武蔵野マイノリティ

香アレ子

第1話

「男子学生は君だけだけど、大丈夫?」

 教授に訊ねられた時、なぜ自分はもっと深く考えなかったのか。

 女子大に新設された大学院博士課程、そこに憧れの大林教授が赴任されると知り、来年修士課程を修了する予定だった僕は、意気揚々と願書を提出した。

 難関国立大の後期課程への転入は熾烈な競争だが、有名とは言え私立女子大の新設大学院、語学も英語のみと、地方国立大学院の僕にも手が届いた。

 満足のいく出来だった筆記試験を終え、午後から教授の面接を受けた。

 研究会で何度か顔を合わせたことのある教授は、僕の顔を見るなりニヤリと笑った。

「まさか本当に来るとはねぇ」

 基礎物理学の権威である教授に師事できるなら、多少の事は気にしない。たとえ周囲が女性だらけでも、教授だって男性だ。だから、大丈夫かと言われたときには、もちろんですと即答した。

「まぁ、来るなら歓迎するよ」

 その言葉通り、僕は合格通を受け取った。受験人数が多くないので、面接時には筆記試験の採点がある程度完了していたのだろう。

 東京23区の西の外れに茨城の自宅から通うには遠すぎて、キャンパスの近くに部屋を借りた。

 長年多くの女子大生を受け入れてきたという大家は、僕の合格証書を何度も見ては、ほぉと驚きの声をあげていたが、素朴そうだしいいかと言って、学生価格で部屋を貸してくれた。6畳1間にキッチンと風呂、トイレが付いて5万円。この辺りでは破格だ。

「大変だと思うけど、がんばりなよ」

 何が大変なのか分かっていなかった僕は、入居日、そう言って隣の自宅へ帰っていく大家に、ありがとうございましたと明るく手を振った。

 風に吹かれて、周辺の木がさわさわと揺れる。都会の中に森の香りがする武蔵野の街は、静かに僕を迎え入れた。


 入学式、僕は複数のささやき声に囲まれていた。ひそひそと交わされる言葉。男性、共学といったフレーズが断片的に聞こえてくる。大学院の入学式、博士課程の人数は少ないので一番前だ。これも良くなかったのだろう。周囲からよく見える。性転換というワードも聞こえた。違う、生まれたときから男だ。

 横並びにいるはずの女学生たちも、少し遠巻きにしている気がする。いや、席の幅は一緒のはずだから、あくまでも気分の問題だろう。圧倒的なアウェー感。視線が痛い物だと初めて知った。女子大に現れた最初の男子学生、今後も大学の共学化は考えていないそうだから、最後になるかもしれない。僕はそれを甘く見ていたらしい。

 子どもの頃から、僕は少し変わっていた。周囲の子がそういうものかと納得することも、僕には疑問の塊だった。分からないことを何度も訊く僕を、多くの大人は疎んじた。それは両親も同じで、僕と気軽に接した初めての大人は、中学の理科の教師だった。中高一貫校で、高校では物理の教師になったその人は、僕のたくさんの疑問に一つずつ答えた。

「それは知らないなぁ。調べて教えてよ」

 気取らない彼は、知らないことは知らないと素直に答えた。それが、とにかく新鮮だった。

「世の中には、まだ分からないことがたくさんある。物理はその分からないことを推測して、証明するためにある」

 彼にとって、分からないことがあるのは当たり前のことだった。

 僕は物理にのめり込んだ。ノートの上で、空にある星の軌道が分かる。ロケットが地球を飛び出すために必要な早さも分かるし、校舎の窓から投げたボールが何秒後に落下するかも分かる。一つのノートから世界が広がることが、面白くて仕方なかった。

 どんな時でもノートを離さず数式ばかり書いている僕は、友達からも変わった奴として扱われた。僕の友達はノートと数字だけで良いと本気で思っていたし、それで困ったことは無かった。だから気づかなかった。放っておいて貰えることが、どんなに恵まれていたかを。

 人が変わるたびに守衛には止められ、廊下を歩けば首をかしげられる。職員に間違われることも多い。なにより、視線を感じるのだ。入学式以来、僕は視線が怖くてたまらなかった。

 人の考えることは、数式では分からない。いつかは分かるようになるのかもしれないけれど、それは僕が生きている間には難しいと思う。そんな不合理なものに、興味が持てないのだと信じていた。けれど、僕は怖かったのかもしれない。得体の知れないものが。よく分からないものが。世の中は、分からないことだらけのはずなのに。

 視線を避け、フードをかぶった。ぶかぶかのパーカーを着て歩くと、男性だと分かりにくくなる。生まれて初めて、他人からの目を意識した。


「今夜9時、研究室においで」

 ゼミで教授に言われた。理由を訊いたが、お楽しみとしか言われなかった。春休みから始めた家庭教師のアルバイトは、ゼミのある日には入れていなかったので、僕は図書館で課題の整理をしながら時間になるのを待った。

