安倍氏銃撃事件に思う

@pip-erekiban

安倍氏銃撃事件に思う

「絶対に許されない暴力とは」

 こう問われてどんな暴力を思い浮かべるでしょう。

「どんな暴力も許されない」

 そんな答えが返ってくるかと思います。

 令和四年七月八日、安倍晋三が街頭演説中に撃たれ亡くなりました。

 安倍氏を殺したのは暴力でしたが、許されないはずの暴力はなぜこのような衝撃的な形で発現するに至ったのでしょうか。

「そんなことは犯人に聞け」

 そう切って捨てるのは簡単ですが、果たして一方に責任を押し付けて良い問題なのでしょうか。

 昨今ワイドショー等は、被害者側に立っているはずの自民党やカルト教団に対しても、相当に厳しい批判の矛先を向けています。そして多くの国民も同様に、批判の視線をもって、自民党やカルト教団を見詰めています。

 暴力は絶対悪だと言われますが、現状はまるで

「暴力を振るわれた側も悪い」

 といわんばかりです。

 本件では被害者側のいったいなにが問題視されているのでしょうか。被害者側に原因があったのだとすればどこにあったのでしょうか。見ていきましょう。

 なおここでは、信者からの収奪を旨とするカルトの悪は一目瞭然なので、いまさら論じません。その点あらかじめご了承下さい。


 事件に先立つ令和三年九月十二日、安倍氏は統一教会の会合にビデオメッセージを寄せ、それを受けて同十七日、全国霊感商法対策弁護士連絡会(以下弁連)は、安倍氏に対して統一教会との関係を糾す抗議文を送付し、安倍氏側は受領を拒否したとされています。

 またそれより以前には弁連より、全国の国会議員に宛てて、統一教会との関係を見直す要望書が送付されてもいました。

 山上氏による暴力が行われるよりも前に、既に弁連が、言論による抗議要望を静穏に行っていたのです。

 もし安倍氏側が抗議を容れて統一教会との関係を断ち切っておれば、山上氏が安倍氏を狙う動機がなくなり、事件を防ぐことができたかもしれません。話が通じる相手をいきなり殴ろうとは誰も思わないでしょう。


 不都合な真実が続々と明るみに出るなか、自民党は統一教会との関係断ち切りに躍起になっています。

 弁連からの静穏な申し入れを無視した自民党は、山上氏の暴力には屈服したのです。

 暴力を賞讃はしませんが、

「暴力は認められない」

 などと空疎な建前論を口にする前に

「最終的に暴力に屈服するくらいなら、最初から言論による静穏な抗議要望に従っておけばよかったのに」

 これは言っておかねばなりません。

 自民党は暴力に抗う覚悟を持ち合わせていませんでした。そのくせ静穏になされた抗議要望には耳を傾けてこなかったのです。

 民主政治の担い手としてあまりに不見識、未熟と言わざるを得ません。


 山上氏は犯行前、ツイッターで

「憎むのは統一教会だけだ。結果として安倍政権に何があってもオレの知った事ではない」

 とつぶやいたとされています。

『応仁記』という軍記物のなかの一文に

「天下は破れば破れよ、世間は滅びば滅びよ。人はともあれ我が身さえ富貴ならば、他より一段輝かんように振る舞わん」

 とあり、これは当時の世相を象徴する一文とされています。

 上(将軍、大名、寺社や公家)は過酷な飢饉のなかでも下からの収奪をやめず、ならばとばかりに下は下で好き勝手に振る舞い、奪われた財を暴力で取り返そうとする。

 上も下もやりたい放題、文字どおり

「結果として何があってもオレの知った事ではない」

 といわんばかりの社会。

 上下間をつなぐ対話回路の不存在が、この不毛な社会の前提でした。

 対話という名のクッションがないこのような社会では、下位層は際限ない収奪に、上位層は一揆、謀叛といった暴力に否応なく直面させられます。

 動乱と隣り合わせの、極めて不安定な社会が持続可能なはずがなく、戦国期、江戸期と時代を経るごとに為政者層にも上下間の対話の必要性が認識されてゆき、その積み重ねを土台として、いま我々が暮らす現代が成り立っているのです。

 そういった積み重ねの頂点に位置するはずの現代社会で、あろうことか為政者自らが対話を遮断し、その結果、剥き出しの暴力が突然我々の目の前で爆発することになりました。

 弁連の申し入れですら門前払いした安倍氏側が、一私人にすぎない山上氏の静穏な抗議要望に耳を傾けたとはとても思えません。

 競合する問題に関して話が通じない以上、暴力行使が選択肢として浮上してくるのは必然でした。


 さてここで改めて問いなおしましょう。

「絶対に許されない暴力」

 それはどんな形で行われる暴力か。

 やはり

「どんな形であっても、暴力は許されない」

 これが過半を占めると思います。当然です。そうでなければなりません。

 同時にそこまでいうのならば、暴力回避は等しく万人に課された社会的責任との解釈が成り立つはずですから、山上氏だけでなく被害者である安倍氏もその責任を負っていたということになります。政治家なのだから、よりいっそう重い責任があったと言っても良いでしょう。

 しかし安倍氏は弁連の抗議要望を拒否し、対話に応じず、その結果、平穏に暮らしていた我々の目の前で暴力を誘爆させました。

 これでは暴力回避の社会的責任を果たせなかった政治家と評されても仕方がありません。


 安倍氏を

「日本では珍しい、モノ言う政治家であり、戦う政治家だった」

 と評し、本件を戦いの末の殉難と位置づける見解もあるようです。

 しかし私には少し違うように見えます。

「安倍氏は反対意見をシャットアウトして政権を運営した。意見を聞いてもらえない者の声は自然と大きくなり、結果として安倍氏の周辺にはトラブルが絶えなかった。

 話が通じなかった以上、暴力は当然の帰結だった」

 このように見えてなりません。

 一国を統べる器ではなかったといえば酷かもしれませんが、それだけに分不相応の重責を背負わされ、非業の死を遂げるに至った安倍氏の悲劇性が際立つのです。


               (おわり)

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