第4話 いざという時(本当に困った時)に、警察官や軍人は役に立たない
2022年10月1日
V.5.1
平栗雅人
いざという時(本当に困った時)に、警察官や(職業)軍人は役に立たない。
○ 関東大震災のときの警察官(たち)
母方の祖父は時計の修理職人でしたが、60年前で腕時計の分解掃除2,500円なんて時代でした(地方の都市などで頼むと仲介手数料が入るので、もっと高い)ので、かなり裕福で、土曜日の晩になると、近所の(元)名士たちが飲み食いにやってきました。
私も、小学生の頃から、同じ席で夕ご飯を食べていたので、いろいろな話を、それとはなしに聞いていました。
関東大震災のとき、警察官(たち)はすがり付く群集たちに対して、普段の「おいコラ!警官」の威厳が保てなくなり(自我崩壊)、かなりいい加減なことを言って、尊厳を保とうとしたようでした。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマは、お爺さんの話では、警察官が言い始めたということです。
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私の「素の生き方」は、父方の方の比重が大きいようなので、私自身の思い出ではありませんがここで述べておきましょう。
明治維新のとき、私の祖父の祖父は武士だったので、そのまま警察官になりました。
その息子(私の祖父の親父)もまた、東京で警察官をやっていたそうです。彼の孫であった私の父の話によると、「警察官の仕事を全くやらない、良い警察官だった」そうです。
当時(明治・大正・昭和の敗戦まで)の警察官とは「おいコラ!」警官と呼ばれ、何時でも何処でも、誰かれお構いなしに捕まえては、職務質問というか尋問をしていました。
佐賀純一著「浅草博徒一代」新潮文庫に描かれた警察官そのものであったのです(この本の内容はすべて実話です)。
ところが、私の曽祖父は、一切そういうことをせず(威張らず)、毎日、川へ行っては警官所有のサーベル(西洋風の刀)で、泳いでいる魚を突いていた。そして、大漁の時には、近所に配って歩いていたそうです。
これこそ縄文人の、平等というか、仲間意識ではありませんか。
血が一つではないので、変にカッコつけたり、威張り散らすことで自分の存在を自覚できると無意識に思い込んでいる弥生人(韓国(百済)人)と、違うところです。彼らはだからこそ、(自分たちは、普通の日本人とは違う血なんだ、と思い込むために)天皇というスーパースターを祀(まつ)り上げるのです。
曽祖父は、自分の子供や孫に「警察官はもちろん、役人になんか決してなるものではない」と口癖のように教えていたそうです(威張ってばかりで働かない、駄目な人間だから)。ですから、その子供たちは全員「民間人」でした(その息子である私の父と叔父は、戦争直後でしたので、やむなく公務員になったのですが)。
私の父の父(私の祖父)は、自転車屋になり、新宿東口のビックカメラが建っている場所で、小僧を3人も使って、大きな自転車屋を経営していたのです。
ところが、昭和16年(1941年)、そこに軍事施設を建てるということで、いきなり追い出されてしまいました。当時は、警察と軍人は「天皇という神の召使い」のような位置づけで、民間人に何をやっても許されるという、閻魔大王の手下のように、残忍非道だったのです。(「浅草博徒一代」参照)。
軍や警察に逆らえば、小林多喜二のように取調室で殺されるというのが当然、という時代です。3日以内に荷物をまとめて出て行け、といわれれば従うほかありません。しかし、曽祖父は元警察官ということで、軍の事務所に掛け合いに行ったところ、「朝鮮の○○に兵隊靴の工場を建てるので、そこの工場長になれ」ということになり、平栗一家は朝鮮(今の韓国)へ移住したのです。
○ 平等や平和を嫌う警察
その町は、ソウルから電車で2つ目で、小高い丘の上に大きな一軒の家があり、両班という韓国(百済)人貴族(岸田の祖先)が、召使い(奴婢:奴隷のようなもの)数人と共に住んでいたのを、日本軍が撤収(貴族を追い出して日本軍が所有)していました。丘の下には川が流れ、そこに500戸(約1,500人)ほどの集落があり、ここの人たちを使って靴工場を運営することになったのです。
平栗一家は、新しい村長・工場長として、元貴族の家に住みました。私の父の話では、当時の朝鮮人(韓国(百済)人)社会というのは、貴族と平民(奴婢)の2種類しかいない。この村の場合には、約20人の貴族一家と、1,500人の奴婢(奴隷)ですから、まさに天国と地獄。
なにしろ、1,500人のうち、朝鮮語(ハングル語)の読める者が7・8人しかいなかったというのですから、いかに彼ら韓国(百済)人の支配階級(両班:岸田の祖先)の、社会というものについての考え方が狂っていたかということがわかります。
つまり、人々に読み書きや足し算引き算といった教育をすることで大衆の能力を向上させ、全員の総力で国力を充実・向上させる、という近代社会の根本原理を全く無視した社会であったのです。
その結果、南朝鮮(韓国(百済))の辺りは、朝鮮半島で最も貧しく、経済も文化の発達もしない地域になってしまった。国民をバカ(無教養)にしておけば、支配者(両班)に反抗することはない、という考え方です。
これは、まさに現在の日本がなりつつある社会ではないでしょうか。
