アンチクライマックス

 塩野義と最初に会った時、私の心臓は大きく一つ高鳴った。個人的に、それは一つの敗北だと思った。塩野義は、一度見たら忘れられないような特徴的な外見をしていたが、どんな格好であったのかはよく憶えていない。とにかく整った顔立ちをしていたような、目も当てられないほど醜悪な顔つきだったような、どうにも印象的だったという印象しか残っていないそいつは、私の中では既にヒーローだった。

「こんにちは、誉さん」

 だからこそ、自らの名前がその口から毀れだした時、私が感じたのは恐怖に近い体性感覚であった。涼しい顔で平然と、私は塩野義に返事をしたから、誰一人としてそれに気付いた者はいなかったろうけれど。

 誰がなんと言おうと、彼はヒーローであったし、恐るべきことに私の仇敵でもあった。気持ち悪かったのは、その歪み、矛盾、二律背反な設定が、自分の中へ上手に溶け込んでいくのがわかったことだ。ヒーローと敵対することも、それ以前に、私が彼をヒーローと思ってしまったことも、全てが嘘っぱちで、夢の中の出来事であればとさえ思ったが、頬を抓ってみる気には到底なれそうになかったし、何よりその前提が原因でどんな驚くべき結末が導かれるのか、他人事のように好奇心を掻きたてられてもいた。

 愛の名を呼べば闇に染まり、穢れだけが体に溜まる。私の受けた教育は、私に癒しを許可しなかった。だからというわけでもなかったが、私の望みは絶対に叶わなかったし、そんな自分が少しだけ好きでいられた。ただし、それすらも救いではないのだが。

 その屋敷は、とてつもない広さをもって私を迎えてくれた。その広さは筆舌に尽くしがたいが、あえて一言で表すならば、「非現実的な」広さであった。やたらとじめじめしていることと、光が端の方まで届いていないことを除けば、その屋敷に及第点を与えられる部分は皆無だった。屋外から室内に入った瞬間に変身を解き、私は早速壁を這いずり回った。塩野義はそんな私を見て手を叩いて喜び、二度ほど発砲した。歴史上最強の甲殻でそれを弾き返し、反撃として私はプラズマを口から吐き出した。塩野義の全てを蒸発させる。

「さすがだね、誉さん」

 塩野義は笑いながら私を抱き締め、日曜の公園での父と娘のように私を抱えたままぐるぐると回転した。渦の中で私は毛細血管から順々にバターになっていく夢を見た。皮肉なもので、私に残された全ては既に壊れていた。バターになれるほど純粋でない。塩野義はそれを知った上でも、私をここにいさせてくれるはずだ。

「誉さんには早速、仕事があるんだ」

「何かしら」

「料理を作って欲しい。それも、四〇人分くらい」

「どんな料理?」

「和え物」

 一ヵ月後、私にはいくらかの友人が出来ていた。彼らは、いつも黒尽くめの格好をしていて、一見愛想がないように見えるのだが、適切な処置をしてからよくよく話してみると、非常に気さくな人間達だとわかった。虚ろな目も、慣れれば気にならない。私は、塩野義がおらず仕事もない時間は、専ら彼らと会話するか、扉の奥のまだ若い人たちをからかって遊ぶか、街まで行って戻って来るか、あるいは暇つぶしをするか、そのどれかをしていた。塩野義がいる時は、塩野義が相手をしてくれた。何の相手をしてくれたかは、想像に任せることにする。ちなみに、勝つのは決まって私か塩野義だった。引き分けはない。黒尽くめの人らは、私と塩野義のそれを見て、いつも顔を引き攣らせていた。感想を尋ねると、例によって返事は無く、下手をすると心肺機能が停止している有り様だった。私は友人達の生命の危機に際して、落ち着いて行動をすることを心がけており、その甲斐あってか取り返しのつかない事態になることは、記録上、なかった。塩野義の隠蔽は完璧だった。

 私は時折怒りを抑えられなくなることがある。それは、塩野義から発作と呼ばれていたが、原因となるような病など実は存在しないのだった。

「誉さん、また発作かい?」

 私が何も答えずプラズマを吐き出すと、塩野義は相変わらず蒸発し、それから対処を考え始めるのだった。私は大概、扉の奥から呼び出された若い人によって速やかに処分された。彼あるいは彼女は、手も触れずにこちらの四肢を完全に封じる術を知っていた。口を開くことすらままならず、身じろぎ一つすることなく私はチェーンソーで解体されていく。部屋には血の雨が降る。綺麗に二七等分されたところで、塩野義がパズルの得意な側近を連れてきて、一分以内に元通りにするよう命じるのだった。その側近は、分割された立方体の同じ面を同じ色に揃えるゲームとそっくり同じ手順で私を見事に私たらしめた。私の怒りは一連の流れの中で煙草の煙のように散逸して空気中に溶け込んでおり、

