第4話

「うわああああああッッ!!」


狭いダクトを通って、バルドとルカはとある部屋に落ちた。ルカは慣れているようで上手く着地したが、バルドは顔から床へと着地した。ジクジクと痛い額をさすりながらバルドはルカに向かって勘弁してくれと抗議する。


「いっっっって! 落ちるなら落ちるって教えてくれよ〜〜!!」


「仕方ないじゃない、時間がなかったんだから!」


ルカはむう、と顔を膨れさせる。あれは流石に仕方なかったかと思いながらバルドは立ち上がった。恐らくぶつけたところは彼の少し日に焼けた小麦色の肌でも赤く腫れていることだろう。帰ったら冷やそうとバルドは心に決めた。まずは目の前のことをやらなければならないとバルドはルカに聞く。


「はあ……俺たちはどこを通ってこの部屋に落ちてきたんだ?」


「非常用脱出経路。64階のこの部屋に落ちるようになってるの」


ルカが言うには、この非常用脱出経路は先代のルカの父親が彼女のために作ったものらしい。いつか緊急事態が起きた場合にと。緊急事態でもないのに使っていいのかという質問は置いておこう。


「へぇ……って、大丈夫なのか!? この部屋から出たらがっちり包囲されてるんじゃ……!」


バルドは思わず武器を出そうとした。その手をルカが制する。ルカの手がバルドの手に触れるとオレンジ色の光はふわふわと浮かんで、そして消えていった。バルドは驚いてルカに何か言おうとしたが、ルカは微笑むとシーッと人差し指を立てた。そのままルカは続ける。


「大丈夫、安心して。ここ、私しか知らないから。さ、行こう」


ルカはバルドの手を優しく引くと部屋の外に出た。部屋の外といっても、ドアの先は会議室のような部屋へと繋がっていた。ルカの言った通り、一般兵はおろか足音一つしない。


「やけに静かだなぁ。追ってきてないのか?」


「この通路、誰も知らないから追ってはこれないよ」


「いいのかそれで」


「いいんだよそれで」


バルドとルカは歩き出した。会議室の広くて静かな雰囲気はバルドを無意識のうちにそわそわさせた。元来、バルドはどんな状況でもじっとしていられる性格ではないのだが。先程まではセルマが一緒にいて、なにかと会話をしていたからよかったのだ。気まずいなと思ってルカの名前を呼ぼうとしたが、呼び方が分からず曖昧になってしまう。


「……えっと、く、クラウス……お嬢様?」


「ルカでいいよ。どうしたの?」


「じゃあ、ルカ。お前はさ、ここから出たらどうするつもりなんだ?わざわざシュナイダー指揮者の手まで煩わしてさ。ここを空けるわけにはいかないだろ?」


「んー……」


ルカはしばし考える素振りをした。そして顔を上げるといつものようにニコッと笑い


「探してる人がいるの。ウルフヘズナルのフェンリル。その人を見つけだして、私はハンス=シュナイダーを止める」


と言った。バルドは固唾を飲んだ。ルカが言っているのは……プレイヤーでも言い出さないような、今の世界をひっくり返すと言っているようなことなのだ。バルドの様子を見ても冗談だという素振りを見せない彼女にバルドは問う。


「……それ、本気で言ってるのか?ハンス=シュナイダーは指揮者でトップで、俺たちが敵うような相手じゃ……ないし、それにフェンリルは……その姿を知られてないことで有名なはずだ。見つけられる、はずがない……」


「私は一度だけ、フェンリルに会ったことがあるの。あの日のこと……絶対に忘れない。あの人も、私と同じ考えを持つ人だった」



その日は満月で、月明かりが眩しいくらい明るかった。私は寝ようと思ってベッドに向かうところだったの。窓からいきなりドンって音が聴こえて、私は窓の方に近づいた。そこには人影があって、ひどい怪我をしてた。だから私は窓を開けてその人を部屋に入れたの。


