすはかわいかった。そのかわいさに鏑木は、高校時代の頃の気分を思い出し、憧憬の念すら抱いた。しかし制服姿は彼女の幼さを浮き彫りにすると同時に、彼女の姿を限りなく畑中美智子に近付けている。

 鏑木はやはり彼女を恋愛対象として見ることはできなかった。

 ——そもそも道徳的にグレーだし。

「悪いけど、君の気持ちには応えられない。昨日言ってたゲームに、神宮寺さんが勝つことはないよ」

 あえて強い言葉を使い、鏑木はらぴすを諭す。しかし彼女の瞳の炎は、消える気配なくおだやかに揺れ続けている。鏑木を捉えたその光は、薄暗い海を船灯のようだった。

「絶対に勝てないのは正也さんですよ。だって私が正也さんを好きじゃなくなるなんてありえませんもん」

「……どうして?」

 それは鏑木が昨日からずっと持ち続けていた最大の疑問だった。好意を疑うことは失礼なので詳しく聞かずにいたが、ここまで好かれる心当たりがない。何か壮大なドッキリか、でなければ詐欺だと、昨日から今の今までずっと勘繰っている。

「それはもちろん、解釈一致してるからですよ」

 そう言ってらぴすは、鞄から水族館のチケットを取り出した。

「例えばさっきだって、チケット奢ってくれたじゃないですか」

「それは、安月給でも流石に高校生よりは持ってるから……」

「お昼ご飯だっておねだりすれば奢ってくれますよね?」

「最初からそのつもりだったよ」

「そういうわがままを聞いてくれる包容力が……私の妄想とぴったり一緒なんです!」

「包容力……チケット代を出したくらいで、大袈裟だと思うけど」

 千円と少しだけで強力な信頼を勝ち取れるなら、恋愛で苦労する人間は大幅に減るだろう。

「こういうのは値段じゃなくて気持ちですから。そういう謙虚な所も解釈一致ですよ。そして何より……妄想がライフワークになってるのが一番の一致ポイントですね! 日々の苦しみから耐えるために、名前付きの女子高生を妄想し続けているなんて……なんて健気で奥ゆかしい! 正也さんみたいに支えてあげたくなる人、他に居ませんよ」

「そういう見方もできる……のかな」

 詳しく聞いてみても、鏑木は首を傾げざるをえなかった。らぴすの言葉は、既に出来上がっている妄想に無理矢理自分を当てはめているように、鏑木には聞こえた。

 ——まぁ、僕が彼女に『君がいかに畑中美智子に似ているか』を熱烈に語ったとしても、今の僕と同じ様なリアクションをされるだろうし……そういうものなんだろう。

 鏑木はそれで納得することにした。それにピンとは来なくともあれだけ褒められれば気分もよく、また妄想していることを褒められたのも、まるで美智子達が褒められたようで鼻が高かった。

 それはそれとして。

「でも僕は、君の気持には応えられないと言った。これは神宮寺さんにとって解釈違い……じゃないの?」

「それは……『生真面目さ故に社会規範に囚われている』、『あまりの幸福に実感が湧いていない』と考えれば、むしろ解釈一致です。もしそのどちらでもないんだとしても……正也さんはやっぱり私の運命の人です。諦めるなんてできませんよ」

 歩いている内に、二人はいつの間にか薄暗い領域の境目に来ていた。らぴすは先にそれを渡り、光に照らされながら鏑木の方へ振り向いた。

「だからぜーったい! 正也さんは勝てません」

 自分は、このゲームに勝てない。鏑木もそれを、らぴすとは別の方向から確信していた。

 鏑木が長い時間をかけて思い描いて来た畑中美智子という人物は、こんな突飛な行動力を持っていない。敬語に慣れていたりしない。屈託のない笑顔を無遠慮にバラまいたりしない。自分の好意を『あまりの幸福』と形容するほどポジティブではない。

 容姿は酷似しているものの、内面について、神宮寺らぴすは畑中美智子からかけ離れている。らぴすにとっての解釈違いは鏑木が自分を愛さないという一点に尽きるが、鏑木にとっての解釈違いは無数にある。彼女を美智子と同じ存在にするには、催眠術でもなければ不可能だろう。現実的ではない。

