「このゲーム」

阿久沢牟礼

「このゲーム」

 今日こそは、と、安来あらいは思った。七時丁度に起床した直後の頭は冴えていた。七時四十五分三十秒に玄関を出た瞬間の快晴、そして無風。見飽きるくらいに見た光景だ。とはいえここで気を抜いたり、腐ったりしてはいけない。と、自らを戒めつつ、歩みを進める。


 オフィスのあるビルの正門をくぐると、他部署の作良さくらとばったり出会う。


「あ、おはよう。今日もいい天気だね」


「おはよう。風もないし、屋上で飯でも食おうか」


「いいね」


「じゃ、昼休みに」


「うん」


 安来は作良と付き合っているということになっているが、約二七九八年にわたって執拗に繰り返されたこの一日から振り返ったところで、彼女と付き合うに至ったきっかけも、彼女の好きなところも何一つとして思い出せない以上、単なる設定として割り切るよりほかになかった。


 とはいえ、この一日を「正解」するためには、回顧など不要だ。


 と、安来は改めて気を引き締める。


 オフィスへ入室と同時に挨拶、次いでデスクへ座り、受け持ちの仕事を片付けてゆく。幾度となく繰り返した作業を、しかし今初めて行うかのように、それでいて不自然にならない程度の素早さを以て、さも悩ましい素振りをも演じながら、進めてゆく。やがて上司に呼び出され、緊急の仕事を振られる。ああ、これは昼休みまでに終わりそうもないな。と、心のなかでほとんど台詞としてつぶやきつつ、男子便所の個室の奥から二番目に入り、携帯端末で作良に連絡する。


 安来:ごめん。仕事入っちゃって、昼飯行けそうにないわ。


 するとすぐに作良から「えー!?」と文字の書かれたびっくり顔のウサギのイラスト画像と、次いで泣き顔のウサギのイラスト画像が送られてくる。彼女も偶然休憩中、ないしトイレの個室に居る、というパターンがお互いにとって「正解」に近いことは、ここ四十年ほどの試行により合意形成されている。


 安来:今度飯おごるから。


 作良:ほんと? いつ?


 安来:来週の土曜、どう。


 作良:無理。今週の日曜。


(ここで安来は一分四十二秒の沈黙を挟む)


 安来:わかった。開けとく。


 作良:(「やったー!」の文字を背景にウサギが微笑むイラスト画像)


 作良:じゃ、お仕事頑張ってね。


 安来:了解。


 当然、これら文面についても再三の試行が重ねられた。その他あらゆる要素を加味して最も正解に近い文面がこれだということで、暫定的に取り決められている。


 その後の業務について安来はそれほどの懸念を抱いてはいない。一時は敢えてミスをして上司に怒られてみたり、またつまずいてコーヒーをPCへぶちまけてみたり、極端な例では全裸になってデスクへのぼって脱糞し、糞を上司の顔に塗りたくってみたりなど、色々と試みてはみたものの、そうした振る舞いは最終的な正解率を上げないどころか、下げる要素にしかなりえないことがわかっている。このことから安来は、自分がそれほど仕事でミスをせず、またあまり破目を外さないタイプの人間であるらしいことを遡及的に知るが、逆にこの先入観が一日のいずれかの振る舞いにおける正着を退けている可能性をも、頭の片隅では考える。


 二〇二五年五月二三日の金曜日。それが今日という日であり、また明日という日であり、また明後日という日でもある。安来を含め、明けることのない金曜日を過ごすこの世の誰もが土日、つまり週休の二日に当たる土曜日、次いで日曜日が本来ならば訪れるはずなのだということを頭では理解していても、その実感となるとほとんど叶わぬ夢と言えるまで縮退している。それでもなお、なぜこのような不毛な取り組みを続けるのか。と、安来は自身何度目になるのかもわからない問いを、就業時間間際の休憩中にふと問う。われわれには、それよりほかにやりようがないからだ。と、またお決まりの答えを頭に浮かべながら、苦笑する。この苦笑は果たして、正解率に影響するのだろうか。というかそもそも、口にも振る舞いにも出さないこのような思考もまた、正解率に影響するのだろうか。


 実際のところ、何もわからないのだった。


 約二七九八年の長きにわたって繰り返してきたこの不毛な一日一日のそれぞれの終わり、二三時五〇分から一〇分間、視界に貼りついたように表示されるスコアボードだけがこの繰り返しの持つ意味を示唆し、そして人々に指針を与えていた。そこには「個人正解率」と、「平均正解率」の二つの項目があり、通常青字で表示される点数表記が九十パーセントを超えると赤字となる。誰が、どのように、何の目的で始めたのかもわからない「このゲーム」のクリア条件が、全人類の正解率の平均値である「平均正解率」において赤字、つまり九十パーセント以上を獲得することにあるのは、すでに共通の認識となっている。というのも、一日の執拗な繰り返しと得点表示が始まって以来、合計二日、日が明けているのだった。


