失恋と、その先。
琥珀ひな
失恋と、その先。
「私達、幸せになりまーす!!」
宙を舞う花弁の中で、真っ白なドレスに身を包んだ女が高らかにそう宣言する。リンゴンと鳴り響く鐘の音を背に、正しく人生で最も幸せな瞬間を噛み締めているのだろう。
そして女に身を寄せる彼───「小幡 幸太郎」もまた、今まで見たことがないくらい、それはそれは輝いていた。
誓いのキスは既に済ませた後だというのに、二人はもう一度唇を合わせる。指に収めた銀の指輪を、陽の光で照らしながら。
絶えることのない歓声と拍手の中、私だけが手をだらんと下げ、ただ立ち尽くすだけの背景役に徹している。
「かのちゃん、来てくれたんだな」
壇上にいたはずの二人は、いつの間にか各々の親族や友人の元へ散っていた。そして私も、その " 友人 " の一人として、本日のヒーローに話し掛けられている。
「…こーたろ兄ちゃん」
私はいつぶりかに口にしたその愛称に、胸の奥がチクリと痛む感覚に襲われた。でも、私は目を背けず真っ直ぐに「こーたろ兄ちゃん」を見つめる。
───この人は、私の好きだった人。そして、絶対に私のことを " 好き " にならない人。
そうだ。私こと「三嶋 華乃」は、この人にとってかわいい妹分でしかない。その事実を自分自身に突き立てているようで、私はこの愛称で彼を呼ぶことが何よりも苦痛だった。
「あ、その呼び名。数十年ぶりに聞いたなぁ」なんて呑気に笑う兄ちゃん。私が今どんな思いでこの名を口にしたのか知りもしないで、兄ちゃんは昔話を口にし始める。
「かのちゃん、ちっさい頃は今じゃ考えられないくらい甘えただったんだよなぁ…。覚えてるか? ランドセル背負いながら、よく俺の通ってた高校までついてきてたよな」
忘れるわけない。何なら今でも覚えてるよ、兄ちゃんの学校までの道順。私が高校に上がるタイミングで廃校になっちゃったけど、跡地だけはずっと残ってて。「あぁ、こーたろ兄ちゃんと一緒に通えたならどれだけ幸せだっただろうな」なんて想像しながら、私はその跡地をよく眺める。
………………とは口が裂けても言えず。
「覚えてない。あと、昔語りじじくさい」
と、思春期真っ盛りを装いぶっきらぼうに返す。
「おいおいそりゃひっでぇな。俺、学校までついてきちまったかのちゃんのこと送り返す時間作るために、毎朝必要以上に早起きしてたんだぜ?」
そう言って、兄ちゃんはまた豪快に笑う。対する私は、驚きのあまり目を丸めていたと思う。
…本当に驚いた。兄ちゃんが毎朝早かったのは、私をついてこさせないためだと思ってた。だから私も負けじと早起きしてたのに、実際は私を小学校まで送るために、わざわざ登校の時間を早めてくれていたのだ。
そんなの、今の今まで考えもしなかった。
「そんな後出しジャンケン、ずるいよ」
「………ん? 出汁がなんだって」
自分に対してだけ聞かせるつもりで吐いたはずだったのに、予想外に声が乗ってしまった。私は直後「何でもない!」と声を上擦らせてしまい、それがまた微妙な空気を生む。
あぁ、ほんと最悪。私だけがいつまでも子供みたいで、兄ちゃんは私なんかよりもずっと大人で。その詰めようがない距離のせいで、私は一人傷心している。
何と言っていいのか分からず俯く私の頭に、兄ちゃんはポンと掌を乗せる。そしてそのままワシャワシャと、私の髪を弄り始めた。
「ちょ、何すんの…。髪崩れるからやめてってば」
「崩れるも何も、かのちゃんのそれ、ただのボブじゃねぇか」
「答えになってない! あと、おろしてるだけでも崩れるもんは崩れるっての。キューティクル剥がれる」
「そうかそうか、そりゃすまんかったな。でも、 " 今日くらいは " 髪型いじってもよかったんじゃねぇか? と思ってな。洋服は気張ってんのに」
「それは…」と言いかけて、私は口を噤む。
これも、兄ちゃんには言えるわけがない。
