「死んだかと思った、お前」

「は?」

 唐突に飛んできた言葉に、穂積は読んでいた本から顔を上げて、目を点にしてたまを見つめた。たまの口調は刺々しい。心底思い当たる節がないといった様子の穂積に、たまは怒りを通り越して呆れ顔になった。

「お前なあ、暑さにやられてぶっ倒れといて、は? じゃねえだろ」

 それで穂積も、たまが何を言わんとしているのか理解したらしい。ああ、と小さく呟いて本の頁を閉じた。

 あれから三日目の朝だった。穂積の姿が見えない間、たまはしきりに気を揉んだ。何しろたまにわかるのは穂積の名だけで、どこへ帰っていくのかも知らないのだ。見舞いに行くことも叶わず、ただ穂積のいない木陰で待ち惚けることしかできなかった。それが今日になってようやく現れたかと思えば平然と本を読んでいるのだから、たまが憤るのも無理はないことだった。

 穂積は罰が悪い様子で、曖昧に笑った。

「はは、たまは大袈裟だなあ。確かにたまには随分迷惑をかけてしまったけど、人はそう簡単に死んだりしないよ」

「死ぬだろ」

 間髪入れず返された言葉に、穂積はどきりとする。それほどまでに、低く地を這うような声だった。

「死ぬだろ、人だって」

「……そうだね」

 もしかしたら、たまは誰か大切な人を失ったことがあるのかもしれない、と穂積は考えた。いつものように傍らに腰を下ろし、膝を抱えて宙空を睨むたまをぼんやりと眺めていると、黒い瞳がぎろりと動いて蔑むように穂積を見た。久方ぶりに見る、玻璃のように冷たく美しい眼差しだった。まるで、造り物の陶磁器人形ポーセリンドールのような。

「お前、お気楽だな。そうやって自分だけは死なないって、思い込んでるのか」

「別に、そういうわけじゃないけど」

 穂積の言動の何かが、たまの神経を逆撫でしてしまったのは明らかだった。初めて出会ったあの日よりもなお、たまは穂積への敵意を露わにしていた。無機質に、しかし獣のように爛々と光る双眸。

「腹立つんだよ、そういうの」

 吐き捨てるように、たまは言った。

「死は全ての命に平等だ。遅かれ早かれ平等に訪れる。この世界に生まれ落ちたものに平等なのは唯一、死だけだ」

「……たま?」

 穂積はおそるおそる、たまの名を呼んだ。穂積の声などまるで耳に届かぬ様子で、たまは酷く苛立ち、早口に捲し立てた。

「それなのに、なんだ。人間はちょっと寿命が長いってだけで、死なんて他人事だと思って過ごしてるっていうのか。自分には死なんて来ない、自分だけは大丈夫だと。とんだ甘ったれだ」

「たま」

 語調を強めてもう一度呼ぶと、たまはようやく穂積がそこにいることに気がついたかのように口を閉ざした。膝を抱えるたまの、頑なな手をほどくように掌を重ねて、穂積はたまの顔を覗き込んだ。

「僕、何か君の気に障るようなことをしたんだね。それとも君の手を煩わせてしまったこと、怒っている?」

「ああ、怒ってるよ。お前が死んじまったんじゃないかって、怖かった。あのままお前の目が、二度と開くことはないんじゃないかって……」

 そこまで口にしかけて、たまはようやく穂積を見た。縋るような黒曜石の瞳は木漏れ日に煌めいて、怒りとはまた異なる怯えを孕んでいるようにも見えた。

「……悪い。妙なことを言ったな」

 言葉は当て所なく彷徨い、穂積は静かに首を横に振った。

「いや。僕の方こそ、軽率だったよ。ごめん」

 たまは複雑そうな面持ちで眉根を寄せた。

「なんでお前が謝る。勝手に苛立って、喚き散らして、馬鹿なのは俺の方だろう。死を考えていないなんていうのも、俺の勝手な決めつけだ。多くの人間がそうでも、お前がそうとは限らない」

「いいんだ。実際、君の言う通りかもしれない。それに、それだけ心配してくれたってことだろう? 嬉しいよ」

 わざと反発されそうな言葉を掛けると、やはりたまはすぐさまむきになる。

「誰が心配なんかするか」

「素直じゃない口だなあ」

 繊細な外見とは裏腹な単純さに、穂積は思わずくすくすと笑った。たまを掌で転がすことは、存外に容易い。たまはそっぽを向いてしまったが、重ねられた穂積の手を振り払うことはしない。細長い指から、既に力は抜けている。

「俺は、一人だったから」

 ぶっきらぼうに、たまが言った。たまの方からこうして自分自身の話を切り出すなど、珍しいことだった。たまは熱心に、己の心を探っているように見えた。穂積は、辛抱強くたまを待った。

