Ⅶ.さようなら、わたしの大好きなひと

 翌朝になっても、ウメくんは帰ってこなかった。わざわざ言葉にせずとも、お父さんとお母さんの疲れきった顔をみれば、二人がウメくんをさがして一晩中奔走していたことは、一目瞭然だった。

 朝食は明け方、お父さんがコンビニで買ってきた菓子パンだった。いつもはわたしとウメくんが起き出してくると、お母さんがフライパンの上でベーコンや目玉焼きを火にかける香ばしいにおいがリビングに充満していて、こんがりキツネ色のトーストも、きっかり七時にトースターから飛び出してくる手はずになっている。でも、さすがに今日ばかりは、そんなのどかな日常を繰り広げている場合ではなかったのだろう。

 こんなに味気ない食事は、生まれてこの方はじめてだった。あまい砂糖のころもにくるまれているはずのメロンパンは、粘土のように味気なく、もそもそとのどにつっかえた。普段のわたしだったらこのくらい、ぺろりと平らげてしまうのに、この日ばかりはまる一個の半分、おなかにおさめるのがやっとだった。お父さんがせっかく買ってきてくれたパンを、わたしがほとんど残してしまっても、この日に限ってはお母さんも何も言わなかった。

「ナナコは学校に行きなさい」

 お母さんは静かな口調でわたしに命じた。わたしは黙って頷いた。お母さんの疲れきった顔を見たら、反論する気も起こらなかった。家を出るとき、お父さんとお母さんがリビングで、警察に通報を──などと話しているのが聞こえた。その横を素通りして家を出て、今、わたしはとぼとぼと、一人学校に向かっている。

 水曜日。本来であれば、ウメくんといっしょにいちぢく屋さんに行くはずの日だ。お母さんは決まって朝のニュースを見て、その日が水曜日であることに気づき、『ああ、今日はいちぢく屋さんの日ね』と、わたしとウメくんにお小遣いを渡してくれる。でも、今日はそれもなかった。今朝の食卓にテレビはついていなかったし、何よりウメくんがいないのだから、当たり前のことだった。ウメくんがいなければ、『水曜日にいちぢく屋さんに行くこと』なんて何の意味もないことなのだと、こんな状況に立たされて、わたしははじめて気がついた。

 ねこは死ぬとき、飼い主の前から姿を消すという。ウメくんは今は人間の男の子だけれど、前世はメスのねこで、そして家を出ていったときにはたぶん、ほとんどミミに意識を乗っ取られたような状態だった。

 不吉な予感で胸がいっぱいだった。だからわたしは足早に、何も知らない人が見たら怒っているんじゃないかと思われるくらいの大股で、学校への道のりを急いだ。

「おはよう、ナナコちゃん。あれ、今日はウメハル、いっしょじゃないの? 珍しいね」

 教室のドアをくぐると、真っ先に友だちのさっちゃんが声をかけてきた。

「あっ、おはよう。どうしたの、酷い顔」

 さっちゃんの言葉でわたしに気づいたしいちゃんが、ふり向いて、びっくりした顔をする。

「さっちゃん、しいちゃん」

 二人の友だちの顔を見たら、なんだかもうたまらなくなって、わたしはそんなつもりもなかったのに、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼして泣き出してしまっていた。

「ウメくん、いなくなっちゃった。お父さんとお母さん、離婚するかもしれない」

「えーっ。ちょっと、一体何があったのよ」

 しいちゃんはすっとんきょうな声をあげ、さっちゃんも目をまるくして、二人はどうにかしてわたしの話を聞こうと、懸命に努めてくれた。だからわたしもできる限り、昨晩起こった事のあらましを説明しようとしたのだけれど、言葉にしようとしてものどの奥から漏れてくるのは嗚咽ばかりで、どうしようもなかった。さっちゃんとしいちゃんは途方に暮れて、それでもなんとかわたしを慰めようと、左右から一生懸命わたしの肩や背中を撫でさすり、わたしははからずも、両手に花となっていた。