中学に上がって、初めて美容院に行った次の日。切り揃えられた私の髪を見て兄ちゃんは言ったのだ。「よく似合ってんな、可愛いぞ」って。
そのせいで、私はミディアムボブにしか切れなくなった。一種の呪いだ、こんなもん。………でも、それはきっと幸せな呪いだった。
「こーたろ兄ちゃん、覚えてる? 私が初めてこの髪にした日」
言えるわけがない、と思ってたのに。色々考えてるうちに、ちょっとだけ気が変わった。私は兄ちゃんに、髪のことを聞いてみることにした。
───もし、覚えていたら私の負け。私は嬉しくなって、この髪の由来を話してしまうに違いない。
そして、忘れられてても私の負け。私は悔しくなって、きっと兄ちゃんのことを忘れられなくなる。
…あぁ、いつからだろうな。こんな勝ち目のない独り相撲に身を投じるようになったのは。馬鹿なことだと自覚しても、決してやめられない。私は自嘲気味に、兄ちゃんの出す答えを待った。
………が。
「幸太郎くん。そろそろお写真の時間だって!」
誰かの声に、この勝負は待ったをかけられてしまった。私と兄ちゃんの振り向いた先、ドレスの女が手を振っている。
そしてその瞬間を、私は見逃さなかった。見逃すことが、できなかった。
さっきまで私の頭を撫でていたことなんて忘れてしまったかのように、兄ちゃんの面には、私に向けるのとは違う笑顔が浮かんでいたのだ。
頬を少し赤くして、兄ちゃんはドレスの女にてを振り返す。「すぐ行くよ」と返事を受けたその女は、私の方にも小さく手を振って、そしてそのまま人混みの中へ姿を消した。
「こーたろ兄ちゃん。あの人のこと、好き?」
私は質問を変えた。そして今度こそ、私に勝ち目のない、あるはずのない勝負だ。兄ちゃんはきっと言うのだろう、「好きだ」と。字面だけを見れば、私にもその言葉は何度か贈られた。
『こーたろにぃちゃん、わたしのことすき?』
『あぁ、俺はかのちゃんのこと大好きだぞ』
兄ちゃんからもらった、『好き』の言葉。でもそれは、私のほしい " 好き " じゃなかった。
そうじゃなくて。
私は───
「ああ。俺はあの人のことを、愛してる」
それだ。
もっと濃くて、もっと熱い。その言葉、その気持ちを、私はこの身で受け止めたかった。
………兄ちゃん、「愛してる」って台詞、ちゃんと使えたんだね。
「勿論だ。何度だって言うぞ、俺は聖菜のことを愛してる」
聖菜…というのは、兄ちゃんのお嫁さん、あのドレスの女の名前なのだろう。何度聞いても覚えられなかったのに、今ではこんなにも、彼女の名が鼓膜の裏を離れようとしない。
動揺を悟らせないよう私は精一杯の微笑を貼り付け、「行ってきなよ」と兄ちゃんの肩を押す。兄ちゃんは照れたように頭を掻きながら、私のいるところとは真反対の方向へと、歩みを始めた。もう、兄ちゃんの視線が私を捉えることはなかった。
「独り相撲すら、させてくれないんだね。こーたろ兄ちゃん」
今度こそ誰にも聞こえないくらいの小さな声で、私は負けヒロインを演じてみせる。こうすることで、自分を一人のキャラクターに見立てることで、私は傷付いた表皮を誤魔化してきた。それが逃避以外の何物でもないことは百も承知。こんなことを繰り返すから、いつまで経っても成長しない、兄ちゃんにも追い付けない…なんてことは億も承知だ。
それでも、私には失恋が耐えられなかった。当事者意識を置き去りにすることでやっと、私は私を保っていられる。それほどまでに、叶わぬ恋とは残酷だ。
きっと明日にも私は、今日この日の失恋なんて忘れたフリして、何食わぬ顔で性懲りもなくまた恋をしている。もちろん、こーたろ兄ちゃんに。今までずっとそうしてきたから、多分これからもそう。それは乙女の打たれ強さなんて綺麗なもんじゃなくて、ずっと醜い。未練たらしく、粘着質で、心も身体も薄汚れたまま、ずっと………。