『っ……なんで、開けた』


びっくりした。こっちを恨んでるような低い声出すんだもん。


『……ひどい怪我、してたから。どうしてそんな……血だらけ、なの?』


『ひどい怪我? オレは怪我はしてない』


彼は服に血をびっしり付けてたから、本当に怪我をしてないか私は見に行こうとしたの。でも彼は見られるのが嫌なのか、後ずさって影に隠れると声を低くしたままそう言った。


『じゃあ、返り血……? もしかして、人を、殺したの?』


『ふん……正確にはプレイヤーだ。深夜に悪いことをしたな、全部忘れろ。お前はオレと会ってないし、オレもお前と会わなかった。いいな』


彼はそのまま音も立てずに窓から出て行こうとした。何かに焦っていて、急いでる感じだった。でも、何故か彼とこのままお別れをしたくなくて、私は彼を引き止めた。


『ま、待って!』


『?』


『誰にも言わないから、名前、教えて?』


いつのまにか、そう口走ってた。ハッとして口を閉じたときには彼はこちらをじっと見て首を傾げてた。それもシルエットだけで、どんな顔をしていたのかは分からないけど。


『名前……? フェンリル。ウルフヘズナルの、フェンリルだ』


『フェンリル……ウルフヘズナル……』


フェンリルは私を見るとチッと舌打ちをした。言わなきゃよかった、とぼそっと零したのも聞こえた。フェンリルは名前だけの存在で、その他は何も知られていない。こっちが驚いて、嫌だったのかもしれない。


『もういいだろ。……じゃあ』


『本当の名前は?』


『っ、何を言って……』


『フェンリルは本名じゃない、でしょ?』


だってウルフヘズナルでの名前はコードネームだって知ってるから、名前が知りたかった。フェンリルは私の言葉に声を詰まらせてた。数分間の沈黙の後にフェンリルはそっと口を開いた。


『……はあ、何を言い出すかと思えば……変な奴』


『え?』


『いいよ、分かったよ。特別に教えてやる。────。これがオレの、本当の名前』


『────……』


私が彼の名前を繰り返すとフェンリルはふっと笑った。その笑い方はフェンリル自身を自嘲したかのような、どこか儚いものだった。その時私は、笑っているフェンリルの口元が月明かりに照らされて見えたの。


『……この名前、もう名乗れないんだ。笑えるだろう? オレはもうフェンリルとして生きるしかないんだ』


『どうして? 名前は貴方自身が存在していることを示す大切なものよ。名乗るなって誰かに言われてるの?』


フェンリルの緩やかな弧を描いていた口がキュッと結ばれた。彼の周りを包むオーラが暗くなる。


『まあな。……こういう例外を除いて、オレは仕事中は自分の意志で動けないし、気づいたとしても相手は目の前で死んでる。日中は公にできないような実験のサンプルだ。罪のないプレイヤーを殺して、この都市は何がしたいんだろうな。ほんと、くだらない』


『…………』


『……じゃあな。今日のことは絶対誰にも言うなよ。こっちは人前に姿を現すなって言われてるんだから』


そう言うとフェンリルは私の返事を待たずに窓から外に出ていっちゃったの。私が窓を覗いた時にはもう姿はどこにも見えなかった……。



「じゃあ、フェンリルは自分の意志でプレイヤーを殺しにいってたわけじゃないって言うのか?」


バルドはうーんと考えながらそう言った。ルカもそうなのだろうといった様子でバルドにうなずく。そしてルカはニコッと笑った。


「ね、仲間にできたらいい戦力になりそうじゃない?」


「お、おう……そうだな。結局、フェンリルの本名はなんだったんだ?」


「それがね、思い出せないの。聞き取れなかったわけじゃないんだけど、なんでかなぁ」


あの時の会話は鮮明に思い出せるのに、どうしてか彼の本当の名前は思い出せないらしい。顔も見えたはずなのに、モヤがかかったように思い出せないようだ。それもルカの場合はある日突然に、だそうだ。それからは何度思い出そうとしてもそこだけ無音になったようになって思い出せないようである。バルドは髪をいじりながら近くの壁に背を預けた。


「一回しか聞いてないんだろ? よくあるよくある。まあ、なにかのキッカケに思い出せるんじゃないか?思い出せなくても、フェンリルに会ってもう一回聞けばいいんだし」


「……そう、だね……」


バルドは部屋の出口に向けて足を進めた。扉を開いて、そしてルカの方を振り向く。


「とりあえず、シュナイダー指揮者を止めるとかフェンリルに関してはセルマと合流してからちゃんと話そうぜ。まず下に降りとかないとな。じゃないと、セルマが困っちゃうし、置いてかれちゃうぞ」