今の日本国民(縄文人)は、かつての朝鮮の奴婢と同じですから、支配者の韓国(百済)人政治家やマスコミや警察が、どんないかがわしい行為をやっても、何も言えない。
政治家や公安委員長という警察の幹部が悪いことをしても「知らなかった」で済んでしまう。貴族と平民(奴婢)という2極(天国と地獄)社会、平安時代そのままですね。韓国(百済・創価学会)人でなければ人にあらず、というのが現在の日本社会でしょう。
私の祖父母は縄文人ですから、両人共に「平等政策」を実行します。
祖父は工場長として、日本人も朝鮮人も平等に扱いました。
祖母は、約3ヶ月かけて500戸全部を訪問し、村の問題点を探そうとしました。
当時12歳の私の父は、小学校から帰ると、三歳の弟をおんぶして、村民の戸別訪問に同行させられたそうです。父が言うには「何が行くのに嫌かと言って、彼らの家は異様な臭気に満ちていたから」だそうです。
原因は、彼らの家にはトイレがない。部屋の隅でおわんやどんぶりに用を足し、窓から道路へ投げ捨てる。ウンチは犬が食べ、その犬のウンチを豚が食うのだそうです。冬は寒いので、大小便をそのまま部屋の中に置いておく。その匂いが長い年月の間に部屋に染み付いているらしい。しかも、大小便用の器を、樽に汲み置きしておいた水で軽く流してそのまま、食事に使う。だから、彼ら住人には皮膚病の人が多かったそうです。食べ物と一緒に口に入った大腸菌が皮膚に出るのでしょう。
(水洗トイレなんてない時代、(汲み取り式の)トイレが臭いのは当たり前ですから、当時の日本人は誰でも「臭い」のには慣れている。そんな親父が、卒倒しそうなくらい臭かった、と言うほどですから、相当なものだったのでしょう。)
祖母は、しかし、一つも嫌な顔をせずに毎日数件の家を回り、結局、彼らの衛生観念と、洗濯したり大小便が流れ込んだ川の水を食用に使うことが問題である、と結論付けました。
そして、大小便の器と食器を別にすることと、食用の水は丘の上の自分たちの家にある、この村唯一の井戸を使わせる、ということにしたのです。
それ以来、まいにち下の村から丘の上まで、長い行列風景が見られたそうです。はじめは面倒がっていた一部の村民も、井戸の水を使うようになってからは皮膚病が出なくなったのを見てこれに習い、半年後には全家庭が健康になったということです。
工場長の祖父も、平等に扱われるので喜んで働く朝鮮人のおかげで生産性があがるので、ハッピー。工場も村全体もいいムードで1年目が終わろうとしていました。
ところが、こういうのを妬むのが警察のような組織なのです。
彼らは基本、世の中から犯罪がなくなり平和になってしまっては飯の食い上げです。しょっちゅう、暴動や反乱、殺人事件があっても、これまた困る。
しかし、全くの平和では予算も増えない、給料も上がらない、第一、「私たち警察がいるからこそ市民が守られている」というプライド意識がなければ、肩身が狭い。
当時の警察や役人たちは「鬼畜米英」や「朝鮮人が井戸に毒を入れた」なんていうデマで恐怖を煽ることで、自分たち役人に頼るように仕向けたのです。
祖父は警察署に呼ばれ、数日間取調べという名の折檻(お仕置き)を受けて、「足腰が立たなく」なってしまい、しばらく寝込んでしまいました。そして、そのまま工場はクビになり、丘の上の邸宅から追い出され、朝鮮人たちと一緒に村で生活することになりました。
収入がなくなったので、父の姉(私の叔母)はソウルの日本料理屋で住み込みの女中となり、私の父は15歳で機関車の釜焚き(機関主助手)となり、一年後には正式に蒸気機関車の機関主(運転手)となり、一家を支えました。
平栗家の長男と次男はすでに徴兵されていましたが、私の父は18歳で陸軍航空兵に志願し、奈良の訓練所で終戦を迎えました。
ですから、1945年8月15日の終戦時、家には障害を負った祖父、そして当時40幾つの祖母と二十歳の叔母、5歳の叔父と乳幼児の叔母2人の6人家族でした。
貧乏のどん底ですから金は盗られはしませんが、40歳代と二十歳の娘なんてのは、とんでもなく危ない。
実際、終戦直後から、周囲の村や町から朝鮮人の暴徒が「日本人狩り」に何十組もこの村を襲ったそうです。
しかし、村の若者たちを中心に「1,500人全員」で守ってくれたので、朝鮮脱出までの大混乱の3ヶ月間(村で待機1ヶ月・釜山港まで半月、釜山で日本への輸送船を待つのに1.5ヶ月間)、食事と安全は確保されたのでした。
村からの出立の日には、村人全員で見送ってくれたそうです。
釜山への道中、何度も朝鮮人暴徒に襲撃されそうになったのですが、護衛として一緒についてきてくれた屈強な若者20人、長老5人、おばさんたち5人が盾になってくれたそうです。
日本への船が出るときには、祖母と付き添いの朝鮮人おばさんたちは号泣して別れた、ということです。
祖母は72歳で亡くなるまで、「いつか朝鮮に帰りたい」と言っていたそうです。4年間のうち、3年間は乞食のような貧乏生活をしていたにもかかわらず。
国家は、偉そうに「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」なんて、上から目線で叫びながら、結局、皆に憎まれ、誰からも尊敬されませんでしたが、底辺の一般大衆レベルでは、本当に平等な友情が育っていたのです。
2022年10月1日
V.5.1
平栗雅人
続く
「思い出は一瞬のうちに」Part 2 @MasatoHiraguri
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