「泣くな」

 いきなり背後から声がして、わたしも、わたしを慰めていたさっちゃんとしいちゃんも、びっくりして後ろを見た。

「泣くな、古屋」

 ヒデヨシくんだった。そこにいたのがヒデヨシくんであったことを、わたしはとても意外に思った。

 一年生と、二年生のときだけクラスがいっしょで、五年生になってまたおんなじクラスになったヒデヨシくん。二年生にあがるころには、彼のお父さんとお母さんはすでに離婚していた。それが具体的にいつごろ起こったことであるのか、定かではない。ウメくんとヒデヨシくんが話しているところは何度か見かけたことがあったけれど、わたし自身はほとんど、ヒデヨシくんと言葉を交わしたことはなかったのだ。それなのに、ヒデヨシくんの両親が離婚してしまった、という事実をわたしが知っているのは、二年生の最初のころのホームルームで書かされた『自己紹介カード』というやつのせいだ。横長の画用紙を、大きなバッテンで四つに区切ったもので、真ん中に自分の写真を貼って、その周囲を取り囲むようにして、自分について大きく四つの事柄を書き込んでいく、という形式のものだった。

 ほかの三つの項目がなんであったのか、物忘れの激しいわたしはとうに忘れてしまったのだけれど、そのひとつだけははっきりと覚えている。それは四つの項目のうち、一番下に欄が設けられていたもので、『家族について』というタイトルがつけられたものだった。

 ほかのみんながお父さんとお母さん、兄弟の写真を貼ったり、似顔絵を描いたりして、彩りも鮮やかに楽しそうな家族の様子を描いていたのに対して──中には、鬼のような顔をして怒っているお母さんや、厳しそうなお父さんの似顔絵を描いている子もいたけれど──ヒデヨシくんだけはただひと言、『りこんした』と、ミミズののたくったような乱暴な鉛筆の文字で、殴り書きをしていた。教室の後ろの壁に、クラスの全員分、貼り出された自己紹介カードを眺めていたわたしは、その文字に釘づけになったものだった。

『りこんした』

 それはつまり、結婚した二人が、離ればなれになってしまうってことだ。小学二年生のわたしでも、そのくらいのことは知っている。だけどまさか、こんな身近で『りこん』というものが起こっていたなんて、当時のわたしには思いもよらないことだった。

 その日一日中、わたしは授業もろくに耳に入らず、『りこんした』という殴り書きの文字を思い出したり、教卓の真ん前の席で黙々とノートを取っているヒデヨシくんの後ろ頭を眺めたりして、さまざまなことを考えた。

 ヒデヨシくんがときおり、授業中の教室から突然飛び出していってしまったり、かと思えば頭から水をざんぶり被って帰ってきたりするのも、全部その、りこんというやつのせいなんだろうか。一人の男の子をそんな行動に走らせてしまうくらい、りこんというものは子どもにとっても、たいへんなことなんだろうか。

 そのころはまだ、ピピとミミのことも知らなかったわたしには、離婚というものも死ぬこととおなじくらい、わたしとは無関係な遠いところでしか起こり得ない、未知なものだった。お父さんとお母さん、どちらか一方でもいない生活なんて、わたしには想像することも難しかった。

 恵まれていたのだ。

 一度は結婚するくらいに好き合っていた二人が、一体どうして離婚という選択をしなくちゃならないくらい、心が離ればなれになってしまうんだろう?

 ──ナナコ、ちゃんと先生の話聞いてる?

 そのころから、口うるさいお母さんみたいだったウメくんは、おかげでその日一日中、後ろの席から何度もわたしを突っつくはめになっていた。

「確かに、離婚はいやだけど」

 自分から声をかけてきたくせに、ヒデヨシくんは何故かとても困惑した様子で、思慮深げに首を傾げて言った。ヒデヨシくんが意外なほど、子いぬのようにきらきらとしたきれいな目をしていることに、わたしは気がついた。

「生きていれば、意外となんとかなることも、ある。それに、親が離婚しても、古屋とウメハルがふたごの姉弟なのは、変わらないだろ。それとも、なんだ。おまえたちは、親が離婚したらふたごの姉弟じゃなくなるのか」

