Episode2 姉
彼誰時はこの世とあの世の境目。
夜の時間とも陽の時間ともいえない明方。
奇妙なことが起きるそんな不思議な時間。
決して、一人で出歩いてはいけない。
影の国に住む寂しがり屋で少し心が壊れた魔物に襲われてしまうから。
☆☆☆
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ」
頼りなく灯る街灯の下を、少女が一人走っていた。
「さやか〜、さやか〜っ!」
少女の手にはうさぎのぬいぐるみが握られていた。閑静な住宅街の道路を右、左、前、後ろと様々な方向に視線を走らせる。
走るたびうさぎの耳が揺れた。だらんと生気を失ったかのように垂れ下がる耳が、無性にななの恐怖を掻き立てた。
みやもとなな。
高く結われた髪に留められたシュシュのチャームに、そう名前が彫られている。今はもういない母から貰ったななにとって大切な宝物だった。
「いったいどこにいったの?」
息を切らせななは道路の真ん中に立ち止まった。
ななはの妹――さやかは3日前にこの夕幻街に引っ越してきた。あの子はまだこの街のことをなにも知らない。どこに公園があって、おまわりさんがいて、自分たちの住んでいる家があるのか。なんにもわかっていない。
それにたださえ、この街は広いのだ。さやかよりかは長くこの街に住んでいるななでさえも、昼間とは違う顔をのぞかせている今この時間帯で、道を間違えないとは言えなかった。
「どうして、どうしてこうなるの……」
(どうしてわたしだけ。わたしだけがこんなにつらい目に合わなくちゃいけないの)
理不尽だ。
毎日、さやかのためにご飯を作って、お風呂に入れて、洗濯物だって畳んであげているというのに。何故、あの子はこんなにもななを困らせることをするのだろうか。
「さやかなんて、いなくなっちゃえばいいのに………ッ」
そうすればなながこんな思いを抱く必用もないのに。
直ぐ側にあった電柱に寄りかかり、ズルズルとよりかかり地面に座り込む。そして頭を抱えた。
あの子がいなくなってしまえばいいと思っているくせに、ななは今、必死になって妹を探している。矛盾だ。矛盾している。その矛盾になんとも言えないイラだちと、堪えきれないほどの不快感を感じた。
「はぁ……」
ななの脳裏には妹の泣いた顔が薄暗い感情とともに張り付いていた。
これからどうしたら良いのだろう。
うさぎのぬいぐるみを黒いアスファルトの上に置き、ぼうと眺める。ややくたびれたうさぎには妹の名前が刻まれていた。その刺繍に指を這わせる。細く拙い、でこぼことした糸の蛇行線をなぞっていく。
「ねぇ、わたしは
そして爪を立てるとズ、ズズ、とその糸を断ち切るかのように引っ掻いた。
✡✡✡
喧嘩の理由はほんの些細なことだった。
おねえちゃん、と呼ばれ振り向くと暗い表情をして妹がうつむいていた。どうしたの、といい視線だけを向ける。
「ようちえん、いきたくない」
何を言い出すかと思えば、そんなことだった。
ななの妹ーーさやかは来年、小学生になる。まだ幼稚園に通っているさやかは、いつもななの後ろに隠れてしまうような子だった。
「幼稚園に行きたくない……」
その言葉を聞いた時、まっさきに思ったのは焦りと困惑だった。どうやってなだめすかそうか。
(なにか、まちがえた?)