「うん……。あ、バルド」


歩き出そうとしたバルドをルカが止める。ルカはずっとバルドに言いたいことがあった。


「どうした?」


「……ありがとね。助けに来てくれて」


ルカの言葉にバルドは少しだけ目を見開いたがすぐにいつものように笑った。


「礼なら俺じゃなくてセルマに。俺だけだったら、ルカに会えなかった」


「優しいんだね、バルドは。それに、セルマも」


「そこまで言われると照れるな。アイツ、素っ気ないし素直じゃねえけど、お前のこと心配してたから。じゃ、行こうぜ」


時間稼ぎと言われたって、時間が長いわけではない。二人は1階への道を急いだ。


*****


──これで、ダメなのか……⁈


「もう来ないのか? ならば、俺から行かせてもらおうか」


「ッ!」


先程までハンスは一歩も動くことなく、セルマの攻撃を避けていた。セルマは自分の持ち得る力の限りでハンスを追い詰めていたつもりだったが、彼の肌はおろか、服に一つも刃で傷付けられた跡はない。

ガキンッ! キィンッ!

ハンスの一撃一撃が重い。これが英雄と謳われた男の実力であろうか。今のセルマにはハンスの攻撃を受け流すことで精一杯だ。受け止めることすら、危ういかもしれない。そしてついにハンスのレイピアがセルマのチャクラムを弾き飛ばした。武器を失ったセルマの体をハンスはレイピアの柄の部分で殴り飛ばす。セルマの体はいとも簡単に吹き飛ばされ、デスクに衝突した。セルマは呻きながらその場に膝をつく。


「ぐッ……!」


「だいぶ動けるようになったんだな。驚いた」


はあ、はあ、と肩で息をして時折セルマは咳き込む。対してハンスは息を上げてすらいなかった。加えて微笑まで浮かべている始末である。


「まだ俺には敵わんが、お前にしてはよくやった」


ハンスはレイピアを元の指揮棒に戻してセルマの方に足を進めた。そして彼の前まで来ると、おもむろにしゃがみ込んで目線を彼と合わせる。


「いいだろう、教えてやる。だがその前に確認しておきたい」


「…………」


「本当にいいんだな? 知ればお前は後悔するかもしれないぞ?」


「……オレはオレを知りたい。後悔したとしても……それがオレの求める真実なら」


「……そうか。なら遠慮はいらないな」


次の瞬間、ハンスはセルマの首を掴むと彼の体を床に押し付けその上に跨った。咄嗟のことにセルマは驚くだけで抵抗ができなかった。すぐに息苦しさを感じて彼の腕を両手でどかそうとするが、彼の腕はビクともしない。


「な、何を……!」


「大人しくしろ。教えてやろうとしてるんじゃないか」


片腕と片足でハンスはセルマの体を押さえつけると、指揮棒の先端を彼の額に近づけた。セルマは目を瞑りそうになったがじっと先端を見つめた。体の奥から危険信号が送られてくる。でもそれには……従えない。


「言っておくが、今からじゃないぞ。お前だけが知るのはナンセンスだろう?」


「く、やめろ、アイツらは関係な……ッ! ああぁ、ッ……!」


激しい耳鳴りと頭痛がする。ハンスの声が聞こえない。聞こえてくるのは自分の激しい呼吸と呻き声だけだ。セルマは体を捩らせて痛みから逃れようとしたが、他でもないハンスがそれをよしとしなかった。セルマのハンスの腕を掴む力が強くなる。ギリギリと音まで聞こえてきそうな勢いで腕を掴むセルマをハンスは敢えて止めなかった。ハンスがセルマの顔を見ると、生理的な涙が彼の頬を伝い、口からは苦しそうな吐息が漏れている。やがて痛みにも抗えなくなったのか、抵抗は徐々に小さくなっていく。


