3 ご機嫌よう、モンロー・マイ・ディア



 熱い紅茶を水筒に詰めて、私たちは夜へ繰り出す。並んで歩道をそぞろ歩けば、街の灯りが色とりどりにきらめきながら背中の後ろへ流れてく。あの光のひとつひとつが人の絶え間ない生の痕跡。揺り籠とも石棺ともつかないビル群に刻み込まれた絢爛けんらんな宝飾。私たちは“そこ”から抜け出したのか。あるいは“それ”から捨てられたのか。いずれにしても同じこと。無限に積もったしがらみを一切合切置き去りにして、私たちは月を目指した。

 ネットのよく分からんアフィリエイトブログで紹介されてた展望台は、街外れの丘の上にある。私鉄でひと駅。タクシーって手もある。でも私たちはなんとなく、徒歩で行くことを選択した。ゆっくりと、ゆっくりと……だらだらと、だらだらと……まるで目的地へたどり着くことを拒絶しているかのように、私たちの歩みは遅い。

 それでも時が過ぎれば、ひとりでに行き着くべきところは迫ってくる。今や街の灯りは星空よりもなお遠く、あたりには濃密な暗闇ばかりが満ちている。丘の頂上へつながる遊歩道に踏み込めば、人の気配はおろか虫の声さえ聞こえない。頼りはスマホのライトだけ。半径1.5m……限界まで狭まった私の世界。

 でも、その狭っ苦しい孤独の中に、コモリさんが居てくれる。

 低い丘だ。10分とかからず展望台についた。展望台と言っても名ばかりのものだ。ただ平たく造成しただけの“公園”に、藤の枯れた藤棚と、ベンチがふたつ置いてあるだけ。人影なんて当然ない。ネットの記事なんてアテにならないもんだ。

 でも、月だけは本物だった。

「うっ……」

「わあ……」

 私たちはそこに立ち尽くし、吸い込まれるように夜空を見上げた。こずえも、ビルも、街灯も、雲も、さえぎるものは何ひとつない漆黒の空に、圧倒的な存在感の輝きがひとつ。

 満月の放つ輝きは、背筋が凍るほどに……美しい。

 私たちは、沈黙した。

 口を開いたって、どうせ「きれい」とか「すてき」とか陳腐なことしか言えやしないんだ。私たちの胸の中に湧いていた想いは、そんな単純な言葉では到底とうてい表せるもんじゃない。

 だから、言葉にしちゃいけない。

 言えないものを、言い切れないものを、安易に言葉にしちゃいけない。

 それは想いを型にはめることだから。言葉という思いのほか不自由な枠組みに、どろっどろにけた心を流し込んだら、それは本当の気持ちじゃなくなってしまう。そうなんだ。違うんだ。語られたものは、語るべきものじゃない。語られた時点ですでにそれは本質じゃないんだ。

 でも。

 それでも語りたいというのなら。

 

「ね……コモリさん」

「うんー」

「何色に見える? 月」

「色? んー……白、かなあ」

「だよね。でなけりゃ黄色とか。銀とか。それが普通」

 私はベンチに腰を下ろした。コモリさんが隣に来て、ポットのフタに紅茶をいでくれる。私はお茶を掲げ持ち、湯気を通じて月を見上げた。目に痛いほどの月の光が、適度に和らいで私の肌を刺激する。

「昔ね。授業で絵を描かされたとき、美術の先生に怒られた。『なんで月が緑なの?』

 なんでったって、しょうがないじゃん。

 私には、そう見えたんだ。

 誰も信じてくれない。分かってくれない。共感してくれる人なんて一人もいない。

 でも。

 それでも私には、そうなんだ。

 月って、ほんとは、ライム色なんだよ」

「ライム……ライムの月……」

「変だよね……あっつ!」

 唇を火傷して、いまさらお茶に息を吹きかける私。コモリさんはしばらくぼんやり月を見上げながら、足をぷらぷら遊ばせていた。と、唐突に両腕を振り上げて、

「いいじゃん!」

「え?」

「想像してみた! ライムの月。かっけえ! ぴったりはまる!」

 あー。

 あー……

 ダメ。もうダメだ。好きすぎる。

 もう、これ以上、我慢なんかできない。

 私は紅茶を脇に置くなり手を走らせた。気づかれる前に。拒絶する暇さえ与えないうちに。私は彼女の手を握り、指を絡ませ、拘束し、身を寄せて、胸にあごを沿わせ、コモリさんに全身で触れる。肌と肌をすり合わせ、ひとつに繋げようとするかのように。

「コモリさん。

 私をさらって。

 連れて行ってよ。ここじゃないどこかへ」

「パイちゃん、あのね……」

「大人の理屈なんて聞きたくないッ!

