地下より生まれ

久道進

 目の前に倒れている人間たちがもう生きていないことだけは、広谷恵吾にも理解できた。地下室を照らしているのは小さな懐中電灯だけだったが、その細い光でも、見間違えようもなく分かる。四肢をバラバラにされたまま放置されていて、それで人間が生きていられるわけがなかった。

 込みあげてきた吐き気に左手で口を抑えながら、恵吾は地下室に背を向け、階段を遮二無二駆けあがった。半ば転ぶようにして地上に出ると、止めていた息を思い切り吐きだす。続けて、空っぽになった肺を満たすために大きく息を吸った。車道脇の空気は排気ガスにまみれていたが、地下室の淀んだそれと比べたら、ずっと新鮮なものに感じられた。

 たっぷり五回は深呼吸をし、ようやく落ち着きを取り戻すと、恵吾はその場に座り込んだ。階段の横の壁に背を預け、首だけを巡らし地下の様子を窺う。真っ暗なそこに、今はなにも動くものは見えない。ただ微かな腐臭だけが、階段を這いあがってきていた。

「……警察、呼ばないとな」

 ため息をつきながら携帯電話を取りだす。一一〇の電話番号を思い浮かべたところで、自分が凄惨で厄介な事件に巻き込まれていることを改めて自覚した。まさか警察を呼ぶ羽目になろうとは、この仕事を引き受けたときには想像すらしていなかった。単なる子供の素行調査のはずだったのだ。それがどうだろう、対象の学生は行方不明になっており、仕事は途中から行方不明者捜しに変わってしまった。そして、調査の果てに対面したのは死体の山だ。こんな展開になるなど、想像できるわけがなかった。

「まったく、なんてこった……」

 憂鬱な気分で、恵吾は携帯のボタンを押していった。生まれてから三十年目にして、初めて警察を自分で呼ぶことになるが、初体験としては最悪なケースだろう。探偵と警察の仲が良いのはドラマの中だけだ。現実はそうはいかない。この先のことを考えると、暗澹たる気持ちを振り払えるものではなかった。いきなり容疑者扱いされることはないだろうが、それでも友好的に接してもらえるとは思えなかった。

「くそっ……なんてこった……」

 また一つ悪態をついてから、恵吾は最後に通話ボタンを押した。


 ……子供の頃、世界は自分を中心に回っていた。この世のすべては私のもので、思い通りにならないものなどなにもなく、手に入らないものなど一つもなかった。私が欲しいと言ったものは、翌日には部屋に運び込まれていたし、私が食べたいと言ったものは、その日の夕食に必ず並んだ。出掛けたいと言えば車が用意され、すぐに家に帰りたいと言えばどれだけスピードを出そうと捕まることはなかった。私の下手な絵をみんなが褒め、私の聞くに堪えないピアノをみんなが賞賛し、私のくだらない冗談をみんなが笑った。

 子供の頃、私はお姫様だったのだ。みんなを支配する絶対のお姫様。私の顔色を窺うみんなを顎で使い、その日の気分で路頭に迷わせたりもする。逆らうものなんて誰もいない。どんな我が儘だっていくらだって言えた。そしてそのすべてが叶えられていた。

 そんなお姫様の生活を、私は物心つく前から過ごしていた。だから分からなかったのだ。お姫様は、王様がいるからお姫様でいられるということを。

 そんな当たり前のことに気づかされたのは、父を亡くし、すべてを失ったその時だった。

 私が二十歳のとき、父は突然他界した。心臓の発作で倒れ、そのまま二度と目覚めることはなかった。父の経営していた会社は叔父に乗っ取られ、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに母は行方をくらまし、そして私は無一文に近い状態で屋敷を追い出された。

 二十歳のあの日、私は王様を失った。そして私は、お姫様ではなくなったのだ。


 恵吾が警察に拘束されていた時間は、思いの外短いものだった。現場で事情を説明した後、警察署に連れて行かれたのが昼頃。それから多少の取り調べを受け、解放されたのは日が落ちきる直前だった。最悪一晩は署で過ごすことを覚悟していただけに、それだけで有り難く思えてしまった。

「さて、これからどうしたものかな……」

 出入口から外を覗くと、警察署の前に群がる報道陣の姿が見えた。誰を待っているのか。問うまでもなく、自分であることは想像がついた。アパートの地下から発見されたバラバラ死体の山。その第一発見者のインタビュー記事は、番組や紙面を飾るいいネタになることだろう。それを記者たちが放っておくわけがなかった。プライバシーと肖像権を楯にすれば、カメラの撮影ぐらいは断れるかもしれない。それでも、無条件で解放してくれることはないだろう。

「くそっ……こっちは疲れているっていうのに……」

 文句を言ったところで、報道陣が消えるわけがない。かといって、警察署にいつまでもいるわけにもいかない。覚悟を決め、恵吾は外に一歩足を踏み出した。

 途端、恵吾はカメラのレンズに捕らえられ、大量のフラッシュに体を射抜かれていた。足が止まったのを好機とばかりに、ぎらついた目つきの人間たちが突進してくる。彼らの持つマイクは、こちらを刺し殺そうとしているかのように前に突き出されていた。

(勘弁してくれ!)