「……ううん、違う。そんなことない」

 いつのまにかわたしは、しゃくりあげることさえ忘れていて、ふるふると首を強く横にふった。

「そうだろ。今は、それでいい」

 ヒデヨシくんは満足そうに頷いて、それからふと、はにかみがちに笑った。ヒデヨシくんがそんなふうに笑うところを、わたしははじめて見た。彼の笑顔があんまりにも突然で、思いがけないものだったので、わたしはぽかんと口をあけ、それに気づいたヒデヨシくんは慌てていつものふてくされた表情を取り繕って、

「それだけ、言っておきたかったんだ。じゃあな」

 ときびすを返し、だけどすぐに立ち止まって、ちょっと考えてから、ぶっきらぼうにつけ加えた。

「……ウメハル、早く見つかるといいな」

 それだけ言い残して、ヒデヨシくんは自分の席に戻っていった。

 ──ヒデヨシくん、ああして笑っていたほうがずっとすてきなのにな。

 ずっと肩に置かれたままだったさっちゃんとしいちゃんの手のぬくもりに、今さらのように浸りながら、わたしはぼんやりと思った。

 生きていれば、意外となんとかなることも、ある。その言葉は、のちのわたしの人生に多大な影響を及ぼすことになる。ヒデヨシくんのその言葉がなかったら、わたしはもしかすると、とうに生きることを諦めてしまっていたかもしれない。たとえば死んじゃいたいくらい苦しいことがあっても、生きてさえいれば。生きてさえいれば。そう言い聞かせて、わたしは今日まで生きてきた。そうして実際生きてみると、意外とどうにかなってしまうもので、苦難をひとつ、またひとつと乗り越えるたび、わたしは強くたくましくなっていくような気さえ、する。女性としては、ちょっとくらいか弱いところがあったほうがかわいげがあるような気もするんだけど、年を経るたびどんどん神経が図太くなっていくような気がするのは困りものだ。やっぱりわたしは繊細で傷つきやすいお母さんじゃなくて、おおらかでおおざっぱなお父さんに似ているみたい。

 実はヒデヨシくんにも、両親の離婚で離ればなれになった小さな妹がいたと知るのは、もっとずっとあとのこと、わたしたちがビールや梅酒をサイコーだと思える、大人になってからの話だ。

「おれ、あのとき古屋にすっげえ偉そうなこと言ったけどさ、本当は自分が誰かに、そう言って欲しかっただけなのかもしれない」

 同窓会の席で、すっかり肩幅も広く背も伸びて、ひげの剃り跡なんか作っちゃっている大人の男の人のヒデヨシくんは、そう言って照れくさそうに笑った。その笑顔には、彼が少年だったころの面影が、ふかぶかと刻み込まれていた。

「妹はさ、おれのこと覚えていないんだ。親が離婚したとき、あいつは本当に、すごく小さかったから。古屋んちの離婚騒動があってからしばらく経ったころ、冬だったかな。おれ、ひさしぶりに妹に会いに行ったんだ。あいつ、おれのことを怖がったよ。おれは赤ん坊のあいつがかわいくて仕方なかったから、結構、ショックでさ。それ以来、妹にもおふくろにも会ってないんだ。古屋にあんな偉そうなことを言ったくせに、情けないよな」

「でも、わたしは、ヒデヨシくんの言葉にずっと助けられて生きてきたよ」

 わたしはなんだかものすごく切なくなって、一生懸命そう言った。ヒデヨシくんはほろ苦い顔をして、笑った。



 結論から言うと、ウメくんは無事に見つかったし、お父さんとお母さんは離婚をしなかった。

 お父さんとお母さんのことに関しては、二人のあいだに果たして何があったのか、それはわたしの知るところではない。だけど二人はいつのまにか、すっかり仲直りをしていて、それどころか以前に輪をかけてお熱い夫婦になっちゃっているようでもあって、何はともあれ離婚とやらの心配は当面なさそうだったので、わたしはひとまずほっと胸を撫でおろしたのだった。

