視線

Jack Torrance

視線

内向的で口下手。


社交性に乏しく対人関係にいつもストレスを抱えている。


彼女が陽気か陰気かは常に霞が掛かったような表情から一目瞭然だ。


外見からも着ている服は地味でひと昔前のファッションセンス。


女性は人からよく見られたいとメイクやファッションには頓着するものだが彼女は美的センスにも拘りが無かった。


実年齢38歳にも拘わらず彼女は50歳くらいに見間違われる事が多々あった。


リンダ マックスウェル。


彼女は3ヶ月前に2年連れ添ったテリーと離婚して実家に戻って来ていた。


言うまでも無く社交上手ではない内向的なリンダが恋愛結婚などとは縁遠くリンダの父ジョーゼフの知人の息子との見合い結婚だった。


その見合いに現れたのがテリーだった。


だが、この見合い結婚もリンダが望んで執り行われたものでは無く後に別れる事になってもリンダに非は無かった。


そもそもテリーはリンダよりも18も年上だった。


ジェネレーションギャップ云々と言うよりも他人に気を遣って生きる生活がリンダには耐え難かった。


「お父さん、あたし結婚したくないわ。そもそも、あたし結婚には向いてないと思うの」


リンダは縋るように父に訴えた。


ジョーゼフは父の威厳を遺憾なく発揮しつつ娘を説き伏せた。


「そんな事を言ってお前は一生一人で暮らすつもりなのか?自然の摂理から言ってみれば俺や母さんが先に逝くのが自明の理と言うもんだ。まあ、こればっかりは、そう願っていても神の思し召しだがな。だがな、俺はこう思うんだ。子供が出来て親になれば、お前の人生観もきっと変わる。結婚は良いものさ。俺と母さんを見てみろ。俺と母さんが黄泉にに旅立ってもお前には子供という生き甲斐が残るんだ」


