第92話 親友


「どう、要君。気持ちいい?」

「ぅお……き、気持ち、いいです……」

「こっちは? 僕も結構、テクには自信あるんだよね」

「ぐぁっ! 気持ちいい……です、けど……あの、もうちょっと優しく……」


 朱日先輩に手招きされて大人しく戻ると、ソファに仰向けで寝転がるように言われた。そのまま朱日先輩に膝枕され、一条先輩は俺の足を膝の上に置く。


 一体何が始まるのか。

 不安をよそに始まったのは、至って普通の頭皮と足のマッサージだった。


「ほら見なよ、糸守クンが残念そうじゃん。ご褒美って言ったら、もっとえっちな感じじゃないと」

「い、いや別に、俺は――」

「なに、不満なの? 私だけじゃなくて、一条さんの身体も欲しいってこと?」

「違っ、違います! 全然不満じゃありませんよ! 俺は朱日先輩一筋ですから……!」

「前に僕のおっぱい触った時から、この身体が忘れられないんだよね?」

「どれだけ前のこと言ってるんですか!? もう忘れましたよ、そんなの!」

「つまり、もう一回触らせろってこと? いいよ、好きなだけ触って?」

「違ぁーう! いい加減にしないと――」


 と、言いかけて。

 朱日先輩は俺の手を取り、おもむろに人差し指を口に含んだ。ぺちゃりと水音が鳴り、次いで甘く鋭い痛みが走る。


「……あとで私が好きなだけご褒美あげるから、今はこれで我慢して」


 黄金色の瞳がジッと俺を見下ろす。


 その言葉が、行動が。

 意識も視線も何もかも、この場の全てを彼女が奪い去る。


 俺と一条先輩は唾を飲み、合図もなく同時に「は、はい」と口にした。一条先輩が言う意味はないと思うが、こればかりは仕方がない。今の朱日先輩には、他人の身体を無理やり動かす魔力がある。


「手、マッサージしてあげるね」


 緊迫した空気を打ち壊すように、朱日先輩はにへらと笑った。

 俺はコクコクと頷いて、右手を彼女に委ねる。


「……この手で今日も、いっぱい頑張ったんだよね。お疲れ様」

「すごかったよー、今日の糸守クン。僕がいた六階の部屋に、窓突き破って入って来てさ。パンパンッて敵を一瞬で倒しちゃったんだよ」

「ろ、六階? 窓? えっ、どういう状況?」


 一条先輩が手短に詳細を説明すると、朱日先輩は盛大にため息をついた。


「……アクション映画じゃないんだからさ、そういう無茶苦茶は程々にしてよ。六階だよ? 落ちたら死んじゃうんだよ?」

「す、すみません……」

「……あとさ」

「はい?」

「私も格好いい要君、生で見たかった」


 ブーッと唇を尖らせて、残念そうに言った。

 対して一条先輩は、なぜか誇らしそうに胸を張る。


「ごめんね、天王寺さん。僕ばっかり、糸守クンの格好いいところ知っちゃってさ! いやー、参っちゃうなー!」

「そんなことでマウントとらないでくださいよ……」

「でも私、一条さんより要君のことたくさん知ってるし! う、内ももにホクロ三つあることとか!」

「またそうやってマウントを――って、そんなの数えないでください!」

「僕、糸守クンが避けた銃弾持ってるけど?」

「いつの間に回収したんですか!?」

「わ、私も要君の服、いっぱい持ってるし!」

「ちょくちょく無くなると思ったら、同棲してるのに盗むとかどういうことです……?」

「僕にも十万で売って!!」

「売りもんじゃねえよ!!」

「そうだよ! 要君の服は私のなんだから!」

「いや、あの……俺の服は俺のだと思うんですが……」


 いつの間にかマッサージは終わっており、意味のわからない言い合いが始まった。喧嘩という雰囲気でもないため止めはしないが、俺を挟んでする会話ではない気がする。


「じゃあさ、どっちが糸守クンのこと好きか勝負しようよ!」

「どんな勝負だよ、それ……」

「いいよ。要君の好きなとこ言ってって、最初に出なくなった方が負けね!」

「えっ……本当にやるんですか?」


 だとしたら席を外そう。

 そう思って立ち上がるも、朱日先輩に引き戻される。


「要君も聞いてて! 適当なこと言わないように判断する、審判役が必要でしょ?」

「お、俺のどこが好きかを俺が聞いて、あってるかどうかを俺が判断するんですか……?」

「「そう」」

「……わ、わかりました」


 地獄のような恥ずかしさを伴う仕事だが、一条先輩はともかく、朱日先輩の頼みは断れず……。


 俺は渋々了承し、二人の間に腰を下ろした。




 ◆


 


 僕と天王寺さんの勝負は、結局引き分けに終わった。

 というのも、羞恥心を誤魔化すためか糸守クンはすごい勢いでお酒を呑み始め、程なくして酔い潰れてしまったのだ。審判役がいなくなっては勝負にならない。


「こうやってると、一年生の時に旅行行ったの思い出すね」

「一条さんが何もできないよう、布団で簀巻きにしたんだっけ?」

「そうそう。あれは興奮したなー」


 僕たちでは爆睡する彼を寝室まで動かせないため、リビングに布団を敷いてそこに転がした。

 そして僕は、夜も遅いということで泊めてもらうことに。二人の寝室にお邪魔して、天王寺さんの隣に寝転がる。


「……本当に、色々ありがとね。あと、ごめん。私たちのせいで、怖いことに巻き込んじゃって」

「き、気にしないでよ、そんなの! 大体私たちのって、僕が勝手に動いたせいだし! ていうか、大見得切って裏で動いてたのに、特に役に立たなくてむしろこっちが謝りたいくらいだよ!」