 私とは違う。コモリさんは溢れるほどたくさんのものを持ってる。それを壊せない、崩せないって気持ちが“分別”なんだとは私にも分かる。

 でもそんなの嫌だもん!

 あのとき誘ってくれたじゃん! 『始めよ』って。『何してもいい』って。なのに私がしたいことを見つけたらそれを見なかったことにするの卑怯でしょ! 私は見てほしい。服の中も、もっとその中も見られたい。コモリさんの前でだけは裸になりたい!

 だから埋め合わせてよ! 私の“空っぽ”を、コモリさんの持ってるもので!

 それが無理なら……いっそ私をメチャクチャにしてよ!

 汚されても!

 おもちゃにされても!

 ばらばらに壊されたってかまわない!

 コモリさんがしてくれるなら、

 何されたって、

 私はいい!!」

「ばか。怒るぞ」

 コモリさんは驚くほどの腕力で、私を強引に引き剥がした。彼女の目の中にある本物の怒りに気づいて私はすくむ。

「どんだけ心配してると思ってんだ。どんだけお前を……愛してると思ってんだ!」

 コモリさんは……私を抱きしめてくれた。涙でぐしゃぐしゃの顔を、胸にうずめることを許してくれた。何十回も、何百回も、背中を撫でて慰めてくれた。私に必要な、今必要なことは何もかもしてくれて……私が落ち着き始めたのを見ると、ハンカチで顔をぬぐってくれた。私がしゃくりあげ、あとからあとから涙をこぼしても、そのたびに根気よく拭き取ってくれた……

「あのね、パイちゃん」

「ん……」

「もう……白状するね。

 コモリさんはね……パイちゃんが思ってるようなコモリさんじゃないの」

「……?」

「ほんとは死ぬつもりだったんだ、あのとき」

 あのとき? あのときっていつ? 記憶をたどる。たどる。たどる。思い当たる場面はたったひとつしかない。私とコモリさんが出会ったあの日。勇魚いさな川にかかる橋の上から、せせらぐ水面を見下ろしていた、あのとき。

「でもダメだねえ。

 飛び降りれなかった……

 知ってた? ほんとに怖いときって、ほんとに膝が笑うんだよ」

「なんで……?」

「パイちゃん、僕が小説書くとこ、見たことある?」

「海で、一度」

「そ。あれっきり。

 一行も書けてないの。

 あれからずっと、一行も。

 その前もずっと書けてなかった。去年の春くらいかなあ。いきなりピタッと書けなくなっちゃって……まあ、この稼業やってると、そういうことはザラにあるんだけどさ。さすがに年単位となると重症で。

 なんかね……いーっぱい抱えてたはずの“書きたいこと”が、いきなり空っぽになっちゃった感じで……

 俺、あほじゃん? 社会性ねーし。だから昔から書くことだけが心の支えでね。あー。書けなきゃ生きてる価値ねーな。カスが。死ね。って、思い詰めちゃって……

 よーし死ぬぞー!!

 でもやっぱ怖くて……

 そしたら、なんだろ。奇跡かな。隣にパイちゃんが現れてさ。

 あ、そっか、ってなった。

 この子も同じなんだって。

 だからあのとき思ったの」



 



「嘘……」

「ほんとだよ。残念ながら。

 ひどいと思う。頭おかしいんじゃねえのって。でもその時は、それしか考えられなかった。

 それが……変だね。パイちゃんの悩んでる顔とか。声とか。メントスの食べ方とか。いろんなことの気をつけ方とか。真面目な感じ。賢さ。そういうの、感じてたら、なんか……あっというまに……

 好き!!

 ってなって。

 殺せねえなー、この子は。

 絶対死なせたくねえな。

 そう思ったら、急にちょっと、小説書けて。

 あ、生きる価値だあ、これ。

 じゃ、この子が生き延びるお手伝いしなきゃ。そう思った。

 そういうことだったんだ、実は。

 まーつまり!

