Ⅷ.失くした記憶の行方、はじまりのふたご星変奏曲

「ひさしぶりだね」

 そう言って笑うウメくんは、また目尻のしわがひとつ増えた気がする。

「うん、ひさしぶり」

 ウメくんも、たぶん似たようなことを考えているんだろうな、と思いながら、わたしも笑う。ふたごだからなのか、わたしたちはおんなじ速度で年をとっていくような気がする。だから今でもわたしたちの顔立ちは、非常によく似ているのだ。

 ひさしぶり、とは言っても、わたしたちが会っていなかった期間なんて、せいぜい半年かそこらだ。夏休みには双方の家族合同でキャンプに行ってバーベキューをしたし、新年には親族が一堂に会するのが、もはや定例となっている。でも、こうして二人きりで喫茶店に入ってゆっくり話をするのは、確かにひさしぶりかもしれない。

 わたしたちはそれぞれ結婚して、家庭がある。ウメくんは大学で出会った『みゆちゃん』という年下の女性ひと──同性のわたしから見ても、すっごく、かわいい──と結婚して三児の父となり、そしてわたしの相手はなんと、小学校でいっしょだったあのヒデヨシくんだ。お母さんに似て神経の細いウメくんと違って、何事にも鈍感なわたしは、中学生になってやっと、自分がヒデヨシくんに淡い恋心を抱いていたことに気づいたのだった。でも、ヒデヨシくんとまともに言葉を交わしたのは、離婚騒動のあったあの翌朝、わたしが学校で大泣きしてしまったあのときだけだったし、紙一重の地区違いで別の中学になってしまったこともあって、連絡は長いこと途絶えていた。むろん、小学生のころの連絡網を引っぱり出してヒデヨシくんの家に直談判するような勇気も、連絡のとれない相手を一途に思い続けるような甲斐性もわたしにあるはずもなく、わたしは人並みの数の恋をこなし、いくつかのお付き合いもした。でも、同窓会で再会したときには、たまたま双方、恋人がいなかったのだ。わたしたちはお酒を飲んで意気投合し、そこからはびっくりするくらいトントン拍子だった。

 更に驚かされるのは、わたしたちのあいだに生まれた子どもが、男女のふたごだったということだ。わたしとウメくんの子ども時代を知る人は、口を揃えて、

『昔のナナコちゃんとウメハルくんに、そっくり』

 と言う。本当に笑ってしまうくらい、娘と息子はわたしとウメくんによく似ている。でも、誰かにそう言われるたびに、ヒデヨシくんは複雑そうな苦笑いを浮かべて、

『自分の息子が元クラスメイトの、それも男に似てるって言われるのって、ナナコとウメハルが姉弟だからだってわかっていても、なんか、なんとも言えない気分だなあ』

 とぼやく。でも、特に子いぬのような目元なんか、息子はヒデヨシくんにそっくりだと、わたしは思う。

 娘のほうはというと、確かに自分の幼少期を鏡で見ているかのようにわたしにそっくりなのだけれど、性格はいささか神経質で、わたしの母親であるところの古屋初美の遺伝子が色濃く反映されている、まごうことなきウメくんタイプだ。

 とにかく本当に、人生って何が起こるかわからない。



 あのあと、お父さんは仕事があるので会社に戻り、お母さんとわたしの付き添いで病院に搬送されている最中に、ウメくんは意識を取り戻した。でも、まる三日も行方をくらませていた矢先のできごとだったというのもあって、念のためそのまま病院で精密検査を受けることとなったのだ。結果、多少の貧血ぎみではあったけれど、ほかに何の異常も見つからず、その日のうちにウメくんは、無事に我が家に帰ってくることができたのだった。

 予想はしていたことだったけれど、やっぱり目覚めたウメくんの中から、ミミはいなくなっていた。それだけじゃあ、ない。すぐにはわからなかったけれど、ウメくんが次第に、自分がミミであったという事実さえ忘れていっていることに、わたしは気がついた。最初はあの一連の事件のことや、ミミが話したこと全部、ウメくんはちゃんと覚えていたのだ。ところがある日、いなくなってしまったミミのことを思い出して感傷に浸っていたわたしが、

