Ⅵ.おしまいの日(そしてすべては落下する)
お父さんも交えて、家族会議が開かれることとなった。
お父さんが帰ってくるまでの、沈黙の気まずさといったら、なかった。わたしとウメくんが隣同士に並んで座り、わたしの向かいにお母さんが座り、そのあいだじゅう、誰もひと言もしゃべらず、目を合わせようともしなかった。時計の針が進む音や、お母さんがときおり、思い出したように咳き込む音だけが、静まり返ったリビングに、やけに大きく響く気がした。
──夏風邪でもひいちゃったのかしら。やあね、昔っから季節の変わり目には弱くって。
そう言って、お母さんが困ったように笑っていたのは昨日のことのはずなのに、今となってはもう、遠い昔のことのように思える。
「ただいまあ」
未来永劫、続くかのように思われた沈黙は、玄関のほうから聞こえてきた、お父さんの気の抜けた声によって破られた。わたしとお母さんは、『地獄の門』のように重く閉ざされたリビングのドア──以前、お父さんの画集で見た彫刻。確か、ロダンという人の作だった──を、はっと見やった。ウメくんは目を伏せたまま、微動だにしなかった。お父さんの帰りを、こんなに緊迫した空気に包まれたまま迎えるのなんて、はじめてだった。
「なんだい、今日は誰の出迎えもなしかい?」
いつも通りの調子でのんびりとリビングのドアを開けて、みんながいやにお行儀よく、まっさらなテーブルを神妙な面持ちで囲んでいる、という常軌を逸した光景に、お父さんはぎょっとしたようだった。お父さんは目に見えてうろたえて、助けを求めるようにわたしとウメくんとお母さんの顔を、かわるがわる見つめた。
「どうしたんだい、みんなして、お通夜のような顔をして」
「ウメがナナコにキスをしたわ」
お母さんがすかさずそう答えたので、ちょっとやそっとのことでは動じないお父さんも、さすがに目をまるくした。ウメくんはやっぱり押し黙って、否定も、肯定もしなかった。
わたしは『違う』と言ってしまいたかった。その言い方は、たぶん、ものすごく語弊がある。だってあれはウメくんではなくミミだったのだし、そもそもミミがわたしにしたのは、そりゃあ確かにキスに似ていたかもしれないけれど、だけどキスじゃない。わたしのくちばし(のかわりであるところの、くちびる)にただ一度、ふれてみたいという、前世で果たすことの叶わなかった純粋で、透明な願いを、彼女はようやく果たしただけに過ぎないのだから。
だけどそのことを説明したところで、お父さんやお母さんに信じてもらうことなんて、できるだろうか。押し黙っているウメくんのかわりに、二人で大事にあたため続けてきたこのひみつを、わたしは解き明かしてしまってもいいものだろうか。ウメくんの沈黙の意図が、わたしにはわからない。わからないから、途方に暮れるしかない。
「だから言ったのよ、小学五年生にもなって、ウメとナナコは仲がよすぎるって。おかしいと思ってたわ」
わたしがぐるぐると思考を巡らせているあいだも、話はどんどんおかしな方向に進んでいく。
違う。違うのに。そんなんじゃ、ないのに。
「母さん」
黙りこくっていたウメくんがやにわに口を開いたので、わたしも、お父さんもお母さんも、その場にいた全員の視線がウメくんに集中した。何しろ今まさに、古屋家はじまって以来の家族会議の、議題の中心となっている人は、彼なのだから。
お母さんがこの事態に明らかに動揺し、取り乱しているのに対して、ウメくんは意外なほど落ち着いて見えた。
「ぼくとナナコはふたごだよ。家族なんだ。どうしてキスをしちゃいけないの」
わたしはびっくりして、ウメくんの横顔を見つめた。だってそれじゃまるで、わたしにキスしたことを、肯定しているようなものだと思ったから。
「家族だからよ!」
