玉蟲色の翅に透かせば

蜜蝋文庫

 蝉の歌がじわじわと、体を蝕む。

 木陰にあっても大気の孕む熱は少年のこめかみに汗を滲ませ、頬を伝って顎へと落ちた雫はぽたり、アスファルトに黒々としみを作った。蟻の行列がその傍らをうぞうぞと這い回っている。

 少年──穂積ほづみはふと読んでいた本から顔を上げ、目前に広がる田園を見渡した。二つの森を東西に従えた田んぼが、見渡す限り延々と続いている。年に一ヶ月と少し、夏休みの間しか訪れることはないが、もうすっかり見慣れた景色だ。森を背にした道沿いのこの木陰を、穂積は気に入っている。早朝に散歩をすれば、道すがらの畑で砕けた西瓜すいかにカブトムシやクワガタムシ、カナブンといった甲虫が群がっていることもあるし、森では透かし編みのように儚く繊細な烏瓜からすうりの花に出くわすこともある。どれも都会では見ることのできないものだ。

 初めてこの地を訪れた小学五年生の夏、見るもの全てが珍しく、野草を一種ずつ摘み取って、祖母に教わって押し花にした。その中に烏瓜の花も一輪紛れさせたのを、よく覚えている。できたものを一冊のスケッチブックに各頁一種ずつ貼り付け、図鑑と照らし合わせて名や簡単な解説を添えたものをその夏の自由研究とした。級友の男子生徒たちには押し花など女のようだと笑われたが、穂積は別段そういうことを気にするたちではない。

 思えば押し花というものを初めて手ずから作ったのも、あの夏のことだった。詰んだ植物を一つ一つ丁寧にちり紙で包み、分厚い辞書の頁と頁の間に挟んでいく。祖母のしわくちゃの手がしなやかに行う一連の所作は、まるで神聖な儀式のようだった。穂積も祖母を真似ようとしてみたが、どうにも不格好で、祖母に手伝って貰いながら何とか全てを頁の内に収めた。乾くまでの時間が待ち遠しく、何度も辞書を開いてみようとしては祖母に窘められたものだ。ありふれた一冊のスケッチブックは、今でも穂積の宝物である。

 早朝、散歩に出ても、必ず一旦は家に戻り、叔父と祖母と三人で卓袱台に着いて食卓を囲む。一汁三菜の小綺麗な食事である。

 母と違い、祖母は料理上手でまめだった。祖父は二年ほど前に不治の病で亡くなり、早くに妻を亡くした叔父もまた独り身で、二人は残された者同士、この田舎の家で寄り添うようにして静かに暮らしていた。そこに己が介入するのは酷く場違いなことだと、穂積は考えていた。小学生の時分には祖母に連れられ、田んぼでドジョウやタイコウチ、蛙などを捕らえるのに夢中になったものだが、穂積はもうそんな歳ではないし、祖母の体力も年々落ちている。日中はなるべく、まる一日を一人、外で過ごした。朝食が済むと、一冊の本と祖母の握り飯を肩掛け鞄に詰めて出かけ、夕日が差す頃になるとまたとぼとぼと帰路に着く。代わり映えのしない夏の日課だ。

 穂積が訪れるのは、毎年決まって同じ木陰だった。他の株と比べて、取り立てて変わったところがあるわけではない。それなりの樹齢を経ているであろう太めの幹の、根元の辺りが抉れたような浅いうろになっている程度だ。その窪みの形状が、腰を収めるのに適しているのである。そのことを発見したのも、祖母と田んぼを訪れていた頃のことだった。

 高層ビルの立ち並ぶ都会よりは幾分ましだったが、それでも茹だるような日差しが世界を浮足立たせていた。暑さにやられたのか、瞬くと陽炎のように視界が揺らいだ。

「どいてくれないか」

 気がつくと、目の前に誰かが立っていた。陽炎の中から溶け出すように現れた人影を、穂積は木の幹に背を預けたまま、ぼんやりと見上げた。逆光のシルエットに目が慣れるのに、少し掛かった。

 まず目についたのは、すらりと長い四肢だ。華奢というわけでもなく、かといって大人ほどの体格もない、如何にも少年のそれである。年の頃合いは同じほど、上背は穂積よりもいくらかあるだろうか。半袖の白いシャツを纏い、血管の浮く無防備な手首が眩しい。更に視線を上げて、切れ長の、黒曜石のような瞳に行き当たった。目が合っても怖じることなく、長い睫毛を伏せて穂積を見据えている。髪も同じく射干玉ぬばたまの黒で、穂積の硬質な直毛とは違い柔らかそうな質感に、やや内跳ねの癖がある。鼻筋はすっと通り、薄い唇は内側からふっくらと色づき、肌は透けるようにすべらかで白い。

