ご機嫌よう、モンロー・マイ・ディア

外清内ダク

1 仲良くしようか



 そこで初めて私は思い知らされた。自分がいかに空っぽかってことを。

 何かあるって思ってた。17年も“私”をやってきて、私なりに確固たるものを築いてきたつもりだった。中学受験、死ぬほど頑張った。塾から押し付けられた膨大な宿題を毎晩未明まで泣きながらこなした。私学一貫に行けば高校受験はないから楽、なんて決まり文句に踊らされてた私は後にそれが詐欺だと知った。異常な速度で進む授業。異常な量の宿題。異常な頻度の模試で潰れる土日。楽な日なんて1日だってありはしない。そんな暮らしに耐えて、耐えて、ずっと従順に耐え続けてきたのは医者になるって“夢”のため。でもそれももう分かんない。いつの頃からか口にするようになったこの“夢”の、出どころはそもそもどこだっけ? 私が医者になりたかったのか。母が私を医者にしたかったのか。何もかもが思い込み? 自分のためと、自分の“夢”と、思い定めてやってきた努力は全部母のさしがねだった? そんな疑念がふと心をよぎった日、私は初めて学校をサボった。

 最初はそんなつもりでもなかった。バスを降り、「あ、これから校門に向かうのかあ」と思ったとたん、唐突に異様な虚脱感に襲われただけだった。私はバス停に立ち尽くし、ぞろぞろと流れる同輩たちの背中をしばらく呆然と見送っていた。足が動かなかった。歩けなかった。進もうかどうしようかと判断する気力さえなかった。世界は全部ミニチュアの作り物みたい。学校もバスも同級生も、私とは薄皮一枚へだてた異世界の事物であるかのよう。

 あ、あ、

 その時点では判然としない奇妙な確信。気がつけば私はもう学校とは逆方向に向けて歩き始めていた。ぞっとした。学校がどんどん遠ざかっていく。始業に間に合わなくなってしまう。なのに私の身体は見えざる誰かの手に操られた人形マペットみたいに勝手に進む。私が望みもしない方へ。望みもしない? 本当に? 分かんないけど。

 たどり着いた場所は勇魚いさな川にかかる大橋の上。

 橋の真ん中まで来たところで、私はついに、足を止めた。膝が笑ってる。悪寒が止まらない。とんでもないことをしてしまった、という罪悪感と恐怖が私の胃をすり潰す。猛烈な吐き気にさいなまれ、私はすがるように欄干らんかんへもたれかかった。

 涙が出る。嗚咽おえつが漏れる。12kgもある通学カバンが拷問のように私の肩へ食い込んでくる。

 ないんだ。

 私には

 ある、と思っていたものは、全部誰かに背負わされたものだった。カバンの中に満載された教科書、参考書、紙の辞書。i-padで電子版も配られてるのになんで紙版も毎日持ち運ばなきゃいけないの? 医者になりたいなんて実はそんなに思ってない。なのにどうしてこんなに勉強しなきゃいけないの? ずっと読みたかった“暗殺教室”の続きは受験が終わるまでガマンガマン、って思い続けてもう7年。気がつけばもう大して結末が見たいとも思わなくなってしまった! 私は完全に空っぽだ。私がやってきたことは、積み上げていたと思ってたことは、何もかも他人の都合だったってだけじゃない。なんの価値も値打ちも存在理由もない完全完璧な人生の無駄づかいだったんだ!

 私は泣いた。バカみたいに泣いた。なんでこんなに泣きたいのかもうまく言語化できなくてまた泣いた。もう何もしたくない。私にはぜんぜん価値がない。この世に面白いことなんてない! 私はクソだ。カスだ。どうにもならないクズの塊だ。生きていても仕方がないんだ。だって生きていたって、見ろ、このクソ重たいカバンを毎日背負って学校に通い、全然意味がわからない中間値の定理とかテイラー展開とかを叩き込まれ、なりたくもない医者を目指して死ぬような競争をさせられて、医学部に入ったら入ったでその先また6年間! 6年過ぎたらすぐ国試! 国試が済んだら地獄の研修医生活! いつになったら解放される? どこまで行ったら楽ができる? どこまで行っても、ない! 私の前に待っているのはこの先ずっと気力を削って寿命をすり減らして死ぬまで死ぬほど働き続ける未来だけだ。でもほんとに絶望なのは、そんな未来が見えきっているのに、他のどこかに行こうって希望すら何ひとつ浮かんでこない私自身の空っぽさなんだ!