「おかえり、誉さん」

 という言葉を耳にするまでもなく、現実に帰ってくるのであった。そのまま厨房に向かう。仕事に戻ることに関して、ここで文句を言う者はいなかった。記録上は。

 さて。そんな私ではあったが、文字通り致命的とも言える弱点を抱えていて、その克服に長い年月を費やしていた。ご想像の通り、海水に耐性がないのである。そのため私は、せっかく塩野義が地球を手に入れても、その七割を無条件に放棄せざるを得ない立場にあって、これはまことに上手くないと常々思っていた。私がこの屋敷においてどれくらい貢献しているかを考えて欲しい。私に向けられるパイは、投げつける方のパイではなく、円周率の方のπでなくてはならないではないか。これは勿論、末広がり、みたいな意味だ。同じように深く考察すると、地球の八割くらいはもらう権利はある。友人達に一人ずつ尋ねていったが、皆、口を揃えてその通りだと狂ったように同意してくれた。ありがとう。皆には応援してくれたお礼に軽自動車をあげるわ、それも両手両足用に四台ずつ。私は確約した。だが、とにかく海水への耐性をつけないことには何も始まらない。少しずつ、それに慣れていくことにした。

 まずは海水よりも遥かに薄い濃度の塩水で試してみた。それだけでも甲殻がぼろぼろに崩れて、大騒ぎになった。メイク落としに良いのがないと思っていたから、塩水で肌ごとこそぎ落とせば丁度良い。いやいや、そんな冗談を言っている場合ではない。塩水の濃度をさらに希釈する。肌に炎症が出来るのはどうしても避けられなかったが、一二時間続けることで、どうにか耐えられるようになって来た。次の一二時間は濃度を倍に。さらに次の一二時間はその倍に、という風にやっていったところで、扉の奥の若い連中からクレームがついた。特訓中の私は入浴しているようにしか見えなかったらしく、ちゃんと仕事をしろ、と怒られてしまったのだ。

 当然、そこで展開されたのは世界規模の大戦である。塩野義の停戦の指示があと一五年遅かったら、私の肌年齢はもっと壊滅的な数値を叩き出すことになっていたであろう。女にはどうしても譲れないものがある。塩野義には感謝しなくてはなるまい。仇敵だが。

 活火山に大量のミサイルが打ち込まれたのが悪かったのだろう。天変地異に見舞われた世界は案の定滅びてしまい、私の野望は全くの無駄になった。奇跡的に無事だった小国も、何故か人口の男女比が致命的に狂っており、どうせ近い内に滅びる運命だと思われた。私の生き甲斐は残念なことに、和え物を作ること以外全くなくなってしまったのだ。

 落ち込んでいる私を見て、元気出せよ、と三五番が言ってくれた。三五番というのは、確か私の家族だったはずだが、詳細は定かではない。何しろ見たことも聞いたこともないのだから仕方ない。

「元気出せよ。お前が落ち込んでたら、何にもならないぜ。だってお前、ただでさえ見目麗しくないじゃないか」

 私は激怒することなく、三五番を和え物にして塩野義家の食卓に供した。満月だったこともあり、塩野義は大変満足してくれたようだった。けれど、これを四〇人分頼む、と言われた私は、その命に応えることが出来ず、結果的にあらゆる可能性を喪失し、人外の骸となって敷地の外に晒されることになる。

 私は慟哭した。


 だが、私の涙が大地に垂れ落ちるまさにその瞬間、世界的な大イベントが巻き起こった。私は難し過ぎてその概要すら理解出来ないが、事情に詳しい人はそれをビッグバンと呼んでいる。つまり、宇宙の誕生である。

 偉大なる私のおかげで生じたその新しい宇宙では、きっと塩野義以外の人間が私のヒーローや仇敵を演じ、塩野義以外の有象無象が幸せに暮らしているに違いない。

 きっとそうに違いない。

 もしもそうであるなら、私がこうして永久の暗黒の内に鎖されることも吝かでない。どこかにいる新しい私が、新しい家族と共に楽しくやっているなら、私は満足なのだ。

 たとえ私の甲殻が朽ち果て、時の狭間に消え失せようとも。


(了)

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