 内心悲鳴をあげ、恵吾は止まっていた足を叱咤し、走り出した。マイクをかき分け、ほとんど怒声のような響きの質問を無視し、通りに飛び出る。タクシーを捕まえようと手をあげ、目の前に止まった車の中に逃げるように乗り込んだ。

「行き先は後だ! 早く出してくれ!」

 運転手に向かって叫ぶように頼んだ。恵吾の言葉に応えて、車はすぐに走り出した。外の喧噪が遠ざかり、BGMは行き交う車のエンジン音だけになる。ほっと息を吐きだし、背もたれに背中を預け……そこで恵吾は、違和感を感じた。車内が静かすぎるのだ。タクシーに設置されているはずの無線の音も、BGM代わりに流されているはずのラジオの音も聞こえない。よく見ると、窓や前席の背もたれには広告のステッカーなどもなく、そしてタクシーなら必ずあるはずの料金メーターも、どこにも取りつけられていなかった。

(この車はタクシーじゃない!)

 驚きに体が硬直する。そんな恵吾の気分を逆撫でするかのように、暢気な調子の声を運転手が発した。

「さて、どこに行きましょうか? どこでもいいですが、特にリクエストがなければ、僕の家に向かわせていただきたいのですが」

 そののんびりとした口調に、恵吾は怒りを覚えた。人を罠にはめるようにして車に乗せておいて、リクエストもなにもあったものではない。

「ふざけるな! おいっ、いいからおろせよ。俺は家に帰って休みたいんだよ!」

「まぁまぁ、そう怒らないでくださいよ。どうせ家に帰ってものんびり休むことなんてできないんですから、僕につきあってくれてもいいでしょう?」

「……どういうことだよ」

「あなたも分かっているはずですが? 大量のバラバラ死体の第一発見者は、行方不明者を捜していた探偵だった……美味しいネタですよね。マスコミが放っておくわけないでしょう。警察署で逃げられたからって、諦めたりしませんよ、彼らは」

 男の言うとおりだったので、恵吾は黙るしかなかった。自分はただの第一発見者というわけではない。もう立派な関係者の一人なのだ。今日のところは解放されたが、また警察に呼ばれることにもなるだろう。事件がある程度落ち着くまで、普通の生活に戻ることはできない立場だった。

「……だからって、あんたにつきあう義理も義務もないだろう」

 せめてもの抵抗とばかりに、恵吾は言った。

「まぁ、そうですけどね。でも、一応マスコミの群れから助けてあげたわけですし、恩返しとして少しばかり協力してくれてもいいと思うんですけど」

 苦笑混じりの男の返事に、恵吾はため息をつき、強ばっていた体から力を抜いた。確かに、あの場から連れ出してくれたという恩はある。それを返さずに車をおりるのは、なんとなく気持ち悪かった。かといって、すぐに首肯もできない。男の正体も目的も分からないのだ。協力してくれと言われても、安請け合いはできなかった。

「とりあえず話だけでも聞いてくださいよ。協力するしないはその後で結構ですので」

 恵吾の内心を読みとったのか、男はそう言ってきた。その言葉に、渋々頷く。どのみち男が車を止めない限り、自分はおりることはできないのだ。

「……分かったよ」

「ありがとうございます。あ、それじゃこれ、お近づきの印に。名刺です」

 車を運転しながら、器用に男は名刺を投げてきた。フリスビーのように回転しながら飛んできたそれは、恵吾の膝の上に綺麗に着地した。

 悠木修。名刺にはその名前だけが、書かれていた。


 お城のような屋敷を追い出された私は、鶏小屋のようなアパートに住むことになった。叔父が見つけてくれたアパートで、向こう一年分の家賃も既に払われていた。父の会社を奪った叔父にも、身内に対する情がないわけではなかったのだろう。彼の最後の温情のお陰で、住むところに困ることだけはなかったのである。だからといって、感謝などできなかったが。