「あるよねえ、そういうこと」

 私はむせた。

 いきなり横から声をかけられ、びっくりして飛び上がった拍子に涙が鼻の奥から気管の方に入ってしまったのだ。欄干らんかんにしがみついて咳き込み始める私の背を、声の主――いつの間にか隣に立っていた女性が慌ててさすってくれる。

「わっ、おっ、すまん、ゴメン! ちょっとカバン降ろしな……ウワッおもてーなコレ」

 カバンを剥がされ、丸めた背中を何十回も撫でられ、私は、次第に落ち着いていく。涙に濡れた目を向ければ、女性も私の視線に気づく。きれいな人だった。大学生かな……社会人ではなさそう……たぶんそのくらい年上で、少し明るめワインレッドのロングに耳のあたりから緩くウェーブをかけた髪型が見惚みとれるほどに大人な感じ。なのに口の中で飴玉か何かをコロコロ転がしながら、小学生みたいな笑い方する。私はもう、彼女から目が離せなくなっている。

「あー、コレ?」

 彼女は飴玉でプックリふくらんだほっぺたを指差す。いや違うよ。それじゃねえ。

 しかし彼女は私の答えを待たずにポケットの中をがさごそ探り、メントスの包みを取り出すのだ。1本、2本、3本4本……おい、どんだけ持ってんだ? すごくかっこいい秋色ジャケットのポケットが駄菓子でパンパンじゃねえか。

「どれ好き? グレープ、グリーンアップル、コーラ、あグレープもういっこあった。やっぱあたしはァ、コーラかなあ?」

「……ぃです」

「ん?」

「分かんないです。食べたこと、ないんで……」

 彼女の目が、丸く、丸く、眼球がコロッと落ちてしまうんじゃないかってくらい、丸く広がってく。信じられない? 悪うござんしたね。ショ糖スクロースみたいな白い化学物質は身体に悪いから絶対禁止、って家庭で育ちましたもんでね。

 ばっかじゃないの、って今なら分かる。高分子化学で糖類のことは一通り学び、色が可視光の波長の違いに過ぎないことも知っているから。

 そうか。じゃあ、食べてもいいのか。

 私は、拳で涙をぬぐう。濡れた手の甲を地面に向けて、手のひらを彼女へまっすぐ差し出す。

「……グレープください」

 彼女は私の手のひらに、濃紫のソフトキャンディをポロポロと山積みになるまで載せてくれ、へたくそなウィンクなんかして見せる。

「ほっぺた落ちちゃうぜっ!」



   *



 落ちねえよ。ぜんぜん落ちねえ。

 初めて食べたメントスの味は、口に入れた瞬間「うわっ」ってうめいてしまうくらい奇妙に思えた。なんか舌がピリピリする感じ。そのくせ脳味噌が融けそうなほどの甘ったるさ。正直、美味いとは思わない。

 それでも私は、不思議と高揚していた。母から厳重に禁じられた食べ物を、こっそり他人からもらって食べてる。その行為自体に、お腹の下あたりからうずきが登ってくるような快感を覚えていたのだ。

 彼女は、大槻おおつきコモリといった。

 大槻おおつきさん――いや、本人の希望に従ってコモリさんと呼ぼう。コモリさんはあの後、橋を通りかかったタクシーを止め、私を誘ってくれた。

「行こ?」

「どこへ?」

「んー」

 唇に人差し指を当てて小考し、それからイタズラっ子みたいに笑う。

「ここじゃないとこ!」

 私はタクシーに乗った。

 車の中でコモリさんは異様なテンションでべらべらと喋り続けた。私が「はあ」「まあ」しか言わないのもお構いなしだ。ときには運転手さんも巻き込んで、ひっきりなしに騒ぐ騒ぐ。こないだ行ったユニバで台風に洗われてヤバかったこと。東京で見たガンシン……ケイ? とかいう人の書道がめちゃくちゃすごいってこと。友達の山下さんがウンコ漏らしたこと……きたねえな。しまいにはジェスチャーで山下さんの動きを再現するためにシートベルトを外してしまって運転手さんに怒られるしまつ。

「あ、そんでね、あたしコモリ。大槻おおつきコモリ」

 ついでみたいに自己紹介が挟まる。私は一瞬なんのことだか分からなかった。

「あ、どうも……」

「どうも?」

「お客さん、つきましたよ」

 タクシーが止まった。私は料金メーターを見て青ざめたのだが、コモリさんがこともなげに万札を出して支払ってくれる。

 降りた場所は、海岸沿いの工業地帯だった。

 コンクリートで厳重に護岸された波打ち際に、ふたりで並んで立つ。正面には穏やかにうねる海。向こう側に立ち並ぶ、キリンみたいな巨大クレーンの列。絡まり合う数百の蛇を思わせる工業プラントのパイプの前を、なにか得体のしれないものを満載したタンカーが横切っていく。

「うおー……」

 コモリさんは、ぐ、と音が鳴るほど固く拳を握りしめ、

「うおー!! かっけ―――――っ!!」

 海に向かって絶叫した。

「ね! ね! かっけーよね! あの煙突さあ、めっちゃくちゃたけー!!」

「よく分かんないです」

「分かんなくっていいよォ! 楽しいか楽しくないかじゃねー?

