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木陰に向かうと、穂積はその日もやはり同じ場所に腰を下ろして、紙の頁を熱心に捲っていた。大股で近づいて、陽光を遮るように立ち塞がってやる。落ちた影に気がつくと、こちらを振り仰いで嬉しそうに顔中を綻ばせる。出会った時には陰気な奴だと思ったが、根は人懐っこいたちであるらしい。ひっそりと木陰に馴染むなりも、地味だが品があって悪くない。
「たま、今日も来てくれて嬉しいよ」
自分などと会って、何がそんなに嬉しいのだろうか。縄張りを荒らされたことはともかくとして、どうやら初めに思ったほど、穂積は悪い人間ではないらしかった。田んぼの百姓たちと同じ程度には、好ましい。都会は汚いところだと聞いたが、そうとは思えないほど純朴だ。
「俺の場所なんだから、来るのは当然だ。ほら、そっちに寄れ」
「う、うん」
戸惑う穂積に半ば体をぶつけるようにして、自分の場所を確保する。穂積は何やらどぎまぎしているようだ。今の所作が、少しばかり荒っぽかったのだろうか。人間の距離感はよくわからない。たまはちらりと、穂積の手の中にある物に目をやった。己の知る限り、穂積はいつもこの分厚い何かを手にしているような気がする。
「いつもここで何をしているんだ?」
手の中の物を顎でしゃくって尋ねると、穂積はまたも嬉しそうな顔をした。
「見ての通りだよ。本を読んでいる」
「ほん」
耳に馴染まない言葉だった。
「小説だよ」
「……しょうせつ?」
ますますわけがわからなくなる。何のことだか見当もつかないという顔をするたまに、穂積は可笑しそうにくすくすと笑った。
「たまは本を読まないの? ほら、物語を綴ってあるんだよ。見てみる?」
差し出されたものを手に取って、さらりとした紙の頁を開き、即座に理解する。これはおそらく、文字というものだ。
「……読めない」
「え?」
穂積は、言っている意味がわからない、とでもいうように首を傾げた。
「俺は文字を読めないんだ」
たまの言葉に、穂積は合点がいったようだった。
「ああ、ハーフなの? そういえば君の顔立ちは異国的だよね」
「違う、そういうわけじゃない」
そこでようやく穂積も、たまが一般的な人間とは異なる事情を抱えていることに気づいた。覚えず、顔色がわずかに曇る。
「……学校へは行かなかったの?」
「行ってないな」
膝を抱えて田んぼを眺めながら、あっさりと答えるたまの横顔を、穂積は気遣わしげに眺めた。
「ふうん……」
田園は今日ものどかだ。畦道を蝶々がひらひらと舞い、時折大きな
「まあ、深く詮索されたくないようならば事情は訊かないけれど、やっぱり面白いな、君って奴は」
「あ? 何が面白いんだ」
穂積の声音から本当に面白がっているのが伝わり、たまは些かむっとして、稲穂の先に見つけたイナゴを無闇矢鱈と険悪な形相で睨み付けた。
「いや、変わってるなって。文字が読めないとか、普通そんなに堂々と言えることじゃあないよ。あ、気を悪くしたらごめんね。ただ、僕はやっぱり君のこと、もっと知りたいと思う」
「変わってるっていうんなら、お前の方だろ」
むしゃくしゃして、抱えた膝に額を押し当て、たまの表情はますます険しいものとなる。
「どうして?」
そう問う穂積は無邪気で、たまはひときわ苛立つ。
「俺なんかと話して、なんでそんな楽しそうにしてるんだ」
なんだ、そんなことかと言いたげに、穂積は笑う。
「だって、楽しいよ? 君みたいな人、他にいないもの」
「俺なんか相手にしても、いいことねえぞ」
穂積はもっと他の人間と関わるべきだと思う。穂積ならばこんな自分以外にもいくらでも関わることのできる人間がいるだろう。その方がきっと、穂積のためだ。
「いいことならもうあったよ」
ところがさも当然のように穂積は言う。
「なんだ?」
たまはびっくりして顔を上げる。穂積はいつの間にか分厚い本をたまから取り返していて、その表紙を大切そうに撫でている。
「僕よりもひとりぼっちの奴がいるんだって、安心した」
優しく微笑む穂積から漏れた言葉が、その表情とは裏腹にあまりにも辛辣なものだったので、たまは一瞬固まった。
「……ふっ」
つい吹き出してしまって、慌てて取り繕うももう遅い。
「あ。今、笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「笑ってねえよ」
むきになるたまに、穂積もとうとう吹き出した。
「いいじゃないか、別に笑うくらい。たまはいつもぶすっとしているから、そのくらいの方が丁度いい」
笑ったことを指摘されれば否定するくせに、ぶすっとしている、と言われればそれはそれで釈然としない。我ながら勝手だ。しかし、穂積を前にするとどうにも感情をうまく制御することができない。百姓たちとは穏便にやれていたのに、不思議なこともあるものだ。
「悪かったな、元からこういう顔なんだ。ていうかお前、案外失礼なやつだな。お前よりひとりぼっちの人間なんて、俺の知る限りそうそういねえぞ。百姓たちだってもう少し賑やかだ」
「でもたまも、ひとりぼっちだったんだろう?」
どうということもないように言ってのけられた言葉に、たまははっとした。
「……さあ、どうだろうな」
再び瞼を伏せる。頬に穂積の視線を感じる。何故だろう、今は穂積の顔をまともに見ることができそうにない。