 まるで造り物の陶磁器人形ポーセリンドールのようだった。その造形のあまりの美しさに穂積は思わず見蕩れ、自分はきっと、白昼の夢か幻でも見ているに違いないと考えた。脳髄のぐらつきと共に少年の姿も揺らぎ、穂積はうっとりと目を細めた。ぽたり、また汗がひとすじ滴る。

「俺の場所なんだ。そこを空けてくれと言っている」

 俄かに苛立ったような少年の言葉にも、穂積は微動だにしなかった。今、目の前に在るのは、熱に茹だった思考が見せた幻に違いないとすっかり思い込んでいたからだ。

「おい、聞いてんのか」

 惚けたようなその様に、少年はますます苛立った様子で、穂積の片頬をむんずと掴み、情け容赦なく抓り上げた。

てっ! あ……夢じゃ、ない……?」

 ようやく我に返った穂積は、痛む頬をさすりながら改めて少年を見た。滲んでいた視界も思考も、痛みに引き戻されて次第にはっきりしてくる。確かに美しくはあれど、人だ。腹立たしげに仁王立ちをしている。少年は嘆息し、呆れた様子で穂積を見下げた。

「ぼーっとしてんじゃねえ。俺は夢でも幻でもねえよ、現実だ」

「ご、ごめん……」

 それにしたって、あんまりな仕打ちではないだろうか。今のは、初対面の相手に行っていい所業では断じてない。抓られた頬には、まだ少年の手の感覚が残っている。細長く、骨ばった指だ。大気の熱とは裏腹に、ひんやりと冷たい手をしていた。

 さて、美しい少年の実に非道な行いで否が応にも現実へと引き戻された穂積は今一度、その言葉を反芻した。確か出会い頭にここをどけと、そんなようなことを言っていた気がする。

「えっと、君の場所……だっけ? 僕が今いる、この木陰が?」

「そうだ」

 少年は憮然と言い放った。さもそれが当然のことだとでも言いたげな様子だった。これには流石の穂積もむかっ腹が立った。穂積は元来、自他共に認める温厚な性格の持ち主であるにも関わらず、だ。覚えず文句が口を突いて出ていた。

「ここは誰の場所でもないだろう。僕がどこにいようと、君には関係のないことだと思うんだけど」

 穂積が睨み上げても、少年は臆することなく冷淡な眼差しでこちらを見下ろしている。その手と同じように、温度というものをまるで感じさせない玻璃のような瞳孔だった。

「人の都合など知ったことか。だがまあ俺も、鬼じゃない。人の気まぐれも、一日、二日なら見逃してやるつもりだった。だが一週間、こうも毎日来られると迷惑だ」

「君、見てたのかい?」

 穂積は驚いた。見知らぬ少年の言う通り、自分は一週間ほど前からこの地に滞在し、以来毎日同じ木陰を訪れていた。しかし時折犬の散歩の老人や、ジョギングをする青年が通りがかる程度で、自分を注視する人影があればいくら本に熱中していたとしても気がついたはずだ。それがこんなにも際立った存在であるならばなおのこと。

 己の望む結論に至らないことに苛立ったのか、埒の明かない問答に痺れを切らしたのか、少年は出し抜けに行儀悪く膝を開いて屈み込み、穂積を両手で軽く突き飛ばした。思いがけない行動に、穂積は体勢を崩し、地面に手を突く。ざり、と乾いた感触が掌に滲んだ。こちらは穂積と違い、随分と短気な性分であるらしい。

「俺の場所だと言ったろう。ほら、そこをどけ」

「わ、わかったよ」

 少年の気迫に押し負け、また都会から遠く離れたこの土地で、厄介な諍い事も起こしたくはなかった穂積は、不本意ながらも素直に少年の言うことを聞き入れることにして立ち上がった。何より自分がここで引かなければ、帰るべき場所で待つ叔父と祖母に多かれ少なかれ迷惑を掛けることは明白である。ここはまさしく、彼の領分なのだ。

「もう来るなよ」

 逃げるように木陰を後にする穂積の背中に、少年の声が追い打ちをかけた。穂積がいなくなるまでてこでも動く気がないらしく、立ち上がって冷ややかにこちらを睨め付けていた。

「なんだあいつ、偉そうに」

 穂積は砂埃に塗れた拳を握り締め、少年をちらりと顧みる。憤ってはいたが、酷く惨めな気持ちだった。横暴な少年に反抗する術を、この地において穂積はただの少しも持たない。小さく漏らした不平は声は誰に届くこともなく、大気に溶けて消えた。

