Ⅳ.水曜日と、わたしの大好きな家族について
こうしてわたしたちは、取り交わした長年の盟約──わたしは覚えていないけれど、ウメくんが言うのならそうに違いない──をついに解禁して、わたしたちの父親であるところの古屋惣一に、自身の幼少期をそれとなく聞き出すこととなったのだった。
ここで少し、わたし古屋七子の家族の話をしておこうと思う。
お父さん、古屋惣一、五十一歳。趣味はゴルフと美術鑑賞(自称)で、前述した通り、ビールと茹でた枝豆と、動物をこよなく愛する、サラリーマンである。サラリーマンって何なのか、実はいまいちよくわかってないっていうのは、ないしょだ。
ビールと茹でた枝豆と動物っていうのは、こっちが訊いてもいないのに、お父さんが酔っ払って挙げ連ねてくれた好きなものベスト・スリーのことであり、
「お母さんは?」
とわたしが意地悪く突ついてみたところ、
「そりゃあお前、母さんは別格に決まってるだろう」
との返事が即座に返ってきて、わたしは返す言葉もなかった。お熱いことで。
ビールと茹でた枝豆は、ことに仕事のあと、お風呂あがりにグイッといくのがサイコーだと彼は言う。が、わたしにはその感覚はまったくもって理解不能だ。ビールのふわふわと白い泡に惹かれて、お父さんにねだってちょっとだけ舐めさせて貰ったことがあるけれど、ただただ苦いばかりで、人間の飲み物とはとても思えなかった。わたあめみたいな外見をしているくせに、とんだ見かけだおしだ。自分でねだったくせに、わたしは『騙された』と言わんばかりにお父さんを睨ねめつけ、お父さんはさも愉快そうに、
「どうだ、もっと飲んでみるか」
とわたしに二口目を勧めてきたけれど、むろん丁重にお断りした。これならお母さんの梅酒のほうが、まだいくらかましだとさえ思う。
お母さん、古屋初美、四十三歳。わたしたちの水曜日のいちぢく屋さん行きのはじまりは、ほかでもないこの人である。元をたどれば小学校にあがってしばらく経ったころ、水曜日の漢字テストを頑張ったごほうび、という名目でそれははじまったのだが、今ではすっかり『水曜日にいちぢく屋さんに行くこと』自体が、目的と化してしまっている。天敵はゴウセイチャクショクリョウで、普段はとっても優しいけれど、ご飯を残すととっても怒る。それはお母さん自身が、たとえお米の一粒であっても、食べ物を粗末にしてはならない、と徹底した教育を受けてきたからだそうで、彼女は世間一般でいうところの箱入り娘というやつでもある。家の教育方針は厳格であったものの、基本的には蝶よ花よともてはやされて育てられてきたため、『結婚した当初はずいぶんお父さんを苦労させちゃったのよ』と言って、ホホホと笑うその仕草が、すでに令嬢の風格を醸し出していた。
『ソウキョクセイショウガイ』というやつのせいで、多少気分の浮き沈みが極端なところはあるものの、今ではだいぶ病状も落ち着いて、服薬と月に一度の通院を除けば、健康な人とほとんど変わらない。何より、とても美人である。
「ナナコちゃんとウメハルくんは、お母さん似なのねえ」
などと言われると、わたしはお母さんの子どもであることを、心底誇らしく思うのだ。
さて、お酒なくして我が家は語れない、というほど、うちはお父さんもお母さんも、大のお酒好きだ。お母さんはビールやワインも嗜むけれど、家で飲むお酒はたいてい、梅酒。飲み方は、オン・ザ・ロックという、氷を入れたグラスにお酒そのままをそそぎ込むやり方を好んでいる。お母さんの梅酒は、円柱形の大きなガラス瓶に入ったもので、底に青い大きな梅の実が、五、六個沈んでいる。こちらも見た目はロマンチックですてきなんだけど、舐めてみるとどうにも舌やのどの焼けるような感じがするのはいただけない。
しかしわたしはいわゆる、酒の肴──しおからや甘えびのお刺身、ビーフジャーキーやいかのくんせいに至るまで、生ものや珍味の類、全部──にはとにかく目がなかったので、
