Ⅴ.砕け落ちるティーカップ、わたしの恐れるいくつかのこと

 わたし古屋七子と、ウメくんこと古屋梅春は、ふたごである。わたしが先に生まれた姉で、ウメくんがあとに生まれた弟。そしてこれはほかの誰も知らないことだけれど、わたしたちはわたしたちの両親であるところの古屋惣一と古屋初美に飼われていた、巻き毛カナリヤのピピと灰色ねこのミミの生まれ変わりである。

 ウメくんは自分がミミだったころのことを、自分で見聞きしたことのように、あれこれ詳しく話すことができるけれど、わたしはピピだったころのことを、ただの少しも覚えてはいない。どうやら昔は覚えていたらしいのだけれど、いつのまにか、全部どこかに置いてきてしまった。だけどわたしは信じている。わたしたちはかつて、巻き毛カナリヤのピピと、灰色ねこのミミであったと。お父さんもお母さんも、クラスで一等仲のいいさっちゃんとしいちゃんも知らない、わたしとウメくんだけのひみつ。

 三角の海がぴかりぴかりと笑っていた、あの初夏の日から三年の月日が流れ、わたしたちは小学五年生になった。わたしたちは相変わらず、ことりのように睦まじく、水曜日のいちぢく屋さん行きも続いている。行き帰りには手だって繋ぐ。わたしたちの肌は、互いにぴったりと吸いつくようによく馴染む。ウメくんの体にふれていると心臓のあたりがきゅっと締めつけられるような、安心なような、そんな感覚も変わらずに、ある。わたしの脳みそはピピだったころのことを忘れてしまったけれど、きっと魂がピピの鮮やかな思いを覚えているに違いないと、わたしとウメくんの見解は一致している。

 ピピとミミだったころの話は、以前ほどしなくなった。ときどきは話すこともあるけれど、話す必要がなくなってしまった、というのが何より大きい。わたしとウメくんがかつてピピとミミであったということは、わたしたちにとって、あまりにも当たり前の事実となってしまったのだ。いちぢく屋さんの店先のベンチでも、わたしたちが話すのは、クラスで起こった小さな事件のことや、いのちのこと、あるいは宇宙や天体のことになった。ウメくんの興味は海にはじまって、生命の起こり、ヒトを構成するもの、やがて宇宙の成り立ちについてのことへと移ろっていったのだった。わたしはやっぱりウメくんの言葉の半分も理解することはできなかったけれど、春雨の降るような彼の話し声は、いつだって耳に心地がよかった。クラスの男の子たちの中にはちょっとずつ、声変わりを迎える子も出はじめたけれど、ウメくんはまだ、少年の声をしている。そうしてわたしにはよくわからない難しそうな本を、たくさん読んでいる。

 近ごろお母さんは、わたしとウメくんが小学五年生になっても仲がよすぎることを、いささか心配しているらしい。いわく、

「あの子たちももう、五年生でしょ。あのくらいの年ごろにもなれば、異性の、それも同い年の姉弟で手を繋ぐなんて、普通は恥ずかしがるものよ。お風呂だっていまだにいっしょに入っているし、そろそろ部屋も分けたほうがいいんじゃないかしら。わたし、何かあったらって心配なのよ。だってウメは、いくら子どもだって言ったって、男の子でしょ──」

 これが、お母さんの言い分である。もちろん、面と向かって言われたわけではなく、夜、リビングでお父さんにそう話しているのが、わたしたちの部屋にまで筒抜けだったのだ。わたしとウメくんは互いに押し黙ったまま何も言わなかったけれど、二段ベッドの上と下とで、二人の会話にじっと耳をそばだてていた。

「『普通は』だなんてこと、おれはどうでもいいと思うよ。あの子たちにも失礼だ。ナナコとウメが自分たちからそうしたいって言い出すまで、好きにさせておけばいいんじゃないか」