 ウメくんが見つかったのは、学校の近くの川沿いを、隣町までずっと行った先の土手の下で、警察に保護されたときには川岸に腰かけて、コンビニのおにぎりを一人でもそもそ食べているところだったらしい。ウメくんはちゃんと、お小遣いの入ったお財布を持って、家を出て行ったのだ。あの状況で瞬時にその判断ができたことに、わたしはある種の感服を覚えてしまわざるを得ない。ウメくんの服装や身体的特徴を元に捜索をしていた警官が声をかけたところ、彼は驚くほど素直に自分が古屋梅春であることを認め、おとなしく署まで同行したという。

 ──とても礼儀正しく冷静で、取り乱した様子もなく、家出中の少年とは思えないくらいでしたよ。ほかの同年代のお子さんと比べても、よほどしっかりしてらっしゃるんじゃないですかねえ。

 と、ウメくんを保護した警官のおじさんにお褒めの言葉までいただいたほどである。さすが、ウメくん。それにしても小学五年生の男の子がよくもまあ、まる三日も行方をくらましていられたものだ。わたしだったら一日も経たないうちに音をあげて、のこのこ家に帰ってきてしまい、家出をしていたという事実にさえ気づかれない自信がある。

 ウメくんが発見されたとき、わたしは学校の授業の真っ最中で、教室に飛び込んできた名前も知らない先生からのことづけで急いで帰り支度をし、お母さんの運転する黒のミニバンに拾われて警察署に向かうこととなった。お父さんはすでに会社から、直接署に向かっているところだという。ウメくんが保護されている隣町の警察署は、お父さんの会社のすぐ近くだった。

 教室から出るとき、男の子も女の子も分け隔てなく、みんながみんなあたたかく、わたしを送り出してくれた。ウメくんがいなくなった翌朝、さっちゃんとしいちゃんの顔を見るなり大泣きしてしまったせいで、ウメくんがいなくなってしまったことも、わたしたちの両親がどうやら離婚の危機にあるらしいということも、すでにクラス中のみんなの周知の事実となっていた。

 わたしのほうを向くたくさんの顔の中に、無意識のうちに、わたしはヒデヨシくんの顔をさがしていた。ヒデヨシくんは穏やかな瞳でわたしを見つめていた。目が合うと、小さく口角を上げてみせてくれた。なんだか勇気づけられたような気がして、わたしは大きく頷くと、みんなに向かって、

「ありがとう!」

 と叫んだ。それから急いで、教室を飛び出した。

 生きていれば、意外となんとかなることも、ある。そしてウメくんは、無事に生きて見つかった。だからきっと、大丈夫。お父さんとお母さんが離婚してしまっても、ピピとミミのことが終わってしまっても、わたしとウメくんがふたごの姉弟であるという事実は、終わらない。わたしたちがいつか星になるその日まで、ずっと、ずっと、続いていく。

 警察署につくと、会社から駆けつけたらしいスーツ姿のお父さんと、三日ぶりに見るウメくんがいっしょにいて、その姿を見るや否や、お母さんは声もなくウメくんを抱きしめた。あんまりにも勢いよく、強く抱きしめるので、わたしはウメくんが潰れてしまうんじゃないかと、ちょっと心配になったほどだった。ウメくんはお母さんの肩口に顔を塞がれたまま、もごもごと何か言おうとしていて、それでもお母さんはしばらく、ウメくんを離そうとしなかった。お母さんは泣いていた。わたしとお父さんは、じっとその様子を見守っていた。

「心配かけてごめんなさい、お母さん」

 ようやくお母さんの腕から解放されて口をきけるようになると、ウメくんは真顔でそう言った。たぶん、そんなふうに臆面もなくお母さんに抱きしめられたのが、気恥ずかしかったんだと思う。

「ううん、お母さんのほうこそ、ごめんね……!」

 白くて細長い、きれいな手が、愛おしそうにウメくんの頬を撫でた。ウメくんはじっと、お母さんのされるがままになっていた。お母さんは少しの躊躇ののち、ウメくんの耳たぶにふれるくらいにくちびるを近づけて、ほとんどウメくんにしか聞き取れない程度の小さな声で、おずおずと囁いた。