 ——だからこそ、最大の解釈違いだけは。

 らぴすの『私、正也さんをオとすための作戦、いっぱい考えてきたんです!』という言動とは裏腹に、鏑木は作戦など何も考えていなかった。

 ——ただ同じ時間を過ごすだけで、彼女は僕に対して気に食わない振舞い、受け入れられない性根を見出すだろう。彼女がいくら肯定的に言い換えようと、僕はなんの取り柄もない中年男性に過ぎないのだから。それを思い知れば彼女も年上への憧れを拗らせることもなくなり、ともすれば年上好きという嗜好すら失うかもしれない。そして彼女は僕のもとから去り、僕は美智子によく似た人が現実に生きていることに想いを馳せ、別々の日々を生きてゆく。

 引き分け。そんなゲームの終わり方を、鏑木は確信していた。


・・・・・・


 鏑木が架空の女子高生を何度も妄想するようになったのは、苦しい日々の反動である。……という説明は、正確ではない。彼は、自分の境遇を苦しいものだと感じてはいなかった。

 物心ついた頃から何に関しても、特別な努力をしていなくとも怠けなかった分の結果は付いてきたし、現在の労働環境も決して悪辣ではない。鏑木の人生におおよそ大きな理不尽はなかった。彼より恵まれず辛い想いをしている人間などいくらでも居ることだろう。

 しかし、それ故か、鏑木はそんな自分の人生に張り合いを感じられなくなってしまった。

 就職をして幾年、還暦までそこで働いている自分が朧げに見えてきた頃、鏑木は自分の人生が急激に停滞していくのを感じた。物心ついてからの十数年、当時は代わり映えがしないと感じていた日々でも、実は環境と精神が目まぐるしく変わり続けていた激動の青春だったこと、そしてそんな日々はもう二度とないのだと理解した。自分の存在に価値を感じられなくなった。

 自分の人生が、自分のものではないかのように思えた。

 鏑木はその歳になって、生まれてかつてないほどの焦りを感じた。夢や人生の目標とまで言えなくとも、これが自分の人生だと言える何かが欲しくてたまらなくなった。

 だが、打ち込める趣味は見つからなかった。仕事もやりがいがないわけではないが、金に困らなくなれば辞めてしまう程度のものだった。同僚に『家庭を築けば変わる』とアドバイスを受けたが、『張り合いが欲しいから』などという理由では不誠実だと思い、積極的に相手を探すことはしなかった。同時に、自分から動かずにそんな相手を見つけることは絶望的であることも鏑木は理解していた。更に根本的な話をすれば、自分のような人間的な魅力に乏しい者に、人生を共にしてくれるような相手が見つかるとも思えなかった。

 そしていつしか強い焦りは、巨大な諦観となった。

 ——それなりに勤勉な人間であるつもりだったけど、それでも僕は怠けていたんだろう。自分の生きる意味を探すことを放棄したんだ。今その答えを持っている人間は、きっと青春の内にそれをきちんと見つけていたんだ。だから今、僕がそれを持ち合わせていないことは……仕方のないことだ。

 そう考え、鏑木は自分の現状に納得した。妥協とすら呼べない、自虐的な納得だった。

 そんな時、彼は『パンダ部の日常』と出会った。

 それは深夜アニメの一つであり、特になにもせずダラけることを活動内容にしたパンダ部に所属する女子高生たちの日常を描いた、いわゆる『日常系』と呼ばれるジャンルの作品である。

 深夜になんとなく点けたテレビで第一話を目にした鏑木は、自分でも説明できないエネルギーに突き動かされ、それから毎週必ず『パンダ部の日常』を観続けた。

 そして最終話を見終えた時、彼は大きな寂寥感と虚無感に苛まれた。そして自分がほんの三ヶ月、ほんの十二話ほどだけ『パンダ部の日常』に救われていたことを、その時初めて理解したのだった。