私は唇を噛み、このやるせない気持ちを拳に込めた。兄ちゃん、私すごく苦しいよ。失恋なんて、もう慣れっこのはずなのに。小さくなっていく兄ちゃんの背中を見てると、すごく切なくなって。どうしょうもなく悲しくなって。自分で自分を騙すのも、…もう限界で。
私はあとどれくらい、失恋を繰り返せばいいのかな。私はあとどれくらい傷付けば、この " 呪い " から解放されるのかな。幸せな呪いなんかじゃなくて、ただ甘いだけの、麻薬じみたこの呪い。
「終わらせて」なんて身勝手なことは言わない。───でも。ただ一言だけ、わがままが許されるとするのなら。
終わらせられるだけの勇気を、私にください。
私は張り裂けそうな胸を抑えながら、切に願った。目の端から数滴、涙が溢れる。そしてその雫は地で割れることなく、風と共に流れていった。それは丁度、兄ちゃんの向かうその先へ。
「かのちゃん」
聞き慣れた声と、聞き慣れた呼び名が、ボサボサになった私の髪を再び揺らす。ハッと顔を上げると、そこには兄ちゃんが立っていた。聖菜さんの方へ向かったはずなのに、一体どうして…。
私が困惑の色を浮かべていると、兄ちゃんはニカッと笑いそして言った。
「俺は忘れないよ。髪のことも、かのちゃんのこと大好きだってことも。だからこの先、かのちゃんも忘れないでいてほしい。───自分には、幸せな兄ちゃんがいるってな」
私はそのくっさい台詞を、どんな顔で聞いていたのか覚えていない。ただ、兄ちゃんが言い終わった後私は涙が止まらなかった。
忘れてしまうわけじゃ、なかった。たとえ諦めてしまってもそれは───その恋は、なかったことになんてならない。そう言われたような気がして、私の中にある何かが外れた。
全身に纏わりついてた汚いモノが、涙とか汗とか、要は体液と混ざり合って、やがて掌へと溢れて落ちる。
「おいおいなんで泣くんだよ」と兄ちゃんは私の様を見て笑うが、その細くした目の端には薄く涙が溜まってみえる。感受性豊かなところも、やっぱり昔と変わってない。
「こーたろ兄ちゃん…やっぱ、そういうくっさい台詞全然似合わないね」
「そうか? 俺はアリだと思うけどな。だって現に、かのちゃん感動して号泣だし」
「号泣じゃないし。…ってか、別に感動でもないし…」
私はそう言って、兄ちゃんの胸をポカッと叩く。もう、握り拳からは力が抜けていた。
ごめんね、兄ちゃん。こんな面倒くさい妹分で。最後の最後まで私、兄ちゃんに甘えちゃった。
そして、ありがとう。『忘れない』って言ってくれてありがとう。それは多分、私の二番目に聞きたかった言葉なんだ。でも今は、どんな言葉よりも、この『忘れない』が私の一番。
失恋しても、この恋が終わっても、全てがなかったことになるわけじゃない。無くならないものだって、そこにはある。頭ではわかっていても、私はやはり踏み出せずにいた。
───でも、もう大丈夫だよ。ちゃんと勇気、貰ったから。
私は言った。言ってやった。涙の欠片も、傷付けてきた過去の自分も、全部拭い去って私は前を見て言った。
「私も忘れない。こーたろ兄ちゃんのこと大好きだったことも、これからも兄ちゃんは、私の幸せな兄ちゃんなんだってことも」
結婚おめでとう、こーたろ兄ちゃん。私も掴んでみせるよ、誰かの…私の、「愛してる」を。
兄ちゃんは私に何も言わず、そのままもと来た道を戻って行った。私も兄ちゃんの影を追うことはせず、堂々たる足取りで式場を後にした。
式場を出るとすぐ、満開の桜並木が私のことを出迎えてくれた。ビュッと一息風が鳴ると、そこは見渡す限りの春だった。
───春。それは別れの季節であり、そしてその別れは新たな出会いを呼ぶ。
私はその出会いを探しに、春の向こうへと駆け出した。
失恋と、その先。 琥珀ひな @gpdamjwt
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