 大学はすぐに辞めることになった。学費の問題もあったが、それ以上に、頭の悪い私の居場所は大学にはなかったのだ。父の威光がなければ単位一つもらえない、それが私の実力だった。それに、働きに出る必要もあった。住むところだけは面倒を見てくれた心温かい叔父も、生活費までは用意してくれなかった。食べていくためには、自分で働いて稼ぐしかなかったのである。

 半月かかって見つけた仕事は、スーパーのレジ打ちだった。頭が悪く、なにか資格や技術を持っているわけでもない私にできる仕事といえば、それぐらいだった。当然パートタイマーだ。内心正社員を望んではいたが、面接のとき少し希望をほのめかしただけで、バカにするように嗤われた。二十歳という若さだけで正社員になれるほど、現実は甘くはないということだろう。面接官の人を小馬鹿にした笑みは、生まれて初めて突きつけられた、この世の厳しさだった。

 仕事は、屈辱と苦痛に満ちたものだった。人に頭を下げたことなどない私だ。お客にお辞儀をすることも、社員に失敗を謝罪することも、自分よりも若いアルバイトに教えを請うことも、どれも耐え難いものだった。仕事場では、誰も私の言うことなど聞いてくれない。その逆に、私がみんなの言うことを聞かなくてはならなかった。王様を失ったお姫様は、ここに奴隷となったのだ。ああ、なんという地獄だろうか。

 屋敷を追い出され、アパートに移り住んでから半年と経たないうちに、私の心と体はぼろぼろになっていた。夜はろくに眠れず、朝はお腹の痛みで目を覚ました。食事は喉を通らず、下痢と便秘を短期間で繰り返した。生理も滅茶苦茶だった。太っていた体は見る見る痩せていき、それを揶揄されることがまた苦痛だった。それでも、二十年のお姫様生活で培われた気質はまるで変わらず、人を見下す態度だけは昔のままだった。そのためだろう、当然のように友達などできなかった。

 だからといって、態度を改めようなどとは思わなかった。反省とは無縁。考えることはいつも、どうしたらお姫様に戻れるのか、いったいどうすれば、また自分の言うことを聞いてくれる存在を、従僕や奴隷を手に入れられるのか、そればかりだった。

 支配者に返り咲く日を夢見ながら、アパートと仕事場を行き来する毎日。そんなある夜だった、私が一匹の死にかけた猫を見つけたのは。


 名刺に肩書きが書かれていないことを指摘すると、悠木修は「一応、フリーライターです」と言った。それを聞いて、結局求められているのはインタビューかと、恵吾は嘆息した。修はマスコミから助け出したなどと言っていたが、別のマスコミ関係者に捕まっただけではないか。恩を感じる必要などなかったのだ……そう思っていた恵吾だったが、その後の修の振る舞いは、彼の予想を裏切るものであった。修は恵吾から話を聞こうとはせず、逆に彼に対して事件の説明を始めたのである。

「もう既にご存知でしょうが、あなたが捜していた学生以外にも、ここ二ヶ月の間にあの近辺で行方不明になっている人たちがいます。僕の調べではだいたい五人ぐらいでしょうか。年齢は皆二十歳前後で、地方から出てきて一人暮らしをしている学生ばかりです。そのため、親御さんが自分の子供が行方不明になっていることに気づくことができず、今まで大きな騒ぎになることはありませんでした。周りの学生たちも、本当に行方不明になっているのか、それともたださぼっているだけなのか分からなくて、通報しようにもできなかったみたいですね。広谷さんが、ちょっとばかり過保護なお母さんに子供の素行調査を依頼されなければ、あの死体の発見はもっと遅れていたことでしょう」

 余程うまくタイミングを計っているのか、信号の多い道だというのに、車は一度も赤信号に引っ掛かることなく走り続けていた。その車と同じように、修の言葉も淀みなく続けられていく。

「二十歳前後の学生であること。一人暮らしであること。それ以外、行方不明者に目立つ共通点はありません。いえ、もう一つだけつけ加えられる共通点がありましたね。それは、あの死体の発見されたアパートの近所にあるスーパーマーケットで、皆よく買い物をしていたということです。行方不明者の住んでいたアパートやマンションも、あのアパートからそれほど離れていないところにありました。また、あのアパートの側で、行方不明になっている学生の姿を見たという人もいるようです」

 修の話は、恵吾にとっては既知のものばかりだった。「ご存知でしょうが」と断ってから話しているあたり、修もそのことは分かっているはずだ。長々と話しているのは、単なる確認作業なのだろうか。それとも、事件の概要を改めて話すことで、こちらの覚悟を促しているのか……協力して欲しいという修の言葉が思い出された。彼は自分に、なにを求めているのだろう……。