このジョーゼフの発言は愛する一人娘のリンダの事を思って言ったものではあるが自分も孫の顔が生きてる間に拝みたいという願望も含まれていた。


反発するリンダを宥めすかし半ば強制的に政略結婚のように式は執り行われた。


リンダは耐えに耐えた。


結婚、それ即ち人生の墓場。


抑圧、束縛、強要、誇示、支配。


相手よりも上に立ちたいという感情が人と言う名のマスクを被ったモンスターには早かれ遅かれ表面化する物である。


人は人と多くの時間を長く過ごすと相手の嫌な一面がスクリーンに映された映像のように徐々に浮かび上がって来る物である。


その映像は最初の内は判然としないぼんやりとした映像だが時が経つに連れ隠し絵がくっきりと浮かび上がって来るようにはっきりとした映像へと移り変わっていく。


夫への欺瞞は侮蔑となり憎悪は膨張していく。


そして、リンダは家に戻った。


ジョーゼフは、そんな娘を非難した。


それは、知人の手前、自分の顔に泥を塗られたという恥辱の思いと至らぬ娘を持ったという不甲斐なさが相乗し積もり積もった積年が爆発したものであった。


「そもそも、お前に我慢、忍耐力、相手を尊重する気持ちが欠けているから離婚という結論に達したんだ。俺はお前をそんな風に育てた覚えはない」


激しく叱責する父にリンダは目を伏せ耐え忍ぶだけだった。


父の逆鱗に触れ何も言い返せなかったリンダとジョーゼフとの間に溝が生まれ確執は深まっていった。


そんな娘と父の愛憎関係を取り成すのに母のマーサは気苦労していた。


傍から見れば静かな日常を送っているように見えるマックスウェル家だが水面下では何時噴火するか解らない海底火山のように家庭内不和は進行していた。


リンダはコーヒーを自分で淹れバターを薄く塗ったトーストを1枚焼いて簡単な朝食を済ますと郊外にある職場に向かう。


朝は苦手だ。


一日の始まり、それ即ち職場への強制出勤。


手枷足枷は付けられてはいないものの自分の意思に反した行動を強要されると思ってしまうからだ。


入った当初は仕事の内容に不満がある訳ではなかった。


だが、今は事情は違ってきている。


バス停まで約800m。


近所の奥方達がダストボックスにゴミを出して立ち話に精を出している。


朝早くから別にどうでもいい隣人と何を話す事があるんだろう。


リンダは新種の生物でも発見したかのようにどぎまぎしながら奥方達の前を通り抜ける。


小声で「おはようございます」と早口で言い一仕事を終えた空き巣のように小走りで立ち去る。


背後から小声で喋る奥方達の声がミイラのように追いかけて来る。


「あれ見て。マックスウェルさんとこの娘のリンダよ」


「あの娘、いつも地味な服装で若若しさが無いわよね」


「そうそう、それに挨拶しても小さな声で挨拶を返して小走りで立ち去って行くのよ。何だか感じ悪いったらありゃしないわよね」


「そんな娘だから結婚しても、たった2年で出戻って来たんじゃないの」


「もうちょっと溌剌とした娘だったら再婚も出来るかも知れないけどあの様子じゃ無理ね、アハハハハハ」


「あなた、シッ。笑い声が大きいわよ。聞こえちゃうじゃないの」


リンダは言われも無い誹謗の的となり顔を赤面させながらいつも小走りでバス停に向かっていた。


あたしがあのおばさん達に何か害を加えた?


何故、あたしの自尊心を踏み躙るような事が平気で言えるの?