「おまえは将来、酒飲みになるぞお」
とお父さんはうれしそうに言う。だけど、平気な顔してお酒を飲めるようになる日がいつかわたしにも訪れるなんて、今はとてもじゃないけど想像がつかない。
大人は本当にあんなもの、おいしいと思っているんだろうか。みんな周囲の顔色をうかがって、帳尻合わせて我慢して、おいしいおいしいと言っているだけなんじゃないだろうか。それが大人たちの、暗黙のうちに結ばれた、締結なのではなかろうか。それとも本当にお父さんの言うとおり、大人になったらビールも梅酒も、サイコーだと思えるようになるんだろうか。男の子に負けず劣らず、たまに大人って、わたしの理解の範疇を超えている。
そして最後にわたしのふたごの弟、古屋梅春。
ウメハル、という名前があるのに、わたしたち家族は滅多に彼をそう呼ばない。お父さんは『ウメ』と呼ぶし、わたしは『ウメくん』だし、お母さんはそのときどきの気分によって『ウメ』と呼んだり『ウメくん』と呼んだりする。友だちたちはみんなちゃんと『ウメハル』って呼ぶのに、ちょっと、不思議。
わたしとウメくんは顔はそっくり同じだけれど、性格はわたしがお父さん似、ウメくんがお母さん似だ。それはもう間違いなく、断言できる事実である。親戚のおじさんおばさんたちにもよく言われるし、わたし自身もかなしいかな、指摘されると納得してしまわざるを得ない。
が、ウメくんはどうにもそれが納得いかないらしく、
「ぼくはあそこまで神経質じゃないよ」
としきりに主張している。もっともわたしに言わせれば、ウメくんも十分、神経質である。ついでにウメくんは、体のほうもとっても、デリケートだ。彼はお酒そのものはもちろん、生ものや珍味の類も徹底して苦手としているし、もっと正確に言うのなら、体が受けつけない、と言ったほうが正しい。ビールの泡や梅酒を舐めてみても、まずいと思いはしたものの平然としていたわたしに対して、ウメくんはみるみるうちに顔を真っ赤にして、しばらくはぐったりとソファーに横たわるはめになっていた。それは生ものにも言えることで、ウメくんは無理をすればお刺身をまったく食べられないわけではなかったけれど、ちょっと度を越すと体じゅうにじんましんが出て、そしてやっぱり寝込んでしまう。その様子を見て、なんてもったいないんだろう、と思ったわたしが、
「お刺身を満足に食べられないなんて、ウメくんは人生の半分、損してるようなものだね」
と心の底から同情の声をかけたところ、
「タデ食う虫も好きずきって、知ってる?」
と息も絶えだえに返された。ウメくんはわたしの知らない、いろんな難しい言葉を知っている。ウメくんのおかげでわたしまで、ほかの同い年の子たちが知らないような言葉──たとえば、『箱入り娘』だとか──を、覚えてしまったくらいだ。ウメくんがもの知りなのは、ミミだったころのことを覚えているから、というのももちろんあるだろうけれど、本をたくさん読むからかもしれない。わたしは文字がいっぱいの本よりも、まんがが好きである。
「そういえば、そんなこともあったなあ」
お父さんは、いかにも意味ありげに尋ねたこちらが拍子抜けするくらいに、あっさりとそう白状した。
わたしとウメくんとお父さんは、三人でお風呂に入っている。わたしの失われし過去について、真偽のほどを確かめるという重大な任務遂行のため、たくましい左右の腕に二人してぶら下がり、珍獣お父さんの捕獲に成功したのである。もちろん、麗しのお母さんの湯浴みにごいっしょするときもあるし、お父さんもお母さんも手が離せないときは、二人だけで済ませてしまうときもある。三人で入るには、我が家の浴槽はちょっと、狭いのだ。だけど、わたしとウメくんはいつ、どんなときでも、いっしょ。