「さて、これもご存知でしょうが、あのアパートについては怪談というか、都市伝説めいた噂話が流れていました。ここ半年のことです。その噂話と絡めて、行方不明者の末路を冗談めかして言う人たちもいましたね。まぁ、本気で行方不明になっていると思っていなかったからこそ、言えた冗談なのでしょうが」

 修が言葉を句切ったのと同時に、警察署の前を出発してから初めて車が止まった。赤信号に捕まったというわけではなかった。車はいつの間にか、月極駐車場の中に入っていたのだ。

 修がキーを抜き、車のエンジンが止まった。

「続きは僕の家で話しましょうか」

 ドアを開けながら修が言った。彼が顎をしゃくった先には、平屋の家屋が建っていた。薄汚く小さな家だ。それは、あの死体の発見されたアパートに、どこか似ているように思えた。

「化け猫に喰われなきゃいいけどな……」

 内心の想像を打ち消そうと、冗談めかして小さく呟いた。だがそれは、笑えるものではなかった。修が口にしなかった噂話が、恵吾の脳裏をよぎっていく。都市伝説めいた、怪談のような噂話。あのアパートの地下には化け猫が住み着いている。大きな大きな化け猫だ。その化け猫は、夜な夜な地下から這い出してきては、通りを歩く動物を捕まえて……


 ……よく食べた。私が拾った猫は、呆れるほどの食欲をみせた。スーパーの倉庫から盗んできたキャットフード。賞味期限のきれた刺身。私の食べた弁当の残りから、ふざけて与えた芋虫まで。だされたものはすべて平らげ、皿は汁一滴残さず空にする。それでもまだ足りないとばかりに、猫はいつも私に向かって鳴いてみせた。なんて貪欲な胃袋だろう。それに恐ろしいほどに強靭だ。猫にも与えてはいけない食べ物があったように思ったが、この猫に関してはそんな心配をする必要はなかった。腐りかけの残飯を一週間与え続けても、腹を壊すことすらしないのだ。すべてを己の栄養に変え、ぶくぶくと太っていく。最初飢えで死にかけていたのが嘘のようだ。

 まったく、なんでこんな猫など拾ってしまったのだろう。部屋の真ん中で、まるでこの家の主のように寝そべっている猫を見ながら、私は後悔のため息をついた。

 猫を拾ったのは、私にも支配できる存在が欲しかったからだ。毎日誰かに頭を下げ、奴隷のように働き続ける日々。かつてのお姫様のような生活はもう遠く、誰も私の言うことなど聞いてくれない。対等に話せる者すらいなかった。そんな生活の鬱積を晴らしたくて、死にかけていた猫を拾ったのだ。

 そう、要はペットを飼おうと思ったのである。自分よりも下位の存在である愛玩動物。気紛れに愛で、気紛れに可愛がり、懐く様を楽しみ、媚を売る仕草を喜ぶ。そして飽きたら苛め、痛めつけ、最後にはゴミのように捨てる。人間を支配することができないのなら、せめて自由に遊べる動物を飼おう。そう考えて、私は猫を拾ったのだ。

 だというのに、現実はどうだろう。このかわいくない猫は私に懐きもせず、媚も売らず、助けたことを恩にも感じていないのだ。毎日毎日、ただエサを貪り喰らい、足りないと思えばうるさく鳴き、人の腕を引っ掻いてくる。それを防ぐために、私は大量の食べ物を手に入れなくてはならなかった。これでは、いったいなんのために猫を拾ったのか分からない。私が拾ったのは支配できる愛玩動物ではなく、新たな主だった。仕事場だけでなく、私は自分の家でも奴隷にさせられてしまったのだ。

 たまったものではなかった。外では人に怒鳴られ、家では猫に鳴かれる日々。晴らす術もなく、ストレスだけがどんどん溜まっていく。苛立ちに怒りに、悲しみに不満に、あらゆる負の感情によって心がいっぱいになり……ある夜、私は破裂した。足を引きずりながら帰宅した私を、猫の間延びした欠伸が迎えたとき、私はついに爆発したのだった。

 手に持っていたスーパーの袋を猫に投げつけた。キャットフードの缶が入っていたそれは、見事猫の頭に命中し、その額をわっていた。それに快哉をあげた私は、だが飛び散った血が床を汚しているのを見ると、声を怒声へと変えていた。靴のまま家の中に入り、のたうつ猫の腹を蹴りあげる。ボールのように飛ばされた猫は壁にぶつかり、またそこを血で汚した。それを見た後のことは、記憶に残っていない……。