 暦上の二日前、つまり二〇二五年五月二一日の水曜日に、それは唐突に始められた。


 当初は何の合意もなく、意図もわからない状態で、この一日が明け切るまでに実時間上の一三九〇四年が費やされた。一日は繰り返しても記憶は続いていたので、人々はどうにか合意形成し、目標の達成に向けて足並みをそろえることが促された。とはいえ、そのように陣頭指揮を執る一人一人もまた各々の正解率と無関係ではありえないし、多くの人に影響を与える振る舞いはそのまま、影響を与えられた側の人々の正解率に影響してくる。特に「このゲーム」の内容そのものに関係する振る舞いほど正解率が低くなる傾向が強いため、人類が正解を導き出し、今日というステージをクリアするためには、一端は表向き平凡な日常に回帰する必要がある。


 結果として。


 合意形成の百年が過ぎ、


 各々の試行による百年が過ぎ、


 自暴自棄の百年が過ぎ、


 そしてまた合意形成の百年が巡ってきた。


 営みそのものが循環したのである。


 時には人々が自暴自棄に陥る千年があり、血と臓物にまみれた一日を幾千幾万と繰り返した。当然のことながら、すべての人類が一度ならず自殺を試みたものの、何事もなかったかのようにまた同じ一日が始まることを知ってしまえば、それさえもはや一種の娯楽になり果てた。不死に限りなく近いこの状況は人々を絶望に陥れるとともに、このゲームの攻略へ一縷の希望を抱かせるに至ったのではあった。つまり、少なくとも、自身の寿命が尽きるまで暦を進めることができれば、この無限の牢獄から解放される、と。


 そうして初めの一日が、平均正解率90.000023%でクリアされ、次の一日が平均正解率90.000014%でクリアされた。前記した通り初日が一三九〇四年、そして二日目は四三八二年。一日のクリアに要する時間は、確実に短くなっている。


 好き勝手に振る舞う者、無気力な者、「このゲーム」の参加そのものに消極的な思想信条を持つ者。世のなかには様々な人間が存在し、完全に足並みが揃うということはまずありえない。よって、ごく低い正解率に甘んじる一部の人間を補うため、従順な参加者は自らの正解率を限りなく一〇〇%に近づけるべく努力しなければならない。


 そんなことは、わかりきっている。


 安来は帰りの電車で小さくため息をついた。それは、込み合った電車に揺られながら家路を急ぐ、くたびれた賃労働者にとってさも似つかわしい振る舞いであり、また事実正解率に寄与することがわかっていた。しかし安来は、このため息だけは自分の本心から出るもののように常々思われたのだった。だいたいこんな状況で、ため息をつかずにいられるだろうか。と、安来は思い、つり革に体重を乗せた。作良とのやりとりも、デスクワークも、たまに挟む休憩も、すべては正解率向上のため、二千年以上の試行を経て計算され尽くした振る舞いだ、それでもこの電車のなかでの、このため息だけは、心底疲れ果てた結果として自然と漏れる、本当のため息という気がする、少なくともこの時だけは、生きているという気がする、そう、自分は、生きているのだ。と、敢えて心のなかで唱えることで安来は自分自身を鼓舞し、また確認した。それさえもが、二千年以上の時を経て形成されたルーティンだった。実際安来は、自分が生きているのか死んでいるのかもよくわからなくなっていた。安来は自らの一日を完遂すべく安来により作り上げられた、一個の従順なマシンだった。それこそ息をするのに敢えて意識しないように、幾度もの繰り返しの果てに最適化されたこの一日の振る舞いの全ては、意識せず、ほとんど自動的にやってのけるまでに習熟していた。安来は確信していた、「平均正解率」が九〇%を超えるには、ほとんどの人間がこのように自らの意志を、そして自己そのものを摩滅させ、その肉体のうちに限りなくゼロに近い点として凝集すると同時に超越的な傍観者としての視座を得、そのことにより現世の肉体を自動人形と化し切ったとき、初めて達成されるのだ、と。そのために費やされたのが一日目の一三九〇四年であり、二日目の四三八二年なのだ、と。


