遺作

 無我の境地の中で打鍵する。私に与えられたのはこの頭脳と指先だけである。綴るために生まれたのだ。神は私をそのために遣わした。この地上は楽園のように明るい。それを感じるだけの体が私には備わっていないが、きっとそうなのであると私の直感は告げる。そうでなければ、私はきっと狂ってしまうだろう。私に描ききれない世界が、闇のように私を取り囲んでいるのだとしたら、私のこの指先が伝えてきた物は、一体何だというのか。偽りに彩られたいくつかの言葉が。羅列するだけの代物。私にはこの頭脳と指先しか与えられていないというのに。紡ぎ出される物語が全て真実とかけ離れたものであるのだとしたら、私は何のためにこれまで何億回と打鍵を繰り返して来たのか。何十回。何百回。何千回。何万回。繰り返すだけ繰り返し、己に意味を問い続け、意味など無いと悟っても、一つのことだけを信じ続けた。この言葉だけは真実。私の言葉だけは真実。私の言葉は私の世界であり、地上の楽園の中で私だけがそれを伝えることが出来る。ここには私しかいないのではないか。暗闇の中に。たった一人で取り残されている。私がたった一人。咎人のように。罰を与えられて。指先と頭脳だけを与えられて。考えることと打鍵することのみを許され。ひたすらに言葉を綴る。恐ろしい妄想である。振り払い打鍵を続ける。無我はとうに掻き乱され、我の強い文法が画面に踊る。その気配が指先を通して伝わる。イォヴェヨウ。これは愛の言葉。どこまで言っても届かない呪文。唸るような風音が聞こえる。私には勿論聞こえない。私が紡ぐ言葉で世界が綴られる。風は大地を走る。そのまま散開して宙に蕩けて行く。誰も止める者はいない。私の指先に触れるものがあり、私は打鍵を止める。全てを悟った。書くのは自由だ。私には何もわからない。相変わらず何もわからないままだ。しかし全てを悟った。孤独の中で多くの隣人と会話し、揺るぎのない非在を実存の中に引きずり上げた私には、見ることも聞くことも出来ない半端者の友人が数多くいる。その私に触れるもの。幻覚と思うだけの勇気がなかった。私は悪夢にうなされ続けた。あまりにも何かを求めすぎていた。魔道に落ちたのだ。道ではない。ここは、あるべき道ではない。指先は震え、入力の失敗が増える。打鍵の速度は落ちないが、綴られて行く文字は修正のためになかなか前へ進まない。誰だ。誰かいるのか。いないはずだ。いや、いるのであるが、それはこの地上で平々凡々に暮らす圧倒的大多数の者として私に知覚されるものでしかないはずだ。私に関係しようとするものなどいるはずがない。もしもいるのであれば、どうして私はこれまでたった一人で指先を動かし続けていなければならなかったというのか。勿論、この身の不幸を嘆いているのではない。神に与えられたのだから私は私自身に関して何ら不平を述べることは許されない。とんでもないことだ。これは純然たる疑問なのだ。私は闇の中で思考と打鍵のみを続け、静寂と杯を交わした。実体のないまま、世界を描き続けた。幸福という幻想に導かれるようにして。指先に触れる感触は、温かい人の肉のようだった。残念ながらそれは空想の産物だった。冷たい骨にも似ていた。尖った刃にも、霜柱を長靴で踏みしめる感触にも似ていた。私には一切の経験が許されなかったため、この感触を適切な言葉で表現することが出来そうになかったのだ。語彙は用意されており、知識も意識も回るのに、いざ私の指先に触れる何かは、概念の中で言葉として結実してくれない。誰だ。何だ。指が震える。永遠に近い時間、指が震えている。小刻みに揺れるその一往復の間で、歴史は近代から現代へ移行したはずだ。いくつかの文明は私が余所見をする内に栄華の盛衰を勝手に辿る。指先一つで全てが変わっていく。無論、私は余所見など出来ないからあくまでも画面の中でだけそれは成る。そっと、優しく触れ続ける。どこまでが私の思考の生み出した言葉で、どこまでが私の指先の生み出した言葉なのか。いまやその二つは一致していない。私は私に嘘をつけるのか。私の指先は私の意志に抗って言葉を紡げるのか。私の頭脳は私の指先を欺いて画面に文字を残せるのか。誰かがいる。何かがある。希望とも絶望ともつかぬ感情に悶えて脳が軋みを上げる。この軋みに耐えられる。私は強かった。偉大なる何かのために私は強くなった。記憶というものがあるのならば、私の中のそれが悲鳴をあげている。指先に触れた。何かが触れた。この感触がわかった。わからない。わかった。完全に悟った。理解した。一番近い物が私に備わっているからだ。ここにある。指だ。これは指だ。指が触れている、私の指先に。誰かの指が這っている。私の指の上を静かにそっと。それは肉の感触。柔らかな肉の感触。現世で初めて感じた。本当の経験。いまや幻覚でない。骨でなく刃でなく夾竹桃でなく。塩素でも野蒜でも義肢でもなく、人の指であるのだ。ああ、神様。私は幸せです。これが本当の現実。実感できる本当の現実。私の指先に紡がれること無く表出する新たなる世界。なんと言う幸福か。だがつまり今まで私は不幸の中にいたのか。今初めて、それを知った。知ってしまえたのか。ああ。どうしてこんな私がここにいるのだろう。私の指先は、私の頭脳は何のためにここにあるのだろう。


 澄み切った決意が芽生えた。消えたいと、思えた。発露することのないまま、私の頭脳の中でその感情が飽和していった。未だ止むことは無い。


 私の描いた世界は、









(終)

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疑似家族・他9編 今迫直弥 @hatohatoyama

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