第93話 指輪
十二月二十四日。
今朝の気温は氷点下に達しており、酷い冷え込みだ。
どうにかベッドから這い出た俺は、いつも通りに家事をこなした。しばらくすると、寒さから逃げるように朱日先輩がリビングに入って来て、おはようございますと挨拶を交わす。
「あの、朱日先輩……」
熱いコーヒーと焼いたパン。
定番の朝食をテーブルに並べて、俺も席に着く。
「今日は本当にすみません……せっかくのクリスマスイブなのに……」
「だから、それはもういいって。要君のせいじゃないんだし」
経済面において、俺はこの人の世話になりっぱなしだ。
何でもない店での外食は割り勘だが、彼女はたまにぶっ飛んだ金額の店に行く。そういう時は、絶対に俺に払わせてくれない。
家具や家電を買う際も、俺に財布を出させない。
家賃だってそうだ。
だから今年のクリスマスイブは、全額俺持ちで思い出に残るディナーをご馳走しようと思った。
リサーチにリサーチを重ねて、良さそうな店を見つけ予約。……したのだが、つい昨晩、店側の機械トラブルで予約が受理できていなかったと連絡を受けた。その上、代わりの席は用意できないらしい。
他に目星をつけていた店は全て席が埋まっており、もうどうにもならない。
そして朱日先輩と相談した結果、適当な店に行くより楽しみは来年に託して、今年は家で有意義に過ごすことになった。この人の心の広さには感謝しかない。
それにしても、だ。
彼女に贈るはずだった誕生日プレゼントのグラスを粉々に割った時もそうだが、どうして俺はここぞという場面でいつも躓くのだろう。自分の運の悪さが恨めしい。
「今日は明るいうちから呑んじゃお。そのために映画も借りて来たんだし」
テーブルの隅には、昨晩借りた十本のDVDが塔のように積み上げられていた。
アルコールがなければ観るに堪えないB級映画はもちろん、新作や名作等々、幅広くカバーしてある。
「……ぷっ。ふっ、ふふっ……」
「ど、どうしました? 何で笑ってるんですか?」
DVDの塔を見つめながら、くすくすと頬を綻ばす朱日先輩。
俺が問うと、彼女はコーヒーが入ったマグカップを持ち上げて口角を上げる。
「恋人の初クリスマスって割と大事なイベントなのに、やることがいつもと一緒でしょ? でも私、全然嫌じゃないんだよね。むしろ、逆に特別感あって嬉しいくらい」
「え、ええ」
「だからね……その、何て言うかさ。私、要君のこと本当に好きなんだなぁって……そう、再確認しただけ。えへへっ」
と言ってコーヒーで唇を濡らし、香ばしい息をついた。
心の底から、この人がパートナーでよかった。
そう思うのと同時に、魂に深く刻む。
来年のクリスマスは、一ミクロのミスもないよう万全を尽くそう。
◆
午後十時過ぎ。
朝からぶっ通しで映画をかけていたが、別にずっと集中して観ていたわけではない。
二人で駄弁ったり、うたた寝したり、じゃれ合ったり。そうやって鑑賞済みのDVDを積み上げていき、ちょっと雰囲気を変えようと、朱日先輩イチオシの映画を点けた。
「ぐずっ……んっ、ぅう、ずっ、んぅ……」
「……」
「ふっ、ふ、んんぅ、ずず、ずっ……」
「……」
「ぐふ、ううぅ、ずびっ……ご、ごべん、なざい……いっ、今、止め、うぐぅっ……!」
「い、いや大丈夫だよ? 気にしてないから」
悲しくもどこか未来を照らすような音楽と共に流れるエンドロール。
リビングにこだまする俺の汚い嗚咽。
お酒のせいで情緒不安定なのもあるが、人間を泣かすために作られたような映画で、全身の水分を持って行かれそうなほど涙が溢れて止まらない。
「確かに私も初見の時は泣いたけど……か、要君、本当にすごいね。おすすめした甲斐があったよ」
俺が泣き過ぎて、涙が引っ込んだのだろう。
それは申し訳ないことをしたが、だからといってすぐに止まるものでもない。
映画の内容はいたってシンプル。
一組のカップルが結婚して、奥さんが余命宣告を受けて、二人で最期の時を生きる。ただそれだけ。……なのだが、元々俺はこういう素朴な題材に弱いのと、どうしたって朱日先輩と重ねてしまい、もう穴という穴から液体が駄々漏れである。
「仕方ないなぁー。ほらおいで、お姉さんがよしよししてあげる」