ああ、やっぱり本当なんだ。と、わたしはドキドキが半分、複雑なのが半分。だってわたしとウメくんはふたごなのに、ウメくんだけがミミだったころのことを覚えていて、わたしは覚えていないだなんて、不公平。
「お父さんもお母さんみたいに、わたしたちが何かに取り憑かれてるんだと思った?」
「いや、おれはそんな非現実的なことは考えなかったなあ。お前たちはふたごだし、顔立ちもよく似ているから、互いに互いの真似をし合ってるもんだとばかり思ってたよ」
なるほど。
「ああ、でも、二人して母さんのことを『初美ちゃん』って呼ぶのは、確かに不思議だった。父さんが昔、母さんのことをそう呼んでたんだよ。だけどお前たちが生まれてからは、自然と『母さん』って呼ぶようになったからなあ。あれは、どうしてだったんだろうなあ」
「父さん。もしもぼくたちが本当にユーレイに取り憑かれてたとして、そしたら父さんは、どうする?」
不意にウメくんが横から口を挟んできて、わたしはどきりとする。だってそれは、わたしたちの核心にふれる問題だと思ったから。
お父さんはおおらかで、安心な人だ。ユーレイとだって仲よくなれちゃいそうな、強いパワーに満ちた人だ。だけど、だけどもし、実の父親に気味が悪いと突き放されてしまったら、わたしたちはこれから、どうして生きていけばいいんだろう?
「うーん、そうだなあ。おまえたちにナニかくっ憑いてたとして、それってたぶん母さんの、古い知り合いか誰かだろう? 『初美ちゃん』なんて呼ぶくらいなんだから。だったらいいとこ、見せとかないとなあ。なんたっておれは、初美の人生を任された男なんだ。死んだ初美の知り合いを心配させて、成仏できないなんてことになったら、
そう言って、お父さんは大口を開けてガハハと笑った。思いもよらない答えに、わたしとウメくんはぽかんと大きく口を開け、それからこっそり目配せをして、どちらともなく頷き合った。どうやらわたしたちのお父さんは、わたしたちが思う以上に、大した大物みたいである。
「それでわたし、どんなだった?」
明くる水曜日、その日はイチゴのシロップのかき氷を突つきながら、珍しくわたしから話を切り出す。
「レモンイエローの巻き毛カナリヤ。オス。名前はピピ。とてもきれいなうた声を持っていた」
「……そうじゃなくて」
ウメくんの答えは確かに正しい。とても正しい。だけど、わたしの求めていたものとは違う。いかにも違う。先週わたしに真っ青な舌を見せびらかされたのがよほど悔しかったと見えて、ウメくんは体に悪そうな緑色の、メロンのシロップのかき氷を、満足そうに食べている。お母さんがこの光景を見たら、冗談ではなく失神してしまうんじゃないかしら、とわたしは思う。
わたしは眉をひそめて、かき氷にスプーン──赤や青の縦じま模様のストローに、切れ込みを入れただけのもの──を、力任せにザクッと突き立てる。うん、いい音。
「わたしが聞きたいのは、このあいだの話の続きよ。わたしがお母さんの飼ってたカナリヤのピピの生まれ変わりで、小さいころは確かにピピだったころのことを覚えていたっていうのはわかったわ。それで、ミミは? お母さんの部屋の、ドアのすき間からはじめてわたしを見て、そこから先は、どうなったわけ」
「あー、うん。その話ね」
どういうわけかウメくんは、言いづらそうに言葉を濁す。曖昧な返事をして、あーとか、うーとか、へんなうなり声をあげている。ウメくんがこんなに、わたしに何か話すことをためらうなんて、珍しい。かつて自分がメスのねこのミミであったことを告白したときでさえ、こんなに躊躇はしていなかったと思う。
ぼくの前世はねこだったんだ。
まるで息をするのと同じように自然な調子で、あの日、ウメくんはそう言った。以来わたしたちの、このちょっと奇妙ないちぢく屋さんでの習慣は、ずっと続いているのである。
「何、どうしたの。はっきり言いなさいよ」