 お父さんがこちら側についてくれたので、わたしたちはひとまずほっと胸を撫でおろしたのだけれど、その後もお母さんの、

「ナナコちゃんとウメくんも、そろそろ自分一人だけの部屋が、欲しいんじゃないの」

 とか、

「そろそろ一人でお風呂に入るようにしたら」

 とか、わたしたちを引き離そうとする地道な努力は続いている。

 そのたびにわたしは、

「ううん、ウメくんといっしょがいい」

 と言い、ウメくんも、

「ぼくも、ナナコといっしょじゃなくちゃ嫌だ」

 と答える。するとお母さんは複雑そうな顔をして押し黙り、皿洗いや洗濯物、アイロンがけや晩ご飯の支度に戻ってしまう。そんな調子だから、ここのところお母さんの『ソウキョクセイショウガイ』はいささか不穏な雲行きを見せている。お母さんは何の前触れもなく塞ぎ込んだり、かと思えばある日突然妙にハイになっていたりした。それが『ソウキョクセイショウガイ』の主たる症状であることを、ウメくんを通じてわたしは知った。

 わたしたちは何もお母さんを困らせたいわけではなく、それどころかきれいで優しいお母さんが大好きだったから、そのことをとてもとても申しわけなく思うのだけれど、それでもどうしようもなく、互いに互いを求め合ってしまうのだから、仕方がなかった。

 お母さんが何を恐れているのかなんて、わかりきっている。わたしたちが、思春期というものに差しかかりつつあることだ。男の子は声変わりを迎え、女の子の胸は蕾のようにふくらみ、そうして少しずつ、わたしたちは大人に近づいていく。男の子は女の子の体に、女の子は男の子の体に、興味を抱くようになる。

 わたしたちが男女の姉弟であるがゆえにお母さんがあらぬ心配をしているのは、わたしもウメくんも、お母さんからじかに話を聞かされているお父さんもちゃんと気がついていて、ある日お母さんがお風呂に入っているときに、お父さんはこっそりわたしとウメくんを呼びつけて、珍しくまじめな顔をしてこう言った。

「最近、母さんがやけにお前たちを引き離そうと躍起になっていることは、ウメとナナコも気づいているだろう。特に、ウメ。ウメは男の子だから心配なんだって、前に母さんが父さんに話していたの、お前たちにも聞こえていたよな?」

 わたしとウメくんは目配せをして、ちょっとためらってから、頷いた。お父さんはわけ知り顔であごに手をやって、

「だよなあ。あいつ、神経が昂っていると、いやに声がでかくなるからなあ」

 とぼやき、それから再び改まった様子で、

「お前たちはまだ子どもだけど、もういろんなことがわかる年ごろになったと、父さんは思う。だから、話すよ。母さんは昔、悪い男の人に、とてもとても酷い目に遭わされたんだ。母さんが『ソウキョクセイショウガイ』になってしまったのは、お前たちのもう一人の兄弟をちゃんとこの世に送り出してあげられなかったっていうのもあるけど、元をたどれば全部その、悪い男の人のせいなんだ。母さんは今でもそのときのことを忘れられていなくて、父さんに対してもウメに対しても、ときどきひどく注意深くなってしまう。でも、心配はいらないよ。お前たちは間違いなく、父さんと母さんに望まれて、祝福されて生まれてきた子どもだ。母さんは自分の子どもをちゃんと愛せる人だって、そう思ったから、父さんは母さんと結婚したんだ。父さんも母さんも、お前たちのことをとても愛しているし、愛しているから心配もする。だけど母さんがどうしても、不安で不安で仕方なくて、その不安をお前たちにぶつけてしまうときには、父さんのところにいつでも逃げてくればいい。会社に来たっていいんだぞ。電車で一駅乗ればすぐだ。そうしたら父さん、ウメのこともナナコのことも母さんのことも、みんなまとめて抱っこしてやるからな」

 お父さんが、ウメくんを傷つけないように細心の注意を払って言葉を選んでいることは、いくら鈍感なわたしにだってわかった。お父さんはおおざっぱとかおおらかとか、そういう言葉を絵に描いたような人だけれど、本当はとても優しくて、ちゃんと人の立場になって物事を考えられる人で、だからお母さんをずっと支えてくることができたんだと、こういうとき、わたしは強く感じる。