 気がつくと、私は部屋の中央に立ち尽くしていた。床には太った猫が、バカみたいに口を開けて寝転がっていた。そこから流れるよだれはひどく汚かった。猫の毛はなにかでぐっしょり濡れていた。その正体は分からないが、よだれ同様汚く見えた。

 もう動かなくなった猫を前に、私は困ってしまった。こんな汚いものを家に置いておきたくはないが、かといって不用意に捨てると近所の住人がうるさいだろう。また誰かに頭を下げなくてはならなくなる。それを避けるためにはどうしたらいいのか……考えた末、私は猫を、アパートの地下室に捨てることにした。スナックなどの店として貸そうとしていたらしいが、小さく不便なため借り手がなく、今では埃だけが住人になっている地下室だ。あそこなら誰も入らないし、猫を捨てても見つかることはないだろう。

 翌朝、早速私は猫をそこに捨てた。扉を開け、中に猫を投げ入れると、その姿はすぐに闇に呑まれて見えなくなった。その朝は、初めて気分良く出勤できた日だった。

 これで、私の猫の話は終わりになるはずだった。だが現実は、それで終わらなかったのである。

 数日後のことだ。夜遅くアパートに帰ってきた私は、まるでなにかに呼ばれたかのように、二階にあがる階段ではなく、地下におりる階段に足を向けていた。無意識のうちに歩を進め、気がついたときにはもう、地下室の扉の前に立っていた。

 猫の鳴き声が聞こえた。抗う間もなく手が扉に伸びていた。猫を捨てたときよりも開けづらくなった扉を、無理やりこじ開ける。途端、地下室の湿った風が、生暖かい空気を私の鼻に運んできた。それは、血の臭いがした。堪らず顔を背けようとしたが……闇の中に見えたものに、顔の動きを止められていた。

 視線の先、地下室の中央にいたのは、猫だった。一匹の大きな猫。丸々と太った、そのくせ毛並みは悪く、まるで生気の感じられない猫だ。その顔は、見間違えようもなく見慣れた顔だった。あの猫だ。私が拾い、捨てた猫。私が数日前に殺したはずの猫が、そこにいた。地下室の真ん中に立ち、光る目をじっとこちらに向けてきている。

 確かに殺したはずだった。死んだはずだった。だがあの猫は、今こうして、私の目の前に立っている。これはなに? これはいったいなんなのだろう……現実を受け入れられず、私はいつまでも心中でそう呟き続けていた。

 これは、いったい、なんなの……


「……共食いの果て、最後に残った一匹が蠱毒となる……そう、彼女は蠱毒を生み出してしまったんですよ。猫の蠱毒ですから、猫鬼とも言われるやつですね。意図せずに彼女は、それを生み出してしまった。なんとも恐ろしいことにね」

 部屋に入ってから喋り続けていた修の声が、そこでようやく途切れた。ろくに息継ぎもせずに話し続けたためだろう、マラソンでもした後のように息を荒らげている。眼鏡の向こうに見える瞳はどこか熱っぽく見え、彼がいかに興奮しているかを恵吾に伝えてきていた。

 だが、修が話に熱中すればするほど、恵吾の心は逆に冷めていった。修の荒唐無稽な話に、凄惨なはずの事件すら下らないものに思えてきてしまう。修は見たところ、自分と同じぐらいの年齢に思えた。三十路にもなって、オカルト話にはまっているとは……。

(まったく、なにバカなことを言っているんだよ……)

 修の話は、途中まではまともなものだった。あのアパートに住んでいる、渦辺磨美という女の話だったのだ。落ちぶれた元社長令嬢で、問題のスーパーマーケットにパートタイマーとして勤めている女。そして、行方不明になった学生たちの近辺で、何度か姿を目撃されたこともある女だ。行方不明者となんらかの関わりがあるかもしれないと思った恵吾は、磨美の経歴を調べ、今日聞き込みに行ったのであった。そして、留守にしていた彼女に会うことはできなかったが、念のためにと入った地下室であのバラバラ死体の山を発見したのである。死体の身元はまだ分からないが、恐らく行方不明になっている学生たちであろう。その死体が磨美の住むアパートから発見されたのも、偶然ではないと思われた。彼女が関わっているのは間違いないだろう。だがその話が、どうして途中からオカルト話に変わらなければならないのか。恵吾には理解できなかった。