 うおー!! 湧くー!!」

 コモリさんは、いきなりコンクリート上にあぐらをかいた。スカートが汚れちゃう、なんて私のほうがあたふたしてしまう。でも彼女は全然気にしてない。ポケットからスマホを引っ張り出して、ものすごい勢いで何かを書き始めた。

 私は眉をひそめ、コモリさんの肩越しにそっと画面をのぞき見る。

 あ……これ、小説だ。

 この人、物語を書いてるんだ。

 人がストーリーを創っていく、その現場を私は生まれて初めてこの目で見た。突風めいた鼻息。軽やかに画面でタップを刻む指先。文字列は岩肌を流れ落ちる滝のように産み落とされて、みるみるうちに画面を埋めていく。とても読むのが追いつかない。信じられない、読むより書くほうが早いだなんて。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。気がつけばタンカーは遥か沖に遠ざかり、私はじっとしゃがんで、コモリさんの背中を見つめていた。

「っしゃ!!」

 気合一発、コモリさんの手が止まる。呼吸が荒い。ぜいぜい言ってる。私の方へ振り向いた彼女の顔は、火傷しそうなほどに上気している。

「書けたぁー……えへっ」

「……作家さん?」

「ん。まぁね。高校の頃からあ、いちお、プロのはしくれ?」

「すご。綿矢りさみたい」

「ぬははははは! あんな大物じゃねーよお! もっともっとこう、業界のすみっこーの! ちっちゃーい隙間ニッチェで! ね!」

「なんで私を連れてきたんですか」

「あー。ごめん、退屈だった?」

「そういうんじゃ……ないけど……」

「なんかねえ。ウチ、『うわー書けねー!』って思ったら、こーゆーとこんだよねえ。なんかいろいろ、見たことない風景とかあ。見てたり歩いてたりしたら、急にね、『うおー!! 書くー!!』ってなるの」

 にっぱ、と笑うコモリさんが、胸が高鳴るほどに美人すぎて、私は目を奪われる。

「なんかキミ、切羽せっぱまってたから。他人事ひとごとじゃねー、って思った。そんだけ」

「……ごめんなさい。せっかくだけど、効かないと思う。

 私……私、終わってるから」

「んじゃ始めよ?」

「なんすか簡単に! 他人事ひとごとだと思って! さっき会ったばかりのくせに! 何にも私のこと知らないくせに! あなたみたいに類稀たぐいまれな才能を持ってる一握りの異能者とは根本的に違う! 私には何にもない! 私は……私は!! 私の中にはなんの中身もない完全無価値な空っぽなんだ!!」

「だからよ」

 爆発してしまった私の鬱屈うっくつを、コモリさんは真正面から受けとめて、じっと私の瞳を見る。

「何もないってことは、何してもいいってことじゃん」

 私は言葉を失った。

 背後の道を、トラックが数台流れていく。遠く、どこか遠くから、汽笛が高く響いてくる。

 私は……

 私はコモリさんの隣に腰を下ろした。

四方よもつ……ましろ

「お?」

「この名前、好きじゃない。何もない真っ白みたいで」

「そっか。じゃあ……パイ

 パイちゃんってのはどう?」



   *



 そうして、私は“パイ”になった。

 誰でも良かったのかもしれない。心が完全に疲れ果ててた私は、誰に声をかけられても反射的にそこへすがりついてしまっていただろう。

 でもあの日、私が一番苦しんでいたまさにその時、私の心を救ってくれたのはコモリさんだけだった。

 彼女が私の“特別”になるのに、それ以上の理由は必要なかった。

 私はしばしば、学校や予備校をサボるようになった。

 サボり方のコツもコモリさんから教わった。サボるとまずい先生と、ゆるく流してくれる先生の見分け方。親向けと学校向けの言い訳の使い分け。そして必殺、「生理が辛くて」。コモリさんは「コレな!」って推してくるんだけど、私は正直どうかと思う。そういうの、あんまり悪用したくないんだけど……まあ効果があるのは確か。

