2 月の詩/チャーンド・ヴェーダ



「ちょっ……とォォ……コモリィィ〜ッ……」

「あっ、そっち行った! パイちゃん回避回避! ほらビターン来るよ! ビっ、ターン! あん死んじゃった、ほらあ」

「コモリさんッ! めっちゃパンツ見えてんスけどォ!? 気が散る! 水色のしまパンンン!」

「いーでしょ、G級装備だよお。のぞきたい? やだえっちぃ〜! いーよ、キャンプ戻るねえ」

「のぞかねーよ! 隠せ隠せ乙女のパンツ!」

「パンツ見せねーでナルガが狩れるかよォ!」

 何その信念。いや勘違いしないでほしい。全部ゲームの話だ。私はああいう境遇だからゲームなんて一度もしたことなかったけど、勧められるままにやってみたら結構楽しい。まあ鶴みたいなやつとか熊みたいなやつとかにボッコボコにされるんだけどさ。なぜかコモリさんが同じゲーム機を2台持ってたから、色々おんぶにだっこでどうにかこうにか少しずつ先へ進めてる。クエストひとつクリアするごとにチェックマークが埋まってく、この奇妙な達成感。砂漠とか竹やぶとかを、コモリさんとふたりで無意味にプラプラ歩き回る時、不思議と高まる好奇心のうずき。ああそうか、小学生のときクラスメイトが夢中になってたのはこういうのだったんだ、って今更納得する私。

 アイテムを補充して、あの黒くてデカいリスにリベンジしに行く道すがら、私は世間話のフリして半歩踏み込んでみた。

「コモリさあん、女の子のパンツみて嬉しいの?」

「うぇっへっへ」

「まじかあ。そういう趣味なんだあ」

 冗談めかして茶化したつもりだったのに、

「まあねえ〜」

 思いもよらない肯定が帰ってきて、私のハンターが一瞬硬直する。

「あ! ナルガ来ちゃった、やるぞパイちゃん! 安全第一、2乙だからねっ!」

「えっ、わっ、おわっ」

 あたふたあたふた。あたふたあたふた。ドーン。デーレー。死んだ。

 私は悲鳴ともうめきとも歌声ともつかないものを喉の奥からひねり出しつつ、横倒しにソファへ身を投げだした。スカートの裾がコモリさんの方へ向くのも計算に入れてだ。見たい、だろうか。見たいって思ってくれるだろうか。私の……スカートの中、とか。

 あるいはもっと、その奥、とか。

 32秒。私たちは、無言だった。不自然に。

「……コモリさん」

「んー」

「じゃあ……女の人を好きになったこと……ある?」

 コモリさんは立ち上がり、私の視界の外へ消えた。答えはない。水の音がする。ポットの電源入れる音も。茶器とスプーンが奏でるたえなる響き。やがて香ってくる茶葉のかぐわしさ。

 湯気をたてるカップを両手に、コモリさんは私のそばへ戻って来、湿った声でささやいた。

「あるかも」

 私は無意識につばを飲む。

 私は手を伸ばした。コモリさんの手から直接カップを受け取りたくて。そうしたら、どさくさであの白くて長い指にさわれるんじゃないかって下心で。

 でも手が届く寸前、コモリさんはカップをテーブルに乗せてしまう。

 まるで「分かってるよ。ありがとう」と言わんばかりに。

 「でも……」そう言わんばかりに。



   *



 コモリさんとのおうちデートを親バレしない程度で切り上げ、自宅で重要問題集を広げてみても、勉強はちっともはかどらない。角速度ωオメガの長方形コイルが私の脳をぐるっぐる撹拌かくはん。リアクタンスとインピーダンスが箪笥たんすの上で陽気に舞踏ダンス。書きかけの解答がほっぺたに転写されるのも構わずに私はノートへ突っ伏して、息を吸って、吸って、吸って、吸った。

 胸が爆発しそうだった。怨念と情念、怠惰と安堵、それに燃えるような肉と心の欲情が私の中に溜まりに溜まり、今や点火を待つばかり。こんな気持ちになったのは初めてだ。分からない、どうしていいのか。こんな気持ちを……どう処理していのか。

 その時ふと頭をよぎったのは、やはり、コモリさんの言葉だった。

『うおー!! 書くー!!』

 私は顔をあげた。

 とんでもない思いつきだ。身の程知らずもいいところだ。でも雷光めいたひらめきは、私には素晴らしく輝いて見える。ルーズリーフを1枚引き出す。シャーペンの芯を1mm伸ばす。

 書く。

 書こう。

 今なら……書ける!