「だから、他人とどう接していいのかわからないんだ。いきなりたった一人で世界に放り出されて、身の振り方なんて知らなかった」

「うん」

 たまの言葉は拙かったが、彼なりに謝ろうとしてくれているのだと、穂積には伝わった。

「お前からは、寂しい匂いがする」

「え?」

 唐突な告白だった。

「俺と同じ匂いだ。だから、わかる」

 たまはいつの間にか、穂積を見つめている。その表情からは、やはり何を考えているのか少しも読み取れない。ただ、普段とは明らかに違う何かに、穂積の心がざわつく。

「たまも、寂しいの?」

 何と答えたものか迷って、ひとまず穂積はそう尋ねた。覚えず、秘密を囁くような声音となった。

「そんな感情は知らなかった。だが、穂積。お前と出会って、俺は寂しいと思うようになった」

 たまの指が、そっと穂積の指に絡められる。

「僕と……?」

「お前のいないこの場所を目の当たりにして、気づいたんだ。俺は、寂しさを知ってしまったのだと。この場所はいつの間にか俺だけじゃなく、俺とお前の場所になっていた、そうだろう。俺は穂積、もっとお前と一緒にいたいと、そう思う」

 あまりにもひたむきに向けられた言葉に、穂積は面食らい、努めて平静を装わなければならなかった。どくんと跳ねた心臓の音が蝉時雨に掻き消されてくれたことを、今は有難く思った。

「……来年、また来るよ。だから寂しくなんかない。またこの場所できっと会おう、たま」

「来年、か」

 たまの面差しがわずかに翳ったのは、気のせいだろうか。

 夏も終盤だった。着々と別れが近づいているのを暗黙のうちに理解しながら、どちらもそれを口にすることはなく、日々は流れた。



「秋の稲穂は黄金に光ってとても綺麗だそうだな」

 茫洋と続く田園を眺めながら、たまは言った。

「ああ、うん。僕は秋が来る頃にはいつも都会に帰ってしまうから、見たことはないけど」

 たまの言葉に穂積も何となく、眼前に広がる景色を眺める。今の時分はまだ青々と、稲穂の海は風に揺れている。

 その日は珍しく、いつもの分厚い本を開く気にはなれず、鞄にしまい込んだまま、たまと二人、木陰で怠惰な時間を過ごしていた。こんな過ごし方をするのもときどきならば悪くない。残された時間を考えれば、寧ろ有意義だとも言えた。

「見てみたかった。金の稲穂」

 寂しそうにたまが言う。初めて『寂しい』という言葉をたまが口にしたあの日から、たまの中でその感情はどんどん膨れ上がっているような気がする。

「じきに見られるよ」

 励ますように穂積は言う。どうしてたまはそんなに寂しいのだろうか、と思う。

「……そうだな」

 穂積がどんなに心を尽くして声を掛けても、たまの横顔はやはり寂しげで遠く、手が届かない。

 『同じ匂いだ』と、たまは確かにそう言った。ならば、自らの胸を満たすこの寂しさの根源を晒け出せば、たまの方へ少しでも近づけるのだろうか。たまの心に、もっと寄り添っていたかった。だから、穂積は幼い頃の己の幻影を、陽炎の中に垣間見る。

「僕さ、小学五年生の時に、両親が離婚したんだ」

 穂積はぽつりと口にした。たまはこちらを向かない。端整な横顔に、翠緑の影が揺れている。

「三つ離れた妹がいて、妹は父に、僕は母に引き取られた。母は本当は僕に興味なんかなかった。世間体を気にしたんだ。だから手の掛からない僕の方を取ったんだと思う」

「そうか」

 たまの返事は端的で、そして実に的を射ている。穂積は何も、多くの言葉を求めているわけではない。自嘲気味に、少し笑う。

「別に不幸自慢をしたいわけじゃないんだ。母のことを恨めしくも思わない。好きにはなれない人だけどね。ただ、妹と離れ離れになったのは寂しかったな。僕は妹が、とても可愛かったから」

 幼い自分より、もっと小さかった妹。二つに結ったおさげを揺らして、いつも穂積の後を雛鳥のようにくっついて歩いていた。両親が離婚してからは、一度も会っていない。笑うと前歯が覗く口元が、愛らしかった。元気に過ごしているだろうか。まだ穂積のことを、覚えてくれているだろうか。

「夏休みに入ると、毎年のようにこの近くにある叔父と祖母の家に預けられた。夏は長いし、好きにやるのに僕が邪魔だったんだろう。二人は僕を温かく迎え入れてくれるけど、僕はどうにも後ろめたいというか、その……居づらくて。だから毎日ここに来て、一人で本の世界に耽ってたんだ。そしたらある日、君が現れた」