「ミミが長いことずっとウメくんの中にいたのは、お母さんのことが気がかりだったからかもしれないね」

 としんみり言うと、

「え、何。もしかしてミミのやつ、ぼくが気を失ってるあいだに、何か言ったの?」

 とびっくりした顔をする。またしばらく経って、

「ねこなのにことりのうたが好きだなんて、ウメくんはねこだったころから変わり者だったんだね」

 とちょっとしたからかいのつもりで言うと、

「ことりって、何の話」

 と怪訝そうな視線が投げ返される。そんな具合だった。

 それはわたしには歯止めのきかないスピードで、着実に進行していった。わたしの知る限り、ありとあらゆることを話して聞かせてみても、ミミだったころの記憶はどんどん薄れて、どうすることもできなかった。

 わたしもこうして知らず知らずのうちに、ピピだったころのことを忘れていったんだろうか。ウメくんだけがミミだったころのことを覚えていて、わたしだけが覚えていないなんて、不公平だ、とつねづね思っていたけれど、こういう結末を与えることで神様は、うまく世界のバランスを保っているんだろうか。

 だとしたら神様って、すごく残酷だ、と思う。わたしたちがピピとミミだった事実が、わたし一人に錆のようにこびりついて離れなくて、だけどウメくんの中からは、その事実さえも失われてしまう。いちぢく屋さんで交わした会話も全部、きっとウメくんの中ではなかったことになってしまう。それってなんだか、すごく、さみしい。取り残されたような気に、わたしは、なる。

 忘れてしまえたらいいのに、と思う。ウメくんが忘れてしまうなら、わたしも全部、忘れてしまえたらいいのに。都合のいい話だとわかってはいても、そう願わずにはいられない。

 いちぢく屋さんには、あの事件を境にぱったりと行かなくなった。あのうす暗い店舗もしばらくして建て壊され、わたしたちの今いる喫茶店が新しく開店した。中学校にあがるのと同時に、いっしょだった部屋も別々になり、わたしたちが二人きりでじっくり話をする機会はぐんと少なくなった。ウメくんの記憶が失われていくのを止めるのは、もはやわたしには不可能なことだった。三角の海がぴかりぴかりと笑っていたあの日、真っ赤な舌に吸い込まれて消えたイチジクのアイスクリームのように、ウメくんがかつてねこのミミだったという事実は、ウメくんの中から跡形もなく消えてしまった。



「今日は海がきれいだね」

 窓の外を眺めて、ウメくんは言う。ウメくんは相変わらず、海が好きだ。町の様相は長い歳月を経てだいぶ様変わりしたけれど、この場所から見える三角の海だけは変わらない。

 ウメくんは、長年積み重ねてきた知識が功を奏して、海洋研究開発に携わる仕事をしている。ウメくんの興味は海にはじまってさまざまなものへと移ろい、結局また、この三角の海へと戻ってきてしまったのだ。わたしはなんだかそこに、前世との奇妙な因果を感じてならない。ウメくんの話は、相変わらずわたしにはちょっと難しいようなものばかりだけれど、声変わりをしてすっかり大人の男の人の声になってしまっても、ぽつぽつと春雨の降るような話し声は、わたしの耳に心地いい。

「ここがまだいちぢく屋さんだったころ、二人でよくおやつを食べに来たね」

 紅茶のシフォンケーキをフォークで突つきながら、わたしは言う。いちぢく屋さんだったころのどこか野暮ったい品揃えと比べて、ここの喫茶店のメニューには、ちょっと小洒落たものばかりが並ぶ。丈の長い黒のワンピースに白いエプロンをしたウェイトレスさんたちも、とても、かわいい。別に、こういうのも悪かないけど、ちょっとさみしいような気もする。まるいほっぺたをしたいちぢく屋さんのおばさん、そういえばどこに行ってしまったんだろう?