だから、あたしは誰とも関わりたくないの。


無人島で一人、ロビンソン クルーソーのように暮らせたら、あたしのストレスがどれだけ激減するのだろうか。


そんな思いに駆られながらリンダはバス停で耐え忍んでいた。


程なくするとバスが南方からディーゼル音を弾ませながらやって来た。


そそくさと乗り込むとバスの一番後方の座席の窓際に座る。


この席がリンダの指定席だ。


ここなら誰の視線も浴びないで済むから。


わざわざ振り返って後部座席の人間を観察する乗客なんていない。


バスがゆっくりと走り出し窓の外の景色に視線を移していると10分、15分と時間が経過するに連れ殺風景な外観へと変わっていく。


幹線道路の脇に佇む商店やダイナー、それに自動車の修理工場や小さな印刷工場などがポツンポツンと距離を空けてひっそりと営んでいる。


バスに揺られる事45分。


職場の最寄りのバス停に到着した。


バスの運転手はいつもの中老のおじさんだ。


純白の糊を利かせたYシャツにダークグレーのスラックス。


半白になった頭髪は、いつもクルーカットでさっぱりと整えられている。


降車の際には白い歯を覗かせていつも笑顔で「今日も一日、頑張って」と声を掛けてくれる。


「あ、ありがとうございます」


人からやさしくされる事に慣れてないリンダは飛び降りるように慌ただしくバスを降りる。


バス停から歩いて8分。


家を出た時と比べて少し日差しの照りつけもきつくなり首筋に汗を垂らしながら職場に着く。


家を出て通勤に要した時間は約1時間。


職場の門にある防犯カメラが不法侵入者を監視している。


防犯上、仕方ないのかも知れないが誰かに見られているという意識がリンダを萎縮させてしまう。


タイムカードを押して更衣室に向かう。


ここでも他の女子社員からの視線が気になるので一番奥のあまり目に付きにくいロッカーを上司に頼んで割り当ててもらった。


そそくさと作業服に着替えて作業場に向かうリンダ。


リンダの職場はマネキン製造工場でリンダの仕事は最終過程のマネキンの検品作業だ。


このマネキン製造工場に勤め出した理由は単純だった。


人と関わる仕事ではなく、何の感情も持たない人の形をしたマネキンをただ黙黙と検品するだけだからだ。


マネキンの表面に傷が無いか。


凹みや破損、成型に問題が無いか。


マネキンに吹き付けた塗料にむらが無いか。


そのような検査項目をチェックして梱包作業に回していくというものだった。


このマネキン製造工場に勤めだして早二ヶ月。


勤め出した当初は別に苦に感じなかった。


だが、今はこの仕事を辞めようかとも思っている。


一日に何百体というマネキンがベルトコンベアーに乗って運ばれて来る。


何百、何千という亡霊のような生気の無いマネキンの視線。


マネキンは人では無いと理解はしているものの見られているという先入観が頭の片隅から拭い切れずマネキンの視線までもが気になるようになり出した。


マネキンの顔の表情は笑っているようにみえるが、その生気の無い目から放たれる嘲笑みも似たような人を蔑んだ視線。


見られている。


あたしがこのマネキンを品定めしているんじゃなくて、このマネキンどもがあたしを監視して冷ややかな視線であたしを品定めしているんだわ。


リンダは対人関係に極度なストレスを感じ人間不信に陥り、もはや一人のサイコと化していた。


マネキンどもの侮蔑とも取れる視線に耐え忍び朝の作業を終える。


12時。


昼休みの時報が鳴り、リンダは社員食堂に向かう。


極度の空腹感がリンダを襲う。


リンダは朝食を軽く済ませているので昼食は二人前平らげる。


カレーライスの大盛りとミートスパゲッティの食券を自動販売機で購入し賄いのおばさんに渡す。


「カレーライスの大盛りとミートスパゲッティだね」


賄いのおばさんにとっては確認作業なのかも知れないが大きな声で言わなくてもいいじゃないのとリンダは後ろに並んでいる社員達の視線が気になってしまう。


仲の良い社員同士でグループになって和気藹々と昼食を楽しむ人達。


リンダは注文した品をカウンターで受け取り一人窓際の目立たない席に座っていつも食べている。


ここなら壁が死角になっていて目立たないから。


二週間前くらいに入社した男とリンダより半年前くらいから働いている女の社内恋愛をしている若いカップルがリンダから7mくらい離れた席に座った。


こそこそと話している声がリンダにも聞こえてくる。


意地の悪そうな男の方が言った。


「あのおばさん、また今日も一人だぜ。友達もいねえのかな?」


男に負けず劣らずの性格の悪い顎ににきびが出来ている女が言った。


「見てよ。あの食べてる量。大食いコンテストか何か?だから、あのおばさん、ちょっと太っているのよ。アハハ」


「そうだな。あのおばさん、いつも陰気臭いしな。食う事しか興味がねえって感じだもんな」


リンダはここでも耐え忍んでいた。


いっその事、自殺するか。


そうすれば、こんな邪悪な人間どもからあたしは解放される。


あたしなんかこの世に生まれてこなければよかったのよ。


どいつもこいつも人の皮を被った偽善者どもばっかりだわ。


泣きたい心境だが職場の人前という事もありそうもいかない。


体調が悪くなったと言って早退しようかとも思ったが昼休み終了の13時の時報が鳴った。


早退すると給料も減るし皆勤手当ても無くなってしまう。


後4時間の辛抱。


耐えるしかないか。


またベルトコンベアーに乗って沖にゆらゆらと漂う死体のようにリンダの元へ漂着して来るマネキンの山。


山。


山。


山。


畳み掛けるようにゾンビのような生気の無い視線がリンダに注がれる。


16時45分。


今までと成型の違う一体のマネキンが流れて来た。


腰に手を当てて、これ見よがしにファッションショウのモデルのようにポーズを取っている1体のマネキン。


プロポーションは自分と違って抜群に良い。


リンダにも一昔前は括れなる物が存在していたが糖質過多、運動不足、加齢による代謝の衰えと複合要因が幾多にも重なり下腹部は妊娠初期の妊婦のようになっていた。


リンダの脳内にだけ聞こえて来るマネキンの声。


「あら、アナタってちょっと太り過ぎなんじゃないの。見てみなさいよ、あたしのプロポーション。あたしは何も食べずにショウウィンドウに立ち続けて綺麗でお洒落な洋服で着飾って道行く人から羨望の眼差しを向けられているから、いつも輝いていられるのよ。それに比べて、あなたの体って丸焼きにされる為にブクブクと太らされた豚ちゃんみたいね」