穂積とたまの時間は、いつもそうしてゆっくりと流れた。穂積は大抵分厚い本の頁を捲っていたし、たまはその傍らにいるだけだった。二人の間に多くの言葉は必要なかった。隣にいる、というただそれだけのことが、何よりも大切だった。
同じ木陰で時間を共有することは、いつの頃からか二人にとって当たり前の日課となっていた。木陰に腰を下ろす時、穂積はたまの場所をあらかじめ空けておくようにしたし、たまはいつも陽炎の中から溶け出すように穂積の前に現れた。木のうろの収まりが少々悪いのにももう慣れっこで、そんなわずかなずれさえも今となっては心地よく感じられた。
たまが一体どこから訪れるのか、穂積が尋ねることは決してなかった。たまが穂積の隣に腰を下ろす時もまた、二人の間で取り立てて会話が交わされることはなくなっていた。
ある日、たまが木陰に向かうと、常とは様子が違っていた。ぺらり、ぺらり、と不規則に乾いた音を立てているはずの分厚い本は膝の上で閉ざされて、その持ち主はぐったりと木の幹にもたれかかっている。全身から血の引く思いがして、たまは急いで駆け寄った。
「どうしたんだ、お前」
穂積の姿を間近で目の当たりにして、たまの背筋を冷たいものが駆ける。瞼は閉じられて顔は蒼白く、脳裏をよぎった考えに、嫌なものが腹の底からせり上がる。しかし、たまが傍らに膝を突くと、睫毛が震えて焦茶の瞳が覗いたのには、ひとまずほっと安堵した。穂積は浅い呼吸を繰り返し、それでもどうにかたまを視界に捉えると、薄く微笑してみせた。
「たま、か。今日も来てくれたんだな。よかった」
たまは必死で穂積の髪を掻き上げ、白い額に手を当てた。肌に伝わってくる温度から、ただならぬ状況にあるのは明らかだった。穂積の温度は、常日頃そばにいることでとうに覚えていた。
「そんなこと言ってる場合か! 酷い熱だぞ、お前」
「ああ、うん。少し暑さに、やられたみたいだ」
読書にばかり耽っているためか、穂積の言葉はいつも流麗で耳に馴染みがよいのに、今日はそれすらも切れぎれで覚束ない。
たまは努めて冷静であろうとした。こんな場面に遭遇するのは初めてのことだったが、当の穂積がたまを安心させようと笑うのだ。こちらばかり動揺していられようはずもない。
「いいからちゃんと横になれ。そうだ、水筒は? お前いつも持ってるだろ、あの銀色のやつ」
「もう空なんだ」
「近くに水道があったな。そこで水を汲んでくる。貸せ」
たまは注意深く穂積の背を支えて体を木の根元に横たえると、返事も待たずに鞄をまさぐった。中は綺麗に整頓されていて、すっかり見慣れてしまったステンレスのボトルはすぐに見つかった。
「悪いな」
視線だけをたまの手元に寄越して、喘ぐような呼吸の隙間から穂積は言った。
「気にするな。ちょっと待ってろ」
素早くそう言い残すと、一刻も早く穂積を楽にしてやりたい思いで、たまは森の外れの水道までの往復を脇目も振らずに駆けた。こんなに全速力で駆けたのは、生まれてこの方初めてのことだった。
「ありがとう」
水で満たした水筒を手渡すと、穂積は身じろぎ、半身を起こした。手を貸すべきかと思い悩んでいるうちに、どうやら体勢は整ったらしい。嚥下するたびに上下する喉の尖りにぼんやりと目を奪われているうちに、穂積は水を飲み干したようだった。息一つ乱れていないたまに、軽く笑って礼を言う。たまが木陰に辿り着いた時より、幾分穏やかな表情になっていた。
「送っていこうか?」
穂積の手からそっとさらった水筒を鞄にしまい直しながら、たまは尋ねる。穂積は首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。水を飲んだら随分楽になった。少し休めば歩けるようになるだろう。あ……たま」
「ん?」
名を呼ばれて、水筒の収まりがいい位置を小難しい表情で幾度も確かめ直していたたまはそちらを見やる。穂積はいつになく、言葉に惑っているように見えた。
「手」
「手?」
何のことだか察しがつかず、たまは穂積の言葉を繰り返すことしかできない。穂積は心なしか気まずそうに目を伏せた。
「もう少し、さっきみたいにしていてくれないか」
言われてようやく、思い当たる。
「あ、ああ。こうか?」
体温を測る時にそうしたように、穂積の額に手を当てがう。さっきは無我夢中で気にも留めていなかったが、思えばこんなふうに人に触れたのも、未だかつてないことだった。途端に緊張して、体が強張る。たまの掌がぎこちない手つきですっかり額を覆ってしまうと、穂積は心地よさそうに目を閉じた。
「ありがとう。たまの手は冷たくて、気持ちがいいから」
たまは小さく息を飲み、何か言おうと口を薄く開いてから、やはり思い留まってそっと閉じた。たまの肌に、火照った熱がすっかり移りきってしまう前に、穂積はすうすうと安らかな寝息を立て始めた。よほど参っていたのだろう。それでもたまはなお、それだけが二人の寄る辺であるかのように、或いはささやかな祈りのように、穂積の額に手を当てがい続けていた。
「こんな冷たい手でも、お前の役に立てるのなら、よかった。……穂積」
人知れず呼んだその名は、とても大切なもののような気がした。
それからまる二日、穂積が木陰に姿を現わすことは、なかった。
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