梅酒の炭酸割りが入ったグラスを空にしてテーブルに置き、俺に身体を向けて両腕を広げた。
全力で顔を拭っていくらかマシな面構えに修正し、四つん這いになって彼女に近づく。脇の下に腕を通して、肩の上に顎を置き、金色の髪に鼻を擦り付ける。
「よしよし。要君はいい子だなぁ」
幼稚園児をあやすように言いながら、俺の頭を撫でた。
おおよそ成人男性への対応ではないが、こうして彼女に甘えられるのは嬉しい。
「映画のお嫁さん役の人と、私を重ねちゃったんでしょ。要君は本当に純粋なんだから」
「……だ、ダメですか?」
「ううん、そんなことない。……映画の最中も私のこと考えて、でもちゃんと没頭して、いっぱい泣いちゃうとこ、すごく好きだよ。一緒に映画観てて退屈しないもん」
撫でてもらううち、少しずつ涙の栓が締まっていくのを感じた。
単純な頭してるな、俺。複雑なのよりはいいけど。
「仮に私が死んでもさ、まあ何だかんだ言って、皆わりとすぐに立ち直っちゃうと思うんだよね。でも要君、どうして俺は助けられなかったんだ、とか言って永久に病むでしょ」
「……まあ、病むでしょうね。間違いなく」
「だから、要君が死ぬまでは死なないよ。安心して一生一緒にいてね?」
「……だったら、一生死なないでください」
「無茶言わないでよ」
くすくすと喉を鳴らし、撫でるのをやめて、ギュッと俺を抱き寄せた。
俺もそれに応え、腕を回して彼女を求める。
触れ合った箇所が熱くなり、汗ばみ、濡れて、嬉しい。
身体を伝って流れて来る心音が、愛おしくて仕方がない。
ふと見上げると黄金の瞳がこちらを覗いており、それは静かに輝いていて、あまりの眩しさに目を細める。
「あぁーもう、要君のせいで暑くなってきたじゃん」
パタパタと焼けて赤くなった顔を扇ぎながら俺から離れて、新しいお酒を作るため梅酒に手を伸ばした。グラスに親指一本分ほど梅酒を注いだところで、「あっ」と声を漏らす。
「炭酸水、さっきので無くなっちゃったの忘れてた。どうしよ、水割りにしようかな」
「俺、コンビニまで買いに行きますよ。少し待っててください」
「あっ、ちょっと待ってて。だったら使って欲しいものがあるから!」
慌てた様子でリビングを飛び出した朱日先輩。
使って欲しいもの? 言葉の感じからして、何かおつかいを頼みたいわけではないだろう。
カイロが余ってるから使え、とかかな。いやでも、カイロなんて持って行ったところで温かくなる頃には家に帰って来てるだろうし。
「よかったぁ。本当は今日、食事に行った時に渡すつもりでいたからさ。家で過ごすんだったら、いつ渡すのがベストなのかずっと悩んでたんだよね」
部屋に戻って来た彼女の手には、紙袋が握られていた。
その中から黒いマフラーを取り出して、「はい」と俺に手渡す。
「クリスマスプレゼントだよ。外寒いからさ、せっかくだし使ってよ」
「ありがとうございます! もしかしてこれ、朱日先輩の手作りですか……?」
その問いに、彼女はふふーんと得意気に笑ってピースを決めた。
……ま、マジか。やばい、また泣きそうだ。
お金を払えばすぐに済むのに、わざわざ俺のために時間を使ってくれた。それが堪らなく嬉しくて、使うのがもったいなくなる。願わくば、真空パックに入れて保存したい。流石にそれは気持ち悪がられそうだからしないけど。
「コンビニ、私も一緒に行くよ。あとで私が、マフラー巻いてあげ――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
自室へコートを取りに向かった朱日先輩を呼び止めて、俺は戸棚の隙間に手を入れた。
そこから出て来た小さな黒い紙袋を見て、彼女はフッと軽く噴き出す。
「要君からのクリスマスプレゼント? いつからそんなとこに隠してたの?」
「……け、今朝から、ずっと。俺も食事する時に渡す予定だったので、家ならいつがいいかタイミングがわからなくて……」
もうこうなったら、サンタクロースのように枕元に置いておこうかと思っていたが、こうして直接渡せてよかった。
「プレゼントって何? 結構小さいみたいだけど」
「あぁ、はい。今出します」
