24歳 5
「脱がして」
ひなたの家に入ると、彼女はベッドに座り、ただそう言った。その瞳は真っ直ぐに僕を見つめていた。僕もベッドに腰掛け、彼女の肩をつかむ。そしてジャケットをゆっくりとずらして脱がした。
「優くん、あの約束のこと覚えてる?」
「もちろん」
僕はシャツに手をかける。ボタンをひとつずつ外すと、彼女の白い鎖骨があらわになった。
「お互い大成して、また音楽業界で会おう、って言ったよね。でも私たちが出会ったのはあの駅だった。私たちは思い出の中でしか出会えなかった」
シャツを脱がすと、上半身はタンクトップだけとなった。僕は彼女のスカートに手を伸ばした。
「私は夢を諦めた。優くんだってそうでしょう?」
「そうだよ」
タイトスカートも脱がした。少しもたついた。
「でもあの頃の私にとって、もうあの夢はどうでもよかったんだよ。最後、私が何言ったか覚えてる?」
「『私のこと、忘れないでね』」
「そう。約束よりも、私のことを忘れないでほしかったの」
タイツを脱がす。僕はまた上半身に目を向ける。
「私にとっては、夢を叶えるよりも、君にまた会うことの方が大事だった。君に会えるなら、それがステージの上でも、居酒屋の中でも、どちらでもよかった」
タンクトップを脱がす手が止まる。
「続けて」
彼女はそう言った。僕はタンクトップを脱がした。乳房とそれを守るブラジャーが見えた。
「会えない間ずっと、その思いは強まっていった。誰が作った曲も、自分が作った曲でさえ、私の心には届かなかった。そう思うほど、私は君の曲が、君が恋しくなった」
パンツを脱がした。彼女はブラジャー一枚だけになっていた。
「脱がして。お願い」
彼女は切な表情でそう言った。僕はブラジャーに触れて、一度手を離して、またもう一度触れる。そして腕を背中に回し、ホックを、外した。その動きはある種儀式的なものだった。
腕を背中から離すと、彼女の裸が見えた。あの時と変わらない、傷ひとつない美しい乳房だった。
「私は、ずっと君のことが好きだった」
その時だった。どこからか、一匹の蚊が僕たちの間に現れた。それはふらふらと飛び回ったあと、彼女の乳房に、ぴたりと止まった。
ぺし。
コミカルなほど軽快な音を鳴らして、僕はそれを叩き潰した。死んだその蚊は、ベッドの上にぽとりと落ちた。彼女の方をみると、何の汚れもない真っ白な乳房に、ひとつの、小さな赤い腫れができていた。
それが、僕には許せなかった。
僕はベッドを離れ、側に置いていた鞄をひったくる。そして足早に玄関へと向かった。革靴を履こうとするも、焦ってしまってなかなか履けない。すると彼女が僕の腕をつかんだ。
「ねえ、急にどうしたの?私に好かれるのが嫌だった?待って、帰らないでよ」
その声は震えていた。今にも泣きそうな声だった。実際、泣き出しそうな顔をしているのだろう。でも僕は、彼女の方を見ることができなかった。僕は強引にその手を振り払って、裸足のままその部屋を出る。
どれぐらい歩いただろうか。そもそもここはどこだ。知らない街の夜はずっと深く、どっちに向かって歩いているのかも分からなくなる。
いや、そもそも僕はちゃんと歩けているのだろうか。この行為は本当に「歩く」なのだろうか。
ふらふらしていたせいか、誰かにぶつかった。僕は道端に倒れる。その人は舌打ちをして歩いて行った。
立ち上がらないと。立ち上がるのってどうすればいいんだっけ。落ち着け。僕はきちんと呼吸ができているのだろうか。呼吸の仕方は合っているのだろうか。僕は今までどうやって生きてきたんだっけ。
僕は空を見上げる。こんな夜に星は見えなかった。
蚊 橘暮四 @hosai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ひとりごと/橘暮四
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 19話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます