第2話

彼女と対面して座る形になった。何から話していこうか。しかし彼女は、


「先にシャワー浴びてきていいよ。」


彼女は意外と素っ気なかった。お構いなしという感じだ。


言われるがままに入ったシャワールームで束の間の一人の時間が訪れる。少し安心している自分がいる。まだ僕は彼女に、得体の知れないものに対して感じるような恐れを持っている。ほんとはもっと自然体で居たいのに。そんな姿を彼女に見せて、心の余裕を示したいのに。


シャワーを出て部屋に戻ると、彼女はもうベッドにいた。布団から顔だけ出してこちらを見ている。多分もう裸なんだろう。


「こうして今日会えて嬉しいよ。」


「あたしも。」


「今日会えてることが信じられないよ。」


ちょっと余計なことを言ってしまった。


「どうして?会ってくれないと思ってたの?」


「可能性はもしかしたらって、、」


素直に吐いてみた。すると彼女は、


「男なら、、怖いものはないでしょう?」


彼女は僕の耳元で囁いた。

それを聞いた時、自分の中で何かが崩れた。可能性という言葉の本質を悟って奮い立ち、彼女の白い身体に抱きかかった。


「電気!消して。」


事を始めるよりまずはと、彼女は制した。


「おっけ。」


枕の上にあるダイヤルに手を伸ばす。部屋が闇に包まれる。


しかし電気を消しても、彼女の姿ははっきりと見えた。彼女の身体は灯りの暖色を失い、代わりにうっすらと白い光に包まれている。体の輪郭は曖昧になり、ベッドに溶け込んでしまいそうだ。その姿に一瞬くらっとなる。


この光は何なんだろう。正体はすぐにわかった。月だ。横の窓から月明かりが差しているのだ。カーテンを閉め忘れた窓の向こうに、青白い月があった。眩しい。その光源を少し睨んでみたが、まごう事なき真円だった。


満月だ。川沿いを歩いていた時は、まだ低い雲に隠れていたのか気づかなかった。だがそんな雲もいつのまにか消えていた。


「月がきれいだね。」


「ふふ。」


「眩しいくらいだよ。」


「そうね。」


空も澄んでるね。そう言おうとした時、彼女は月に想いを馳せる気分ではないと言うように腕を伸ばして、窓を見る僕の視界を遮った。


「もう忘れさせて、、」


「うん、、」


こんな初対面の男で、長年の彼氏のことを忘れられるならね。


対面して十数分後の女との夜。

利害の一致という結びつきだけでは、まだ彼女に夢中になれそうになかった。しかし抱きしめて初めてわかる彼女の低い体温が、自分の中で無視していた何かを満たしていくのを感じた。他では補えない何かを。女であり、早絵という女だという実感を。


彼女を大切にしたい。欲のままに、、


繋がっている間、僕は何度も彼女を見つめたが彼女も見つめてきた。月明かりに照らされて彼女はまた微笑む。全身が照らされているが、月明かりまでは拒まないようだ。


後ろから重なりたい。そう思って彼女の体をまわす。その時彼女の脇腹のあたりに目が止まった。


「あれ?」


何かある。タトゥーだ。文字が彫ってある。今まで気づかなかった。不意にそれを解読しようと注目してしまう。


ロシア語?

いや、ロシア語かは分からない。ただ、キリル文字であることがわかる。英語と同じで馴染みのある文字もあるが、不可解な角ばった記号が文字列の間に割り込んで、単語として読み取ることはできない。