つまり、不登校にしてほしいと言っているのか。いや、幼稚園だから不登園とでも言うのか。どちらにしろななの
(そんなのごめんだ)
「うん。あのね、おねえちゃん――」
「……さやか、なにいっているの?」
言葉を遮り、戸惑った笑いをななは浮かべる。
「……え?」
夕暮れ時のキッチンは、小窓から差し込む光のせいで暗く影を伸ばしていた。ななとさやかの影もゆっくりゆっくりと伸びていく。
こころなしか、ななの影の方が色が濃いような気がした。
「さやか、幼稚園は行かなくちゃいけないんだよ。みんな行ってるでしょ?さやかだけが休むって……。ズル休みじゃない?」
薄ら笑いを浮かべる。ドクドクと心臓が脈打った。なにをわがまま言っているのか。そう言える妹が信じられなく、なにか別の生き物を見ているように感じた。
さやかは驚いた顔をしおどおどする。そんなこと言われると思ってもみなかったのだろう。きっと、さやかは優しい姉が、寄り添った言葉をかけてくれると思っていたはずだ。
だが、このときのななは違かった。ひどく冷たい目で、理解できないというような目でさやかを見下ろしていた。
「ねぇ、さやか。わかるよね?わかってくれるよね?」
優しく、それ以外の答えなど許さないようにさやかはいった。だが、妹は激しく首を振った。その様子に、仮面が落ちる音がした。
「……わたしだって、休みたいんだよ」
その反応に絶望した。
さやかから目を離し、窓の向こうへ視線を移す。さやかは顔を上げ、うかがうような視線が向けられる。
「……のせいだ」
今まで被ってきた『優しい姉の仮面』が外れ割れる音がした。
「全部さやかのせいだよっ!……お母さんが帰ってこないのも、お父さんが毎日遅いのも……全部」
母はさやかのせいで帰ってこなくなった。仕事が忙しい父は夜遅くに帰ってくる。朝早く、空が色づき朝鳥が夜明けを告げる頃には家を出てしまうようになった。顔を合わせることなんてほとんどない。
母がいなくなり、さやかが生まれ、父は変わってしまった。
「さやかのせい……」
舌っ足らずで消え入りそうな声でさやかは繰り返した。その顔は困惑に染められていた。
気にせずななは続ける。
「わたしが毎日友達とも遊びに行けないで、こうしてさやかの面倒を見て、お皿を洗って、料理して……どうしてわたしだけ」
気にしないようにと。考えないようにと。気づかないようにと思っていたことだった。
小学校のクラスメイトは毎日楽しく外で遊んでいるのに。ななはこの広く静かで、色のない部屋で、妹の面倒をみている。
みんなを羨んでも、仕方のないことだということは、わかっている。
クラスの女の子のようなふわふわでかわいいお洋服も、心弾むようなお弁当も、丁寧に結われた髪型も。望んだって手に入らないことぐらい、わかっている。
(でも、それでも!わたしは……ッ)
そのとき、ふと気がついた。
「そうだ、そうだよ」
独り言のようにななは言った。どうして、いままで気づかなかったのだろう。解けない算数の問題が解けたときの歓喜に震える自分がいた。
この不幸の原因がようやく解けた。
「ぜんぶさやかのせいなんだよ……ッッ!!」
この子がいるからいけないんだ。そう悟った瞬間爆発的な怒りがななの中から湧いて発せられた。
「……さやかなんか、さやかなんか……ッッ!生まれてこなければよかったんだよ……!」
感情的にぶちまける。
「……そうだよ。さやかがいるからわるいんだよ。さやかが生まれてこなかっったら、わたしの妹にならなかったら、わたしはお父さんとおかあさんといっしょに……」
昔の温かい、幸せでありふれた家族でいられた。
すると、ななの怒鳴り声に驚いたのか、言葉の意味に傷ついたのか、さやかが顔を歪ませて泣き始めた。
「〜〜〜ッ……ヒック……ぅう〜〜」
「……ねぇ、泣かないでよ」
(わたしが悪者みたいじゃない)
「……ぅぅ、ぅあ〜〜ん、ッくぅ……ぇーん」
耳障りな泣き声が頭を締め付ける。ななは頭を振った。
(うるさい。うるさい、うるさい、うるさいッッ!)
「おねえちゃんじゃない……」
「……ッ!」
この子が一体ななになにをしてくれたのか。お皿洗いも、洗濯物も、掃除も、やってあげているのはななだ。家のことを一切手伝わないで。感謝もしないで。なにが、姉じゃないだ。
(ふざけないでよ……ッ)
どれだけ、ななを馬鹿にすれば気が済むのか。いいや、きっとこの子はななのことを馬鹿になどしていない。純粋にそう感じたのだろう。
さやかは本当のななのことを理解してくれなかった。それが悲しかった。受け入れてもらえない悲しみは怒りへと姿を変える。
「……泣けばいいって、泣いたら誰かが慰めてくれるって、思ってるの?……いいよね、さやかは。そうすれば、みーんな!……あんたをかばってくれる」
泣けばどうにかなると思っているこの子が嫌いだった。泣いたら誰かが優しい言葉をかけてくれる。そんな環境にいるさやかが、ななはたまらなく羨ましい。そして許せなかった。
『さやかちゃんはお母様がいらっしゃらないから、大変ねぇ』
『そうね、可愛そうだわ。さやかちゃん、気にしちゃだめよ』
『ななちゃんがしっかりしなくちゃね、お姉ちゃんなんだから』
「わたしだって辛いんだよッ!苦しんだよ……、寂しいんだよ」
言葉が止まらなかった。今まためこんできた黒いドロドロとした感情が垂れ流れる。ぐっと唇を噛み、きっとさやかを睨みつけると、ななはさやかに言い放った。
「さやかなんてどっか行っちゃえ!いつもいつも自分のことばかり、わたしの気持ちなんて考えないで。……もう顔も見たくない!」
このあとさやかは家を飛び出した。家に残ったのはドス黒い残響だけだった。
黄昏の願い 夕幻吹雪 @10kukuruka31
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