満面な笑みでマネキンが蔑んだ眼差しで自分を見ながら語り掛けて来る。


リンダはそのような錯覚に捕らわれ自分を制御出来なくなってしまった。


万引き犯が狙った獲物をバッグに入れる前にささっと右、左と周囲を見渡すように確認する。


誰も自分を見ていない事を確認するとリンダはその小憎たらしいマネキンに平手打ちをお見舞いした。


黙れ、この男どもに色目を使って有頂天になってるアバズレが。


そんな事をしても自分は解放されないと解っていてもリンダの憤怒は、もう決壊寸前の堤防のようになっていた。


リンダはマネキンへの平手打ちで溜まりに溜まったストレスを幾分か発散し憂さを晴らし片付けに取り掛かる。


不良品のマネキンを破棄しに台車で運び作業場をモップ掛けする。


17時15分。


業務終了の時報が鳴り一日の刑務作業を終えた囚人のような開放感を些か感じつつもロッカールームに小走りで向かい目にもとまらぬ速さで作業着から私服へと着脱した。


小声で他の女子社員に「お疲れ様です」と言いながら小走りで駆けていきタイムカードを押して小走りでバス停に向かう。


帰路も朝と同じように最後尾の窓際の席に座る。


窓から降り注がれる西日に目を細めながら、やっと今日も終わった、早く週末来ないかなと心の中で呟く。


バス停から家までの路は皆が足早に帰宅している。


この時間帯は近所のおばさん達も夕食の支度やら家事やらで忙しくのんびり家の前で井戸端会議などに花を咲かせていない。


家に帰り着き「ただいま」と覇気なく言う。


キッチンからマーサがエプロンで手を拭きながら出て来る。


「お帰り、お疲れ様。お風呂沸いてるよ」と娘を労う。


リンダは母の声に安堵を覚えつつ、そそくさと荷物を部屋に置き脱衣室に向かい風呂に入る。


夕食もキッチンのテレビを漠然と見ながら一人で母が作ってくれた料理を味気なく食べる。


母は娘の内向的な性格と口数の少なさを熟知しているので仕事の事や立ち入った話などはしない。


「御馳走様」


美味しかったとも不味かったとも何も言わず元気なく母に形式的な謝意だけを伝え一人自分の部屋に篭もるリンダ。


マーサは娘を心療内科に連れて行き心のケアが必要だとは頭の片隅で思ってはいるもののリンダがそれを拒むだろうとも思っている。


リンダは部屋に入るとケンウッドのラジカセにいつも入れているキャロル キングの『タペストリー』を再生した。


リンダは7曲目の“ユーヴ ゴット ア フレンド”が好きだった。


ベッドに横になり目を閉じて曲に聴き入るリンダ。


リンダのリトル スクールの時代。


リンダにはアリッサという掛け替えのない友達がいた。


アリッサはいつもいじめられていたリンダをいじめっ子達から守ってやっていた。


アリッサは男勝りの女の子で曲がった事が嫌いだった。


「リンダ、あんたってば、いつもやられてばっかりじゃないの。たまにはぎゃふんとやり返してあげなさいよ」


「だって、あたし、そんな勇気なんて持ち合わせて無いんだもの」


「しっかたないなぁー。分かったよ、あたしがあんたの事守ってやるからいつも側にいなよ、リンダ」


「ありがとう、アリッサ」


まるで妹を守る姉のようにアリッサはリンダに接し二人は友情を育んでいた。


3年生になって夏の暑さも少し和らいだ9月の終わりだった。


リンダとアリッサが公園でブランコに乗っていた。


座ってゆっくりとブランコを漕いでいるリンダとは対象的にアリッサは立ち漕ぎしながら勢いよくブランコを漕いでいた。


アリッサがブランコの勢いを弱めてぴょんと飛び降りるとリンダの後ろに回った。


「あんたもたまには勢いよく漕いでみなさいよ」


そう言ってリンダの背中を押してやってブランコに弾みを付けた。


「こ、怖いよー、アリッサってばー」


4度、5度とアリッサがリンダの背中を突いてブランコから離れた。


リンダの乗っているブランコは自然と勢いが弱まりやがて止まった。


アリッサがブランコに座っているリンダの前に立って言った。


「あたし、明後日パパの仕事の事情でオークランドに行っちゃうんだ」


「えっ」


アリッサの突然の切り出しにリンダは呆然とした。


「リンダ、あたしがいなくなったらあんたは一人で立ち向かっていくしかないんだよ。さっきみたいに怖いとかいってる場合じゃないんだよ。もっと強くならなきゃ」


そうアリッサは言い放つと地面に置いている自分のバッグからCDを取り出してリンダに渡した。


そのCDが今リンダが聴いているキャロル キングの『タペストリー』だった。


「あたしがいなくなってもあんたとあたしはずっと友達だからね。これでも聴いてたまにはあたしの事思い出してよね。あたしの家に見送りには来ないでよね。。あたし泣いちゃうかも知んないから。じゃ、元気でね、リンダ」


その日がリンダとアリッサの別れの日だった。


リンダは“ユーヴ ゴット ア フレンド”をリピート再生させながらアリッサの事を思い出していた。


アリッサ、元気にしてるかな?