紙袋から出したのは、深紅の長方形の箱。
その形状から何かを察したのか、朱日先輩の顔色が変わりパチクリと瞬きをする。
そっと箱を開いて、中身を見せた。
大小二つのプラチナのリング。彼女はハッと息を飲み、俺の顔と指輪を交互に見て目を白黒させる。
「結婚指輪ではありませんが……ほら、恋人同士がペアのリングを嵌めるのって定番ですし。朱日先輩と同じもの、身につけたくて」
指輪を二つ取って、箱をポケットにしまった。
彼女は何も言わずに、黄色い感情で頬を染めながら、こちらに右手を差し出す。長くて白くてしなやかな薬指に、小さい方のリングをそっと通す。
「わぁ……すごい、ピッタリだ……」
「すみません、寝てる間に測らせてもらいました」
彼女は指輪を慈しむように指の腹でなぞって、はふっと熱い息を漏らした。
よかった、喜んでもらえたらしい。
二ヵ月くらい前から準備していたが、センスが悪いと思われたらどうしようと胃がキリキリして仕方がなかった。
「要君の分は、私が嵌めてもいい?」
「はい、お願いします」
指輪を渡して右手を差し出す。
冷たいプラチナのリングは第一関節を通過し、第二関節を抜け、薬指の付け根に行き着いた。朱日先輩は俺と自分の薬指を見て、「一緒だぁ」と今にも蕩けそうな笑みを浮かべる。
「……ありがとう、要君。嬉しいよ、すっごく嬉しい!」
「あ、あぁ、いえ。……へへっ」
ようやく渡せた解放感と、笑顔を見られた達成感で、我ながら気持ちの悪い声が出た。
しばらく言葉もなく指輪を見比べ合って、触り合って、わけもなく笑い合う。絡めた視線に引かれて唇を重ね、そこに灯った体温が冷めないうちに抱き締める。頭の中の温度が徐々に上がっていくのを感じ、それは彼女も同じなのか、瞳に湿った炎を宿して俺を見つめる。
「じゃあその……コンビニ、行きますか?」
「私は別に、このまま
「そ、それはまた、帰ってからで。貰ったマフラー、早く使いたいので」
「……もぅ、仕方ないなぁ」
ぼふっと俺の胸に軽く頭突きをして、「準備して来るね」とリビングを出て行った。俺もコートを羽織り、玄関で彼女にマフラーを巻いてもらう。
同じようなことが、少し前にもあった。
朱日先輩の誕生日会。俺のぐちゃぐちゃなネクタイを、この人が直してくれたんだっけ。
……あれからまだ、半年も経ってないのか。
彼女との日々は始まったばかり。物語で言うなら、まだまだ序章。これからもっと楽しくて、嬉しいことがあるかと思うと、どうしたって口元が緩む。
「どうしたの、いきなり笑っちゃって」
「あぁ、いや、マフラーが暖かくて。ありがとうございます、一生大切にします」
はにかむ朱日先輩の手を取ってマンションを出た。
恋人繋ぎをすると、俺の左手の指先に彼女の右手の薬指に収まったリングが当たった。
その硬い感触が嬉しくて、ぐにぐにと軽く弄る。彼女はスッとこちらに顔を向け、仕方なさそうに唇を尖らせる。
はらりと、何かが俺と朱日先輩の間を通り過ぎた。
どうやら雪が降り始めたらしい。彼女の金色の髪を雪の結晶が彩りため息が出るほど綺麗だが、その身体を濡らすわけにはいかない。
「さっさと用事済ませて、早く呑みなおしましょうか」
そう言って手をいっそう強く握ると、彼女は「うん」と頷いた。
白い息を吐きながら、陽射しのような笑顔で。
あとがき
これにて第三章完結です。
そして本作は、ここで一度一区切りとさせていただきます。
第四章以降も書くことは可能ですが、一切構想がないのが現状でして、綺麗で面白いうちに畳みたいという私のわがままです。
ただ続きやSSを思いつけば書きますし、カクヨムコンでよい結果が出れば皆さんに共有したいので、フォローはこのままにしていただけると幸いです。
また本作は、あと少しで☆4000に達します。
面白かったという方は、レビューや応援、作品&作者フォローをお願いいたします。
それでは皆さん、短い間でしたが、ありがとうございました。早ければ来月には新作を出すと思うので、またどこかでお会いできればと思います。
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