お母さんはそう叫んで、バン! と激しくテーブルを叩いた。わたしは思わず顔をしかめる。わたしは普段の優しくてきれいなお母さんは大好きだけど、ヒステリーを起こしたときのキンキンと耳に痛い叫び声や、むやみやたらと立てる大きな物音は、大嫌い。
「まあ、少し落ち着きなさい、お前」
お父さんはかばんを置いて、スーツの上着だけ脱いで椅子の背もたれにかけると、ウメくんの真向かいの席に腰をおろした。
「ウメ、本当なんだね」
「本当よ!」
「初美、おれはウメに訊いているんだよ」
「本当だよ」
『ウメくん、どうして』とわたしはその場でなりふり構わず問い正してしまいたかった。だって、本当のところは、そうじゃない。これではお互いのみぞが、どんどん深まっていくばかりだ。生前、海よりも深くピピとミミを隔てていた、あの境界線みたいに。
「どうしてそんなことをしたのか、父さんに教えてくれるかな」
「そんなの、理由なんてひとつしかないわ!」
「初美」
「それは、言えない」
ウメくんは、お父さんの朝のコーヒーとおんなじ色をした瞳で、じっとお父さんを見つめて言った。
「どうして言えないんだい」
「うしろめたいことがあるのね。そうなんでしょう」
「……言っても、信じてもらえないと思うから」
ウメくんは、ちょっと躊躇したみたいだった。お父さんはというと、もうお母さんを制することはすっかり諦めてしまっている。一度こうなってしまったら、腹の虫が勝手におさまるまで、お母さんの馬車馬のごとき暴走は、もう誰にも止められないのだ。それはわたしとウメくんも、長年の経験からしかと心得ている。
「ちゃんと話してくれないと、父さんと母さんはおまえたちを無理やりにでも引き離さざるを得なくなるよ」
「構わないよ」
ウメくんの答えには寸分の迷いもなく、わたしは息をのんだ。
それはわたしが最も恐れていたことだった。だってわたしたちはことりのように睦まじく、ずっといっしょだったのだ。わたしたちを分かとうとする、何か得体の知れない無形の力や、お母さんの甲斐甲斐しい努力にも屈することなく、手を繋いではいちぢく屋さんに行き、お風呂にだって毎日欠かさずいっしょに入る。わたしが声を殺して泣く夜には、ベッドの上と下とで手を結ぶ。
わたしにはどうしても、ウメくんが必要だった。もはやそれが、ピピが魂に刻みつけていった思いのためであるのかさえ、わたしにはわからなかった。
「わたしは、嫌だ」
そんなつもりはなかったのに、声が震えた。
「ナナコ」
ウメくんは、困ったような顔をしてわたしを見た。わたしが、ウメくんを困らせてしまっている。でも、それだけはどうしても、黙って受け入れるわけにはいかなかった。
「わたし、ウメくんといっしょがいい」
「ナナコ、だめなんだ」
ウメくんの口調は、いつしか諭すようなものになっている。
「ぼくたちは、もう以前のようにあり続けることはできない。ナナコだって、本当は気づいているんだろう? ぼくたちが、ぼくたちだけに交わすことのできた言語を、もはや失いつつあること」
ウメくんの言うことはいつだって、どうしようもないくらいに正しい。たとえその答えが、わたしの求めるものとは違っていたとしても。
わたしはいやいやをするように、首を横にふった。泣いてしまいたかった。これが今日じゃなくて昨日までだったら、不器用で優しいウメくんは、泣きべそをかくわたしにちょっとうろたえて、それでも控えめに、手を差し伸べてくれたに違いなかった。でも、今回ばかりはそうはいかないことが、わたしには痛いほどわかってしまった。それがわたしたちに交わせる、音のない、最後の言語だった。
「ぼくはね、正直今回のことは、ぼくたちにとってもちょうどいい機会だと思っているんだ。終わりにするんだよ、あのふたりのこと。ふたりがぼくとナナコに刻みつけていった思いから、ようやく解放されるんだ。喜ぶべきことじゃないか。ぼくたちの心も体も、やっとぼくたちだけのものになるんだから。ぼくたちはこれまで、あのふたりの事情に、巻き込まれすぎていたんだよ。だから、ね、もうおしまいにしよう」