煮えきらないウメくんに痺れをきらして、いつもよりお姉さんぶってわたしは言う。
「あの、悪く思わないでね」
ミミは罰が悪そうな顔で、わたしをちらと見、目が合うとすぐにまた視線をあらぬほうへと泳がせた。一人前にもったいぶったりなんかして、一体なんだというのだろう。そんな前置きをされては、なんだかこちらまでへんに身構えてしまう。もっともミミがねこで、ピピがことりである以上、結末がまったく予想できないわけでもなかったけれど──たとえば、食べちゃった、とか──わたしはひとまず全神経を耳にそそぎ込んで、どんな言葉が飛んできても悠然と構えていられるように、万全を期した。
ミミは大きくひとつ息をつくと、びっくりするくらいの滑舌のよさで、ひと息に言った。
「正直、なんてへんてこな生き物なんだろうって思ったわ。すごく驚いちゃった、だって初美ちゃんが惣一さんと大げんかするほどに大事にしてた鳥が、とんだちんちくりんだったんだもの。羽なんかピンピン、あっちへこっちへ跳ね回って、ぜんぜんスマートじゃないの。まるでレモンイエローの、古い羽バタキか何かみたいだったわ。うた声を聞いて、一体どんなきれいなものがうたっているのかしら、と心を躍らせていたわたしは、もう目が点なわけよ」
ちょっと思わぬ方向から言葉の矢尻が飛んできたので、わたしは目をぱちくりさせて、ミミの言わんとするところをすっかり理解するために、頭の中で何度か言葉を反芻しなければならなかった。むかっ腹はあとから徐々に、ふつふつとわたしのおなかの底から煮えくり返ってきた。いくら覚えていないと言っても、ピピはわたしの前身なのである。あんまりにもあんまりな言われように、わたしは恨みがましく、じとりとミミを睨みつけた。
「……しょうがないだろ、本当にそう思ったんだから」
ミミはふとウメくんに戻って、困ったように肩をすくめた。
「話を続けてちょうだい」
わたしは足を組み直し、偉そうに指示を出す。今日のわたしはなんだかいつもよりウメくんのお姉さんな気分だったし、あんな酷い言われようをされたのだから、ちょっとくらいは偉そうな態度を取ったって、罰は当たらないと思う。
ウメくんはひとつ頷くと、再びミミに戻って話を続けた。
「それで、あなたはレモンイエローの古い羽バタキみたいだったけど、わたしにはすぐわかったの。あのきれいなうたをうたっていたのは、あの籠の中のわたぼこりみたいな、ちんちくりんだって」
「そのちんちくりんっていうの、やめてくれない」
「わたしとあなた、目が合ったわ。黒いきらきらした目をしてた。あなたはちんちくりんだったけれど、瞳だけはとてもきれいだった。すみわたっていたの。わたしが古屋の家に来てから幾度となく聞いた、あの不思議なうたのように。あるいは晴れた日の空のように。籠の中のことりのあなたは、四角いガラスの窓越しにしか空を知らないはずなのに、どうしてかしら、不思議ね」
だめだ、聞いてない。ミミはうっとりと熱いまなざしで、ピピとの初遭遇の思い出に浸っている。数ヶ月にわたってミミと話をしてきてわかったことだけれど、ウメくんが理知的で冷静、いささか神経質すぎるきらいのある人であるのに対して、ミミはお転婆で気まぐれ、そしてかなり感情が昂りやすいタイプのようだった。ひと口に生まれ変わりと言っても、こうも性格が違うものなのかしら、と、わたしは近ごろちょっと、諦観の域に達しつつある。
「あなたはとってもきれいなうた声を持っているのに、そのときはひと声も鳴かなかった。くちばしを固く閉ざして、思慮深げに首を傾げてわたしを見つめていた。きっと自分がうたえば、初美ちゃんが目を覚ましてしまうことを知っていたのね。わたし、あんなにきれいな声でうたうあなたを、もっと近くで見たい、くちばしにふれてみたい、できれば話をしてみたいって、思った。だけど同時に、こう直感してもいたの。〝わたしたちは、決して出会うことができない〟って。お行儀よく揃えたわたしの前足の先、初美ちゃんの部屋と廊下との境界線は、海よりも深くわたしとあなたを隔てていた。わたしがねこで、あなたが籠の中のことりで、初美ちゃんがあなたを守っている以上、わたしとあなたはどうしようもなく出会うことのできない運命を課せられている。わたし、そう知ったの。そして実際それは、その通りになったわ」