 だから安来は最寄り駅から自宅アパートまで十五分程度の道のりを歩いたという記憶ももはやないまま、気づけば家に辿り着いていた。それからやるべきこともすべて頭に入っており、それ以上に身体が覚えている。靴は揃えず、幾分無造作に脱ぎ散らかすほうがよい。服はクローゼットではなく窓際のカーテンレールにぶら下がっているハンガーに掛けたほうがよい。冷凍庫から冷凍炒飯の残っていた一人前を皿にあけ、とりあえず電子レンジに入れてから、捨ててしまった外装をゴミ箱から引っ張り出してあたため時間を確認するのがよい。そしてなすすべもなくぼんやりと万年床に寝そべって冷凍炒飯が温まるのを待つがよい。そして簡素な夕食を七割方食べ終えたところで風呂の湯沸かしのスイッチを入れていなかったことに思い至り、やれやれという顔で浴室へ向かうがよい。当然冷凍炒飯の温め時間は五〇〇ワット五分四〇秒であることはわかっているし、風呂の湯沸かしのスイッチを帰宅してすぐ入れなかったのはわざとである。白々しさを覚えるような段階を遙か過ぎていれば、もはや何の感情もなく淡々と、勝手に、自動的に行為を遂行してゆく自らをただただ眺める精神の、その内奥は風のない湖面のごとく揺るぎない。それでも時折、ふと、発作のように、無性に嫌気のさす時があるのはむしろ安来をして不思議に思われた。まだおれはおれを滅し切れていないのか。と、仏僧のごとき逡巡を経たのち、冷凍炒飯をかき込み始めればもう問いは過ぎ去り、自我は後退し、ただスプーンを口へ運ぶ往復運動を行うばかりの人肉機械と化した我が身を無感動に眺める傍観者としての自己に凝縮する。


 風呂に入る。


 携帯端末をいじる。


 少し酒を飲む。


 布団に入る。


 眼をつむり、寝に入る。


 すべては正解率を高めるために。


 そしていつも決まって見る夢の途中で(それは行ったことも見たこともない巨大なショッピングモールで、何かの拍子にバックヤードらしき区画へ迷い込んで以降どこをどう経巡ってみたところで一向表へ出られないという夢だったのだが)、脳内へ響く軽快な電子音とともに、それは現れる。


「個人正解率:96.524379%」


「平均正解率:88.439106%」


 二三時五〇分。


 結果発表の時間だ。


 安来が目を覚ましたその瞬間、上下左右前後、全方位から、声にもならない莫大な叫び声が一斉に沸き起こった。


 ガラスの割れる激しい音があちこちで響いた。


 壁や床や天井を手あたり次第に叩き、踏みしだき、体当たりする鈍い音が連続した。


 安来自身、獣のように吠えた。


 それから履物も履かず玄関を出ると、瞬間、建物は轟音とともに炎に包まれた、誰かがガスに引火させたのだろう。


 同じく方々の家々から一斉に出てきた人々が、夜の住宅街を埋め尽くし阿鼻叫喚の巷を作る。


 淫する者。


 脱糞する者。


 ゲロを吐く者。


 人に噛りつく者。


 全裸で走り回る者。


 誰彼構わず殴りかかる者。


 割れたガラスを素足で踏みしだく者。


 両手に持った包丁を振り回しながら奇声を上げる者。


 ブロック塀を渾身の力で殴りつけて手から血しぶきをあげる者。


 安来はとにかく手近の者を見つけてめちゃくちゃに殴り、また殴られた。


 クソ、死ね、カス、クズ、ゴミ、殺す、死ね、カス、死ね、殺す、ゴミ、殺す、クソ……思うさま呪いの言葉を吐きながら、誰とも知れない相手を殴る、蹴る、ひっかく、殴る、かじる、殴る、膝蹴る、殴る、肘打つ、殴る、頭突く、かじる、蹴る、殴る。誰も彼もがみるみるうちに血で染まってゆき、辺りには生臭い鉄の臭いが立ち込めてくる。ここで冷静になっては負けだ。と思いながらしかし、そんなことを敢えて思ってしまった途端、身体から力が失われてゆくのを安来は感じる。と同時に誰彼構わぬ殴り合いから一方的な被虐へと変容するなかで、安来は今さらながら初めて相手の顔を確認することができた。女だった。女は口からねばついた血の糸を垂れ流し、血走った目でこちらをにらみ、やはりクソだのカスだの殺すだのといった定番の呪詛の言葉を吐きながら、細い腕で渾身のこぶしを見舞ってくる。その健気さとやるせなさは確かに、胸を打つものがあるな、と安来は内語しながら、身体のそこここに生じる多種多様な痛みをただ無感情に味わった。


 現生人類のこの奇態な生のなかで唯一、正解率に響かない、十分間。


 得点発表から日付変更までのあいだの、わずかな自由。


 その貴重な時間、全力で憂さ晴らしに励む人々の、生きんという意志。


 それは確かに、胸を打つものがあるな。


 と、安来は、歯を折られ、皮膚を裂かれ、眼球を指でえぐられながら、独り静かに想った。


 そして唐突に、何もかもが元通りの朝が来た。


 今日こそは、と、安来は思った。

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「このゲーム」 阿久沢牟礼 @axaxaxawa_mloe

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