「これって、ロシア語?」


「そうよ。よくわかったね。」


「ロシア語のタトゥーってかっこいいね。すごく似合ってるよ。」


「ありがとう。」


「なんて書いてあるの?」


「あたしロシア語はわからないの。でも、それはロシア語で好きな言葉なの。」


「ふうーん。どういう意味なの?」


「うーん。まだ教えな〜い。」


いま深入りすることではないような気がした。


「なんだ気になるじゃん〜笑」


教えないと言って、ぷいっと素振りをする彼女が可愛い。もどかしい気持ちを体で表すように、僕はタトゥーの周りにキスをしてから彼女に重なって溺れていった。


---


ごそごそという物音でふっと視点が重なる。その先には黒い布切れがある。ああ、早絵さんのパンツだ。その時はもう朝だった。部屋の光でわかる。眩しいのだ。だが月じゃない。包まれるのとは程遠い、晒されているような感覚。日が昇ったのだ。はあ、もう終わってしまう。窓を見ると、空は雲に覆われていた。夕べはあんなに澄んでたのに、今日は曇りのようだ。


彼女はすでに起きてベッドの周りを歩き回っていた。僕の目の前のブラにも手が伸びる。まるで僕がいるなんて気にも留めないように。


「おはよう。」


声を優しくして言ったつもりだった。しかし、


「おはよ。」


なんだかそっけない。こだまのようだ。イベントのピークは過ぎただろうが、後で冷たさを感じるのは寂しい。ただでさえおれはもう気まずいのに。


彼女は午前から予定があるらしく、先にホテルを出ると言った。


「ゆっくりしてていいからね。」


「うん。早絵いってらっしゃい。気をつけてね。」


さっと彼女は出ていってしまった。僕は2度寝しようと枕に顔を埋めると彼女のシャンプーの香りが残っていた。パンテーンかな。。彼女はもういないのに。


彼女と別れてからいろんな興味が出てきた。元カレのこと。彼女の暮らしのこと。お腹のキリル文字のタトゥーの事。彼女に対する人としての興味も沸々と湧いてくる。


しかし、あの日から彼女が連絡を寄越すことはなかった。僕ではダメだったのか。いや、うまく忘れられたのかもしれない。元カレのことを。ぐだぐだと考えるうちに彼女への思いが未練になってしまった。


彼女と交わした夜から2週間が過ぎ、誰とも予定のない休日を迎えていた。平日を惰性で過ごすと、あれよあれよという間に何もない週末が来る。今朝起きた時点でようやく予定の空白を自覚した僕は、とりあえず慣れない東京の大地を歩くことにした。歩きながら、脳内の幻は膨らんでいく。


あの夜、いろいろ話しておけばよかった。あの時、僕は演者だった。取り繕わなければ、どう振舞っていいか分からなくなりそうだったから。


景色の変わらない線路沿いを歩きながら、どうしようもない堂々巡りにはまっていく。


その道も気づけば終わりに近づき、雑音と交差点が近づいてくる。その信号の先には、転勤先の事務所がある。あそこを視界には入れたくない。今日は休養日なのだ。


心のモヤが消えないまま、僕は事務所に差し掛かる道の手前で左にそれた。その先は暗い高架下で、抜ければ雰囲気は一転して繁華街になる。そこはバーやパブ、酒場が何ブロックも越えてひしめく呑兵衛の街。


線路を境に街の様子が大きく変わるというのは、田舎者の僕には新鮮な体験だった。そこを歩く人たちでさえ別の人種に見えるのだ。そんな新しい空間に新しい出会いの期待を重ねていた。


、、、


何も変わってない。。

あれからもう2年も経つのに、今もこの街に飲みに来て、気に入っている数件のパブを回っている。それがルーティンになっている。


職場の先輩がくれたCBDを吸いながら、この街に自分が取りつくきっかけになった出来事に深く浸っていた。不思議なくらい綺麗な夜だったんだ。忘れていたのに。CBDのせいか?煙の快楽効果は弱いと決めつけていたが、案外面白いのかもしれない。


記憶から覚めてくると同時に、飽きっぽさを感じ始めた。他の街に行ってみようか。明日も終日出勤だけど、今しかない気がする。時刻は19時半。僕は勘定を済ませて山手線の駅に向かった。

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タトゥーの女 @TheYellowCrayon

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