あのふたり。巻き毛カナリヤのピピと、灰色ねこのミミのこと。
本当はさっき、ミミがくちびるを舐めたときに、すでにわたしは知ったのだ。ピピの生まれ変わりであるわたしに、ミミが今、まさに別れを告げようとしていること。ミミ自身の意思で、そう選んだということを。だけどわたしはそんな言葉、聞きたくなかった。いつのまにか、わたしたちがピピとミミだったという事実は、わたしたちの絆そのもの──それもおそらく、最後の──となってしまっていた。
わたしたちのやり取りの一部始終を端で見ていたお母さんは、一体何を勘違いしたのだろうか、勝ち誇った様子で高らかに言い放った。
「ほらね、やっぱりわたしの言った通りでしょう。男っていうのはみんな、はなっから信用ならない生き物なのよ。女と見れば見境なく、盛りのついたねこみたいに。だけど、早くに気がついてよかったわ。これでウメとナナコが、おかしな道に進んでしまうこともなくなるんですもの。これからは、ちゃんとした、普通の姉弟として、暮らしていける──」
「いい加減にしないか!」
お母さんが言葉を全部言いきる前に、お父さんがいきなり、ものすごい怒鳴り声をあげたので、お母さんはもちろん、わたしも、ウメくんでさえ、その場にいた全員がびくっとしてお父さんを見た。
お父さんは、ものすごく怒った顔をしていた。お父さんがそんなふうにお母さんを、というよりも誰かほかの人を怒鳴りつけるところを、わたしはこれまで一度として見たことがなかった。お父さんはおおらかな人で、たいていのことはその広いふところに受け止めてくれる。それでもどうしても、何かを言い聞かせなければならないときには、含み、諭すように、静かに話す人だったから。
「お前、なんてことを言うんだ。ウメハルに対して、失礼だぞ」
お父さん、今、『ウメハル』って言った。こんなときなのに、どうでもいいようなことに、わたしは気がついてしまう。
「だって、だって、あなた」
お母さんはおろおろとしている。当たり前だ。蝶よ花よともてはやされてきたこの人は、たぶん自分の両親にだって、怒鳴りつけられたことなどなかったのだろうから。
「だっても何もあるか! おまえはウメハルのことを、なんにもわかろうとしていないじゃないか。自分の思い込みばかりで、二人の話をなんにも聞こうとしていないじゃないか。少なくとも今のは、十歳かそこらの子どもに対して言うようなことじゃ、断じて、ないぞ。自分がどれほどのことを言ったのか、お前は、わかっているのか!」
「仕方がないじゃない、だってわたしは、病気なのよ──」
お母さんは陸に打ちあげられた魚のようにはくはくと、浅く息をついて、すがるように弱々しく言った。
ああ、お母さんは今、言っちゃいけないことを言った。お父さんとお母さんの表情を、はらはらしながら見交わしていたわたしには、そのことがありありと伝わってきてしまった。
「病気が、人を傷つけていい理由になると、お前は思ってるのか」
お父さんの声音は、今さっきの大声がうそのように、恐ろしいまでの静けさを湛えていた。
「それは……」
お母さんはあからさまにうろたえて、言葉につまる。
「そうか。そうなんだな」
それはお父さんが何かを言い聞かせるときの調子に少し似ていたけれど、もっともっと冷たいものを孕んだ、別の何かだった。わたしはこのときはじめて、お父さんのことを『怖い』と思った。
「初美、お前には幻滅したよ。もう、おしまいにしよう、何もかも。おれとお前がこれまで築きあげてきたもの、全部だ」
「なんですって?」
「離婚だと言っているのが、わからないのか」
「……ご冗談でしょう?」
お母さんは目を剥いた。
わたしには、お父さんが何を言っているのか、理解することができなかった。
離婚? お父さんと、お母さんが?