「ええ、わかってるわ」

 ウメくんが、急に女の子のような言葉づかいになったので、お父さんは不意を突かれてきょとんとした。わたしはひやっとして、横目でウメくんをちらちらとうかがった。我に返ったウメくんは、自分で自分の言動にうろたえて、あたふたと視線を宙に泳がせながら、

「その、ほら、ぼくは母さんに性格が似てるってよく言われるし、だから母さんが不安になるのも、仕方がないことだって、ちゃんとわかってるよ。だから、大丈夫」

 とどうにか取り繕った。お父さんはウメくんの女言葉については一切言及せず、

「そうか。ウメは強いんだな。なら、大丈夫だな」

 とだけ、言った。本当にお父さんは、わたしとウメくんのことを、ほかの誰より一番わかってくれている。

 たぶんウメくんはそのとき、ミミだったころに知ったお母さんのつらい過去を、思い返していたんだと思う。だけどわたしは、お母さんの過去に何があったのか、ずっと以前にウメくんにそれとなく聞かされたのを、おぼろげに覚えているだけだ。当時、幼いわたしの耳に、ウメくんの話は何やらひどく恐ろしげに聞こえて、年端も行かぬ子どもだったわたしにはよく意味のわからないところも多かったし、今、あえてその意味を知ろうとも思わない。いつか知るべくして知ることになるかもしれないし、大人になったら自然と、それがどういうことだったのか、わかる日がくるのかもしれない。

 何もわたしたちは、お母さんが憂えるように、互いを男女として、そういう意味で求め合っているわけではないのだ。

 ただ、ほんの少し、出会うのが遅すぎたから。生まれ変わる前、海よりも深い境界線が、生涯にわたってわたしたちを隔てていたから。だから普通の姉弟よりもほんのちょっとだけ強く、寄り添っていたいと、その魂にふれていたいと、祈りにも似た透明さで、願ってしまうだけなのだ。



 ところで、小学二年生のひと夏のあいだ、わたしたちがまだ、水曜日のいちぢく屋さん行きのたびにピピとミミについての話をしていたころ、ひとつだけ、決して口にしなかったことがある。

 ピピとミミの、死についてのことだ。

 ピピとミミの生まれ変わりであるわたしとウメくんが、今、こうしてここにいるということは、わたしたちの存在は絶対的に、ピピとミミの死によって裏づけられている、ということにほかならなっかった。ミミだったころのことを覚えているウメくんは、きっとミミが死んだときのことも、自分が体験したことであるかのように話してみせることができたに違いない。だけどウメくんは決して、その話だけはしなかった。だからわたしも、ふたりがどのようにして死んだのか、言及することはなかった。わたしにとってあまりにも未知な『死』というものが、猛烈に怖かったせいもある。

 わたしたちがピピとミミの話をほとんどしなくなったあとも、死への恐怖だけは年を重ねるに連れてどんどん大きく膨れあがって、今やわたしに向かってぽっかりと口をあける、巨大なブラックホールと化していた。

 昼間、学校に行って、さっちゃんやしいちゃんといっしょに笑ったり、ふざけ合ったりして、楽しく過ごしているあいだは、まだ、平気だ。わたしはいつか自分にも死というものが訪れることなんかきれいさっぱり忘れていて、お気楽にけらけら笑っている。

 死への恐怖は必ずと言っていいほど夜、わたしの元へやってくる。

 まっくらで、なんにもない。わたしという存在は、完全に、なくなる。わたしの中からピピがいなくなってしまったのと同じように。この世に生まれてこなかった、わたしとウメくんのもう一人の兄弟のように。彼らは一体、どこに行ってしまったんだろう? いつも学校で楽しそうに笑っているさっちゃんやしいちゃんも、こんなふうに『死』について、考えることがあるんだろうか?