 まだ日の高いうちに帰り、穂積はすぐに床に就いた。一度祖母に呼ばれて食事と風呂を手短かに済ませたほかは、ずっと布団にくるまり蹲っていた。叔父も祖母もそんな穂積の様子を気に掛けてはいるようだったが、何も言ってはこなかった。穂積が穏やかではあるが塞ぎがちで、また非常に頑固な性分であり、そうと決めたらどんなに言葉を尽くしても口を開こうとしないのは、二人ともよく知っている。それほどまでに夏が来るたび、随分と世話を焼かせてきた。

 思い返されるのは、美しく冷徹な少年の面影だ。黒曜石のような、玻璃のような、無機質な眼差しは、どこか人ならざるもののように異質で、ある種の畏怖さえ覚えた。しかし、どうにも二つの穴のようながらんどうの瞳孔が忘れがたく、穂積は夜の暗闇の中に、爛々と光る少年の瞳をいつまでも探し続けていた。



 結局ろくに寝付けないまま、翌日も穂積はいつもの木陰に腰を下ろして本を読んでいた。しかし文字の羅列も思考の隙間からこぼれ落ちるばかりで、内容がまともに頭に入ってこない。紙の上に刷られたかなの曲線と漢字の造形ばかりが美しく、腹立たしい。今日も蒸し暑さは、忙しない蝉の歌と共に穂積の思考をじわじわと蝕む。

「来るなと言ったはずだろう」

 そういくらも経たないうちに、探していた人影は忽然と目の前に現れていた。日差しを背にくっきりと浮かび上がる輪郭の中にあっても、少年の目はやはりぽっかりと、がらんどうだった。昨日と寸分違わぬ少年の姿に穂積はどこか安堵し、そして無意識のうちに身構えている。昨日見たものが夢や幻の類ではなかったことがこれではっきりしたし、その日も少年は圧倒的な気迫を携えてそこに在ったからだ。何より人影など今の今まで視界のどこにもなかったはずなのに、彼は一体どこからどうして現れたのだろう。

「ごめん。でも、ここに来ればまた君に会えるかと思って」

 様々な疑問がひしめき合っていたが、ひとまずいきり立った少年を落ち着かせるべく、穂積は努めて友好的に声を掛けた。少年の瞳が、初めて戸惑いを覗かせて揺らぐ。無機質に見えた少年にも、人並みの感情らしきものがあることを、穂積は冷静に俯瞰する。

「俺に会いに来たのか?」

「うん、まあね」

 穂積の返事に、少年はますます困惑した様子だった。

「妙な奴だな」

 少年は暫し顎に手を当てて考え込んでいたが、ややあって、やにわに穂積の隣に腰を下ろした。これには穂積も驚いたが、少年のために脇に寄って場所を空けてやった。二人並んで腰を据えられて、木のうろの収まりは少しだけ悪くなった。

「それで、俺に何か用か?」

 涼しげな目元に見蕩れていると、不意に少年の視線が真っ直ぐこちらを向いたので、穂積は何を言おうとしていたのか、咄嗟に思考を探らなければならなかった。

「えっと、ああ、うん。僕、夏休みの間は毎年家の都合でこっちにある祖母の家に泊まりがけで来てるんだ。いつも同じ木陰で読書をする。もう何年もそうだから、通る人は大体覚えてしまってね。ほら、元々ここは人通りが少ないだろう? でも君は見かけない顔だし、歳も同じくらいのようだから、なんだか気になってしまって。最近この辺りに越してきたの?」

 少年は思慮深げに、神妙な面持ちで頷いた。

「まあ、そんなところだ」

「歳はいくつ? 僕は十五だ」

「……俺も十五」

 そっくり同じその答えに、穂積は少年への畏怖も忘れて目を瞠った。

「本当かい? 奇遇だな。名は何というんだ?」

「名?」

 少年は不思議そうな顔をした。

「うん。よければ君の名を教えてくれないか。ああ、僕は美作みまさか、美作穂積というんだ」

 こちらが名乗ってもいないのに名を尋ねるのは失礼だっただろうかと、穂積は慌てて己の名を口にした。うまく宥めすかせはしたものの、この少年の性質上、何に気を悪くされるかわかったものではない。しかし、少年は何故だか急に、毒気を抜かれた様子だった。