   *



 書けませんでした。

 いや、ヤバいわ小説……まじ難しい。頭の中にパッ! とストーリーが閃いた気がしたんだけど、いざ書き始めてみれば、何書いていいのか、どう書いていいのか、もうさっぱり分かんない。脳内にあったはずの明確なビジョンは文章にしたとたんに濃密な霧に包まれ、輪郭も判然としないほどにぼやけてしまう。うんうんうなりながらどうにかこうにかルーズリーフの3分の2程度まで文字で埋めたはいいものの、読み返してみたらクソつまんない。キャラの言動が全く不自然。文章が下手すぎで何が起きてるのか読解不能。そもそも何が書かたかったのかすら頭から完全にフッ飛んでしまった。

 でも私の弱音を聞いたコモリさんは、獲物を見つけた肉食獣みたいに目をぎらつかせて食いついてきた。

「すげー!! 読ませて! 読ませて!!」

だよ! 無理! 指わきわきすんなエロい!」

「いいじゃんかチョットくらいぃ。ダメ? けちぃ」

 コモリさんはわざとらしくイジケて見せ、防音シェルターに入って宮城道雄の名曲“春の海”尺八パートをプワプワやり始めた。しょうがねえな……スネるなよ大人が……

「コモリさーん? だから、教えてほしいんだけど?」

「ぷぴ?」

「尺八で答えるなッ! 小説の書き方! 面白い小説ってどうやって書くの?」

 シェルター内のくぐもった笑い声が、ドアが開くなりクリアな爆笑になって私の顔面に吹き寄せてくる。コモリさんが笑いすぎできこみながら言うことには、

「そんなのこっちが聞きてえーよ!」

「は? いやプロだろ?」

「プロでも知らんっす」

「なんかあるでしょ、確固たる技術ーとか、お話づくりのコツーとか」

「んにゃ〜〜、そういう理論派もいるけどさあー、だいたいの作家はいいとこスキル半分カン半分じゃないかなー。理屈ガチガチでプロット組んでも、ホントに面白くなるかどうかは書いてみるまでよく分かんにゃいし……」

「マジか」

「カン100%って人も多いよ。タニス・リーとか知らない? アドリブですっげーカッコいい話もりもり量産しちゃうの。おいらの憧れなんだ、あの人」

 える……

 私は倒れ込むようにソファへ身をうずめた。プロに聞けばきっと突破口が見えるだろう、って甘い期待が崩れてしまったことへの落胆。でもそれだけじゃない。私を一挙に打ちのめしてしまったのは、

「コモリさんほどすごいものいっぱい持ってる人でも分からないんだ」

 という事実。そして、

「じゃあ……空っぽな私に小説なんか書けるはずないな……」

 という絶望。

 そうだ。私には何もない。ってことは、小説を書くための材料もない。いや、小説だけじゃない。人間がこの世で何かするには身体の中から湧き上がる材料が必要なんだ。それを情熱とかモチベーションとか執念とか呼ぶのだろう。じゃあ何も持たない人間は? 何をする力もない。資格もない。権利も……ない。

 天井見上げて茫然自失の私の視界に、不意にコモリさん顔が現れた。彼女の毛先が波打って、もう少しで私の鼻をくすぐりそうになる。

「ね、パイちゃん。“モンロー効果”って知ってる?」

「なに?」

「あんねー? 爆弾あるじゃん? こんな筒みてーなやつでね……」

 コモリさんが私の上をまたぎ越え、テーブルに取り付いて、コピー用紙に図を書き始めた。横長の長方形……爆弾の容器。その中央あたりに、コモリさんは“く”の字型の折れ線を描き込んだ。

「これは隔壁」

「うん?」

「壁のこっち側に爆薬入れる。でも反対側には何も詰めない。あえての」

「なんで……?」

「爆発で生じた衝撃波は、いてるところに向かって走るから。

 ただ爆薬に点火しても、前後左右上下あらゆる方向へ均等に破裂するだけだ。でもそれじゃ大した威力にならない。

 だからこうして空洞を作る! 爆轟波は全て空洞に集中! 熱と衝撃と融解金属がただ一方向に向かってーっ、ブシャアアアアアアアアッ!!」

 コモリさんのペンはヒートアップし、凄まじい勢いで何十本もの金属噴流メタルジェットを爆弾からほとばしらせた。口をぽかんと開けて見ている私に、振り向いたコモリさんは、工業地帯の海際で見せてくれたのと同じ興奮に頬を紅潮させていた。