 ウメくんは、懐かしそうに笑う。

「水曜日のことだろ、よく覚えてるよ。手を繋いでさ、今思えばよくもまあ、飽きもせずに毎週毎週、通いつめていたもんだよなあ。何がそんなに、楽しかったんだか」

 ウメくんのなにげない言葉に、わたしはふっと、真顔になる。

 ──この場所から海を眺めていた父さんと母さん、すごくしあわせそうで、それでぼくも、行ったこともないくせに海が好きだったんだって、思い出した──。

 よく覚えているだなんて、うそ。どうして自分が海を好きなのか、その理由でさえ、きっとウメくんは覚えていない。

 ──生きていれば、意外となんとかなることも、ある。

 ヒデヨシくんの言葉が、不意に泡のように胸の表層に浮かびあがる。確かにピピとミミのことが終わってしまっても、わたしとウメくんの関係に、恐れていたほどの変化は訪れなかった。ウメくんは相変わらず口うるさいお母さんみたいで、わたしはお父さんに似ておおざっぱ。そしてときおりセットで『へんなふたご』扱いされてしまうのも、同じ。わたしはそれを心外に思い、ウメくんは自分がお母さんほど神経質ではないことを今なお主張し続けている。

 あのころわたしは、わたしとウメくんが何か得体の知れない、無形の力によって引き離されていってしまうことが、恐ろしくてたまらなかった。でも、それはいわゆる思春期というものが、男女の姉弟であるわたしたちを月並みに隔てていただけ。わたしたちが音のない言語を共有できなくなっていったのは、わたしたちがほんのちょっとずつ、大人に近づいていたことの証。それは至極自然なことであったのだと、大人になった今ならわかる。それでもほんのちょっとは、幼いころのわたしたちのことりのような睦まじさには、ピピとミミのことが関係していたと、わたしは思うのだ。子どものころ、わたしたちは確かに、魂で求め合っていた、と。わたしだけが知る、小さな奇跡。子どものころだけに使えた魔法。

 わたしは窓の外を見やる。ウメくんの言うとおり、今日の海はとてもきれいだ。ぴかりぴかりと、まるで笑っているみたいに。

「ねえ、ウメくん」

「うん?」

「懐かしい話をしようか。もうずっと、昔の話なの。終わってしまった、ふたりのお話。だけどきっと今もどこかで、わたしたちを見守ってくれているふたりのお話」

「何、急に」

 ウメくんは眉をひそめる。感情を表に出すのが苦手なくせに、怪訝に思うことがあるとすぐに顔に出てしまうところ、子どものころからちっとも変わらない。

 近ごろ、わたしは思うのだ。いのちは燃える星で、ピピとミミは空にのぼって、どこまでも高く高くのぼって、この広い宇宙という名の集合体のどこかに、還っていったんじゃないかって。この世に生まれてこなかった、わたしたちのもう一人の兄弟のように。そうして今でもお父さんとお母さんや、わたしとウメくんのことを、見守っているんじゃないかって、そう思うのだ。お父さんとお母さんとウメくんとわたし、いつか家族四人で大合唱した、きらきら星のうたのように。生前話すことのできなかったぶんまで、ふたごのように寄り添い合って。もしかしたら、あのペルセウス座流星群の夜、星になったわたしたちのもう一人の兄弟も、どこかでいっしょにきらきら星をうたってくれていたかもしれない。

 わたしは目を閉じて、そして小さく息をつく。これを言うには、ちょっと心の準備がいる。ウメくんもあのとき、こんな気持ちだったのかな。うす紅色とクリーム色のマーブル模様のアイスクリーム、まるでどこかの惑星みたいで、とてもきれいだった。

「わたしの前世はことりだったの」

 ウメくんは、アイスコーヒーのグラスを口に運ぶ手をとめて、まじまじとわたしを見つめる。グラスの中で、氷がカラン、と心地のいい音を立てる。そうしてわたしは、へんなところだけ妙にわたしと似通っているウメくんが、『ナナコって、たまにおかしなこと言うね』と言ってくれるのを、待っている。

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ふたご星変奏曲 蜜蝋文庫 @bonbonkotori

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