今の自分の不甲斐なさをアリッサが知ったら怒るだろうな。


アリッサの最後の言葉を思い出したら自然と目が潤んできた。


すると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「リンダ、ちょっといいかい?」


扉越しにマーサが言った。


「どうしたの?母さん」


親指の付け根で目の涙を拭いながら聞き返すリンダ。


「お父さんがちょっと話があるって言ってるの。キッチンに来てくれないかしら」


リンダは気乗りしなかったが母の頼みなのでラジカセの電源を切って仕方なくキッチンに向かった。


父は何故か上機嫌だった。


ジョーゼフの前には氷の入ったグラスとジョニーウォーカーのボトルが置かれている。


顔の赤らみを見ると既に1,2杯は飲んでいるようだ。


リンダが椅子に座るとマーサが皿をテーブルにだして自分も座り果物ナイフで林檎の皮をむき出した。


父は空いたグラスにジョニーウォーカーを注ぎ一口煽って美味そうに手の甲で唇を拭いグラスを威勢よくテーブルにドンと置いた。


酒で舌の回りも良くなったのか。


ジョーゼフが饒舌に喋りだした。


「リンダ、仕事の方はどうだ?」


愛想の欠片も見せずにリンダは返答する。


「別にいつもと変わらないわ。父さん、話って何なの?」


ジョーゼフが勿体ぶって話を切り出す。


マーサが剥いた林檎にフォークを突き刺しリンダとジョーゼフの前に差し出す。


リンダがフォークに刺さった林檎を齧る。


サクサクと噛み砕きながら皿の林檎に目を落とす。


あくまでも父とは目を合わさないように会話したいからだ。


「実はな、お前に良い縁談の話があってな。俺は、やっぱりお前には幸せな家庭を築いてもらいたいんだよ。俺も母さんも普通に考えればお前より先に逝くってのが筋道ってもんだ。そしたらお前は一人ぼっちになる。家庭を築いて亭主と子供に恵まれればお前にとっての宝になるんだ。お前を支えてくれる家族が出来るんだ。今度の結婚相手は歳もお前と変わらん。俺もこの縁談を纏めるのに骨を折ったんだぞ」


やっぱり。


父さんがお酒を飲んで機嫌よく饒舌に喋りだしたからそんな事だろうと思っていた。


前夫との苦い思い出が走馬灯のように脳内にフラッシュバックする。


忍耐、我慢、抑制、束縛。


挨拶というコミュニケーションですら苦痛でしかなかった。


自分に抱く嫌悪感と決別するべく過去に埋めた苦い思い出のタイムカプセルが地底から掘り起こされたように蘇る。


リンダは顔を顰めて感情的になって言う。


「止めてよ、父さん。あたし結婚する気なんか無いわ。もう懲り懲り。その話は断ってちょうだい」


ジョーゼフが熱くなる。


「何を馬鹿な事を言ってるんだ。俺が、この話を纏めるのにどれだけ頭を下げて頼み込んだと思っているんだ。夫婦なんてものは互いが互いを尊重し合えば上手くいくもんだ」


感情的になっている娘と父の間にマーサが割って入る。


「お父さん、これはリンダの人生なんだからリンダの意見を尊重してあげてちょうだい」


ジョーゼフがテーブルを拳で叩く。


ジョニーウォーカーのボトルがぐらりと揺れグラスに注がれているウイスキーが波打つ。


「母さんまで何を言っておるんだ。俺がこの話を纏めるのにどれだけ苦労したか解っているのか。大体、リンダのこの人間性に問題があるんだ。結婚して長い間一緒に暮らせば我慢する事だって当然ある。それがリンダには解っておらんのだ。堪え性ってもんをリンダは持ち合わせておらんのだ」


反抗的な視線でジョーゼフを睨み返す。


ジョーゼフの罵倒がエスカレートしていく。


「何だ、その反抗的な目付きは。本当の事を俺は言っているまでだ。昔からお前はそうだ。一つの事を我慢強く続けた事があったか?無いだろうが。何かお前が成し遂げた事があったか?」