 次に鏑木は『ハロハロでいず』を観た。十二話で終わってしまった。『こうらく!』を観た。十三話で終わってしまった。『放課後とスイーツ』を観た。十二話で終わってしまった。『放課後とスイーツおかわりっ』を観た。十二話で終わってしまった。

 それらを見ている時、鏑木は確かに救われていた。しかしどんな作品もいつかは最終回を迎え、鏑木はその度に苦しんだ。作品を一つ消化するごとに、その苦しみは量も質も悪化するようだった。

 一定の救いと、大きくなり続ける苦しみ。その一連の流れがもはや自傷行為の域に達しようとした時、鏑木の脳内に三人の架空の女子高生が現われていた。

 ——絶え間なく更新され、絶対に終らない日常系。ないのなら、僕が。

 最初、その三人はぼんやりと霞のように鏑木の脳内の片隅で佇んでいるだけだった。しかし鏑木は記憶の引き出しを必死で漁り、好ましいと思うこと、愛おしいと思うことをたくさん掴み出して、彼女達を飾り付けた。鏑木が人生で経験したことや、夥しい日常系アニメの視聴経験を礎に、彼女達は『かたち』を獲得していった。

 そうして彼女達が名前を得た時、鏑木は自分の人生が誰のものかなど、どうでもよくなっていた。

 彼女達は今日ものどかに、なんでもない、かけがえのない日々を過ごしている。そんな姿を想うだけで鏑木は世界を愛せた。毎朝、目を開く理由になった。


 畑中美智子、尾瀬優花、張本清羅の誕生である。


・・・・・・


「きゅいっ、きゅいっ」

 イルカの起こした水飛沫が、二人に降り注いだ。

 結構な質量のそれが客席を襲い、鏑木は全身に張り手を受けたかのように錯覚した。固いコンクリ-トの上にも水飛沫がバチバチと落ちる。その容赦のない音に、鏑木は自分とイルカとの隔たりを一方的に感じていた。当のイルカはキュイキュイ泳ぎ、他の客席へ同じように水飛沫をかけてキャイキャイ喜ばせていた。

 鏑木は自分の体を見回して、被害状況を確認した。彼は事前に購入したレインコートを羽織っていたのでほとんど濡れなかったが、それでも防御しきれずに襟元が少し濡れてしまっていた。レインコートを羽織っていなければどうなっていただろうか。

 らぴすは隣でビショ濡れになっていた。レインコートを羽織っていなければこうなっていただろう。鏑木は事前にらぴすの分もレインコートを購入しようとしていたのだが、彼女はそれを断った。