 わたしが死んでも朝が来て、夜が来て、また朝が来て夜が来て、世界は何事もなかったかのように進み続けて、だけどわたしがあらたな朝の訪れを知ることは、二度と、決して、ない。ミミのような特例もあるけれど、それがどんなに確率の低いことであるかなんて、言うまでもない。現にわたしの中から、わたしの前身であるはずのピピは、いつのまにかいなくなってしまった。わたしという存在は世界から失われて、忘れ去られる。そうしていつか、誰もわたしを知らない世界になる。永遠に──。

 そう考えると恐ろしくてたまらなくて、わたしはいつもベッドの中で、声を殺して泣いた。すると必ずと言っていいほど、二段ベッドの上から、ウメくんの腕がためらいがちにおりてきて、わたしに向かって差し伸べられるのだった。ウメくんの手を握ると、わたしたちの肌はやっぱり互いに吸いつくようによく馴染んで、心臓のあたりがきゅっと締めつけられるような感じがして、そうしてわたしは少しだけ、死への恐怖を忘れることができた。

 あのとき、わたしが何を思って泣いていたか、ウメくんが知っていたのかどうかは定かではない。すべてを見すかされていたような気もするし、わけもわからず途方に暮れて、彼にできる精一杯のことを考えた末に導き出した答えが、二段ベッドの上からおりてきた、あの腕だったのかもしれない。

 そう、わたしはこのころから次第に、ウメくんが何を思い、考えているのか、感じ取れなくなっていた。話の内容が難しいから理解できないとかそういうことではなくて──だってそれは、昔からだし──たとえば二人のあいだに訪れる心地よい沈黙だとか、わたしの耳に以前は自然と聞こえてきた、声にならない『さみしい』という叫びだとか、暗黙のうちに共有できていたわたしたちだけの言語、あるいはルールといったものを解することが、できなくなっていったのである。ピピとミミを隔てていた、海よりも深い境界線のように、抗いがたい無形の力が、わたしたちを急速に分かとうとしていた。だから、いちぢく屋さんへの行き帰りに幼子のように手を繋ぐことも、いまだにいっしょにお風呂に入ることも、魂で求め合ったわたしたちの、最後の悪足掻き、だったのかもしれない。

 心のどこかで、たぶんわたしたちは焦りを感じていた。そうでなければあんな事件が起こることもなく、わたしたちの小学五年生の夏は、何事もなく過ぎていくはずだったのだ。



 夏休みに入る少し前のことだった。あれは、そう、忘れるはずもない、火曜日のできごと。

「ナナコ、宿題」

 学校から帰ってくるや否や、机と睨めっこをはじめてしまったウメくんは、算数の問題を解き進める手を止めないまま、言った。わたしはというと、休みの日のお父さんみたいにベッドにだらしなく寝そべって、あんまりにも暑いものだからおなかまでぺろんと出して、ありあまる時間をぐうたら過ごしていた。最大風速で稼働している扇風機は、ゆっくりと巡って、わたしとウメくんにかわりばんこに顔を向ける。吹き抜ける風が、汗ばんだ肌に心地いい。

「うーん、あとで」

「言っとくけど、ぼくのはうつさしてあげないからね」

「えー」

「当然」

 ウメくんは以前と比べて、わたしに対して辛辣になった。かわいげがなくなった、と言ってもいい。くどいようだが、別段仲が悪くなったとか、そういうわけではない。最近ますますお母さんに似て、口うるさく、神経質なところが目立つようになっただけだ。どうやら成長するにつれて体も丈夫になってきているようで、体調を崩して寝込むことも、ここのところは少なくなった。ちょっとお刺身を食べただけでじんましんが出てぐったりとなってしまうウメくん、しおらしくて、なかなかかわいかったんだけど。

「だってさあ、暑いんだもん。扇風機から離れたくなーいー」

 わたしはベッドから腕を突き出し、扇風機の頭を捕まえて、おなかの底から思いっきり、「あ──!」と声を出す。扇風機はバキバキ嫌な音を立ててわたしの手から逃れようと抵抗しながら、それでも『ワレワレハウチュウンジンダー』ごっこの声をやってくれる。

「まったくどっちが姉で、どっちがねこなんだか」

 子どもみたいなことをしているわたしに、ウメくんはちょっと笑う。ウメくんが笑ったのでわたしも嬉しくなって、人質であるところの扇風機を、解放してあげることにする。すると扇風機は心なしかほっとした顔をして、再びわたしとウメくんに、かわりばんこに風をくれる。わたしはベッドにうつぶせになり、だらりと腕を突き出したまま、難解な算数の問題をてきぱきとこなしていくウメくんの背中を、なんとはなしに、眺める。