 修が磨美の経歴や最近の生活について話し始めたとき、恵吾は彼の調査力に感心していた。胡散臭い男であり、薄気味悪くも感じていたが、探偵としても通じそうな力には敬意を表してもいいと思っていたのだ。だが、修の話は行方不明者に辿り着く前に脱線し、訳の分からない猫の話に変わっていた。磨美が猫を拾った話を、まるで見てきたように話し、そして最後には、蠱毒やら猫鬼やら、得体の知れないオカルト単語まで出てきたのだ。修を見直したことを、恵吾は後悔していた。

(ほんとになにを言ってるんだよ、こいつは……)

 息を整えるためか、カップのお茶を飲んでいる修を、恵吾は冷ややかに見つめた。

(まさかとは思うが……その猫鬼とやらで、渦辺磨美が学生たちを殺したとか思ってるんじゃないだろうな)

 落ちぶれ世間を恨んでいた元社長令嬢が、呪いの猫鬼を手に入れ、それを使って学生たちを殺した。そんなシナリオを、修は描いているのだろうか。だとしたら、バカらしいことこの上ない。

 渦辺磨美が学生を殺したというのは、確かにあり得る話だった。実際、学生たちの近辺で彼女は目撃されているし、住んでいるアパートで死体も発見されている。動機はいくらだってあるだろう。スーパーに来たときにバカにされたとか、自分が送れなかった学生生活を楽しんでいるのが許せないとか。なんだっていい。華やかな世界から突然追いやられた女だ。屈折した精神を持っていることだろう。そしてそれは、ちょっとしたことでバランスを崩し、体を凶行へと走らせることだろう。その可能性は充分にある。だがそこに、オカルト話が入り込む余地はないはずだった。

(ついてくるんじゃなかったぜ……)

 車が止まったところで、さっさと帰っておけばよかったのだ。バカ正直に部屋までついてきたことを、恵吾は悔やんでいた。

「しかし、偶然とは本当に恐ろしいものですね。殺したと思っていた猫が生きていたのも、地下室に他の猫が潜んでいたのも、閉めたときの衝撃でドアが開かなくなり猫たちが閉じこめられたのも、全部彼女が意図したことではなかった。たまたま起きた事故のようなものだった。その偶然の事故で、世にも恐ろしい猫鬼を、彼女は手に入れたのです……いえ、そんな偶然を引き寄せてしまうほど、彼女の世界への呪詛が強かったのでしょうね」

 恵吾の内心も知らずに、修はまた喋り始めていた。よくもそんな気色悪い話を、嬉々として話せるものだ。恵吾は呆れた。

 修の話を聞き流しながら、恵吾は部屋の中を見回した。狭い部屋の壁は本棚で埋められ、窓も塞がれてしまっている。それらの本の背表紙には、霊やら呪いやら、オカルト関係の用語が書かれていた。修は自分のことをフリーライターと言っていたが、もし本当だとしたら、書く記事もオカルト系のものなのだろうか。それとも、単なる趣味なのか……どちらでもよかった。どちらにしろ、もうこれ以上関わる気はなかったのだから。

「……はぁなるほどね。それじゃあんたは、渦辺磨美がその猫鬼で学生たちを殺したって思ってるわけだ。面白い考えだね。ちょっと思いつかなかったよ」

 蠱毒の説明ばかりが繰り返されるのにうんざりして、恵吾は話を終わらせようと、修が言いたいであろう結論を先回りして口にした。恵吾の言葉を受け、修はさらに熱っぽく話し始めるだろう。それに相づちを打ち、適当なところで切り上げて帰らせてもらおうと、恵吾は考えていた。

 だが、その後の修の態度は、恵吾の予想とは大きく違っていた。彼は勢い込んで話し始めるどころか、きょとんとした表情を浮かべて黙ってしまったのである。なにを言われたのか分からない、そんな表情だった。黙ってしまった修に対し、恵吾もなにを言えばいいのか分からず、口を噤んでしまった。沈黙の中、時計の音だけが大きく響き続け……突然、修が大きな声で笑い出した。腹を抱えて、哄笑していた。

「あーっ、あーなるほどっ。それは確かに、普通に考えればそういう結論を思い浮かべますよね。ああそうかぁ、なるほどなぁ」

 笑い続ける修を見ながら、恵吾はただ戸惑うしかなかった。なにを笑われているのかまるで分からない。修は、磨美が猫鬼で人を殺したと言いたかったのではないのか。それが違うとしたら、修はなにを言おうとしているのだろう。長々と磨美の心情を語り、蠱毒の説明をしたのはいったいなんのためなのだ……。

