0-2

 遠くから水の落ちる音が聞こえる。静かな水面を揺らす一つの雫。

 使い過ぎると、こうなってしまうから。私は術を、使いたくなかった。


 死ぬのかな。私。


 特に右腕、水膨れのように膨らみ、蛆の這うような感覚がする。食い千切られる。細々と繋がりを切られる。


 目を開く。明るい空が視界に飛び込んでくる。ただ淡々と。でも終わりと思えば悪くない日だと。そう思う。

 笑える。自ら名古屋に来て骨を埋めるうずめる。村で襲いに来た謎だけを倒して、穏やかに過ごす事も出来るはず。


 どんな正義感で、どんな義務感で。どんな価値観で。私の価値を測る天秤は、どんな器をしているのだろうか?


 大きく、多くの足音がかなり遠くから聞こえる。日本軍だろうか。でも今となっては、どうでもいいかな。


 右腕を上げる。天に手を翳し、空を仰ぐ。透明で拳程の水膨れが無数にある腕。手首の水膨れが弾けたと思えば、顔に手が落ちる。読書のようだ。仰向けで読んでいた本。それが落ちてきたような感覚。なんだか清々しい。


 笑みが漏れる。


 悪い事はしていない。それには胸を張れる。


 お腹を抱えて笑い声を上げる。


 生きているなら家に帰ろう。仲間が待ってる。


 只管に、食らって働いて生きる。りょくえん様は愚かだと言うかもしれない。心を馳せ心を病ませ。元気かもしれないし、元気じゃないかもしれない。ただ、それでも生きてみたい世界を作ってみたいし、生きてみたい。

「祝詞、豊かな春の一輪に、彩る鳥の囀りと私の願う夢未来ものがたり。旅立つ花に祝福を」


 数刻経った。解け切った腕はその傷口こそ透明な皮膚になっているけれど、体は別になんともなかった。

 雨雪は占師団に回収されていった。その時、腕の様態に驚いた団員が「大丈夫ですか?」と声を掛けられたけど、「大丈夫」とことわった。


 多分お昼時だろう。日が天高く登っていた。異様に軽くなった身を起こし揺れる足取りで北に歩いていく。歩きにくいのは当然の事。だって腕がないのだから。

 タラタラと溶けた腕を垂らしながら、息を整える。


「呪文、流れる水の轟に、押して超えよこの我が心。青蛇」

 

 疾走と視界が流れていく。早く家に着きそう。でもまだ空には、海月の姿があった。だけどその数はかなり減っていて事の終わりを告げている。

 問題ない。


 地平線の隅々まで赤い亡骸で覆われたこの平野。腐肉になりつつある人達は泡を吹きながらぐちゃぐちゃに散らばっている。鉄の匂いや、酸の匂い。糞尿や臓器の香り。ある意味、人間の匂いの漂った世界から足を洗う。黒く変色した血液。その中に占師のものだろう砂金を散りばめた煌めく血肉が混じっているけれど、こうなっている以上、助けてあげられない。

 群生している廃墟に、人っ子一人分の生気など感じられなかった。ある家の玄関口、酸によって侵された臓器を吐き捨てた子供。臓器と同じ場所に倒れている。要らない物を吐き捨てたはずなのに、自身も同じ要らない物になる気持ち。想像しようにも、想像しかねる。風が吹いた。形を保ってはいるが、お腹が異様に膨れた人間。風は慈悲を浴びせるようにその体を優しく撫でる。

 犬山は、多少の惨劇があったらしく、その最南部の道に肉塊が斑に見えた。妖像の残骸や人の残骸。残骸といったけれど、妖像にはまだ息があった。ピクピクと身震いを起こし必死に息を吸っている。瀕死といった状態だろうか。どちらにせよ私はそれを破壊する。妖素の塊であるそれを食した生物は、少なからず謎化が防げない。

 電通の音がする。モールス信号といったか。音の有無で言葉を伝える言葉。

 ふと、今朝出会った町民が物陰から顔を出したかと思えば目が合った。驚いた様子の町民は腕を広げ私を止める。

「何をしてたのですか?」

 そんな問だった。


「謎を倒しに」

「妻と息子が死にました」

 町民は食い気味に、そう告げる


「それは、ごめんなさい。守れなくて」


「謝るべきではないです。ですがわたくしとした事で、少し憎んでしまいました」


「...」


「なんででしょうか、人という物は。知っているのです。大勢を救う大役を成し得た貴女が役の立つ場所へ行ってしまうのは、重々承知なのです。ですが、妬ましいです。憎いです。何故、そこまで強大な力を持ってしても、犠牲を出すのですか? 私には理解出来ません。私も人を沢山救いました。死ぬ思いで指示を出し、時には応戦もしました。そのおかげでこれだけの犠牲で済んでいます。私の力不足で家族が殺され、身内も十分に守れない。貴女の力が欲しい。計り知れない大きさの力、なんて妬ましい。でも私には貴女が完全に行使していないように見えてしまう。憎いです」


 その言葉は、湧き水のように溢れ出てくる。水銀のように重く冷たいそんな言葉は、静かな怒りと大きな不満を抱えている。

 鉄球を投げられた気分だ。


「休んだほうが良いよ」

 自分の声は震えていた。


「...そうですね。ありがとうございます」


 トボトボと歩いていく町民。

 私は、悪い事はしていない。そう思う。思いたい。

 その後ろ姿に生気等無く、ただ深い影が差し込んでいた。深い深い影。差し伸べた手すらも黒に染めてしまう。そんな黒い影。

 私は良い行いをしたのだろうか。来た事で希望を与えてしまったのではないか。そう思ってしまう。私は、何をしたのだろうか。


 揺らいだら駄目だとは知っている。でも、いざ目の前で助けられなかった命を嘆く人が居るならば自分の非力さや判断力の無さを簡単に呪える。術を使えば四肢が消える事は知っていた。だから使いたく無かった。でもこういった人が居るからと言えど、自分が死ぬ前提で術を使い、人を守る程に私もお人好しじゃない。私だって死にたくないんだ。


 ふと、上空の妖像が完全に解除された事に気付いた。もう謎は居ないということ。


 私はまだ十八。他の人と同く結婚して子を産み、育て見送る。そんな特別では無いけれど、変哲のない幸せ。そんな願っても私は特別。


 私は弱者のために死ななければならないの?


 初めて、自分の過ちを知れたのかもしれない。悪い事ではない。ただ行き過ぎた自由と、行き過ぎた力のバランスを誤っただけ。


 うん。そう信じよう。

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