 濡れながら、らぴすはドヤ顔で表情を固めていた。そして鏑木をじっと見つめている。屋内を歩いていた時と同じ所作である。

「どうですか?」

「何が、かな」

「人は、濡れた異性が三割増しで魅力的に見えるそうですよ」

「……それは、僕も水を被ればよかったかな」

「その必要はありませんよ。正也さんは今のままで、十分魅力的ですから……へくちっ」

 らぴすがくしゃみをする。なんともあざといくしゃみだった。

「かわいいくしゃみが出るように練習したんですけど……どうですか?」

「風邪を引いたんじゃないかと思ったよ」

 うー、と唸り、肩を震わせるらぴすを見かねて、鏑木はレインコートを脱いだ。更に上着も脱いで、それをらぴすに差し出す。

「よければ、これ羽織って……」

 と、そこまで口に出して鏑木は自分の行動を省みた。

 ——自分のような男が着ていたものを差し出されても、迷惑じゃないだろうか。

 鏑木はレインコートで完全に守られていたはずの背筋が、じわと濡れるのが分かった。

 そして鏑木が差し出した上着を引っ込めようとした時、らぴすの腕は鏑木のそれよりも素早く動いた。

「貸してくれるんですか? ありがとうございます!」

 彼女は有無を言わさぬ電光石火の手つきで上着を羽織った。

「この上着はきちんと洗ってお返ししますので……また来週もデートしましょうね!」

 次のデートの約束までした。

 らぴすは上着の端をぎゅっと掴んで、今日一番の笑顔を見せている。鏑木は自分の心配しているようなことはなかったと確認し、胸をなで下ろした。

 ——彼女が喜んでいるなら、まぁいいか。

 鏑木はらぴすの笑顔を見てそう考えた。それと同時に、脳裏では別のことも考えていて、それを口走った。

「解釈違いだ……」

「え」

「美智子はほとんど初対面の男に上着を差し出されても、苦笑いをして断るだろう……もし仮に受け入れるんだとしても、それは相手の善意を無下にしたくないという気持ちからの消極的な行動だろうし、更に百歩譲って『お父さんの匂いに似ている』とかそんな理由でそこに好意を抱くことがあっても、間違ってもそれは恋心とかときめきとは全く結びつかない、違ったものになるはずで……」

 経を読むかのように鏑木はぶつぶつと自分の妄想を垂れ流し始めた。そしてたっぷり十数秒ほど語ったあと、らぴすのぽかーんとした顔に気付いた。

「あっ……ごめん。また取り乱してしまった」

「いや、それはいいんですけど……正也さんって、本当に美智子ちゃんと付き合いたくないんですね」

「え?」

「てっきり、私を拒絶するのは正也さんが社会の目があるからだと思ってたんですけど……さっきの妄言を聞く限り、本気で私に恋されるのが嫌そうだったので」

 らぴすはさっきの読経を聞き飛ばさなかったらしい。

「前半の理由も大いにあることは置いといて……まぁ、そうだね」

「じゃあ、私整形した方がいいですか?」

「えぇっ」

 真顔で見つめられて、鏑木は彼女の質問が本気であることを理解した。

「なんで、そういうことになるのかな」

「私は今の今まで、『美智子ちゃん』に似ていると有利だと思ってたんです。私は私の妄想とドンピシャの正也さんが好きなので。でも正也さん的には、むしろ嫌なんですよね? ですから、なるべく美智子ちゃんの外見から遠ざかった方がいいだろうなと思って」

「だからって整形は思い切りがよすぎるんじゃあ……?」

「まぁ、顔は良い方だと自覚しているのでちょっともったいない気もしますが……正也さんにモテないと意味ないですもん」

 鏑木はその言葉を聞いて、焦りを新たにした。

 ——憧れが強いとか、それぐらいの話ではなさそうだ……まさかここまで思い詰めているとは。早く彼女の目を覚まさねば、取り返しのつかないことになるかもしれない。

「その……繰り返すようだけど、僕は君と恋人にはなりません。僕みたいなうだつの上がらない人間より、もっと君に相応しい人を探して欲しい」

「そんな……むしろ私は、私と恋人になれる人は正也さん以外に居ないと思ってますよ。まぁ、私を受け入れてくれる人ならそれなりに居るでしょうけど……」

 らぴすは台詞の途中で口をつぐんだ。その傍ら、イルカショーはいつの間にか更なる見せ場を迎え、数匹のイルカがいっせいに最高度のジャンプを繰り出した。イルカたちの体が着水する音に客席の歓声がぶつかり合う。その騒々しさの中に隠すように、彼女は台詞の最後を呟いた。

「私の妄想を受け入れてくれる人は、あんまり居ないので」

 ——自覚はあったのか。

 そう思うと同時に鏑木は、その言葉に強い親近感を覚えた。

 自分に都合のいい妄想を繰り返して精神の安寧を得ることの不健全さ、情けなさ、異常さ。そんなものに対する葛藤が、鏑木のこれまでになかったわけでもない。

「それとも、正也さんも……こんな妄想癖のある女の子は嫌ですか?」

 その問いを否定してやることは、鏑木にとって容易かった。同じ妄想癖を持つ先輩として、彼女を的確に励ます言葉も言えた。

 だから、その逆も容易かった。

「ああ……とても、受け入れられるものじゃないね」

 ——僕と違う、彼女なら……明るく健気で積極的な彼女なら、妄想以外に頼るものが、すぐに作れるはずだ。そうできるなら、そうした方がいい。

 鏑木はそう考え、らぴすを突き放す覚悟を決めた。

「当たり前のことだけど、人はみんな現実に生きているんだ。妄想ばかりしていたって意味ないよ」

 自分のことを棚にあげて、罵倒を連ねる。一時期、自分に何度も投げかけていたことを、鏑木はただ暗唱した。

「それはただの現実逃避に過ぎないし、非生産的であることこの上ない。はっきり言って異常だ。心ない人は気持ち悪いと蔑むだろうし、どんな聖人君子が聞いたって苦笑い以上の好意的なリアクションは返ってこないだろう。こんなみじめな趣味、誰も認めないし受け入れないよ。だから……」