「これがそれだけの話だったら、そんなに単純なものだったら、むしろ楽だったんですよ。あなたに協力して欲しいなどと頼むこともなかった。でも違うんです。まぁ焦らずに、落ち着いてください。お話ししますから、あの死体の山の意味と、今起きている問題をね……」


 狭い空間に同族の動物や虫を閉じこめ、共食いをさせる。その生存競争に勝ち残った最後の一匹が、強力な毒をもった蠱毒となる。私が生み出してしまったのは、その蠱毒の一種で、猫鬼と呼ばれるものらしい。これを媒介にすれば人を呪うこともできるし、この猫を殺して動物霊に変え、その霊を使役することも可能なのだそうだ。

 そのことを私に教えてくれたのは、スーパーによく来るお客の一人だった。シルバーフレームの眼鏡をかけた、ちょっとダサイ格好の男の人。好みのタイプではなかったが、私の接客態度にクレームをつけないところには、好感を持っていた。それに、スーパーにまでついてきてしまったあの猫を一目見て、その正体を教えてくれたことには感謝していた。それは多分、生まれて初めての感謝だったと思う。

 猫の正体を知った私は、早速猫を殺すことにした。呪いに使おうかとも思ったが、呪いたい相手が多すぎて、いくら強力でも、たった一体ではどうしようもなかった。それなら動物霊に変えて使役し、気に入らないヤツを攻撃した方がいいだろうと思ったのだ。それに、動物霊に変えれば、この猫の霊、猫鬼は私が自由に操れるものに変わるという。そう、ようやく私は、念願の従僕を、奴隷を手に入れることができるわけなのである。

 あの地下室で猫を殺し、私は猫鬼を手に入れた。丸々と太った猫の霊は、風船のように私の顔の横に浮かんでいた。それは私以外、誰の目にも映っていないようだった。

 あの男の人が言ったとおり、猫鬼は強力な霊だった。私が一度命じれば、相手にとりつき、不幸をもたらしてくれる。事故にあわせたり、病気にしたり。最初の一月はあまりに楽しくて、毎日のように猫鬼を操った。スーパーの従業員で怪我をしていない人は誰もいなくなったし、お客も病気になったり身内に不幸があったりして、店にあまり来なくなった。自分をバカにしていた人間がひどい目にあうのは、とても愉快なことだった。

 だけど、二月目を迎える頃には、もう飽きてきていた。嫌なヤツを苦しめることはできても、自分の自由にできるわけではないことが物足りなかったのだ。

 そう、お姫様に戻りたいという思いは、消えていなかった。私はまた、昔のように人を自由に操り、支配するお姫様になりたかったのだ。

 どうすればいいのか……あの男の人に聞いたところ、猫鬼を使えば人の財産を奪おうとすることもできるらしい。でも、あの日の栄光を取り戻すには、かなりの財産が必要であったし、それを集めるには時間もかかってしまうだろう。もっと手早く、お姫様に戻る方法はないのか。私は繰り返し彼に聞いた。すると、渋々ながら彼は教えてくれた。過去に例があるわけではないが、人を自分の奴隷に変える方法がないわけではないと。原理は同じなのだから、可能なはずだと。そして私ならきっと成功するだろうと、彼は言ってくれた。

 その言葉を信じ、私は自分だけの奴隷を生み出すために……


「……バカげてる」

 恵吾は顔面蒼白になっていた。修の話したことは、それほどまでにおぞましいものだったのだ。

 渦辺磨美は、あの地下室で自分の従僕を、奴隷を生み出そうとした。猫鬼を作ったのと同じ方法でだ。ただし、それは普通の動物や虫の蠱毒ではなかった。彼女は、人の蠱毒、人蠱を生み出そうとしたのである。人の霊を、魂を、己の下僕に変えようとしたのだ。

「……あの死体の山も、共食いの結果だっていうのか」

 言ったそばから、吐き気が込みあげてきた。飲むつもりのなかったお茶を、恵吾は喉の奥に流し込んだ。そうでもしなければ、胃の中のものを吐きだしてしまいそうだった。

 蠱毒やら猫鬼やら、オカルトの類を信じたわけではない。だが、たとえ猫鬼が思い込みの産物にすぎなくても、彼女が信じてしまっていたら、磨美の中ではそれは真実となる。そして人蠱を手に入れたいと思ったら、人を地下室に閉じこめ、殺し合わせることだってするかもしれない。

「もしそれが本当だったら、あんたがそそのかしたせいで人が殺されたんじゃないかっ」

「そそのかしたわけじゃないんですよ。原理としては可能だと言っただけでして……もし人蠱が生まれるのなら見てみたいとは思っていたので、止めようとは思いませんでしたけどね」