 たまの瞳はどこまでも底が深く、しかしその曲面にはちゃんと世界が映し出されていることを、穂積は知っている。例えば日差しに透ける、葉陰の緑。今もたまの持つ黒曜石の黒と鏡のように混ざり合って、複雑で美しいまだら模様を描き出している。

「茹だるように暑くて、蝉の声が五月蝿くて、あんまりにも君が綺麗だったから、僕は幻でも見ているのかと思った。君の姿を見て、僕は暫く惚けたように黙り込んでいただろう。あれは君のこと、とても現実だとは思えなかったからなんだ」

 出会った時のことを思い出して、穂積は可笑しくなって笑う。たまから見た自分は、大層間抜けに映ったことだろう。

「最初は嫌な奴だと思ったよ。いきなり現れて、俺の場所だからそこをどけ、なんて言うし、突き飛ばされもしたしね、覚えてる。がらんどうに思えた瞳も本当は怖かった。でも、それは違ったね。何度も会ううちにわかったよ。君は空っぽなんじゃなくて、ただ無垢なだけなんだ。この世界の全てを眩しげに見る君の横顔を綺麗だと思った。僕を助けてもくれたよね。一人だったら僕は、君の言った通り死んでいたかもしれない。心のどこかで死を他人事だと思ってる、それだって言われてみればそうなんだろう。君が来てくれて本当によかった。君がいてくれたから、僕はひとりぼっちじゃなくなったんだ。このひと夏を過ごすうちに、君の隣は僕にとって、とても居心地のいい場所になっていたよ」

 穂積は柔和に笑んで、たまの横顔を見つめる。彼にはいつだって少なからず無愛想なところがあるのはもうすっかりわかりきっていたことだし、頑なにこちらを見ようとしないのも、だから穂積は気にしない。もしかしたら改まってこんな気恥ずかしいことを言われて、らしくもなく照れているのかもしれない。

「だから、たま。きっと君は金の稲穂を見て、そして来年も、この木陰でまた二人で会おう」

 差し伸べた手は、しかし有無を言わさぬ言葉に阻まれた。

「俺に秋は来ない」

 思いがけず硬質な声音に、穂積は硬直した。たまはすっくと立ち上がる。その表情は、険しい。行き場をなくした手が、虚しく宙を掻いた。穂積を見ないまま、たまは言った。

「玉蟲の寿命は羽化してから長くてせいぜい二ヶ月だ。ひと夏を生き抜き、そして死ぬ。昆虫は脆く短命だ。そういうものだとわかっていた。割り切っていたんだ。そのはずだった」

「な、何の話だよ」

 今日のたまはいつになく饒舌だ。その事実に奇妙な違和感を覚えて、穂積はたまを見上げる。ようやく、目が合った。その眼差しからはやはり何も読み取ることはできなかったが、激情を押し殺しているような気が、穂積はした。

「名などどうでもよかった。だが、穂積。お前が呼ぶから俺にとって、この名は大事なものになった。もっとこの名を呼ばれたいと——生きたいと、願った」

 唐突に発された、まるで死を予感させるかのような言葉に、穂積は狼狽えた。

「何を言ってるんだよ。名前ならこれから先いくらだって呼ぶから、そんな今からいなくなってしまうみたいなこと、言うなよ」

 今度こそ明白に、たまが苦しげに顔を歪めるのがわかった。

「……たま?」

 穂積は不安に駆られていた。たまは目を閉じて、己を宥めすかすように一つ息をつく。次にその黒曜石のような瞳が瞼から覗いた時、たまは慈しむように穂積を見つめていた。たまがそんな目をするのは、出会ってから初めてのことだった。裏腹に、言葉は淡々と紡がれた。

「玉蟲の翅は死んでも色褪せない。死してなお、その個体の息吹の残り香のように輝き続ける。たった二ヶ月の命だが、俺の生きた証を、穂積、お前に見せたい」

 突如として、ざっと一陣の強い風が吹いた。瞬いて、再び目を開けたときには、伸ばしかけた手の先にたまの姿はもうなかった。何かが素早く、耳朶を掠めて飛んでいった。急いで振り返れば、美しい煌めきが翡翠の森の奥へと消えていくところだった。それはこの夏初めて見る、たった一匹の玉蟲だった。

「たま?」

 穂積は立ち上がり、忙しなく辺りを見渡した。人の気配は絶えている。風が起こったことなどなかったかのように、そこにたまがいたことなど嘘のように、世界は凪いでいる。

「たま……? どこへ行ったんだ、たま。……たま!」

 蝉の歌がじわじわと、体を蝕む。冷たい汗が頬を伝って顎へと落ち、ぽたり、アスファルトに黒々としみを作った。蟻の行列がその傍らをうぞうぞと這い回っている。

 夏も終わりに近づくある日、柔らかな心臓の肉に膿んだきずをふかぶかと残して、たまは忽然と消えてしまった。

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