「……ほづみ」

 薄い唇がゆっくりと動いて、その名を反復する。

「どうかした?」

 穂積は訝しげに、少年の一挙一動を注意深く観察する。

「穂積は、積まれた稲穂のことだと聞いた」

 目前に広がる田んぼに眩しげに目をやりながら、少年は言った。

「ああ、そうらしいね」

 少年につられて、穂積も田んぼを見渡す。緑の稲穂の間では今日も、ほっかむりの百姓たちがせっせと手を動かしている。

「田んぼで働く人と話をするのが好きなんだ。いい人たちだ。穂積という風習のことも、彼らから聞いた。一年の収穫を天に感謝し、稲穂を高く積むのだと。そういうのは好きだ。いい名だな」

「そうかな」

 そんなふうに臆面もなく名を褒められるのは初めてのことで、穂積は他に何と答えたらいいものかわからず、口籠った。

「ああ。お前に合っている」

 少年はじっと穂積を見つめた。どういうわけか、あんなにもがらんどうだった瞳が、今は底が見えないほどの深みを帯びているように思えて、穂積は狼狽した。

「俺は、たまだ」

 唐突に、少年は言った。

「たま?」

 それが少年の名だということを理解するのに、少し掛かった。少年は至極真面目に、穂積の顔を見つめ続けている。人の名前というにしては、あまりにも珍妙なものだった。

「変わった名だな。それじゃあまるで猫のようだ」

 思わずくすりと笑ってしまってから、しまった、と急いで少年の顔色を伺うも、別段気を悪くしたようには見受けられない。

「俺にとって名というのはそんなに大事なものではないから、いいんだ」

 少年は、冷めた態度でそれだけ言った。

「ふうん。なんだかよくわからないけど、やっぱり君は変わっているね」

「放っておけ」

 今度は機嫌を損ねたらしく、不快そうに顔を顰める。微細なものではあるが意外にもころころとよく変わる少年の表情に、穂積は次第に面白くなってきて、更に言葉を続けた。

「変わっているという意味では、君に合ってる。でも、君の外見にはあまり似つかわしくないな」

「どういう意味だ?」

 少年はまたすぐに、穂積の言葉に興味を示す。短気だが、素直な性分ではあるらしい。

「いや、こっちの話だよ」

「そうか」

 しかし穂積の返事を、それ以上追求してこようとはしない。この少年には掴みどころというものが、まるでないのだった。

 本当は、こんなに美しい外見をしているのに『たま』だなんて、滑稽で可笑しな話だと思ったのだ。彼にはもっと似つかわしい名が他にいくらでもありそうなものだが、彼の両親は果たして何を思ってそんな物珍しい名を付けたのだろう。

「ねえ、たま」

「ん?」

 たまの横顔に、声を掛ける。たまの長い睫毛は、日差しを集めて淡くけぶっている。

「あのさ、よければこの夏休みの間だけ、ここで僕の話し相手になってくれないかな」

「え?」

 それは思いがけない申し出だったようで、たまは目をぱちくりと瞬かせて、信じ難いものでも見るかのように穂積をまじまじと見た。その仕草は存外にいたいけである。どうにもこちらまで気恥ずかしくなって、穂積は誤魔化すように笑った。

「こっちに友達はいないんだ。勿論、毎日とは言わない。ときどき来て、僕と話をしてくれればそれでいい」

「お前、そうやってここに居座る口実作るつもりだろ」

 たまもようやく調子を取り戻してきたようで、嫌味ったらしくそう言った。

「別に、そういうわけじゃないよ。そりゃ、ここを追い払われたら僕の居場所はなくなってしまうけど、君と話がしたいっていうのは本当だ。この木陰を君だけの場所じゃなくて、君と僕の場所にしたいんだよ。それじゃあ駄目かい」

 たまは、本心を探り当てようとするかのように暫く穂積を見つめていたが、やがてつと視線を逸らしてしまった。

「ときどきだからな」

「本当に?」

 意外なほどすんなりと承諾を得て、穂積の気分は上向く。たまは穂積を軽く睨んだ。

「だがここは俺とお前の場所じゃない。俺だけの場所だ。お前のこと、認めたわけじゃねえぞ」

「うん、いいんだ。ありがとう」

 たまの言葉は相変わらずつっけんどんだが、それが照れ隠しに過ぎないということは言われずともわかった。顔を背けて、たまは勢いよく立ち上がった。

「今日は、もう行く。日が暮れる前に帰れよ」

「あ、うん。またね」

 穂積はそちらへ視線を上げたが、彼はもうどこぞへ姿をくらませてしまった後だった。いくら見渡しても、田んぼに沿う一本道のどこにも、たまの姿を見つけることは叶わなかった。

 たまは森の中を一人歩んでいた。穂積の姿が見えなくなる頃になると足を止め、自分の掌を見つめる。刻み込まれた、生命のしわ。

「……たま。俺の、名か。俺とあいつの、場所」

 ひとりごちた声は、黒い土の上に落下した。

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