Re: だから僕は津原泰水の新作を待つのを辞めた

 最も好きだった作家である津原泰水の訃報を受けて、『だから僕は津原泰水の新作を待つのを辞めた』という無理のある章タイトルで思いの丈を綴ったのが2022年10月5日のことだ。つい最近のことのようでも、随分前のことのようでもある。今これを書いているのは2024年4月19日だが、一年半の間に色々なことがあった。基本的に無為徒食の化身みたいな生き様を晒している僕にも、波乱の一つや二つは降りかかる。とはいえ、本件に関して何の波乱も言い訳にならない。ただ僕が情報弱者であるということを露呈しただけの話だ。


 何のことかと言えば、2023年の10月、僕が待つのを辞めたはずの「津原泰水の新作」が出版された。亡くなる直前に連載が完結していた正真正銘最後の長編小説をまとめたものであるという。僕は、間抜けにもその書籍『夢分けの船』の存在に、半年近く気付いていなかった。

 新刊情報に一切のアンテナを張っていない自分で気付けなかったのは元より、それに気づいて僕に知らせてくれるような人間も周りにいなかった。哀しいことである。


 気付いた切欠も単なる偶然である。出張先で昼休憩を自主的に延長させ、端的に言えば仕事をサボって大型書店で時間を潰していた折、文芸書の単行本コーナーを端から順に眺めていたら、タ行の中ほどに津原泰水の名が記載された見慣れない緑の背表紙の本が並んでいるのが目に止まった。『夢分けの船』というタイトルにも覚えがなかったものの、僕自身、記憶力に自信があるわけでも真に熱狂的な津原泰水フリークというわけでもない。何かシリーズものを改題して一冊にまとめたような代物かもしれない、というのが第一感だったが、引き抜いて帯の推薦文を一読しただけで「未読の新作」であることに気が付いた。奥付を見て、半年近く前に出版されていたことを知り、戦慄した。そして、もう二度と味わえないと思っていた「津原泰水の新作を読む」という体験が再度可能になったという奇跡に狂喜した。同時に、「これは泣きの一回みたいなものであって、今度こそ本当に最後の最後である」という事実とも向き合わなければならなかった。

 とりあえず、本来居てはならないはずの場所で嬉々として単行本を購入するほど面の皮は厚くなく、度胸もなく、何より、半年近く気付かなかったのに今更一刻を争うようなことでもなく、「津原泰水の新作が出ている」という情報だけを頭にインプットしてその場を辞した。その後、出張先で仕事が手につかない、といったこともなく、誰にも違和を抱かせず、平然と過ごした。


 そのまま、何日かが過ぎた。正直、読まないままでいることも考えた。好きな作家の新作を読める「本当に最後の機会」とどう向き合えば良いのかよくわからず、さらに言えば、あらすじを見る限り、「夏目漱石の時代の文体で書かれた、現代を舞台とした音楽恋愛小説」という、如何にも津原泰水が書きそうな捻くれた代物ではあるが、僕が本当に読みたかったSF/ホラー/ミステリーのいずれのジャンルでもないらしく、身も蓋もなく言って「期待はずれ」だったらどうしよう、という思いが払拭しきれなかった。極端な話、読書家の間で評判となっていれば、流石に半年近く僕がその存在に気付かなかったはずはなく、少なくとも、「傑作中の傑作」であるとして界隈を騒がせたりしていないことは明白だった。ただ、もともと津原作品は万人受けするような代物でないし、読んだ本全てを採点していた痛々しい時代の僕だって全作品に満点をつけていたわけでは到底なく、信者というほど全肯定の姿勢で居たわけではない。刺さる人には刺さる、という作品群があって、僕がちょうど刺さりやすい人だった、というくらいの感覚である。

 その刺さった時の感覚が、著者の死という形で美化された状態で固定化されてしまったようなのが、今回に限って刺さらなかったら、僕の中の「津原泰水信奉」(信仰、とまではいかない)はどうなってしまうのだろう、という不安があった。そして、そんな周辺状況を色々考えていたら、物語に向き合うスタンスは歪み、到底楽しい読書体験にはならないのではないか、という懸念すらあった。