「……ミミ、いるんでしょう?」

 ウメくんが、小さく息をのむ音が聞こえた。少しの間があって、ウメくん──いや、今は、ミミだ──は、こくりと頷いた。目を閉じて、ひと呼吸ののち、再び目を見開いたときには、ウメくんはもうすっかり、ミミの顔になっていた。そのときばかりははっきりと、わたしはその変化を感じ取ることができた。ミミは、わたしたち三人の顔をひとりひとり見わたして、ちょっぴり照れくさそうに笑った。

「こんにちは、おひさしぶりね、初美ちゃん、惣一さん。もっともわたしはずっとここにいたんだけれど、こうしてちゃんと言葉を交わすのは、本当にひさしぶり。このあいだはつい感情的になってしまってごめんなさい。ウメハルにも悪いことをしちゃったわ。もしかするともうナナコに聞いているかもしれないけれど、わたしはわたしの生まれ変わりであるウメハルに、何の因果かこびりついている記憶の残滓ざんしのようなもの。一応言っておくけれど、取り憑いてるってわけじゃないから、安心してね」

 お母さんはたまらないように口元をおさえて、首を横にふっている。お父さんは目をまるくして、

「こりゃあ、たまげたなあ」

 とぼやいている。傍らの警官二人がわけもわからず困惑した表情を浮かべているのを、気にとめもしない。まったく、この家族ときたら、とわたしはなんだか笑い出したいような気持ちになった。離婚するか否かのの瀬戸際だというのに、マイペースなところばかり、ちっとも変わらないのだから。

「あなたにも、謝らなくちゃいけないって、思っていたの」

 お母さんは、しっかりとミミに目線の高さを合わせて言った。

「その必要はないわ、初美ちゃん」

 ミミはゆっくりと首を横にふって、それからちらっとわたしのほうに目をやって、気遣わしげにこう言った。

「ナナコにも関係のある話だから、聞いていてね」

 いきなりわたしの名前が出たので、わたしはどきっとして、慌てて姿勢を正した。お母さんが謝らなくちゃならないと思っていることで、わたしにも関係のあることって、一体、なんだろう?

 ミミは不思議と穏やかな口調で、言った。

「ピピはわたしより先に死んでしまったの。寿命だったわ」

 今度はわたしが息をのむ番だった。ピピとミミの死について、ミミ──あるいは、ウメくん──が言及するのは、これがはじめてのことだった。ミミは努めて淡々と話そうとしているように見えた。わたしを夜な夜な底なしの恐怖に陥れてきた、わたしに向かってぽっかりと口をあける、巨大な死のブラックホール。

「ピピが死んだとき、惣一さんは仕事で、家にはわたしと初美ちゃんしかいなかった。初美ちゃんはピピの鳥籠の前で、小さな亡骸を胸元に抱きしめて呆然と立ち尽くしていたわ。何が起こったのか、わたしにはすぐにわかった。近ごろピピに元気がないのは、遠くから聞こえてくるうた声の調子で、わたしもとうに気づいていたから。それではじめて、初美ちゃんの部屋に入ったの。もちろんすごく勇気がいったけど、今、初美ちゃんを放っておいたらいけないって、わたし思った。わたしはなるべくそっと初美ちゃんに近づいて、前足もお行儀よくそろえて、にゃあんって、鳴いたわ。そこでようやく、初美ちゃんはわたしに気がついた。初美ちゃんはいつものように、スリッパを持ってわたしを追いかけ回したりはしなかった。何を考えていたのかしら、しゃがみ込んで、わたしの前にピピの亡骸を差し出したの。そのときはじめて、わたしピピを間近で見た。思っていたよりずっと小さくて、年のせいか痩せこけていて、そしてやっぱりレモンイエローの古い羽バタキみたいにちんちくりんだった。そのときわたしの頭に、ぽつんと雨が振ってきた。見あげたら、初美ちゃんが泣いていた。わたし、雨は大きらいだったけれど、じっと我慢して、初美ちゃんのそばに寄り添っていた。わたしはねこだから泣かなかったけれど、もうあのうた声が聞けないんだと思うと、悲しくてたまらなかった。ずっと、ピピに会いたかった。あんなにきれいなうたを紡ぐピピのくちばしに触れてみたかった。だけど、それは叶わなかった。それからほどなくして、車に撥ねられてわたしは死んだの。でも、あれは不幸な事故だったのよ。ピピのこととは関係ないわ。だから安心して、ね、初美ちゃん」