「これ! “モンロー効果”」

「何に使う技?」

「戦車倒したり」

「強いんだ」

「最強よ。だから、ね、パイちゃん」

 コモリさんが、目を10cm寄せてくる。

 深く、深く、飲み込まれそうに暗い色した目を、私ひとりに。

「空っぽだからこそブチ抜ける壁も、あると思うんだ、わたし」



   *



 あるだろうか。本当にそんなものが、あるだろうか。

 仮にあったとして、それを見つけることができるだろうか。私の“空っぽ”の活かし方、向ける矛先。じっくり腰を落ち向けて探せば、やりたいことが見つかるだろうか。

 でも私にはそのがない。時間の余裕、体力の余裕、精神の余裕。私にほんの少しでもがあれば、大人たちはそれをすぐさまにかかる。私はあまりにもすぎて、になる権利さえない。

 その夜、帰宅した私を待っていたのは母の常軌を逸した激怒だった。

 “これ”が“普通”ではないと気づいたのは、高校に入ってからのこと。クラスメイトのこぼす親への愚痴を漏れ聞いてはじめて、“普通”の家庭の親って怒ってもなんだって分かった。

 母は居間のソファで垂れ流しのテレビをじっと見つめており、私の足音を聞くと振り返りもせず言い放った。

「今日、塾から連絡がありました」

 母が敬語を使うのが“その時”の目印。

「最近、欠席がやけに多いそうね?」

 分かってた。こうなることは。

 来るべきときが来た。それだけだ。



   *



「お月見に行こう!」

 翌朝、打撲だぼくで目の周りを青くらした私は、マンションのドアが開くなり寝起きのコモリさんに詰め寄った。コモリさんの就寝スタイルを見たのはこの時が初めてだ。パジャマも何も着ていない。下着はだらしなくずり落ち、かろうじて腰骨に引っかかってるだけ。グレーの薄いタンクトップには熱い汗がにじみ、その左右に乳首がぴんと浮き立っている。

 匂い立つような大人のなまめかしさにあてられ、私はくるめく。一息に言いきるつもりでまとめてきた誘い文句が全部頭から飛んでしまう。玄関先で硬直する私をコモリさんは眠たい目で見つめ、それから中に招き入れ、ソファに座らせ、クローゼットから救急箱を引っ張り出して、私の隣に座ってくれる。

「手当て。目。しよ?」

 答えを待たずに、コモリさんは消毒薬をひたした脱脂綿で私の傷を洗い始めた。やぶれた皮膚にアルコールが染みて、ちくり、ちくり、刺すように痛む。私は歯を食いしばる。床を睨みつけ、言うつもりだったことをやっとのことで思い出す。

「コモリさん」

「うん」

「今日、満月で」

「うん」

「天気予報も晴れだし」

「うん」

「見つけたの。ほら、ここ、絶好のお月見ポイント。って記事が」

「うん」

「だから、行こっかなって」

「うん」

「行くなら、一緒がいいなって」

 無言。

「コモリさんと……一緒がいいっ……」

「……うん」

 痛みに耐え、耐え、耐え、耐えかね、こぼした涙の味は、ひどく生臭く、血に似ていた。

 なんで月見なのか? なんでもよかったんだ。ここじゃないどこかへ行ければ。前にコモリさんに教わったことを実践しようと思った時、たまたま今夜が満月だって気づいただけ。理由は後付け。正直ただの下心だった。抱きしめてほしかった。あのラフすぎる格好のまま、私を包んでほしかった。でもコモリさんは私の目元に真っ白な絆創膏を貼りながら、大人っぽく素敵に微笑んでいる。

「パイちゃん」

「うん」

「朝めし、食お?」

「うん」

「そんで、昼めしも食って」

「うん」

「晩めしも食ったら……」

「うん」

「……行こっか。お月見」

 私はとっくに気づいてた。コモリさんも分かっていたろうか。分かってないはずないよな。意図的でなきゃ、こうはならないよな。私はその事実がせつなくて、あまりの胸の苦しさに、かえって涙が止まってしまう。

 こんなに仲良くしてるのにさ。

 私はまだ、一度もコモリさんの肌に触れたことがないんだ。指先ひとつさえも。

「……うん」

 私はうなずいた。涙を拳でぬぐい取りながら。



(つづく)

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