ビールよりも茹でた枝豆よりも動物よりも、母さんは別格に決まってるだろう、と笑っていたお父さん。今はビールっ腹だけど、昔のお父さんは映画に出てくるヒーローみたいにかっこよかったのよ、とないしょ話みたいに囁いた、お母さん。
あの、二人が?
今、目の前で起こっている現実と、思考回路が乖離してしまったかのように噛み合わない。まるで脳みそが自ら、オブラートの繭にくるまって、考えることを放棄してしまったよう。
「子どもたちのためだ。ウメハルとナナコは、おれが連れていく」
「ふざけないでちょうだい……ウメとナナコはわたしの子どもよ!」
「子どもを守ってやるのが親の役目じゃないのか!」
「渡さないわ、あなたなんかに!」
わたしがぼけっとしているあいだにも、現実は淡々と進む。わたしたち子どもの都合なんか、神様はこれっぽっちも考えてはくれない。わたしは悪い、夢でも見ているのだろうか?
「もうやめて!」
いつのまにか双方椅子から立ちあがり、『どっちのほうが大きな声を出せるか合戦』みたいに、のどが破れんばかりの大声を張りあげ合っていた二人は、悲鳴にも似たその叫びが部屋の空気をつんざくのに、揃ってぴたりと動きを止めた。
ウメくんだった。いや、もしかしたら、ミミだったのかもしれない。あるいはその、両方だったのかも。
「やめて、お願いよ。けんかなんて、もうたくさん」
その声は掠れ、震えていた。
「……ウメ?」
急に女の子みたいな言葉づかいになったウメくん(ミミ)を、お母さんは訝しげに見た。ミミは、張りつめた眼球を、大きく見開いていた。すべらかな肌の上を、透明な涙の珠がするりとすべり落ちていく。あ、きれいだな、ってわたしは思う。ウメくん、とってもきれい。ウメくんが泣いているのを見るのなんて、何年ぶりだろう。わたしとウメくんがまだ本気の取っ組み合いをしていたころは、ウメくんを負かして泣かせてしまうことなんて、しょっちゅうあったものだけれど。
「あの夜だってそう。わたしは惣一さんのコートにすっぽりくるまれてこの家に連れてこられて、そうしたら初美ちゃん、わたしがことりを食べちゃうかもしれないって、今日みたいに癇癪を起こして。そのときは惣一さん、のらりくらりとかわしていたし、家にたどり着くころにはわたしはすっかり彼の体の安心なあたたかさが好きになっていたけれど、わたしが家に来たせいで彼とお嫁さんがけんかになるくらいなら、外で雨に打たれていたほうがよっぽどましだって、わたし思ったわ。わたしのせいで、誰も争ってほしくなかった。前の人に捨てられたのだって、それは悲しかったけれど、わたしが邪魔だったのなら、仕方のないことだって思っていたのよ」
お父さんは目をまんまるくして、言葉を失っている。お父さんはたぶんもう、目の前にいるのがウメくんじゃないってことに、気がついている。ミミは、お父さんのねこだったのだから。
ウメくんのくちびるを借りてミミが話すあいだにも、鏡のような眼球からは、涙があとからあとからあふれて、止まらないのだった。感情をうまく表に出せない、不器用なウメくんのぶんまで、ミミが泣いているような気が、わたしは、した。たぶん、今、ウメくんとミミの感情は、かつてないくらいにひとつだった。
「もう、たくさん。たくさんよ」
ウメくん(ミミ)は放心した様子で呟くと、ふらふらと、リビングをあとにした。わたしも、お父さんもお母さんも、身動きひとつ取れず、呆然とそれを見送ることしかできなかった。そうして、どのくらいの沈黙があっただろうか。やがて玄関のほうで、ガチャン、とドアの閉まる音がして、わたしたちはウメくんが、家から出て行ってしまったことを知った。お母さんは、にわかにくずおれるようにして、ぺったりとその場に座り込んでしまった。
「あの子だわ」
お母さんは自分の体を抱きしめて、がたがたと震えていた。