「現役時代こんなことばっかしてたの?」

 私が呆れ顔で睨むと、コモリさんはぺろっと舌を出す。

「悪い子なんで!」

 それがかわいくって、責める気も失せる。私だって、その同類になろうとしてるんだしね。

 学校をサボって、私はひたすらコモリさんに会いに行った。彼女の家は学校近くのマンション7階。部屋の中はぐっちゃぐちゃ。あたり一面ゴミだらけ。

「ごめーん、ちょっと散らかってて」

「ちょっとじゃねーよ! こんなとこに客通すなよ!」

「あ、そっか。そういうもんかあー」

「ちゃんとしてよ、大人だろっ」

 ブツブツ言いながら掃除を始める私。何やってんの、コレ? なんで私、学校サボって他人ひとに来てまで掃除してんの? 冷静になるとなにか虚しいが、片付いたあとでコモリさんがれてくれる紅茶は楽しみだった。多趣味多才な彼女のあまたある特技のひとつ……冷蔵庫には数え切れないほどの多様な茶葉が保存されていて、訪ねるたびに違う香りのお茶を飲ませてくれるのだ。

 コモリさんの家はまるでオモチャ箱だった。

 メタルラックの上から下までぎっしり詰まった古今のゲーム機。ばかでかい有機ELゲーミングモニタ。本棚には漫画、小説、宗教、文化人類学、歴史に文学論に、私には何の分野の本なのかすらも分からんような専門書まで、何百冊もずらりと並ぶ。さらに本棚に入り切らない分がKindleに少なくとも2千冊。コピー用紙に描きかけのデッサンは紙くずと一緒に無造作に散らばり、家庭用防音シェルターの中にはギターと尺八が立て掛けてあり、宝石箱には手製のレジンアクセサリーが溢れ出るほどに詰め込まれてる。

 目移りするほどの宝の山。コモリさんは、「好きに触っていーよー」と気軽に私を受け入れてくれる。

 私は、ここで“暗殺教室”を読んだ。

 続きから、って思ってたんだけど、コモリさんは最初から読み返すことを勧めてくれた。10歳のときに読むのと今読むのでは、絶対感じ方が違うからって。本当だった。私の遠い記憶の中にある印象と、目の前の物語はまるで別物だった。かつて頼もしい完全無欠の大人としか見えなかった殺せんせーの、苦悩が今の私には見える。

「物の見え方ってさあ、変わるよね」

「そうかな」

「漫画もそうだしぃ……人とか。風景とかもそうよ。前に『つまんねー』って思ったことが、今は『すげー!』ってなったり。その逆とか」

「いつか好きになれるかなあ」

「なれるよ」

 コモリさんは、ソファの上にだらしなく寝そべりながら笑う。

「パイちゃんかわいいもん。好きになれるよ、自分のこと」

 やめろよ。そんな見つめ方するな。

 胸のうちを見透かされたことが、裸にかれたみたいに気恥ずかしくて、私の顔は、耐熱ガラスポットの紅茶にも負けないくらいに赤く染まってしまう。でも視線をそらすことができなかった。見られることが……心をのぞかれることが……なんだか嬉しい……いや、気持ちよく思えて、私はずっと、コモリさんの目を見つめ返していた。もっと見てくれと、もっと触れてくれと、彼女にはしたなくおねだりするかのように。



   *



「それってさ、好きってことじゃない?」

 もう少しで椅子から飛び上がるところだった。

 私の話じゃない。教室の、私の席の2つ隣で、クラスの女子が数人集まって話していたことだ。古今東西、途絶えたためしのない恋愛噂話。友達のいない私には縁がないが、すぐ近くでかわされる大声の内緒話は嫌でも耳に入ってくる。いわく、ゆきちゃんは鍋山くんが好きらしいよ、とか。片川が西野先生と付き合ってるってまじ? とか。

 そして今の議題はこうだ。「体育のとき事故で男子に着替え見られちゃったけど、嫌じゃない……むしろ、見てくれてもいいのに」

 分かんないなあ、その気持ちは。共感できない。男子に裸見られるとか、ほんとにおぞましい。寒気がする。裸ってのはそういうものだ。よほど尖った性癖の持ち主でもなければ、人に見られて気持ちいいはずはない。

 でも……それでも特定の誰かになら見られてもいい、見てほしい、と感じるなら……

「愛でしょそれ〜!」

 きゃたきゃた笑いながら教室を出ていくクラスメイトたち。そのふざけ合いが遠ざかるのを聞きながら、私は自分の机にかじりついて青ざめている。

 いや、いやいや。

 いやいやそんな、いやいやいやいや……



(つづく)

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