わたしはいつしかしんみりと、ミミの話に聞き入っていた。ねこだったころから、やっぱりウメくんはちょっと変わっていたみたい。だってことりと話をしてみようと考えるねこなんて、聞いたことがない。そもそも言葉が通じるのかどうかもわからないし、ねこはことりやネズミを狩るものと、昔からそう決まっている。そうしてわたしは、ピピだったころの記憶のすべてを自分がなくしてしまった事実を、心の底から悔やんだ。わたしもウメくんのように、ピピだったころのことを覚えていれば、ピピがそのとき、ドアのすき間からこわごわとこちらを覗き込む子ねこのミミを見てどう思ったか、前世で言葉を交わすことのできなかったぶんまで、感じたありのままを教えてあげることができるのに。
そう、ミミの直感が〝その通りになった〟ということは、結局死ぬまでピピとミミはその境界線を越えられず、ふたりが出会うことは叶わなかったということなのだ。
「でもさあ、そうは言ってもミミは、ねこだったわけでしょ。わたしのこと食べちゃいたいとか、思わなかったわけ」
しめっぽい空気を吹き飛ばすように、わたしはわざと明るい声を出した。ミミがピピを食べちゃったわけではないことに、密かに安堵していたというのも、ある。
ミミはウメくんに戻って、少し考えてから、言った。
「そりゃ、はじめはおいしそうだなあって、まったく思わないわけじゃなかったよ。ぼくにもねこの本能ってものは、あったからね」
ミミはひとつの物事をじっくりと考える、ということがあまり得意ではないらしく、何かを考えようとするときには、話の途中であってもしばしばウメくんに戻った。そのころになるとわたしは、ふたりのことを完璧に見分けられるようになっていた。ふたりはミミだったころの同じ記憶を共有しているけれど、性格や、話をするときの表情はまるで違っていたから、見分けることはさほど難しいことではなかった。
「でも、もしもぼくがきみを食べたら、二度ときみのうたが聞けなくなってしまう。それは嫌だって、ぼくは思った。だから、血迷ったのは最初のころに見かけた数回だけで、そのあとは食べちゃいたいって思うことは、なかったな。何より、きみと話してみたかったし。だから、母さんが塞ぎ込んでいる日、ぼくはいつも家のすみっこでじっとしていて、母さんが泣き疲れて眠ってしまうのを待っては、そっと足音を忍ばせて部屋を覗きに行ったよ。母さんのことが心配だったっていうのも、あるけどね」
「ふーん、そんなものなのかあ」
「うん、そんなものだよ」
記憶も、体も、生まれ変わりということはたぶん、魂とかいうものもひとつであるに違いないのに、ウメくんとミミという存在は、今は人間の男の子であるところのウメくんの内側に、ふたつの独立した自我として、確かに存在している。でも、ミミが喋っているときのことを、ウメくんははっきりと覚えているし、逆もまた然りだ。ふたりの境目はとても曖昧で、だけどとても明白。自分の内側にもうひとつ、別の存在があるというのが果たしてどんな感覚であるのか、わたしにはまるで想像もつかない。きっとわたしもかつてはピピとすべてを共有していたんだろうけれど、わたしはピピだったころのことも、自分がピピだったことを覚えていた事実そのものさえも、どういうわけかきれいさっぱり忘れてしまった。
「それにしても、不思議だなあ。どうしてナナコだけが、ピピだったころのことを忘れちゃったのかなあ」