 ウメくん、背が伸びた。昔はわたしのほうが大きかったのに、今はそう変わらない。たぶん、もう、いくらもせずに抜かされてしまう。細い首筋は相変わらずうっすらと日に焼けていて、短くてやわらかな髪が、扇風機の風に煽られて揺れている。

 ふと、わたしはあの初夏の日を思い出す。坂の向こうで三角の海が笑っていて、ウメくんがイチジクのアイスクリームを食べながら自分の前世を告白した、あの日。扇風機じゃなくて初夏のさわやかな風が、ウメくんのねこっ毛を揺らしていたっけ。

「ウメくんってさあ、わたしの中からピピがいなくなってることに、いつごろ気がついたの」

「……今さら?」

 ウメくんは椅子の背もたれに腕をやって、ようやくわたしをふり返った。神経質そうに眉を寄せた表情は、お母さんによく似ている。あんなに細かった腕も、今はきれいに筋肉がついて、だいぶたくましくなった。男の子だなあって、わたしは思う。

「何、急に。なんでいきなりそんなこと言うの」

「いや、ミミだったことを話してくれたちょっと前、ウメくん、妙にわたしによそよそしい時期があったでしょ」

「え? そんなこと、あったっけ?」

「あったよおー」

 ウメくんが心底、『心当たりがありません』という顔をするので、わたしはわざとむくれてみせる。ほんとはあとになって、『よそよそしい』の陰に隠されていた『さみしい』がちゃんと聞こえてきたんだけど、その当時はウメくんのわたしへの態度に、結構悩まされていたお返しだ。わたしが機嫌を損ねてしまった(ふりをしている)ので、ウメくんは慌てたみたいだった。

「えーっと、確か二年生の春だよ。母さんのことがあってから、ぼくらずっと、ピピとミミだったころの話をしていなかったんだ。だけどほら、小学校にあがって、二人でいちぢく屋さんに行くようになっただろ? それでふと、ミミだったころにもここに連れてきてもらったことがあるのが、蘇ってきた。この場所から海を眺めていた父さんと母さん、すごくしあわせそうで、それでぼくも、行ったこともないくせに海が好きだったんだって、思い出したんだ。ミミだったころに来たのも、穏やかな春の日で、そのことを思い出した瞬間、世界が一気に、ぱあっと塗りかえられていくような気がしたよ。ぼくもそれまで、自分がミミだったってことをほとんど忘れかけててさ、気がついて、驚いた。だけど、そのことをナナコに言ったらとんちんかんな答えが返ってきて、どうやらナナコの中からは、ピピがすっかりいなくなってるらしいってことに気がついた。それでいろいろ、考え事をしていたからかな。別によそよそしくしてたつもりはなかったんだけど、そんなふうに見えてたんなら、謝るよ、ごめん」

 今日のウメくんは珍しく素直だ。近ごろはめっきり、わたしのかわいい弟のウメくんは顔を出さなくなって、なまいきなウメくんばかりがツンとすまし返っていたから、わたしはますます嬉しくなって、思わずにまにましてしまう。

「うそだよ」

「え?」

「本当は知ってたよ、別によそよそしくしようと思ってそうしてたわけじゃないって。あのころさあ、さみしかったんでしょ? わたしがピピだったころのことを忘れちゃったから、ひとりぼっちになっちゃったみたいで。騙されたね、ウメくん」

 最後のほうはにやっとして、挑発的に言ってみせる。

「ナナコ!」

 さみしがっていたことを見すかされた恥ずかしさからか、はたまた騙されたことへの憤りか、とにかくウメくんが顔を真っ赤にして勢いよく立ちあがったので、わたしは『うわっ』と思った。何しろウメくんは、もうわたしとほとんど変わらない程度には、デカイ。ウメくんはベッドに突進してきて、わたしたちはそのまま取っ組み合いのけんかになる。ウメくんに言葉が足りないのは昔からだけれど──だから『不安定な子ども』なんて言われちゃうのだ──近ごろはそれに輪をかけて冷静沈着、寡黙な態度を貫き通していたので、こういう子どもじみたけんかをするのはひさしぶりだった。でも、ウメくんは女の子のわたしに遠慮して、ちゃんと手加減してくれているのがわかる。昔はこういうなりゆきになると、体格のまさっていたわたしがいつも力づくでウメくんを負かしていたものだけれど、確かに今は本気で来られたら、わたしなんかひとひねりでやられてしまうに違いない。不器用で優しいところ、変わらないんだから、とわたしは思わず苦笑する。