 ——だから、凝り固まった妄想は捨てて、現実的な恋をするべきだよ。

 と、続けようとした瞬間、鏑木はらぴすの顔を見てぎょっとした。彼女は泣いていた。

 らぴすは鏑木の言葉が、本当は自分に向けられたものではないことに気付いていた。だからこそ、許せなかったのだ。

「私の好きな人の悪口っ、言わないでください!」

 少し釣りあがった瞳はその目尻を頼りなく下げて、端から細い涙を流していた。

 らぴすは立ち上がって財布を取り出し、チケット代と昼食代をぴったり用意すると、それを椅子に叩きつけた。

「ふんっ!」

「あっ……」

 そしてその場を後にした。鏑木は咄嗟に手を伸ばすが、引き留める言葉も引き留めた後の言葉も浮かばず、その手は虚しく宙を掴んだ。

「きゅいっ、きゅいっ」

 ショーの終わり際、イルカが最後の水飛沫をサービスした。突然の被水に鏑木は目を閉じる。そのあと水の音が耳から離れ、おずおずと目を開くと、椅子のお金はびしょびしょになっていた。


・・・・・・


 電車を降り、駅を出て、自宅に着き、ベッドの上に体を放り出しても、鏑木は悶々としていた。

 ——やってしまった。あんな風に傷付けるつもりではなかった。しかしどちらにせよ彼女の想いに応えることはできなかった。これ以外なかったのではないか……これ以外になかった? 本当にそうだろうか。彼女の妄想癖に勝手に親近感を覚え、まるで自分事のように雑になってしまってはいなかったか。だが、彼女のそれが異常の域に達していたのも事実だ。十分に考え、適切な言葉を与えるなど土台無理だったのでは……いや、これもできの悪い言い訳だ。僕が彼女を突き放したのは、彼女のためじゃない。元々の目的は、彼女を畑中美智子に近付けたいという極めて自分本位なものだった。誤魔化しようはない。これは間違いなく僕が望んだ結末なのだ。傷付けるつもりではなかっただと? この期に及んで彼女を慮るような思考は、おこがましいにもほどがある。

 鏑木は自分の人間としての程度の低さを再確認し、打ちのめされた。

 ——僕は本当に、ダメな奴だ。社会の歯車の真似事はできても、心の芯の部分で他者と理解し合うことができない。だから考えなしに人を傷付け、だからこんな空虚な人生を送ってきた。僕は本当に、滑稽で、鈍くて、愚図で、不快で、胡乱で、停滞していて、無価値で、無気力で、人間的な魅力に欠けていて、怠惰で……。

 というように自分を罵倒している内、鏑木は気付いた。

 ——このくだりやったことあるな。

 同じことを繰り返す日々を送り、同じような展開の作品ばかり見ていたために、鏑木は既視感にすっかり疎くなっていた。それ故に気付くのが遅れたが、それでも気が付いた。

 ——そうだ。僕は以前にもこんな風に強く自虐的な考えに支配されたことがある。今日、彼女に放った言葉もその頃の自分からの引用だった。あの時、僕は何に救われたか、どうやって乗り越えたか。その答えは、まぶたの裏に今も居る。


・・・・・・


「お父さんのおつかい?」

 放課後、クリーニングへ出したスーツを受け取りに訪れたらぴすに、店員は尋ねた。

 ——ここで友達以上恋人未満と答えたら、またあの人を困らせてしまうだろうか。

「まぁ、そんなところです」

 らぴすは適当に答えて、鏑木から借りたままだったスーツを受け取った。

 