誰へともなくぼやいたウメくんの言葉に、心の内を見すかされたような気がして、わたしはぎくりとした。なんだか自分が、ものすごく悪いことをしたような気分になる。だってウメくんのその言葉が、とてつもなく心細く響いたような気がしたから。
「でも、じゃあ、わたしたちは二人揃って、お父さんとお母さんのところに帰ってきたんだね」
うしろめたさをごまかすように、わたしは言った。
「そういうことになるね」
ウメくんは力強く頷いた。
それきりわたしたちは黙って、それぞれかき氷を突つくことに専念した。夏は最後の足掻きとばかりに、じりじりとアスファルトを焼き、安っぽい紙の容器の中で、雪山のように溌剌はつらつとしていたかき氷もすっかり溶けて、びちゃびちゃとした濃いピンク色の半液体になっていた。毒々しい色だ。お母さんの天敵のゴウセイチャクショクリョウが、いっぱい入っているに違いない色だ。
わたしは急に、手の内にある濃いピンク色の半液体が、とてつもなくおぞましいものであるかのように思えて、残りを急いで口の中にかき込んだ。舌の焼けるような甘さが、した。
帰り道はやっぱり手を繋ぐ。わたしたちの肌は、互いにぴったりと吸いつくようによく馴染む。それは物心ついたころからわたしが鮮明に感じていたことで、わたしは自分がピピだったことを覚えていた、という事実は忘れてしまったけれど、ずっと以前から、ウメくんの体にふれていると心臓のあたりがきゅっと締めつけられるような、安心なような、そんな感覚があったことだけははっきりと覚えている。
「わたし、ずっとウメくんを待ってたような気がする」
思わずそう口にしてしまって、隣を歩くウメくんがびっくりしたような顔でわたしを見たので、にわかに気恥ずかしくなり、
「いやあ、なんていうか、お父さんやお母さんと手を繋いでいるときよりも、ウメくんと手を繋いでいるときのほうが、何か、しっくりくるような気がするんだよね」
と、しどろもどろに言いわけをした。ウメくんは、穴が空くんじゃないかってほどまじまじわたしを見つめていたけれど、やがておかしそうに、
「ナナコ、それ、幼稚園にあがるころまでの、ナナコの口ぐせだったんだよ」
と言った。
「え?」
わたしはそんなこと、全然覚えていなかったので驚いた。
「『ぼくはずっと、ウメくんを待っていたんだよ』って。ピピの顔をして、よくそう言っていた。そうだ、ナナコは覚えていなくても、魂は覚えているのかもしれない。ピピの思いを」
ウメくんは珍しく、興奮ぎみだった。誰に向けるわけでもない熱いまなざしは、感情が昂ったときのミミに少し似ている。
ウメくんが、急に体ごとわたしのほうを向いて、繋いでいた手を両手でうやうやしく、有無を言わさぬ力強さで包み込んだので、わたしも足を止めざるを得なくなる。
わたしはウメくんを見つめた。まるで鏡のようにわたしとそっくりおんなじ顔が、そこに、ある。ウメくんのコーヒー色の瞳も、じっとわたしを見つめている。そうしてウメくんは、白い歯を見せて笑う。まるでひみつの呪文のように、あの言葉を、囁く。
「ぼくもずっと、きみをさがしていたよ」
ああ、そのときわたしには、痛いくらいにわかってしまったのだ、ウメくんの内側からずっと聞こえていた、『さみしい』の正体。
ウメくんがミミであったことを告白した、あの初夏の日までの数ヶ月、彼がどこかうわのそらでわたしによそよそしかったのも、『よそよそしい』が立ち消えたあとも『さみしい』だけはずっと、コップいっぱいの水の表面張力のようにウメくんの内側に張りつめていたのも、みんなみんなわたしが、ピピだったこと、わたしがピピだったことを覚えていた事実さえ、忘れてしまったから。
ピピは一体、わたしの中から消えて、どこへ行ってしまったんだろう?
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