0-3
私の腕の中で、一人の子供が眠っている。艷やかな髪。歳は今日で二歳。最近では、「これ、なあに?」なんて、訊いてきて、可愛らしい他ない。
名前は小葉。私よりもか弱く、女の子らしく生きてほしい。
寝息の音を立てスヤスヤと眠っている。
縁側に腰を掛け木漏れ日を感じ、遠くをそっと眺めた。ここは岐阜の山。濃尾平野や三川が穏やかに過ごす様子がよく分かる。船乗りは人を運び、川の港は商人で繁盛した。
尾張は、随分と復興した。海や川の港を中心に建物が増えていく。あの事件から五年立つ。完全には復興はしてはいないけれど、元の活気は戻りそう。
この五年で多くの事があった。何もしてないのに、この子を授かったり。好きな人が蒸発したり。
五年前、私が家に帰ったら、村民のみんなは明るく迎えてくれた。だけど、私の寒天のような傷口を見て、悟ったのだろう。明るさは一瞬にして心配に変わった。
男勝りな私だから、心配された事に戸惑いながらも受け入れ、笑みを浮かべた。
でもあの人の姿がない。村での唯一の友達。私は歓喜の
彼は寂しそうな様子で食事に使う座椅子に腰を掛けていた。異様にちゃぶ台の一点を見つめ、微動だにしない。近くに丸い染み。
「行ってほしくなかった」
彼は、寂しくそう呟く。
男は泣いている。泣き声こそ上げないものの、その容貌は潤んだ涙そのものだった。悲しさが強く結びついている。そう咄嗟に感じる。
私は、染みを拭き取りながら畳を這い、彼に近づき、抱きつく。人の温もりと、冷ややかな緊張。好きな人に首を絞められているよう。
「私は帰ってきたよ」
彼は、女性特有の妖素こそ持っていないけど、その未来を予知する能力は長けていた。恐らく、私が危ない目にあるのだろうと、知っていて止めたのだと思う。でも、彼は私が行かない方の惨事も見えて、私をいつもより強く止めなかった。
「腕」
涙の音と同時に彼は震える。
「海月」
彼の肩から力が抜けた。
「空を覆う」
カタカタと歯の打つかる音が聞こえる。
「崩れた鯨」
回した腕に脂汗が垂れた。
「神が来る」
湿気った空は、笑ったようだった。
濡れた畳は、呆れたようにため息をつく。
人二人は、温かさを分け合っている。
「大丈夫」
根拠はないけれど、なんとなくそう感じる。
声は虚しく抜けていくように、部屋に響いた。余韻など無い。ただ夜のような寒気と静けさ。
葉の擦れる音。輪郭の消えた木漏れ日。風が吹く。森の匂いがする。
鳥が鳴いた。烏が泣いた。
ただ、人が消えたような空間。悲しむ時など流れないように。
ただ、時が止まったように。
ただ、眠りについたように。
ただ、変わらず存在するように。
只管に、深海に沈む樹木のように。
私達は、溶け切ったのかもしれない。
その後の記憶はない。
目が覚めたのは、自分の布団の中。以後、彼は姿を完全に消した。姿を消しただけでは済まない。彼の家や存在した形跡すらも始めから無かったように。
それに、左薬指が消えていた。傷口は右腕的同様、薄く緑に色付いたわらび餅のようになっている。左足付け根。まるで切り落とされたかのように、赤く充血した皮膚が一周、線となり覆っていた。お腹には殴られたかのような赤紫色の打撲痕。
少し肉の乗ったお腹に、痛々しく浮かぶ傷。内出血を起こしているようで、赤い斑点が映っている。触れると後に引かない鈍い痛み。おそらく出来て暫くも経っていないのだと思う。
記憶は靄を纏って、上手く思い出せない。意図的に思い出させないようにしているようにも感じる。
「一人で生きられないようにしてやる」
そんな言葉が脳を泳ぐ。同時に寒い程の寝汗をかいていた事に気付いた。
首を傾げる。同時に魚が脈打つ。頭を打ったかのような、酷く残る視界の残像。喉は開き反対に胃は収縮する。顎を津たり落ちていく汗。震える手。
魚が水を蹴る。水面のように脳が潰される。
声になら無い嗚咽を繰り返す。体に膿が溜まっているよう。
頑張って息を繰り返す。それなのに苦しくなっていく。
蛇は微笑んだ。
蛇は笑い声を上げる。
蛇は嘲笑する。
蛇は苦笑する。
何が言いたいの?
蛇は自分の尾を呑む。輪廻。廻り廻る。鍵をするように蛇は、尾を自切し、呑みきった。
頭の魚は姿を消していた。胸が撫で下ろせる程に、息が整っていく。
「これ、なあに?」
そんな声で我に返る。
小葉の掌。丸い涙が光を反射している。
「涙って言うかな」
小葉は不思議そうな目で私を見る。それは緊張する程に真っ直ぐな瞳。
「かなしいの?」
吸い込まれていきそうな目が少し潤んでいるように見える。
「そうかな」
私は苦笑いを浮かべて答える。
狐の姿が見えた気がした。
「こは、まもる! おかあさんのこと!」
○✕□そしてニコッ△ 生焼け海鵜 @gazou_umiu
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