 最終的にあの情報が、天王寺さんの親父さんに渡ったのはよかった。

 が、別にそれは二人には関係がない。


 結局、僕が一人で騒いで空回りしただけ。

 アウトローぶっておいて、格好悪いことこの上ない。


「一条さんが謝ることない。……嬉しかったよ、本当に。私たちために、本気になってくれて」


 ザッとシーツと布団を鳴らしながら、天王寺さんの手が動いた。

 細く長い指が僕の手の甲に触れ、そのまま誘われ絡め取られるようにゆっくりと繋ぐ。彼女の黄金の瞳はぱちりと瞬いて、僕だけを映す。


「……私も今日頑張ったから、一条さんからご褒美もらっていい?」

「えっ? いやでも僕、たいしたもの渡せないよ。身体だったら、いくらでも持って行っていいけど」


 彼女が持っていて僕が持っていないものは星の数ほどあるが、その逆はほとんどない。


 そんな僕に何を望むのか。

 ……糸守クンに近づくな、とかかな。もしくは、彼を不用意に誘惑するなとか。


 あり得そうだ。きっとそれだろう。

 だとしたら、まあ仕方がない。ご褒美なのだから、しばらくは自重しておこう。


「一条さんのさ――」


 僕の手を握る彼女の手に、ギュッと力がこもった。

 桜色の唇は、僕のためだけにやわらかな笑みを描く。それはあまりにも美しくて、温かくて。心の底の黒いものも冷たいものも、何もかもを等しく照らす。



「――親友の枠って、まだ空いてる?」



 まったく予想外の質問に、数秒ほど脳みそが動かなかった。

 ようやく復活した思考能力で情報を処理し、「い、いや」と声を返す。


「僕は親友の身体を金で買ったやつだよ? 忘れちゃったの?」

「覚えてるよ。でも私、一条さんよりお金持ってるから、いくら積まれても売ったりしないし」

「そういう問題じゃなくて――」

「確かに一条さんは、性欲魔人だし見境ないし、ちょっとそれはどうなの? って思うこと結構やる。初めて会った時は、正直嫌いなタイプだなって思ってた」

「……えっ、そうなの?」

「でも、どんな状況でも明るくいてくれることに何度も救われたし、何だかんだ優しくて頼り甲斐あるし……何より、私や要君を全身全霊で大切にしてくれるし。そんな人に、私の初めての親友になって欲しいってお願いするのはダメなことかな?」


 天王寺さんはジリッと距離を詰め、僕の手を一層強く握り締めた。

 その力に、熱に、じんわりとした手汗に、僕の心臓は痛いほどに跳ねる。


「……初めての親友が僕って、大丈夫? 後悔しない? 僕、他人を傷つける能力だったら全国大会行けるレベルだと思うよ?」

「もし私が一条さんのせいで傷ついたら、その時は喧嘩するか叱るだけだよ。親友ってそういうものでしょ?」

「だけど、僕……」

「これは私へのご褒美だから、決めるのは一条さんだよ。私の気持ちは変わらない。あとは、一条さんがどうしたいか答えて」


 三十万。それで僕は、親友を買った。

 彼女の身体は生温かくて、少し硬くて、夏の陽に焼かれた自転車のグリップのようだと思った。


 でも、今僕に触れている天王寺さんの手はまったく違う。

 何の気持ち悪さもないし、違和感もない。許されるなら、一生手放したくない。


 だから、僕は言う。

 僕が、どうしたいかを。


「……ぼ、僕でよければ、親友に……な、なって、ください……」


 別に何てことのない台詞だ。

 それなのに、なぜだか涙が零れてきた。


 天王寺さんは心配そうに眉をひそめ、空いたもう片方の手で僕の涙を掬う。

 ……同じこと、糸守クンにもされたっけ。このカップルは、本当にいい加減にして欲しい。どこまで僕を好きにさせたら気が済むのか。


「じゃあさ、僕からもご褒美、もらっていい? まだ、天王寺さんからもらってなかったし」

「いいよ。何でも言って」


 何でも。

 心躍るワードだが、流石の僕もこの状況で下半身に血が行くほどお猿さんではない。


「下の……下の名前で、呼び合いたい」


 下ネタが飛び出すと思っていたのか、彼女は少しだけ驚いたような表情を浮かべた。

 心外だなぁ、と思いつつ。まあ、日ごろの行いが悪いのだから仕方がない。


「いいよ。えーっと……晶、さん」

「な、何か照れ臭いな。その……あ、朱日さん」


 特に面白くもないのに、僕たちはクスクスと笑い合った。

 それから何度か下の名前で呼び合って、何か変だね、そうだねと笑う。入学してからずっと苗字呼びだったせいで、違和感が尋常ではない。


「今日はもう寝よっか。おやすみ、晶さん」

「うん。おやすみ、朱日さん」


 瞼を落としても、隣に親友の存在を感じる。

 その嬉しさを噛み締めながら、僕は静かに意識を眠りへ傾けた。




 あとがき


 次話で(おそらく)第三章完結です。

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