「あんたは……っ」

「ただ、まぁ責任を感じていないわけでもないんですよ。亡くなった学生は気の毒に思いますし、彼女にも悪いことをしたなぁと思っているので。だから責任をとるためにも、あなたに協力して欲しいと思っているわけです」

「……協力って、渦辺磨美を捕まえるのに手を貸せってことか?」

 修に対して反感は持っているが、協力の内容がそれだったら、断る理由はなかった。今までの話からすると、修は磨美と知り合いのようだ。彼女の居場所にも心当たりがあるのだろう。

 だがまたしても、恵吾の想像は裏切られた。

「いえ、違いますよ」

 修が言ったと同時に、突然の眠気に恵吾は襲われた。視界が激しく揺れ、船酔いのときのように気分が悪くなる。頭が非常に重たく、ともすればその場に倒れ込んでしまいそうだった。

(……しまった、薬かよ……)

 どうやら、先程のお茶に睡眠薬が入れられていたらしい。自分の迂闊さを、恵吾は呪った。

「さっきの話ですが、続きがありましてね。彼女は確かに人蠱を生み出そうとして、学生をあの地下室に閉じこめましたが……猫鬼に裏切られ、自分も地下室に閉じこめられてしまったんですよ。呪いというのは諸刃でね、制御に失敗すれば自分が呪われてしまうものなんです。彼女は複数の蠱毒を生み出そうとした。でもそれは彼女の手に余り、猫鬼を支配し続けることができなくなってしまった。彼女は猫鬼に呪い返され、蠱毒を生み出す檻の中に自分も閉じこめられてしまったんです」

「……だったら、渦辺磨美はどうなったんだ……他のヤツに、殺されたのか……」

 今にも途切れそうな意識を必死に繋ぎとめながら、恵吾は尋ねた。

「いえ、彼女は生き残りましたよ。あの地下室の中で、他の人間を喰らい、彼女は自ら人蠱になったのです。そして、それが問題なんですよ」

「……どういう、ことだ」

「術者がいなくなってしまったんですよ。蠱毒の呪いを操り、霊を使役するはずの術者がね。蠱毒を生み出そうとしていたのは彼女で、その彼女は自ら人蠱になってしまった。では人蠱である彼女は、いったい誰に使われればいいんでしょうね?」

「……知るかよ、そんなこと……」

「人蠱に変わった後、彼女と会いましたが……見ていると可哀想でしたよ。人蠱となった彼女は、もう人間ではありません。呪いの力を持った、別種の存在に変わったと言っていいでしょう。術者がいない以上、彼女はもう誰にも支配されることのない存在です。ある意味、彼女の望みは叶ったのかもしれません。人に支配されることのないお姫様になれたのですから。でも、一人は孤独でしょう? 同じ存在がいなくては、独りぼっちで可哀想じゃありませんか。だから、僕は思ったんです。責任をとらなくては、と」

「……ま、さか……」

「ええ、そうです。僕も人蠱を生み出そうと思うんですよ。術者である僕も地下室の檻に入って、共食いの生存競争に参加します。生き残った人は、術者のいない、支配されることのない人蠱に変わります。そして、彼女と共に生きていただこうと思っているんです。なるべくなら、私が生き残りたいと思ってはいますけどね」

 冗談じゃない! だがその言葉は、もう声にはならなかった。床に倒れ伏した恵吾は、修の顔を見ることもできなくなっていた。ただ頭上から降ってくる声を、聞いているしかなかった。

「この家にも地下室がありましてね。彼女のことを知っている方を、何人か先に閉じこめています。僕とあなたが加わると、丁度五人になりますね」

 体が誰かに持ち上げられる感覚がした。その頃にはもう、目の前はほとんど真っ暗で、耳もろくに聞こえなくなっていた。抵抗のしようもなく、恵吾は眠りの波にさらわれていった。

「では、生存競争の場へ行きましょうか……」

 その言葉を最後に、恵吾は完全な暗闇に呑みこまれていた。


 ……ある夜のことだった。小さな平屋の脇、地下室に続く階段の上に、一人の女が立っていた。彼女はなにかを待っているかのように、じっとその場に立ち、視線を階下に落としていた。

 彼女がそこに現れてから、どれほどの時間が流れただろう……突然、錆びついた蝶番が動く音が、辺りに響き渡った。月明かりも届かない地下室で、確かになにかが動いている。血の臭いをまとった空気が、地上目指して這い上がってきた。そしてそれを追うように、今大きな影が、階段にその足を…………

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地下より生まれ 久道進 @susumukudou

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