「……次に目が覚めた時に全て分かるさ。尤も、お前次第だがな」


恐らく聞こえてなどいないだろうがな、と思いながらハンスはそう言った。とうとう痛みに耐えきれず、セルマは意識を手放した。


*****


「ど、どうなってんだこれは……!」


1階のエントランスに降りたバルドとルカは予想外の事態に目を見開いた。先程まで姿すら見えなかった一般兵たちが、まるで自分たちを出さないように周りを囲っていたからだ。中央にはセルマを抱えたハンスが立っている。


「バルド、セルマが……!」


「クソッ……こうなるかもしれなかったから嫌だったんだ! おい、セルマを離せよ!」


こうなると分かっていたからとはバルドは口にしなかった。悔しさのあまり、バルドは無意識のうちにグッと拳を作る。気持ちだけでは、今でもハンスを殴りにいきたいところだった。だが今はセルマのためにも、それを堪えるしかない。


「そんなに騒がなくても、お望み通り離してやるさ」


ハンスは雑にセルマを床に落とした。ドサッという鈍い音と衝撃にセルマは混濁している意識のままゆっくりと身体を起こした。そのまま虚ろな目で彼は二人を捉えると、ハッとして後ろに下がった。その顔には珍しく焦りと困惑が浮かんでいる。


「ハンス、二人は関係ないと言ったはずだ!」


揺れる瞳でセルマはハンスに訴えていた。セルマの右手からは武器を出す時に出る青白い光がポロポロと落ちていっている。彼自身も苦しそうに肩で息をしていた。あきらかにセルマの体には異常が起きている。


「何故だ? 少なくともあのラッパはお前が記憶喪失だということを知ってるはずだ」


「おい、俺はトランペットであって、ラッパじゃないぞ!」


これについてはトランペッターが通る運命である。他の人や指揮者からはラッパでも別に違いはないだろうと返ってくるのだが、トランペットと呼んで欲しいのだ。それが何故かは誰にも分からないが。セルマとハンスはバルドのことなど気にせず二人で会話を勧めている。


「でも、これはオレの、オレ自身の問題だ! アイツらは知らなくていいことなんだ! だって、アイツらは……」


「アイツらは?」


──ただの、他人じゃないか。


その言葉をセルマは飲み込んだ。飲み込んだ代わりに彼の口からは、か細く息が出ただけだった。そのままセルマは己の唇を強く噛んだ。彼のその仕草は、彼自身がどうしようもできないと思うときにする癖だった。それを見てハンスはセルマを嘲笑う。


「ふん、お前の考えてることは分かるぞ。あの二人は他人だから関係ないとでも言いたいんだろう? ……他人だからと甘く見てないか? たかが他人、されど他人。他人というものはこちらに直接干渉はしてはこないが、異常への執着は目を見張るものがあるぞ。相手の事を知ろうともしないで己の価値観だけで相手の全てを決めてしまう。お前が今まさに他人だと決めつけた二人も、今はお前の事を仲間だと勝手に思っているだろうが……さあ、どうなるだろうな」


「やめろ!」


制止するセルマをよそにハンスは指をパチンと鳴らした。するとセルマの瞳孔が開き、彼は意識を失う前と同様に耳鳴りと頭痛に襲われる。セルマは頭を強く押さえて痛みを我慢できないかのように叫び声をあげながらその場にうずくまる。


「がっ、ぁぁぁあああああッ!!」


「た、助けたほうが……!」


「決まってんだろ! 俺が行く、ルカはここで……!」


「来るなッッ!!」


「ッ!」


バルドが武器を持って駆け寄ろうとした瞬間、セルマは持ち得る限りの声で叫んだ。額に食い込んだ指からは血がつたい、目は痛いほどに見開かれている。彼は荒い息で苦しそうに額に脂汗を多く滲ませながら、続けて叫ぶ。