「あの子が帰ってきたんだ。やっぱりわたしを恨んでいたんだ。思い返してみれば、まだ言葉を覚えて間もないころから、ウメはああいう言葉づかいをすることがしょっちゅうあったわ。ウメとナナコを身ごもったときから、祝福なんかされるはずもなかったのね、わたしたち。一番最初の子はこの手で殺して、その次の子はちゃんとこの世に送り出してあげられなくて、捨てられて雨に濡れそぼっていたあの子にだって、わたしは酷いことばかりして。わたしがウメをそういうものに、生んでしまったのね……」
「違う、ミミは、お母さんを恨んでなんかいない!」
わたしは思わずそう叫んでいた。お母さんも、お母さんに手を貸そうとしていたお父さん──けんかをしていても、躊躇なくこういうことができるあたり、お父さんは確かにヒーローだ──も、びっくりして、今度はわたしを見つめた。
「どうしておまえがミミのことを知っているんだい、ナナコ」
「わたしはピピよ、お母さん」
尋ねてきたのはお父さんだったけれど、わたしはお母さんの目を見て言った。だってわたしはお母さんのことりだったのだし、お父さんに信じてもらうよりも、お母さんに信じてもらうことのほうが難しくて、だけど先決だと思ったから。
話すことに、もう迷いはなかった。
「あのね、ミミは、わたしのうたが好きだったんだって。それで、わたしはピピだったころのことをすっかり忘れちゃったんだけど、ウメくんは覚えているの。だけどミミはねこだったから、ことりのわたしには近づくことも許されなくて、だからわたしたちは生涯出会うことは叶わなかった。でも、それだけ。わたしとウメくんはちょっと出会うのが遅すぎただけだし、ミミはうたを紡ぐわたしのくちばしにふれてみたかっただけ。それにね、お母さん。ミミはお母さんのことを恨んでもいないよ。星になってしまった、わたしたちのもう一人の兄弟のことを思ってお母さんが泣いているとき、ミミはいつも家のすみっこで、おとなしくしていたでしょう。それはお母さんのこと、心配していたからだよ。大丈夫、わたし知ってるわ。ミミは誰かを恨むような子じゃないの。だってミミは、お父さんのねこだったんだもの」
わたしはもう何も包み隠さず、わたしの中からいなくなってしまったピピや、家を飛び出して行ってしまったウメくん(ミミ)のぶんまで、思いの丈のすべてをぶちまけるつもりで、まくし立てるようにそう言った。途中で何度か、言葉に迷ってつっかえてしまいそうになったけれど、どうにか伝えるべきことのすべてを吐き出してしまうと、不思議と達成感に包まれて、お父さんとお母さんが何らかの反応を示してくれるのを待った。
「そうか」
まず先に、お父さんがぽつんと呟いた。その声に、何の疑念も、困惑もなかった。
そうか。
その、ほんのわずかなひと言といっしょに、わたしの話したうそのような本当のことも、お父さんの中にすとんと落ちる。よかった、お父さん、わたしの話を信じてくれた。もう迷いはなかったはずなのに、そうとわかるとやっぱり少しほっとした。
問題があるとすれば、それはさっきから押し黙ったきり何も言わない、お母さんのほうだった。何の動きも見せようとしないお母さんの顔色を、わたしはおそるおそる窺った。
お母さんは、不思議な瞳でわたしを見つめていた。底の見えないコーヒー色の瞳は、ウメくんによく似ている。それはつまり、わたしと似ている、ということでもある。懐かしいような、かなしいような、慈しみのような、そんな言葉にならないいくつもの感情が、穏やかな海となってお母さんの内側を満たしている。
あたたかかった。
だけど、さみしかった。
星になってしまったわたしたちのもう一人の兄弟と同じように、ピピはもうここにはいない。
お母さんは、わたしの体のかたちを確かめるようにそっと、細長い指先で、肩や腕のあたりをたどった。そしてそのまま注意深く、壊れものにふれるかのような手つきでわたしを抱き寄せて、
「……ピピ」
一度だけ、短くそう呼んだ。