 取っ組み合いは途中からどういうわけか、わきやおなかのくすぐり合いになって、わたしたちは笑い転げながら、狭いベッドの上で大暴れする。ウメくんもちゃんと、子どもの顔をして笑っている。ウメくんがこういうくだらないことで笑っているのを見ると、わたしはすごく安心する。中にミミがいるせいか、ウメくんは昔から、妙に大人びたところのある人で、ふたごの片割れであるわたしは、それを心細く思うことも多かったから。

 そのうちウメくんが、わたしを壁際に追い込んで覆い被さるような格好になったので、さすがのわたしも怖じ気づいた。

「ちょっと、おい、もうかんべん」

 動転するあまりへんな言葉づかいになっているわたしを、ウメくんはしばらくじっと見つめていたかと思えば、何を思ったのか出し抜けに、わたしのくちびるをぺろっと舐めた。それはもう、目にも留まらぬ速さで、制止する隙もなかった。わたしはびっくりして、ウメくんをまじまじ見つめた。わたしとそっくり同じ、ウメくんの顔。

 あ、ミミだ、とわたしは思う。

 わたしのくちびるを舐めたのは、ウメくんじゃなくてねこのミミだった。ウメくんはいつのまにか、ミミの顔になっていた。なあんだ、とわたしはほっとしたような、気の抜けたような気持ちになる。ちょっと、キスされたのかと思っちゃった。

 ミミがこうしてわたしの前に姿を現すのも、そういえばひさしぶりだった。ウメくんがミミの言葉づかいや仕草になるのは、たいてい彼がミミだったころの話をしているときと決まっていたから。

 ねこのミミに組みしかれながら、わたしはいつか、ウメくんの前世を知るよりも前に、彼が話していたことを、思い出していた。

 ──ねこはね、そのことりのうたがとても好きだったんだ。たった一度でいい、そのくちばしにふれてみたいと、願う程度にはね。

「ずっと、ナナコをさがしていたんだよ」

 まっすぐに、わたしから目を逸らさないまま、『彼』は言った。ウメくんが言ったのかミミが言ったのか、わたしにはわからなかった。わからないという事実に、愕然とした。わたしはとうとう、ウメくんとミミを見分けることさえ、ままならなくなってしまった。

「うん」

 わたしは両手でぺちんと、ウメくんの、ミミの、頬を挟んだ。ウメくんは男の子らしくなったけど、やっぱりまだ子どもの、すべすべとした頬をしていた。吸い込まれてしまいそうな、底の見えないコーヒー色の瞳が、じっとわたしを見つめていた。

「忘れてしまって、ごめんなさい」

 ウメくん(ミミかもしれない)はゆっくりと首を横に振り、わたしの肩に額を押し当てるように顔をうずめた。わたしとおなじ、シャンプーのにおいがする。ウメくんの、におい。

「ううん、もういいんだ。ねえ、ナナコ、ぼくはね、わかったんだよ。たぶん、ぼくがまだミミでいるのは──」

 ──ガシャン!

 何かがぶつかり合って割れる、けたたましい音がわたしたちの耳をつんざいたのは、ウメくんが何かとても大事なことを口にしかけた、まさにその瞬間だった。わたしたちは揃って弾かれたように、音のしたドアのほうに目をやった。ティーポットと、二人分のティーカップ、ビスケットが少々。そのどれもが粉々に砕け散って、無惨に床に散らばっている。濃く色づいた紅茶が、刑事ドラマでよく見るうそぶいた血のりみたいに、じんわりと、広がっていく。

「何をしてるの、あなたたち」

 蒼褪めて、今にも気を失ってしまいそうな顔色をしたお母さんが、ドアの向こうになすすべもなく立ち尽くし、ベッドの上でことりのように身を寄せ合うわたしたちを、呆然と見つめていた。

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