「絶対に来るな! 今すぐ逃げろ! じゃないとオレは……! う……い、や、嫌、だ‼︎ やめろ、やめて、くれ……ッ!!」


突然の出来事にバルドもルカもその場を離れることはできなかった。一般兵たちも尋常ではないセルマの様子に息を飲む。ハンスだけが、セルマを期待に満ちた目で見ていた。


「お前の本来の醜い姿を、何も知らない奴らの目に焼き付けてやれ」


やがてセルマの声が止み、彼の左手が上がる。その動きはとてもゆっくりで、静かで、その場に居合わせた誰もが彼に注目した。そして彼の左手からはいつものような青白い光ではなく黒い霧のようなものが現れ、それは霧がかった真っ黒なチャクラムになった。そして開かれたセルマの目はいつものような落ち着いた緑ではなく血のような赤に染まっていた。バルドはセルマの異変に気づくと無意識のうちにルカを守るように前へ出た。


「なんだあの黒い武器は……それに、セルマは右で戦うはず。何が起きてる……⁉︎」


「バルド、セルマの目を見て! 今のセルマはセルマじゃない!」


「明らかマトモですって感じじゃねえな! 戦うしか……おおっと!」


そう言ってバルドが武器を出して構えた時には、セルマはバルドの目前へ迫っていた。彼のチャクラムの攻撃をバルドは間一髪自身のマシンガンで受け止める。暗い屋内に火花が散った。


「きゃ!」


「おいおい血気盛んじゃねえか! お前がこんなに凶暴な奴だとは思わなかったぜ……!」


「…………」


セルマは無言のまますっと目を細めると、バルドと距離をとった。バルドはセルマの今の瞳が冷たい炎のように思えた。まるで燃えているのに燃えていないかのように。写しているはずなのに写していないかのように。そしてバルドはこうも思った。


──アイツ、なんであんな悲しそうな顔をしてるんだ?


セルマは今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。いや、とバルドは考えた。セルマは記憶を失っているものの、今は記憶を失う前の本来の彼が出ているのではないかと。


──多分今のアイツは自分の意志なく戦う事しか考えられない。待てよ、それって……ルカのフェンリルの話と一緒なんじゃねえか⁉︎


『こういう例外を除いて、オレは自分の意志で動けないし、気づいたとしても相手は目の前で死んでる』


バルドの頭の中にさっきルカから聞いたフェンリルの言葉が浮かぶ。


──でも、セルマはフェンリルじゃない。だって名前聞いても知らなかったしな。だけど……俺が頑張ってセルマの攻撃を耐え続けていれば意識を取り戻してくれるかもしれない!


「ルカ! 確証はねえが、俺がセルマを何とかする! お前は怪我しねえように自分の身を守っててくれ!」


「ん、分かった!」


バルドはルカに向かってガッツポーズをすると視線をセルマに戻した。バルドの顔は先程とは打って変わって自信に満ち溢れ、その口には笑みが浮かべられている。


「俺、こう見えても頭の回転と計算だけは自信あるんだぜ? ちょうどお前ともやり合いたいと思ってたところだ! 俺とお前、どっちが上か勝負しようぜ!」


両者が、床を蹴った。

バルドのマシンガンの銃撃をセルマはチャクラムを駆使して弾いていく。それでもさすがはマシンガンであると言ったところであろうか。流石のセルマでも弾き飛ばせる弾の数には限度があった。自身の頬や腕に銃弾が掠り、セルマは少しだけ目を見開く。だがそれも一瞬の出来事だった。すぐにセルマは接近戦に持ち込むとバルドに何度もその黒い刃を振るう。接近戦に持ち込まれるとマシンガンを武器とするバルドは不利だ。なんとかセルマと距離を取ろうとバルドが足を動かすがセルマは凄まじいスピードで彼を追い詰めていく。だがバルドは、ここにきた当初のようにその足を止めることはなかった。


『バルド、怖いか』


お前を助けるんだ、怖くない。

足を動かせ。

頭を働かせろ。

セルマに殺されてはいけない。

アイツの、ハンスの思い通りにはさせない!

激しい金属音と銃声がフロア全体を支配している。セルマとバルドはお互いに傷を作りあいながらも怯むことなく相手へと攻撃をしていった。そのおかげで彼らの体は打撲痕と切り傷で埋め尽くされている。


「お前速いな……! こりゃあ追いつくので精一杯だ」


──だけど、動きがどんどん遅くなってる。やっぱり操る時間にも限りがあるっぽいな。俺の計算通りだ。これは勝てるぞ……!