 このままでは色々と理由をつけて購入を渋り、仮に購入しても色々と理由をつけて読み渋り、積読状態に終わるのが目に見えていた。

 そんな風に考え過ぎてしまう悪癖のある主人格の僕とは別に都合よく現れた別人格の仕業であろうか、「最寄りの図書館で予約する」という迂遠な方法で当該作品へのアプローチがなされた。急展開である。実際、どんな感情に衝き動かされてそのようなことをしたのか、上手く説明できない。自治体の図書館の予約システムを使うこと自体が十年ぶりである。

 予約待ちはゼロ件であり、僕は図書館からの「準備が出来ました」というメールに誘われ、カウンターで自身の貸し出し用カードを示すことで、とうとうその緑色の書籍を手にすることとなった。二週間で返却する必要がある。ここまでくると、読まずに返すことは頭になかった。

 それでも読み始めるまでの数日の逡巡があってから、僕は恐る恐る頁を捲った。


 不思議な感覚だった。

 現代仮名遣いで書かれた明治時代の文体の向こう側に、読み慣れることのなさそうな異質な文章表現の奥に、隠れ切れていない津原泰水が居た。音楽を愛し、音楽を愛する者を活写するその描写、時に読者を置き去りにし行間を読むよう強要してくる筆致、伏線のふりをしているだけの思わせぶりな挿話、魅力的なのにどこか浮世離れしていて捉えどころのない登場人物、物語終盤に訪れる予想だに出来ない急展開、丸く収まることのない現実にも似た曖昧な結末。傑作中の傑作だと手放しで褒め称える人は絶対に現れなさそうな、それでも刺さる人には刺さりそうな、いつもの津原作品だった。

 おそらく何の前情報がなくても、僕は『夢分けの船』を読んで、「まるで津原作品のような読後感」という感想を持ったに違いない。当たり前の話ではある。

 僕は満足した。読んで良かった。読めて良かった。この気持ちを味わえるのが、これで本当に最後だとしても、それでも読んだだけの価値はあった。そう思えた。



 些細なネタバレになるかもしれないが、作中、大事な場面で「船を降りろ」という表現が出てきたことに吃驚した。別に、ネットミームである「お前もう船降りろ」からインスパイアされたわけでないと思うが、おおむね同じ意味合いで用いられており、それがおそらく『夢分けの船』という大事なタイトルに直結している。むしろ、この表現がいきなり出てくるまで、タイトルの意味が全く分からなかったくらいだ(洒落た題名だな、とは思っていたが)。

 何に一番驚いたかと言えば、奇しくも僕自身、何かを諦める時に「船を降りる」という言い回しを使うことがあって、表現者としては塵芥にも劣る僕の中にも、「津原イズム」に通底する何かがしっかり根付いていたのだな、とその証拠を見つけたような気になって、心行く迄自賛することが出来たという点である(僕の場合はネットミームに影響されただけであるという可能性が非常に高いが勿論そこには目を瞑る)。楽しい読書体験を味わわせてもらえた上、自尊心まで満たしてもらえるとは嬉しい誤算であった。



 何はともあれ、本当に、今度こそ、津原泰水の新作を待つのは辞めることになる。

 ただ、既存の作品については、別に今までのように時折読み返そうと思っている。

 きっと何度でも、僕に刺さる。


※2024年5月1日追記

 自分なりに非常にエモい気持ちで上記の内容を書き上げて悦に入っていたのだが、2024年4月26日、東京創元社から若い頃の津原泰水の書いた幻の作品『羅刹国通信』が単行本化されたらしい。……本章の話の落とし方としてどうにも不細工で収まりが悪くなったが、望外の嬉しい誤算であるので、ひとまず素直に喜んでおくこととする。

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だから僕は〇〇を辞めた 今迫直弥 @hatohatoyama

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