 クリーニングバッグを提げて、駅のホームに佇む。クリーニングが完了したことはらぴすにとって喜ばしいことではなく、その表情は神妙だった。

 クリーニングが完了したということは、鏑木に返さなくてはならない。鏑木に会わなくてはならない。しかし、らぴすは先日の別れ方を引きずって、どうすればいいか分からないでいた。

 ——そもそも、どうやって会おう。連絡先も交換しないまま別れてしまったし……最初に出会ったこの駅で、あの人が現れるのを待とうか。けれどそんなストーカーみたいなことをして、また気持ち悪がられたらどうしよう。会うのはこれで最後になってしまうかもしれない。いや、そうでなくとも、きっと。運命の人に出会えたと思ったのに……こんな風に傷付くことが決まっていたなら、最初から出会わなければよかった。

 気をゆるむとすぐに涙ぐんでしまう瞳を隠すように、らぴすは俯いた。

 そこに鏑木が現れた。

「……やぁ、神宮寺さん」

「正也さん……!」

 心の準備がまったくできていなかったらぴすは仰天した。

「……どうしてここに? 平日の午後四時ですけど……」

 目をぱちくりさせて鏑木の姿を確認する。彼は私服だった。

「今日はお休みにしたんだ。もう一度君に会いたくて」

 らぴすはその時、地震が起きたかと思った。その正体が心臓の鼓動と、眩暈であると気付くのに数瞬かかった。

「二つ、君に謝らなくちゃいけないことがある。一つは……君に酷い言葉を言ってしまったこと……傷付けてしまって、ごめんね」

「い、いえ! 私こそ感情的になってしまって、すいませんでした……」

「いや、当然だよ。自分より大切にしているものを貶されたら、誰だって怒るさ」

 らぴすは嬉しかった。彼が自分の非礼を許してくれたこともそうだが、彼が自分を理解してくれていたことが何よりも嬉しかった。

 会話の端でらぴすが感動しているのを知らないまま、鏑木は話を続ける。

「もう一つは、君に美智子を重ねてしまったこと……ごめんね。あの日の僕は本当に馬鹿だった。畑中美智子は、既に存在していたのに」

 同じトーンで話すので、らぴすはその言葉を聞き逃しそうになった。

「……え?」

「確かに、美智子は皆に見える形で存在してるわけじゃない。でも僕には見えるし、声だって聴こえるし、救われたんだ。美智子は僕に干渉して、僕を変えたんだ。それって存在してるってことだろう? 彼女達が妄想と現実の境目を……越えても、越えていなくてもいい。僕はもう、それを区別しないことにした」

 晴れやかな目で、彼はそう言いきった。鏑木は異常者であった。

「君を畑中美智子に近付ける権利も、必要もなかったんだ……あの日、言いそびれていたことを言うよ。『らぴす』って、可愛らしくて良い名前だね」

 鏑木に笑いかけられ、らぴすもあの日、彼の名前を聞いた時のことを思い出した。

 ——やっぱり正也さんは、誠実な人だった。

「それじゃあ、私と恋人になってくれるってことですか?」

 らぴすの言葉を聞いて、鏑木は理解に苦しむといった表情でこめかみに手をやった。

「……どうして、そうなるのかな」

「だって、私はありのままでいいってことですよね?」

「うん。美智子と似ても似ていなくても意識することはないよ」

「つまりありのままの私の想いを受け入れてくれたということですよね?」

「……そういうことにな……らないよね? いやならないよ。ならないから」

 鏑木はさっきのような晴れやかな目で彼女を諭すための言葉を続けた。

「さっきの僕の話を理解してくれたなら……君の妄想の運命の人だって、既に存在しているって分かるだろう? だから僕に固執する必要はないよ」

「そういうことにはなりませんよ。私は鏑木さんほどレベル高くないですし……それに鏑木さんは、私にとって解釈以上ですから!」

 らぴすは溢れんばかりの満面の笑みを見せた。

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幻実 牛屋鈴子 @0423

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