長時間お互いに譲らない戦闘が続いたのが応えたのか、バルドもセルマも息が上がっていた。ここがフィナーレだ。バルドは大きく息を吐くと、ここである賭けに出た。


「ははは……なあ、いい加減正気に戻れよなー。それとも、そんなに俺と戦いたいか?」


「…………」


「悪りいけど、俺もう疲れちまった。だってお前強いんだもん。降参降参」


「…………」


バルドは持っていた自分の武器を上に思い切り放り投げた。それと同時にセルマの足が地面を蹴る。一瞬のことが、スローモーションのようにゆっくりと流れていく。バルドの武器が床に落ちた音が鳴るのと、セルマがバルドを押し倒したのはほぼ同時だった。


「バルド!」


「ッ!」


すぐに訪れるであろう痛みに備え、バルドは目をギュッと瞑った。でも、いくら待っても痛みは来なかった。その代わりにピチャ、と生温い液体がバルドの頬へと落ちる。その感触にうっすらとまぶたを開けば、その液体はセルマの右腕から流れ出ていた。逆光でセルマの顔は見えづらいが、綺麗に揺れる緑の目が彼が正気になったことを物語っていた。震える声で、セルマは言葉を紡ぐ。


「……間に合って、よかった。すまない、オレの、せいで……」


セルマは自分の右腕に刺したチャクラムを引き抜くとそれを床へと叩きつけた。チャクラムは黒いモヤと共に消えていく。彼の右腕からは絶え間なく赤い血液が出ている。傷口を左手で抑えるとセルマは立ち上がってバルドから離れた。その表情はまるで何かに怯えているようなものだった。


「こんなつもりじゃ……なかった。こんなつもりじゃ……」


パチ、パチ、パチ。

静かな空間に一人の拍手が鳴り響く。拍手をした主は喜びを隠せない顔をしてセルマに近寄った。セルマは後ろに下がろうとしたが足がすくんでしまい、下がることが出来なかった。狂気的ともとれるハンスの笑みにセルマはその場から動けなくなった。完全に怖気づいてしまった彼を見ながらハンスはその口を吊り上げる。


「いいものを見せてもらった! 流石に俺の力だけでは操る時間に制限があったようだがさすがは人形、といったところか」


ハンスの言葉が、嫌に響く。彼の言葉に弾かれたようにセルマは躓きそうになりながら逃げる。


「……うる、さい」


「今の戦闘でまた記憶が取り戻せたんじゃないか? お前の望み通り、お前自身を知れたのだから」


逃げようとしても、絡みついてくる。セルマは血が流れる腕を気にせず耳を塞ぐ。


「……黙れ」


「つれないな、少しは俺に感謝したらどうだ? お前が知りたがっていたお前の実験はちゃんと見せてやったし、頭のいいお前なら記憶がなくとも大体は理解できただろう?」


「黙れッ!」


セルマはもう何も聞きたくなかった。敵の前でこんな情けない顔を見せてはいけない、そんなことは分かっている。だが……今はそんなことすら考えられない。全てが怖い、信じられない。


「オレは人形なんかじゃないッ! こんなのはオレじゃないッ! オレは、オレは……ッ!!」


──……誰だって言うんだ。何も覚えていないのに、何を持ってオレはオレを証明できる?


セルマは今、自分の身に起きていることを理解したくなかった。操られていたとはいえ、意識のない間に確かにバルドを殺そうとしてしまったこと。あの人格が自分の一部となるような実験をされたこと。数分前の自分を自分ではないと証明することができないこと。セルマの中ではあ、はあ、と呼吸の音がどんどん大きくなっていく。訳が分からなくなってセルマが叫びかけた、その時だった。


「セルマ、だめ!」


ドン、という衝撃にセルマはふと我に帰った。自身の背中から感じられる温もりに視線を移せば、ルカが後ろから抱きついているのが見えた。


「ルカ……?」


「深呼吸して、落ち着いて? どんなに混乱しても、自分を見失っちゃ、ダメよ」


ルカの言葉はセルマの心をギュッと締め付けた。さっきまでバルドを殺そうとしていたのに、優しくされる意味が分からなかった。セルマはルカから視線を逸らすと俯く。


「……離れろよ。またさっきみたいに操られて、今度はアンタを殺そうとするかもしれないぞ」


「ううん、大丈夫。私たちは絶対にセルマに殺されたりしないよ。だって私たち、仲間でしょ?」


「っ、なかま……」


セルマの体の力が抜けていくのを感じてルカは額を彼の背中に当てる。とくんとくんと彼の心臓の音がだいぶ落ち着いて聴こえたことに安心した。セルマの背中はとても温かかった。貴方は人形なんかじゃないよ。ルカは小さく呟く。