 大学院生には院生室が用意されているが、女学生ばかりのその空間に自分はあまりにも場違いで、早々に大学図書館を自習の場に定めていた。幸いなことに、ノートさえあれば考えはまとめられる。本の香りが漂う図書館地下の机は、静かで他に人もおらず、落ち着ける場所だった。

 図書館司書にも最初は驚かれた。学生証を矯めつ眇めつ眺められてから、おもむろに頑張ってねと言われた。面接の際に教授から言われた頑張れと同じニュアンスを感じた。的確に資料を探し出す彼女は、それ以来僕を見ても何も言わず、注目もしない。かと言って、すれ違えば軽く会釈してくれる。図書館を居場所に決めたのは、彼女の存在も大きい。気にしないで貰えるのが、とにかく嬉しかった。

 約束の10分前に図書館を出た。カウンターにいつもの司書はおらず、男性司書が一人で返却図書を整理していた。大学図書館は夜10時まで、夜間の担当はまた別なのだろう。

 教授の研究室に着くと、教授が扉の前に立って手招きしていた。教授に付いていくと、階段をずんずん上っていく。上がりきった先の小さな扉を開くと、そこは屋上だった。広い研究棟に不似合いな小さな屋上、エレベータの機械室がある棟屋を管理するためだけにある、小さな空間らしい。大学の木々が周辺を暗く覆っていた。

 屋上の中央に据えられていたのは、望遠鏡。太陽系の惑星程度であれば、よく見えるだろう。

「土星は今の時期どこだろうね」

 軌道を思い浮かべ、空を指す。

「あのあたりじゃないですか? この時期は大して明るく無いですし。あ~、あれかもしれませんね」

 他の星と大して変わらない光を指した。太陽との位置関係によって、惑星は見え方が変わる。今日はあまり明るく無いはずだ。

 それにしても、驚いた。東京なのに、ここは星が多い。

「よく見えるだろう? 住宅街が多いからな、9時を過ぎると、急に暗くなるんだ。周りも森だしね。上ってみたら、すっかりハマってる」

 顔はよく見えないが、嬉しそうに笑っている気がする。物理学者は星好きが多い。教授も例に漏れず、天体観測が趣味らしい。僕も、星を見るのは嫌いじゃ無い。

「ただし、正門が23時で閉まる。守衛はいるから出られるが、いい顔されないから気をつけたほうがいい」

 大学の門が閉まると言われ、驚いた。なんとなく、大学は24時間開いている気がしていた。理系学生は、夜間も通して実験を行うことが多いのだ。

「文系が中心の大学だからねぇ。夜間の実験をするような学科は無いしね」

「そう、ですか」

 自分がなんとも場違いなところに来てしまった気がする。この人がいなければ、この大学に足を踏み入れることは無かっただろう。なんとも不思議な縁だ。

 輪の見えない小さな光を、望遠鏡を使わずにぼんやりと眺めた。

「最初はさ、どの星がどこにあるなんて分からなかっただろう? でも、今はすぐに分かる。慣れだよ。何事もそういうものさ。自分は慣れないかもしれないが、他人が慣れるのは意外と早い。そのうち見慣れて、気にされなくなるさ。見づらい時期の土星が誰にも見つからないように」

 教授が朗らかに笑った。僕がすっかり参っていたのに気づいていたらしい。

「肉眼で見たら他と同じ小さな光なのに、望遠鏡で見れば美しい輪が見える。今はちょっと珍しいだけ。そのうち他の光と大して変わらないって気づくさ」

 そうかもしれない。珍しがられているのは分かっている。いつかは、他の星と同じだと気づいてくれるかもしれない。

 それでも、僕は知っている。土星に美しい輪があることを。見えてしまったものを、忘れることができるだろうか。

「それに、私にとって土星の魅力は従えている衛星だ。あんなに多種多様の星を従えて、面白くて仕方ない。それも土星の魅力だろう? 輪は土星の一面でしか無い。輪が消えることだってあるしね」

 僕にも、他の魅力があるだろうか。

「僕にも見せていただけますか」

 覗き込むと、土星は中央にあった。今日も綺麗な輪がある。大きな望遠鏡ではないため衛星は見えなかったが、十分だ。輪の中にも、それ以外の場所にも、土星の衛星は散らばっている。見えなくても、僕は知っている。

「ありがとうございます」

 明日から、少しだけ強く生きられる気がした。風が吹き、武蔵野の森がざわめく。その音をもっと聞きたくて、僕はかぶっていたフードを取った。

 僕はこの場所にあり続ける。少なくとも3年は。

 明日は声を出してあの司書に挨拶してみようか。

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