──生きていたころきっとピピは、小枝のように今にもぽっきりと、折れてしまいそうな脚をしていたに違いない。
お母さんのくちびるから、わたしが『ピピ』という名前を聞いたのは、生涯を通じてその一度きりだった。だけど、あのとき感じた途方もない感情は、忘れるはずもない。それはわたしの体の、というよりはきっと魂の、奥深くから洪水のようにわき起こり、きんいろの星を散らして歓喜の渦に跳ね回った。
ああ、わたしはかつて確かに、ピピだったのだ。
ずっと知っていたことのはずなのに、そのときわたしはようやく、身をもって確信することができた。そして、わたしがもうピピではないという、歴然とした事実も。
今、お母さんは、古屋七子の母親ではなくて、巻き毛カナリヤのピピの飼い主の、『初美ちゃん』としてそこにいた。幼いころはわたしも口にしていたというその呼び名を、よほど口にしてしまいたかったけれど、わたしは耐えて、じっと抱きしめられていた。だってそれはピピの言葉であって、古屋七子が今、ピピのふりをしてそれを言うのは、とてもずるいことだと思ったから。
ピピの魂と初美ちゃんの、つかのまの再会が済んでしまうと、お父さんとお母さんは今になってようやく、ウメくんがいなくなってしまった事実に気がついたかのように、にわかに行動に移りはじめた。
「初美、とにかく、おれたちの今後についての話はあとだ。今はウメをさがそう。まだ、近くにいるかもしれない」
「ええ、そうね」
どういうわけか二人とも、すっかり落ち着きを取り戻してしまっていた。わたしがピピだったことを知っても、お母さんがさほど驚いたり取り乱したりしなかったことに、わたしは内心拍子抜けしていた。
「わたしも行く!」
連れ立って外へ出かける準備をしはじめた二人を追って、わたしも急いで玄関に走った。
「だめだ」
わたしの前に立ちはだかったのは、お父さんだった。
「でも、でも、ウメくんはわたしの弟だ!」
わたしは必死で言い募った。
「ナナコは家にいなさい。何かあったらすぐに連絡するから、ね」
お母さんはもう『初美ちゃん』ではなくて『お母さん』の顔に戻っていて、優しい、けれど有無を言わさぬ口調でそう言って、わたしの頬にキスをした。お父さんとお母さんにこうして手を組まれてしまっては、わたしはもう、しぶしぶ頷くほかなかった。『何さ、さっきまであんなに仲たがいしていたくせに』と、よほど口を突いて文句を垂れてしまいそうになったけれど、そこはどうにか押しとどまったのだから、わたしはわたしををほめてあげてもいいと思う。
口をへの字に曲げたわたしの目と鼻の先で、玄関ドアが重たい音と共に閉まり、こうしてわたしは一人、家に取り残されたのだった。
その日、ベッドにもぐり込んでみても、わたしはなかなか寝つくことができなかった。本当に一人ぼっちの夜なんてはじめてだったし、一連のできごとにまだ胸がドキドキしていたし、何よりこんな時間に外に飛び出していってしまったウメくんが心配だった。それに、お父さんとお母さんに対して、がっかりもしていた。ウメくんがあんなにきれいな涙をこぼして、わたしとウメくんがピピとミミの生まれ変わりであるというひみつさえ、わたしたちは解き明かしてしまったのだから、そのままなんとなく、二人の離婚話がなあなあになってくれるんじゃないかと、正直なところわたしは淡い期待をしていたのだ。だけど、現実はそううまく運んではくれない。
──ヒデヨシくんのお父さんとお母さんみたいに、離婚してしまうようなこと、古屋惣一と古屋初美に限っては絶対に、ない。
いつだったか、そんなことを考えたのを思い出して、わたしは布団にくるまったまま、ぎゅっと目をつむる。あのころのわたしはなんて幼くて、無垢で、そしてあさはかだったんだろうか。
絶対にない、なんてことは、あり得ないのだ。
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