 ダメな大人だ、はァ―――――ッ!!」

 そうか……

 そうだったんだ……

 私がコモリさんに感じていた奇妙な親近感の正体は……

 コモリさんが私に向けてくれる目の中の、不思議な優しさの正体は……

 彼女は私。

 私は彼女。

 だから、

「コモリさん。別のお願い、してもいい?」

「うん」

「いっしょに」

 絡め合った指と指とで、今、私たちはひとつになる。

「私といっしょに、泣いてほしい」

「……うん!」

 たとえ身体は交わらなくても、涙は溶け合うことができるから。



   *



 その翌日、コモリさんは姿を消した。

 午前のうちに引越し業者がなにもかもさらってしまったらしい。学校終わりに顔を出したときには、もうマンション7階のあの部屋はもぬけの殻になっていた。私は奇妙に落ち着いた気持ちで、名札の抜かれた表札を見上げていた。なんとなく、こうなる気がしていた。昨夜、満月の見守る中で、心ゆくまで抱き合い続けた……あれが今生こんじょうの別れになるような気が。

 私は遅刻して予備校に行き、久しぶりでちゃんと授業を受けた。帰宅途中でコンビニに寄り、ノートを一冊買った。母をかわして部屋に戻り、勉強机に向かい、買ったばかりのノートを広げた。

 ああ。

 ああ、間違いない。

 私は確信した。光が見えた。気のせいじゃない。思い込みじゃない。私の心という狭い世界。そこにはめこまれた強固な隔壁。一方に隙間もないほど詰め込まれた可燃性の困り事と、他方にぽっかりと口を開けた真空よりも純粋で完全な欠落。準備はすでに整っていた。“モンロー効果”。書けるとか書けないとかそんなことはどうでもいい。人が食って生きるように。息を吸って吐くように。月が地球に寄り添って無限に巡り続けるように。起きるべきだからそれは起きる。圧縮に圧縮に圧縮を重ねて恐るべき密度に押し込められた私の中の慟哭に、火種が触れる時が来た。



 言葉が爆発する!!



 筆が走る! 文字が踊る! 物語が産み落とされていく! 私は書く。休みなく動く。目の前に広がる無限の世界。命を得て動き出す主人公と仲間たち。風景と出来事ばかりじゃない。風が、匂いが、色が、光が、物語世界のあらゆるものが私の肌に触れている。月がライム色であるように、が理想の大人であるように、これは幻なんかじゃない! 私が書いているものは、私が紡いでいるものは、書く限り、見る限り、私が想い続けているかぎり、心と身体の周りと中に疑う余地もなく実在する! そうだ。これが。『語られたものは、語るべきものじゃない』、それでも語るというのなら、理由はひとつに決まってる。

 !!

 ――

 私は肩を激しく上下させ、荒く息をつきながら、呆然とノートを見下ろした。

 書けた。

 空っぽな私にも――空っぽだからこそ――書けた。

 ばんっ! と机を叩いて私は立ち上がる。部屋を飛び出し、階段駆け下り、飽きもせずに垂れ流しテレビと向かい合ってる母の正面に回り込む。私の目つきがどれほど鋭く尖っていたか、母の怯え方を見れば鏡を見るよりよく分かる。

「話があります」

 敬語を使うのが、戦いの合図。

「私、医者にはなりません!」



   *



 2年後。

 私は探偵まで雇って探し当てたマンションの、ドアの前に立っていた。インターホンは反応なし。ノブをひねるが閉まってる。ああそうでしょうね。あの頃はちっとも気づかなかったが部屋の様子から明らかだった。生来の引きこもり気質なんだあの人は。

 ところがどっこい! こちとら遠慮はやり飽きた!

 かねて持参のC-2爆薬でノブと蝶番を3点爆破!!

 ドアを蹴破けやぶり中へ突入!!

 首吊り5秒前の体勢ですくみあがってる女のぐちゃぐちゃの泣き顔に製本済みの同人誌を

「ごらコモリィィィィィィィッ!!」

 ビッターン!! と全力で叩ッ込む!!

「ほげぇぇえお!?」

 もんどりうって倒れるコモリ。それをまたいで仁王立ち。私の張り上げた大音声が、地球ごと彼女を震撼しんかんさせる。

「読め!!!!!!!!」



THE END.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ご機嫌よう、モンロー・マイ・ディア 外清内ダク @darkcrowshin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