 ミミは菩薩さまのようにほほ笑んで、自分よりずっと背の高いはずのお母さんをあやすように、優しい声で言った。お母さんの頬をまたひとつ、涙が静かにこぼれ落ちていった。

「ずっと、わたしのせいだと思っていた」

 お母さんは、大きな瞳をことさらに大きく見開いて呟いた。

「ずっとわたしが目の敵にしてきたから、あなたは家を出ていってしまって、それで車に撥ねられてしまったんだって。自分が悲しいときだけそばにいてほしいなんて、むしがよすぎたんだって。ごめん、ごめんね、ミミ。わたし、ミミにひどいこと、いっぱいしたよね」

 あとからあとからあふれてくるお母さんの涙を、指先でそっと拭ってあげながら、ミミは困ったように笑う。

「もう、初美ちゃんったら、おばかさんね。ねこはことりを狩るものと、本能でそう決まっているのよ。あなたがわたしを警戒するのなんて、当然のことじゃない。それに、初美ちゃんがわたしを家に置くことを渋ったのだって最初の数日だけで、あとは部屋に近づかない限り文句も言わず家にいさせてくれたし、ご飯だってちゃんとくれた。わたしが責めるとすれば、それはピピがいるのにわたしを拾ってきた、惣一さんの無責任さと無神経さよ」

 最後のほうはいたずらっぽく、お父さんのほうを見て言う。お父さんは罰が悪そうに肩をすくめてみせた。

「いやあ、参ったなあ。ミミのやつ、こんなに毒舌だったのか。あのころ、お前がねこで助かったよ。初美とミミに毎日のようにお小言をもらっていたら、さすがのおれも、心が折れる」

 『降参です』といった様子のお父さんに、ミミはおかしそうに声を転がして笑った。それから再びお母さんのほうをしっかりと向いて、励ますように明るく言った。

「ね、初美ちゃん。ピピが死んだとき、あなた、わたしに言ってくれたでしょう。『ピピのこと悲しんでくれているのね、ありがとう』って。ちゃんとわたしのことをわかってくれた。わたし、とってもうれしかったのよ。だからね、初美ちゃんのことも惣一さんのことも、もちろんピピのことも、わたしは大好き」

 ああ、ミミが、ミミがいってしまう。

 ピピが、わたしの中からいなくなってしまったのと同じように。

 わたしの知らない、どこか遠いところへ。

 空蝉うつせみの肉体を抜け出したその先は、一体どんなところなんだろう? 何も、なくなってしまうのかな? ミミは相変わらず菩薩さまのようにほほ笑んでいるけれど、自分の意識がどこか見知らぬ場所へと旅立ってしまうことが、怖くはないんだろうか? ピピだったころのことをすっかり忘れてしまったわたしには、やっぱりそれがどんな感覚かわからなくて、もどかしい。

「惣一さん、初美ちゃん。わたしにあたたかな居場所をくれて、ありがとう。二人と暮らせて、わたししあわせだったわ。それから、ピピのかわいい生まれ変わりさん。あなたとも、会えてうれしかった。いつかまた、どこかで会えるといいわね。それじゃ、また」

 言い終えると、ウメくんの体は突然、あやつり人形の糸がふっつりと切れたように、その場にくずおれた。あらかじめわかりきっていたかのように、お母さんがその体を抱きとめる。お父さんとわたしはしんみりと、今、まさに目の前で起こった別れの余韻に浸っている。傍らの警官二人だけが慌てふためいて、今度は救急車の手はずが整えられようとしていた。

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