父のカメラ
香久山 ゆみ
父のカメラ
父の書斎に入るのは、幼い頃以来。別に入室禁止にされていた訳でもないが、一度叱られた恐怖で二度と入ろうとしなかった。だから今でも、入るとほのかな背徳感に包まれる。
父はもういない。急逝だった。私は、間に合わなかった。動転した母からの連絡が遅れたためだ。対照的に一人娘の私は、我ながら薄情だと思うくらい冷静だ。厳しい父の躾に息苦しさを感じ早々に家を出て、今に至るまでほとんど帰らなかったせいかもしれない。
明日が通夜、明後日が告別式。父の知人の連絡先を調べるため、私一人で家に戻ってきた。しかし、ほとんど入ったことのない父の書斎。電話帳ひとつ探すにも、あちこち引っ掻き回すことになる。四苦八苦してようやく、本棚の中に住所録を見つけた。引き抜くと、コトンと、一緒に何か落ちてきた。手の平サイズの四角いプラスチックの、使い捨てカメラ。なぜ本棚の裏から? ――いや、そんな場合じゃない。カメラをポケットに突っ込み、急いで病院へ戻った。その後は、あちこちに訃報の連絡を入れたり、葬儀社と打合せをしたり、母を宥め、駆けつけた親戚に事情を説明したりと、めまぐるしく時間は過ぎ、よく無事に葬式を出してあげられたものだと思う。
祭壇に飾られた父の写真。この写真を探すのも大変だったんだぞ、高いところで笑う父に文句の一つでも言いたいところだ。しかし、自分のスマホに家族の写真が一枚も保存されてなかったのには参った。探せば一枚くらいあると思っていたのに。でも、恐らく父だって同じだろう。幼い頃ならともかく、私が家を出てからは家族写真を撮った覚えがない。
少しだけ、一息つこうとロビーに出る。ふとポケットを触ると、父のカメラ。喪服に入れ替えてまで持ってきてしまった。慌てていたのだろうか。いや。私はこれを疑っている。二十四枚撮りの二十二枚目まで撮影されてる。父は一眼レフカメラを持っていたし、といって別段写真が趣味という訳でもなかったから、携帯電話を持って以降は、仕事などでちょっとした写真を撮る時は携帯を使っていたはずだ。なのになぜ、使い捨てカメラ? 旅先でカメラを忘れて急遽買ったにしては、本棚に放置されているはずもなし。まるで隠すみたいに。だから疑っている。このカメラには隠さねばならぬようなものが写っているのではないか。使い捨ての女が、父の浮気相手なぞが。だから、母の目に入れてはいけないと、とっさに家から持ち出した。けど、葬儀場まで持ってきたのは父への当てつけ。余った内の一枚を使って、飾り付けられた祭壇を写真に収めてやったところ、私も随分性格が捻じ曲がっている。
「あ、それお父さんのカメラですか?」
ふいに声を掛けられた。父の会社の同僚だ。「ご存知なんですか?」とカメラを見せる。
「やっぱり。お父さん、大事な会議なんかでは、必ずそのカメラをポケットに入れてましたよ。今時使い捨てカメラかよって皆で笑うと、ポケットに入るからちょうどいいんだって言ってたな。何が写っているんでしょうね」
父の同僚は赤い唇で優しく微笑む。真っ赤な目で。「あの、これって……」私が言い掛けると、ああ、と笑った。勘のいい女性だ。「写真屋にそのまま持っていくと現像してくれますよ」フィルム式カメラなんて使ったことがない私に、彼女は教えてくれた。
初七日まではばたばたしていた。落ち着いてからようやく父のカメラを写真屋へ持っていった。翌日には現像が上がり、写真を受け取って帰った。父の書斎で、ひとり現像したばかりの写真を開く。そこに写っているのは、知っている女だった。
メリーゴーラウンドから手を振る幼い私。運動会で一等賞の旗を持つ私。母と台所に立つ私。……思春期を向かえて以降も。リビングで眠りこける私。玄関先で自転車に跨る制服姿の私。随分高いアングルから、……この書斎の窓からこっそり撮ったのだろう。同じように、社会人の私。……ふふ、まるでストーカーだよ……。涙が溢れて止まらなかった。
私も父のように、このカメラをお守りにしよう。そう思ったが、写真屋の袋をいくら探してもカメラがない。慌てて電話すると、使い捨てカメラの本体はメーカーが回収してリサイクルするのだと言う。落胆したところ、書斎の隅に、フィルムケースを見つけた。そうだ、これにネガを入れてお守りにしよう。カメラより小さいしちょうどいい。そう考えてケースを開けると、小さな黒い虫が転がり出て悲鳴を上げる。が、よく見たら、朝顔の種。ああ、小学生の私が夏休みの自由研究で育てた。種を入れる箱がないと泣く私に、父が空のフィルムケースをくれたのだ。すっかり忘れてた。父が持っていてくれたのか。
ケースから種を取り出し、代わりにネガを入れ、ポケットにしまう。朝顔の種、まだ咲くだろうか。うそ。種を蒔くのは、咲くと信じているからだ。天まで伸びろと願っている。
父のカメラ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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