リンダは下唇を噛み大腿部の上で爪がめり込むくらい力一杯拳を握り黙って聞いていたが頭の中で辛うじて理性を繋ぎ止めていた線がプツンと切れる音がした。


それは、ビットに繋いで係留されていたヨットがロープが切れて波に攫われて沖に漂流していくような感覚だった。


リンダはマーサの前に置かれてあった果物ナイフを掴むと鋭敏な動きでジョーゼフの心臓を一刺しにした。


「ううう」


呻き声を発しリンダの顔を見開いた目で見つめジョーゼフは仰向けにばったり倒れた。


胸から血がどくどくと流れていた。


リンダの目にはジョーゼふの見開いた目がマネキンの生気の無いあの白茶けた目に映った。


「きゃぁーーーーーー」


マーサが悲鳴を上げる。


ジョーゼフは心臓への一突きが致命傷となりすぐに息絶えた。


ジョーゼフの元に駆け寄り「お父さん、お父さん」と体を揺さ振るマーサ。


リンダの表情には怒りや悲しみといった表情は見て取れなかった。


放心状態で、まるで誰かに操られているパペットのように電話に歩み寄り911に電話した。


オペレーターの女性が受話器口から呼び掛ける。


「もしもし、どうされましたか?救急ですか?それとも警察ですか?」


リンダはオペレーターが喋っているのを堰き止めるように淡淡と答える。


「父さんを殺しました。あたしがやりました。後は母さんに代わります」


そう言い終えると受話器を電話の横に置いた。


そして、テーブルに戻り、またフォークが刺さった林檎を食べ出した。


リンダの精神は崩壊していた。


マーサはリンダの一部始終を見ていた。


恐れていた事。


娘と夫との軋轢。


いずれはこんな悲劇が起こるのではないのかと。


狼狽しながら震える手で受話器を掴み震えた声音で受話器口に向かって警察と救急の手配を頼み名前と住所を伝える。


受話器を元に戻すとマーサが咽ぶように泣きながらリンダの元に歩み寄り娘を抱擁する。


リンダは黙黙と林檎を食べ続けていた。


その表情からは生気は失われリンダがいつも検品しているマネキンのように虚ろな視線でひたすら林檎を食べていた。


刑事が来ても速やかに淡淡と応対し容疑もその場で全面的に認めた。


「お前が殺ったんだな」


「はい」


刑事からミランダ警告を受け「リンダ マックスウェル、ジョーゼフ マックスウェル氏の殺人容疑で逮捕する」と言われ両手に手錠が掛けられた。


こうしてリンダの身柄は拘置所に収監され精神鑑定が行われた。


だが、リンダの応答には一貫性があり精神に支障を来して行為に及んだ殺人事件ではないと断定され心神耗弱は認められず刑事責任が問われ13年の実刑判決が言い渡された。


この13年の実刑もマーサの情状酌量の上申書が反映されてのものであった。


判事の言葉を俯き加減で聞くリンダ。


「リンダさん、お母さんの為にも罪を償って貴方が社会復帰する日を私は望んでいます。真摯に罪と向き合ってお母さんの為にも頑張ってください」


か細い声でリンダは「はい」とだけ答えた。


リンダは控訴せずに刑は確定してそのまま刑務所に収監された。


拘置所から刑務所に移送されるバスの車中。


リンダは馴れ馴れしく話し掛けて来る20代の女の横に手錠を嵌められたまま座らされた。


「あたいはタミル。ヤクで2年売春で1年喰らっちゃってさ。あんた、大人しそうだけど何したんだい?」


リンダは黙って前方を見据えている。


「あっ、そう。あたいと喋りたくないって訳ね。はいはい、そうやってシカト決めてなよ」


1時間程走ると高さ5mくらいの塀に囲まれた刑務所に到着した。


収監前に念入りに持ち物検査をされ監房に連行されるリンダ。


廊下を歩いていると鉄格子越しにリンダを見て話し込む女囚達。


「「新入りのお目見えだね。あの女の部屋から今夜鳴き声が聞こえて来るのにあたいは煙草を賭けてもいいよ」


リンダは思う。


ここの女警務官どもはあたしを見てる。


ここの女囚どももあたしの一挙一動を注目している。


これなら懲罰問題を起こして独房に入れられた方が増しだ。


リンダは割り当てられた囚人服やトイレットペーパー、歯ブラシ、歯磨き用の煉り粉、石鹸などを持って鉄格子の中に入る。


便器から悪臭が漂って来る。


暫しベッドに座りトランス状態となる。


自分に注がれてきた冷ややかで蔑んだ視線が思い出されて来る。


すると突然リンダは声を大にしてベッドのマットを叩きながらいった。


「もう、そんな目であたしを見ないでちょうだい。もう、見るのはよしてちょうだい。あたしをそっとしておいてちょうだいよ」


マットに顔を埋めて泣きじゃくるリンダ。


すると、別の監房から声が聞こえた。


「ほーら、見てご覧。あたいが言った通りになっただろう。まさか入ってすぐ泣くとは思わなかったけどね。煙草を後でよこしなよ」

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