「今さっきだって、バルドを助けてくれたじゃない。……頑張ったね。今日はもう頑張るの、やめよ?」


「…………うん」


セルマは小さく、そう呟いた。ルカはゆっくりとセルマから離れると、いつのまにか立ち上がってこちらに来ていたバルドへと目を向けた。バルドは武器を消して服についた汚れをパタパタと落としながら困ったように眉を下げる。


「えーと、何というか、一件落着って事でいいのか?」


「そういう事」


「はぁ〜〜……死ぬかと思った……」


バルドのそれに、セルマはごめんと小さく言った。いいんだよ、とバルドは笑うとセルマの目が覚めた時と同じように彼の頭をわしゃわしゃと撫でた。そんな三人の様子にハンスは静かに見ていた。


「……敵陣のど真ん中で呑気な奴らだ。どうやら周りの状況すら考えられない愚か者の集まりらしい」


先程とは打って変わって無表情のハンスが口を開く。声色も、高揚したものではなく落ち着いた、いつものトーンである。ハンスは三人を見るとふっと笑った。


「まあ、いいだろう。特別だ、そこの素晴らしいホルンプレイヤーに免じて今日は見逃してやる」


「……行こう、バルド」


ルカはハンスの言葉をすんなり受け入れ、セルマの腕を引いていこうとした。バルドがルカに耳打ちをする。


「信じていいのか?」


彼の言葉を受け入れているルカに対し、バルドはハンスを警戒していた。それもそのはずである。彼に出会ってからの自分はロクな目に遭ってない。バルドは戦ったことがないからハンスの戦い方は知らないが、彼の実力が確かなものであることは知っている。背中を見せた瞬間に何かをされるかもしれないし、ここにいる兵士を動かす可能性だって少なくない。


「信じるも何も、俺は嘘はつかないからな。ここで捕まりたいというなら構わないが?」


──なんだコイツ、ムカつく。


すぐにバルドはそう思った。今回ばかりはバルドも眉間にシワを寄せた。ハンスの方を見つめたまま黙り込んでしまったバルドの背中をルカはトントンと叩く。


「バルド、イライラするのは分かるけど抑えて。ここで乗せられちゃ、ダメ。セルマが大丈夫なうちに逃げるよ」


「あ、ああ……」


ルカがセルマの腕を引いてハンスの隣を通り過ぎる時、ハンスは何か思い出したように二人を引き止めた。


「そうそう、聞きたいことがあるんだった。セルマ、」


「…………」


「──お前の名前は、何だ」


ハンスがそう聞いた時、セルマの頭にピリッと電流のようなものが流れたような気がした。名前と言われても、彼にはセルマという名前しかないはずだ。でもセルマはこの瞬間だけ、自分の名前に違和感を覚えた。だが……


「セルマ……セルマ=アインザーム」


そう答える他、なかった。


「……そうか、分かった」


微笑を浮かべるハンスに何がおかしいんだ、とセルマは顔を顰めて彼に向かって口を開こうとする。だがセルマが口を出す前にルカが彼の腕を引っ張った。


彼らの長い夜は、こうして幕を閉じたのである。

どんよりと重く、そして数多い謎を残したまま。


──お嬢様が何をしようとしてるのかは理解できないが……これは……記憶の関係なくアイツは早く回収しておいた方がいいかもしれないな。


人知れずハンスはその顔を痛みで顰めた。


──逃すのは今回だけだ。……自由がいつまでも続くと思うな。


セルマの背中を、ハンスは口を結んで見つめていた。その真意は周りを囲んでいる一般兵にも、バルドやルカにも、そしてそれを向けられているセルマ本人すらも、まだ知ることはない。


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Never End World 夜明佳宵 @umesaya

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